不意で避け切れなかった拳が、ミカドの左頬に当たる。
そのまま彼のバランスは崩れて、体が腰から地面に落ちた。
「いって」
地面についた手に砂利が擦れ、手のひらが痛む。
ついた手を動かして、一時的に痛みから逃げる。
すると今度は、じり、と口の痛みが彼の頭に届いた。
ミカドが右手で痛みの元を押さえれば、血が手の甲に。
歯が当たったことで唇が切れたようだった。
舌で舐めとれば、鉄の味が咥内に広がる。
怪我の元を睨むように見上げれば、威圧的に見下ろす笑い顔。
彼を殴ったことに何の罪悪も感じていない目が、そこで歪んでいる。
この状況に、ミカドは頭をひねる。
殴り掛かって来たバスケ部の主将に、喧嘩を売った記憶はない。
そもそもまともな会話をしたことも、と頼りない彼の記憶は言う。
「ちょっとモテるからって、調子に乗ってんじゃねえよ」
ウエクサのやろう。
そう言って、ミカドを殴った男は唾を吐き捨てた。
唾はミカドの手の傍、堅い土に落ちて楕円を描く。
付け加えられた名前で、ミカドが気づく。
あの時、前に立ち塞がっていたのはこの人だったか。
すっきりと晴れた記憶のモヤに、思わず手をたたく。
彼を邪魔だからと殴ったことなど、ミカドは綺麗さっぱり忘れていた。
たった一日前のことでも、彼にとってそんなことは日常茶飯事すぎた。
思い出してから、ミカドはもう一度、ここまでを振り返る。
ホームルームが終わって帰るところを、先輩が、と言われて着いて来た今。
中央に立ったのはバスケ部の主将。後ろ二人は昨日いなかった知らない顔。
先輩はもちろんただの餌として出されただけ、いるはずもない。
すっかり信じた彼があれ、と思うと同時に飛んで来たものが、口端の傷を作った。
「うぜ」
三対一の状況に、ミカドの本音が普通の音量で漏れる。
逆恨みだということは横に置くとしても、用があるのは一人のみのはず。
わざわざ喧嘩をするために、バスケ部主将は後ろの二人を連れてきた。
ミカドの悪評は、中途半端に彼へも届いていた。
リンチのつもりかよと、焦りもない心でミカドは呆れた。
そして膝を立てて立ち上がる前、順番に相手を見る。
まずはと動いた先は、バスケ部主将。
長身に、しなやかそうな筋肉がスポーツマンらしい。
他二人も、彼と同様そうにミカドの目には映る。
主将相手に引けはとらず、何らかの形で鍛えられている。
体格だけで言うなら、ミカドはこの中で最も劣っていた。
高校生として一般的な身長も、彼らからすれば低いうちだ。
ひょろっとしてさえ見える姿は、三人の油断も誘うほどの。
「よっこらしょ」
そのミカドが、気の抜けるかけ声で立ち上がる。
見下ろしていた三人は、立ち上がる彼へ視線を寄せた。
どう動くのかという警戒と、自分たち相手にどう出るかという嘲笑の色が渦巻く。
立ち上がった彼に、打った腰や切れた唇の傷みが鈍く込みあげた。
全身がじくじく痛みを感じて、彼の気分を上げていく。
喧嘩の前触れを滲ませた空気を、ミカドは吸い込む。
放課後の校舎裏。前にも此処で殴り合ったことがある。
今回はリンチだけど、なんて思いながらも、彼の口が弧を描いた。
笑うミカドに、三人の内の一人が眉をひそめた。
後ろにいたその人は、ミカドの何かに気づいて、隣の男に耳打ちする。
こそこそとした動作が気に食わなくて、ミカドは顔をしかめた。
堂々とすればいいと睨んだが、気づかずに耳打ちされた男は笑う。
ちらりと向けられた視線は、侮蔑。
「何の用だっけ」
ミカドの言葉が、いつもより早く音を作る。
先ほどまで暑かった空気が、彼を中心に冷えていく。
夏の太陽は雲に遮られた。
じわじわとした蝉の声が遠ざかる。
「復讐? 俺の顔なぐったし」
「ああ、邪魔だったし」
言葉の後半に被せるように、ミカドは声を出した。
あからさまな挑発に、相手は簡単に青筋を浮かべる。
昨日と同じように勝手なことを告げたミカドに、彼は苛立つ。
「あ?」
背丈の違いを活かして、男はミカドへ近づいて威圧的に見下ろす。
けれど、何でもないような顔のまま、彼はその視線を受け止める。
何の感情も覗かせないミカドの目。彼の口だけが笑っている。
バスケ部主将はより苛立ちをつのらせた。青筋が増える。
動作の一部始終を、ミカドはただ静かな目で見送った。
びりびり響く声を、全てを研ぎすませる緊張感を、彼は待つ。
「てめえ、馬鹿にしてんじゃねえぞ!」
そして拳は降り上げられた。
落ち着いたミカドの目が手を追う、その動きを見る。
一束だけ伸ばされた後ろの毛束が、男を避けるようになびいた。
「三対一やらかす奴とか、馬鹿にする以前だろ」
弧を描いた口先が、嘲りを吐いた。
少し立ち位置を変えた彼の膝は、殴り掛かった男の腹に埋まっていた。
急な腹部の圧迫。
呼吸を一時的に止めた男が、傾いた体で目を見開いたまま、停止する。
「なあ」
ミカドが膝を引けば、男は倒れるように地面へとうずくまった。
どさりとミカドが手をついた砂利で、顔をこする。
そして一拍を置いた後、呼吸は彼に戻る。
咳となって、止まった息の分を正そうとする。
「なんとかいえば」
その彼へ、ミカドが蹴りを落とした。
言えばと言った彼に、返事を待つつもりは一切無い。
横向きに倒れた主将は、尚も咳が止まらなかった。
ミカドが避けたところまで、彼はちゃんと見えていた。
そこから先の激痛、そして今の問いかけ、蹴りの傷み。
次々と変わる展開に、彼自身がいっぱいいっぱいとなる。
しかしその状態でも、彼は恨みをこめてミカドを睨み上げる。
ミカドは彼の態度に、笑みを深くする。
引き連れた奴らと、一斉に来ればまだ良かっただろうに。
そう相手から思われているお供は、ただ呆気にとられていた。
一瞬で空気を変えた姿に、二人は呆然とするしかなかった。
後ろで鳴った踏みしめる音も、彼らの意識には入らない。
そして、降り上がった黒い五角形も知らない。
「だッ」
ばいん。声の一瞬前、重い金属の音が響いた。
お供の一人、三人の中で一番背の高かった男は、思わず前へと傾いた。
驚きに目を見張ったのは、隣にいた一人だけじゃない。
場にいたミカドも、そして傷みに唸り続けている主将も、今は止まる。
誰が。
それぞれが違う思いで、音の元を見る。
「ミカドー」
そしてかけられたのは場違いな声。
頭を押さえた男の向こうから、笑顔が出てくる。
頭を抱えている男の隣は、呆然とシャベルの男を見た。
ピンで前髪を上げた姿が、シャベルを手に笑いかけている。
固まる男たちを他所に、ミカドは納得する。
さっきの金属音はシャベルかと、ウエクサの持ったものを見た。
錆びきって赤茶けた色で殴られれば、音の通り、相当痛いだろう。
現に、殴られた男はまだ呻いている。
血など派手な怪我では無いが、傷みは長引く類いだろう。
「応援にきたよ」
その後ろ、素知らぬ顔でウエクサはそう言ってのけた。
敵となる男たちの口は、二、三度、開閉を繰り返す。
ミカド一人でも、力の差を見ていた三人。
そこへ更に一人、ミカド側につく人間が加わる。
怒りの大元が現れたにも関わらず、主将は後悔だけを顔に浮かべた。
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そうして、唯一無事であった男もあっけなく。
結局は、リンチを仕掛けた三人ともが意識をなくした。
閉じた目は、時折傷みを堪えるように、痙攣と弛緩を繰り返す。
ほとんど、ミカドがした行動による結果だった。
既に負けが滲んだ相手に、彼は明確な答えを叩き付けただけ。
むしろウエクサは、ほぼ手出しをしていないと同じ。
彼がしたことなんて、最初にシャベルで殴っただけだ。
そこからこの状況になるまで、ほんの数分間。
一方的な暴力の勝利に終わって、ミカドが一息をつく。
肩ならしにもならないと落胆を胸にしまい込んで、ウエクサを思い出す。
少し距離を置くように立っていたウエクサは、一点を見て動かない。
地面に寝転がった男を、瞬き少なく、見下ろしている。
きっと見ているわけではないとミカドは気づく。
そこにあるウエクサの感情が、ミカドは掴めなかった。
シャベルに体重をかけて立った男は、まだ己を見るミカドの視線に気づかない。
男の頭を殴ったシャベルは、今は地に突き立てられていた。
殴った後すぐ、ミカドが動いた辺りから、シャベルは地に着いてる。
持って来たウエクサはそれを支えに前のめりになって、彼らを見ていた。
勝つ気のない男たちを相手にしつつ、ミカドも横目で彼を見ていた。
喧嘩に怖がった様子もないし、自分のように喧嘩に興奮を覚えていた様子もない。
ならば一体。
もやもやとしたもどかしさがミカドの頭に巣食って、喧嘩への興奮や集中を妨げる。
彼は途中に浮かんだ疑問の所為で、喧嘩が終わってもすっきりとしなかった。
純粋に、彼が満足出来るほどの相手ではなかったこともあるかもしれないが。
「ウエクサ」
ミカドが呼べば、彼の視線は三人からミカドへ移る。
見下ろした時の真顔は、シャベルを手に現れた時のように楽しそうな笑顔に切り替わる。
「遅れてごめんな」
彼の口が開いて、まず出て来たのは謝罪。
すまなさそうに眉が八の字に下がってしまう。
でも大丈夫そうだったから良かったよ。
持って来たシャベルをぶら下げながら、彼はミカドに近寄る。
それまでに倒れている体は、彼に見向きもされず、跨がれる。
ウエクサがミカドの前まで歩み寄ったとき、ぴり、と空気が尖った。
その空気を醸し出したのは、ウエクサの真ん前にいる彼だ。
いつも緩んだ目が、さっきまでのように尖る。
警戒心を露にして、ミカドはウエクサを威嚇しようとする。
何に対しての警戒か、なんて具体的なものは彼の中にはない。
それを少し目を細めて、ウエクサがミカドを見る。
「痛そうだ」
けれど、彼の警戒を感じていないように、ウエクサはミカドの頬をさすりに動いた。
此処に来てすぐ作られた怪我が、彼にさすられることでじりっと傷みを出す。
「痛くない、触られた方が痛い」
手加減無く、ミカドはその手を払った。
今まで存在すら忘れていたものを気遣われても困る。
そもそもミカドにとって、こんなものは怪我のうちに入っていない。
ミカドは、ウエクサの相手をする気分ではなかった。
こうして行動で拒絶を示すのも、そのため。
尖った空気は、彼の無意識が出していた。
そのことが気に入らないのか、ウエクサが不愉快そうな表情を作る。
ミカドに対して楽しそうに答えていた目が陰って、色を消した。
けれどすぐに、ウエクサは視線を外す。
静まった空気を振り切るように、声を出した。
「すごいな」
その目が見たのは、リンチを仕掛けた人間だった。
感心した声色で、数分前を思い出すように目を閉じる。
口元は弧を描いて、マイナスの感情は全く出していない。
思い出す中で言いたいことがあったんだろう。
また声を出そうと、ウエクサの口が開く。
「なんでここ、きた?」
その前にミカドは疑問をぶつける。
声に出した彼の感想は受け取られない。
何も答えずに、調子を戻したミカドが尋ねる。
彼の興奮はもう冷めていた。
喧嘩のようなリンチのようなものは、もう終わった。
終わったものに何を思うでもないから、受け取らない。
彼は元々、自分の喧嘩に対して、赤の他人が何かを言うことに興味がない。
何を言われたところで興味がない。
興味の無い話題よりはと、率直に疑問を晴らすためにと、彼は口を開いた。
ウエクサは気分を損ねた様子は無く、不思議そうにミカドを見返している。
ミカドに殴られた男が、やり返しの為に此処へ呼んだ。
この時点で、完全にこれはミカドの喧嘩であった。
なのに、どうして彼が現れたのか。
それがミカドの思考だった。
ウエクサは関係ない立ち位置だと彼は区切っている。
その理解を、ウエクサは表情から察したようだった。
二人の間、数歩分の距離を何も知らない風が吹き通る。
ミカドが無意識に出した立場の違いに、ウエクサが苦く笑う。
「おれのせいでもあるし、」
きっかけという意味でか。ミカドが彼の言葉を簡潔に砕く。
別にきっかけなんて彼は気にしていない、理由にはならない。
だから次の言葉をミカドが待つ。
今の理由は、付け足しのような軽さに見えた。
次に来る理由が恐らく大きいんだろうかと予想を付ける。
「ミカドがすきだから」
ミカドが予想していたことから、ずいぶんウエクサの話は飛躍した。
ミカドには彼の言葉のつながりが見えない。
言ったウエクサは、知らないフリをしている。
落とされた言葉にはお似合いの、場には不釣り合いな笑顔。
柔らかく微笑むような顔に、ミカドは確かに、と別のことに納得する。
女子が騒ぐのはこの顔か、なんて言われた内容以外を考える。
それどころか、ミカドは彼の言葉に一昨日を思い出す。
ウエクサがいないときに、ミカサと喋った好意の話。
全て平等に複数を愛する様をみて、彼が思ったこと。
「それって何分の一?」
いきなり振られた分数の話に、ウエクサがきょとんとする。
言葉をかみ砕いて理解するように、彼が俯き気味にゆっくりまばたきをする。
それに気づいたミカドが、好意だと端的に付け加えた。
聞いた彼の目は一段と丸くなって、けれどすぐにまた笑顔に戻る。
ふわりと笑った顔が、言葉になっていない感情を表現して彼に見せた。
「いち」
そして彼は言い切る。
「?」
今度は、ミカドがはてなを浮かべる番だった。
いち。何が。
返して欲しかったのは数字で、返ったのも確かに数字。
だけれど、ミカドが予想した数字のどれとも異なって困った。
何分の一と聞いての一。
ウエクサが言おうとする意味が彼は上手く取れない。
自分がわかりやすく例えたつもりが、全くわからない。
「ミカドへの好きは一分の一でしかないよ」
ウエクサの言葉を聞いても、まだよくわかっていない。
そんなミカドへ、彼は口を隠して笑いかけた。
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