神隠れ
こんな場所、もういやだ。
耳を塞いで、世界を閉じる。
「あ」
開いた視界の目の前に、丸い目。
見覚えのない顔が、ドアップに。
「え、」
その近さに、まず驚いて固まった。
寸前。相手の呼吸すら見えそうなほどの距離。
驚いた僕をよそに、相手は嬉しそうに笑みを作る。
ご丁寧にも、背中に手を回して起きあがらされた。
大丈夫、なんて優しい気遣いまでが飛んできた。
でもこの人、一体どなたでしょうか。
ただ、見慣れないのはこの人だけじゃなかった。
起き上がってみれば、今居る場所すら見覚えはない。
畳やふすま、部屋を区切る障子はまだしも。
右手側にはテレビや漫画でしか見ないような日本庭園だ。
「え?」
何もかにも見覚えがない。
僕の日常はもっと。
もっと、といつもを考えるが出てこなかった。
穏やかな空間が、視界からも思考からも退かない。
よほど、頭は駄目らしい。
これは夢かとすら思った。
頬をつねれば、痛いのに。
大丈夫?
そう耳に柔らかい低音がかかった。
横で正座になおった相手を、回らない頭で見直す。
同い年くらいの彼は、大人しそうだった。
苦手なタイプでは無さそうで、安心する。
後ろで髪が結ばれている辺り、男にしては長い。
見る限り、色も白くて、体の線も細かった。
運動部じゃない自分よりも、多分ずっと。
儚い、の言葉がスッと当てはまりそうな、
「あの、話しても大丈夫?」
気づいて顔を上げれば、不安そうな顔が僕を見ていた。
「ご、ごめん!」
じろじろ見ていたことに気づいて、思わず視線が逃げる。
あまりにも失礼な態度だったと、今更に、深く反省する。
何をしていたんだろうか。なんて馬鹿なことをしたんだろう。
こんなのだから。浮かんだ、自分を責める声。
こんなのだから、上手くコミュニケーションを取れないんだ。
緊張が一気に体に張り巡らされて、冷や汗が背中に浮かぶ。
どうしよう。どうしよう。何も上手に考えられない。
体が勝手にがちがちに固まって、握りしめた手は震える。
霞んでいる記憶の向こう側で、もやがかった声が聞こえる。
明確に聞こえるわけではない。
けれど、ただただ怖いことはわかる。
見えていないけれど周りだってそう、きっと僕は。
丸まっていた背を、ぽん、と何かが叩いた。
目を開けば、橙の和柄の花。柔らかな布団の柄。
「怒ってないから、萎縮しないで」
隣に居たその人が、優しく笑った。
強ばった体が、自然に緩んでいく。
「此処は何も怖くない」
***
ひとしきり宥められた後、お互いに机に向かいあって自己紹介をした。
布団を畳み、机にお茶にと世話を焼いてくれた人は、大和(やまと)だと名乗った。
彼は自分よりも先に、此処にいたらしい。
どうやって来たのかわからない、いつの間にか神社に居たのだと彼が話す。
「神社?」
「そう。君も、そこに倒れてたんだけど」
此処まではどうにかして、大和が運んでくれたようだった。
さすがに神社に寝かしつけたままは、と苦笑いする顔。
自分よりも細い体でどうやってと、疑問には思う。
けれど遠回しにひ弱なのに、なんてニュアンスになりそうで聞かなかった。
ただただ、心からの感謝だけを優しい大和には伝える。
実際、神社で目覚めていれば、別のパニックを起こしていそうだ。
神社の中なんて、入ったことのない場所を思う。
暗く閉じられた、知らない場所。
想像だけでも、背筋が冷えて鳥肌が立った。
宥めるように、ゆっくりと自分の腕をさする。
先に大和がいてくれて、本当に良かったと思ってしまった。
「社務所ならまだ、マシでしょう?」
どうやら此処は、家じゃなかったらしい。
大和の言葉に同意を返して、もう一度周りを見渡す。
障子に仕切られ、床の間には綺麗に生けられた花。
どこからか出てきたちゃぶ台と、生活感が溢れた部屋。
こうして人の住める部屋もあることが、少し意外だった。
社務所は、お守りやおみくじ売り場としか思ってなかった。
普通の和室だと感想を零せば、奥にはお菓子とかもあったよと大和が教えてくれる。
「そういえば、他に人は?」
どうにも、今までの話だと大和一人、という印象を受けた。
でも此処が神社なら、神主や巫女がいるんじゃないだろうか。
その疑問に、大和は首を振る。
大和も此処の神主や巫女は、まだ見ていないらしい。
神社だけでなく周りも散策したが、誰もいない。
そう零した彼は俯いて、その寂しげな顔が隠れる。
「 」
小さな声が聞こえたけれど、聞き返すことは出来なかった。
多分、さっきの言葉は僕に向けたものじゃない。
俯いたまま、大和は動かなかった。
何か、気の利いた言葉でもと視線をさまよわす。
でも、自分には上手い言葉なんて浮かばない。
弱く開閉を繰り返していた口を完全に閉じる。
結局、僕は沈黙を聞くことしか出来なかった。
***
あの沈黙の後、大和は何事もなかったように僕へ接してくれた。
寂しげな表情は苦笑に隠され、気分転換に、と案内を申し出てくれる。
それに従うように頷いて、穏やかに歩き出した大和の後ろへとついた。
よく見て回った後だったのか、彼は慣れた様子で社務所を歩く。
まず、と連れてこられた場所は、社務所を出てすぐの、神社。
自分と大和、どちらもが倒れていた神社。
案外きちんとした社に、頭にあった不気味な印象は消えた。
古さはあるものの、きちんと手入れがされ、荒れ果ててはいない。
ぼんやり見上げていると、カラン、という懐かしい音を耳が拾う。
鈴緒の繋がった本坪鈴(ほんつぼすず)が、小さく鳴った音だ。
幼い頃、何度も鳴らしてよく叱られた記憶が蘇る。
近づいて見上げれば、記憶と似た、鈍い色の大きな鈴。
馬鹿だったなあなんて懐かしみながら、鈴緒に手を伸ばす。
「祐樹(ゆうき)」
ひやりとした手が触れた。
鈴緒に触れる直前で、手は止まる。
思ったよりも強い力に、腕が軋む。
「不用意に触らない方がいいと思う」
そう言う彼の顔は、まるで能面のようだった。
冷たい手に、自分の体温が彼に奪い取られる。
僕を見る彼の目は、強く強く畳み掛けるようで。
ぎこちなく、彼の言葉に頷いた。
別に自分は幼心を刺激されただけだ。
彼を振り切ってまで、鳴らしたかったわけでもない。
頷いてすぐ、彼はするりと僕の手を離す。
いきなりごめんねと謝罪した彼が、苦笑を浮かべた。
「ぼくたち、今、普通じゃない状況だから、……」
言葉尻は濁されたものの、言いたいことは察する。
そうだったと自分の迂闊さに、思わず下唇を噛んだ。
此処は懐かしい田舎でもなんでもない、知らない場所。
それでも不思議と、見上げた社に恐怖は感じなかった。
神社を後にしてからは、たくさんの家を回った。
小さなスーパーや駄菓子屋、古いなりにもゲームのある家。
彼が言った通り、どこにも人のいない空間を一つひとつ回っていく。
此処には、こじんまりとした佇まいが多かった。
見知った忙しなさや喧騒とは、程遠い空気ばかり。
まるで時が止まっているかのような穏やかさに、心が休まる。
「あと、本なら此処かな」
そうして、前の大和が振り返った。
先には、たくさんの本が並ぶ書店の入口。
カラフルな色彩でなく、どこか落ち着いた色合いの店。
今までに入ったことのない、昔から、という店だった。
全国展開の店と違い、外から見える中はどこか地味で暗い。
大和について扉を抜ければ、和紙の匂いがまず鼻をくすぐった。
「さっき、よく本読むって言ってたよね? ぼくも、本がすきなんだ」
夏目漱石とか、芥川龍之介とか、有名どころしか知らないんだけどさ。
少し楽しそうに声を弾ませて、彼は書店の中をすいすい歩いていく。
分厚いハードカバーの本が並ぶ書棚を、彼のペースで歩きながら、見送る。
そのどれもが、教科書でみたような名前だった。あまり馴染みの無い名前。
純文学。その一言が頭に浮かんだ。
自分が読むものと、違う領域だった。
難しそうな題名に取っ付きにくさすら、感じる。
僕が読書をすると言ったから、彼は此処に連れてきてくれたんだろう。
でも、此処は。そう見上げた棚に、普段手に取るような背表紙は無い。
「此処ってラノベとかは、ないのかな…?」
カラフルさとは無縁の背表紙をなぞって、大和に問う。
自分の読んでいた本が、暗にこのジャンルではないと伝えたかった。
彼も読書が好きとは聞いていたけれど、この本たちなら僕は話せない。
ライトノベルなら多少、聞きかじりや休み時間に読んだ記憶はある。
それでも意識を逃がすために読んだ文字たちは、あまり鮮明ではない。
投げかけられるからかいと嫌悪を、聞きたくないからしていた行動。
あの時の僕は、ただただ逃げるために文字を追っていた。
沈みかけた思考を振り払う。
最初の混乱が解けたからか、少しずつ此処に来る前の記憶が頭には戻っていた。
到底、良い記憶とは言えないものを再び頭の隅へ追いやって、大和へ意識を戻す。
そこで、彼の迷うような視線が本棚を見つめていることに気づいた。
「ラノベ、…」
小さく僕の言葉を、薄い唇から零す。
少し困っているような雰囲気で、思わず口を開いた。
「ラノベ、って、略称かな?」
「あ、えとライトノベル、だけど…その、こういうとこには、…」
言いづらさに、語尾が濁った。
うーん、と彼は少しだけ唸る。
困ったように、伸びた髪を撫で付けて、
「ライトノベル、って海外作家は見た覚えがないかも」
一応見てみようか、なんて笑う彼に足が止まる。
気づかずに彼は、海外コーナーへと歩いていく。
恐らくライトノベル、なんて、僕も知らない作家を探しに。