ぼくら。



ふわりと落ちた髪の毛が、目のすぐ前で揺れる。
自分の前髪と相手の前髪、色の同じそれが絡まり合う。
そんなに見る機会もない光景だった、見る予定もなかったはず。

「兄貴」

熱の籠る声は自分の口のすぐ傍で囁かれ、自分と同じ目が自分を覗き込む。
あまりに近くて、近過ぎて、俺の吐いた息を弟は吸い込めるほどの距離。
そして俺は弟が吐いた息を吸い込んでしまうループ、多少の空気の共有。


「俺、あんたが好きなんだけど」


おれあんたがすきなんだけど。
声の熱の理由を考える間もない言葉。
頭の中で復唱された目の前の声、回転停止。

「は、」

何をふざけてんだ馬鹿。
同じ卵子から生まれた同じ顔のくせに。
ナルシストかてめえ、鏡眺めて満足してろ。

弟への文句はすらりと頭に浮かんだ。
だけどそれらは全て口まで届かずに、頭の中に留まる。
全身が妙に気が抜けて、この緊迫感に混乱しているように動かないから。


冷たい床の温度がじわりと足や首、押し付けられた手首から直に伝わる。
酷く体は冷えているのに、全身に薄くにじみ出る汗の意味がわからない頭。
ぞわりぞわり、床の冷え以外の寒気がどこかから背中へと流れ込んだ。


緊張だろうか。
一つの仮定を上げる。
何に対する緊張だと自分で意見を降ろす。
弟との対話で緊張がいるほど不仲なわけではない。

焦っているのだろうか。
何に、頭の中で言い返してみるがそれはもう明らかに平生の声ではない。
一体この空間のどこに焦る必要があるのか、部屋はいつも通りだ。

弟がいつも通りではないだけ。
追加するとすれば、この弟に敷き込まれた自分の状況だろうか。


だからといって別に弟が、怖いわけじゃない。

わずかにしか抵抗を許されていない手を握りしめる。
冷や汗なんて、俺の兄というプライドが認めなかった。
それが例え、数秒だか数分だかだけしかないとしても。


「な、兄貴」


聞いてる?

髪で隠していた耳を、恐らく鼻で小突かれ暴かれた。
くすぐったくも感じられるほど僅かで、間近にある弟の息。
そこで囁かれる声は、いつもよりも落ち着いて内へと響く。


その近さの代わりに、あの真面目な顔は、今、見えていない。
真剣過ぎたあの目に見られ続けるのは、居心地が悪かった。
かといって、今のこの状態が良いかと言われればどっちもどっち程度。

ただ、さっきの一方的な視線とは違い、今は俺の口元に弟の耳が降りて来ていた。
小さなピアスホールが一つ開けられた耳、俺と同じ。
どっちが真似をしたというわけでもなかった偶然の一致。


いっそ噛みちぎってやろうとかと、口を開く。
相手は耳元で喋るのなら、それ以上で返してやる。
あと少しで、耳の輪郭が口に包まれる距離。

その瞬間に、何を感じ取ったのか耳は離れた。


「かんじゃやだ」


むす、と口をヘの字型にひん曲げて、弟は俺を睨む。
その顔はまるで、不機嫌な自分の顔そのものである。

誰にも見分けがつかない、自分たちの顔つき体つき。
自分たち自身で似ていることも、きちんと理解している。
まるで鏡か、ドッペルゲンガーのような、片方の存在。

それを同族嫌悪はすれど、好くなんて自分には理解出来なかった。


別に弟が嫌いなわけじゃない。

むしろ一緒に居る分には十分、楽しいには楽しい。
やりたいことは一緒だし、テレビ番組も選ぶのは同じだから話題に困らない。
たまに同じ話題しか思ってなくてつまらないけれど、良く言えば気が合うのだ。

そうだ、俺だって弟は好きの部類に入る。
俺だって弟とは、好きで今まで一緒にいたはずなのだから。


だけど、きっとこの弟が言っている好意はそんなものじゃない。
俺はきっと兄弟愛や友情の類い、けれど弟は欲やらが絡まる。
言葉だけは同じなのに、蓋を開けば全く別のものなのだと今感じた。

俺たちの好意の相違。
一番は、この行動を俺は嫌悪するが、弟はきっと愛好している。


「あーにき、何か言えよ」


さっきまでヘの字に曲がっていた口はもう孤を描いている。
切り替えの早い奴だ、その調子で俺への好意を変換してはくれないだろうか。
そんな理想を浮かべても、この手首を掴む手が離される気配は一向にない。


以心伝心。

そんなことが出来ていたなら、多少事態は好転したのだろうか。
たまに俺の思うことを勝手に読み取る弟は、こんな時ばかりは何もしそうにない。

俺の中に渦巻く不快感を読み取って欲しい。
弟がそれを読み取ったなら、自分は解放される自信があった。
そこまで鬼ではないと、俺は弟という存在を無条件に信じている。


自分のいつも通りを繰り返したかった。
俺は今の日常が、どうしても手放せない。

「あにき、」
「やだよ」

弟がまた何かしらでからかおうとしたのを遮る。
口を久しぶりに、言葉を発する為に動かしたような感覚。

そういえばこの状況になってから、碌な言葉を発していなかったことを思い出す。
こうなってすぐの混乱一色だった頭に、そんな余裕はなかった、
今の混乱してない頭は頭で、言葉を選ぼうと必死だけれど。


しかし、こうなってから時間はどのくらい経ったんだろう。
一緒に帰宅して、一緒にお茶を飲んで、一緒に自分たちの部屋へ戻って、後は何をしただろう。
今はいつもならば、そのまま自室で晩飯まで各々好きなことをしていた時間だった。


いつもならば。

この馬鹿が部屋へ勉強だの何だのを聞きに来た時点で、気付くべきだったんだ。
弟が自宅で勉強するなど、宿題があったってありえない話だ。
だって俺だって宿題を含め勉強なんて家でしない、出来ない。

そもそも、自分に勉強を聞いたところで解決しないと知っているはず。
苦手箇所も理解度も、弟と俺は寸分違わず同じ頭の作りをしているようで、全く変わらないのだから。

わざわざ二人に分かれているのなら、少しくらい違っていたとしても罰は当たらないだろうに。
どうにもならないもどかしさを文句へ変えて、誰かへ毒づいてみる。


「あにきー」


つまらなさそうに俺を呼ぶ弟の声。
不服そうな表情のまま、自分の上にまだある同じ顔。

さっさと退けよと念じてみれば、退かないと答えが返った。
あっけないほどに早い返答、せめてもう少し考えてから返して欲しい。
わざわざ文句をまた送ってやるほどに慣れてはいないから、心の中だけの言葉。


けれど多分、弟はこの言葉を読み取るのだろうなと思った。
苦々しく笑う顔がその答えであるし、何かしら弟は俺の心を読みたがるから。


「ブラコンで済ませろよばーか」


せめてそれくらいなら、まだマシな気がした。
恋愛とブラコン、多分違うのはやっぱり好意。

結局、自分と同じでないと不安なんだ。


「済ませられないから言ってますばーか」


俺の悪口を返したのは減らず口。
それはさっきから名前を呼ぶだけで、用件を何も伝えてこない。


鬱陶しいと毒づきたい気持ちを抑え込む。
此処で弟を罵倒して、この体勢のまま喧嘩することは避けたかった。

さっさと言いたいことを言えば良いのに。

「だから、あんたが好き」
「だから、やだよってんだ」

ふざけんな、そう思ったのはどっちかがわからない。
混同する思考、弟の意志が直接頭に伝わってくることに慣れていない俺は迷う。
この自分の口のすぐ傍にある口で、念じる前に告げてしまおうとは思わないのだろうか。

比較的、俺は弟に念じるよりも口が早くでる。
そこまで器用なことが出来ないことも、理由の一つではある。
それを理解しているから弟も、自分に何かを伝えることは滅多に無いのだが。


これが多分唯一の、俺と弟の大きな違い。

弟は俺の意志を汲むことが上手だった。
混ざらないかと聞いても、混ざらんだろと堂々と返された記憶があった。
ただ、それにいらっとした意志を汲んで、すぐに謝っては来たけれど。


今、苛ついてみたなら、弟は謝るのだろうか。
ぼやけた過去のままの状況になれば、もしかしたら。

無理か。
自分を見る目は、あまりにも冗談が無さ過ぎる。
ここで自分がふざければ、逆に向こうが苛ついてしまうのだろう。


探るような目を向けてみる。
相変わらず、思わず寒気でも走ってしまいそうなほど真面目な目。
そう言う目は授業中にしてくれれば、教師陣は親に泣きつかないだろうに。

遅刻に居眠り、授業放棄やら自主早退。
きちんと出席日数を二人で計算した上での、最低限の頑張り。
テストも赤点を取らない程度の勉強はするし、大した問題はないと思うのに。


「あーにーきー!」


大声に思わず耳が痛む、耳を塞ごうにも手は動かない。
いらりと片鱗を見せた怒りを込めて、間近の拗ねた目を睨んだ。

何でこんなに長時間、同じ顔を見続けなければいけないのか。
それの逃避も兼ねた思考を邪魔した弟が、今は酷く恨めしい。
しかしそもそも、この逃避の原因さえ弟なので、より苛立ちが増幅。

ああ早く退いて欲しい。


「あんたも俺のこと好きっしょ」


何でだよ、疑問しか浮かばない弟の台詞。
明らかに今までの返事とか的に、違うだろ。

でもそれを伝えた所で、弟はきっと満足しない。
今ここで求められている答えは、はいかいいえ。
俺が自分を好きかどうか、それだけだった。


「弟として、好きっすよ」


弟の眼差しは相変わらず真剣だ。
そしてきっと、自分の目もそれと同じなんだろう。


双子。

そのくくりの中で、今までほとんどのこと、ものを共有して来た。
同じ好み、同じ点数、同じ趣味、同じ発想、同じ行動、同じ生活。
完全に同じでないというものも、結局は微妙な違いでしかない。

だから、これが本当に初めてだった。
此処まで意見が合わないことを、自分たちは経験していない。
お互いがあえて相手に合わす、そんなことをせずとも勝手に合っていた仲だから。


何でこんなにちげえの。

どことなく寂し気な意識が、沈んだ心境に混じった。
自分自身の心の声かと疑ったが、どうせ弟だってこの思考には至ってるだろう。
考えるなんて必要なく、ただ弟と俺は一人が別れたもので、自分が相手だった。


「しかたねえじゃん、あんたは弟なんだよ」


俺の中には、兄弟の域を出ない好意しか無いのだ。
男ということや、外見を差し引いたって、それは変わらない。
弟が妹に変わろうと、そこに欲は関わらないんだろうと思う。


赤の他人だったら、なんて仮定も、持てるわけが無かった。
双子でも兄弟でもない弟とのつながりなんて、想像がつかない。

弟は弟で、俺はこいつの双子の兄だ。

「あーあ、実は兄弟じゃなかったりとかだったらいいのに」
「なわけねえだろ、頭湧いてんのかあんた」

ですよねー、なんて間近で盛大なため息。
そうして弟はもぞもぞと動き始めて、視界が開ける。
今まで生暖かかった手が、ひやりと空気に触れた。

よっこいせ、と同じ声で弟は俺の上から横にずれて座る。
よっこいせ、と俺ももかけ声をかけて、今まで横たえていた体を持ち上げてあぐらをかく。
向き合うような形、横並びか向き合うかが多い俺たちの形。


それにしても床の上に寝転がっていた所為か、背中がずきずき痛む。
思い切り腕を上へと伸ばせば、ばきりと小気味良い音。

一拍遅れて、同じような音が追う。
弟が同じポーズで、同じくらい上へと伸びていた。
その顔は、何となく馬鹿っぽい。


「ばーか」


何となく口から出たののしり言葉。
そう言えば、小学校のときは帰りによく弟と歌っていた曲があった。
弟と、というよりも、小学生なら大体が歌っていて、それを帰りに合唱していただけだけれど。

「あーほ」

読んだのか、思い出したのか、弟がメロディーを繋ぐ。
あの頃、歌の始まりは今のように俺だったり、弟だったり、まちまちだった。
どちらかが唐突に歌い始めて照らし合わせたかのように歌って、満足。

そんな帰りが、今はとても懐かしい。
今は帰りがけに大声で歌うことも、ない。

「どじ」
「まぬけー」

一通り自分たちの知っているメロディーを歌う。
何だかそれだけで満足して、にへらと笑えば弟もにへらと笑う。
間抜けなような、腑抜けたような、笑い声と笑い顔が俺たちだ。


もう何だかどうでも良い気分が全身へと広がる。
こんな小学生じみた歌も、弟が必死に伝えようとしてきた恋も。
結局は、今日のことがあったからって毎日が変わるわけでもない。

それをどうこう深く考えるのも、なんだか妙な話だ。


「じゅーんやー」


ふと、名前を呼んでみた、本当に何となく。
弟は顔を上げて、俺の名前を呼び返す。

「やっぱ無理だ俺」
「無理だやっぱ俺」

被さった言葉、若干ずれた言葉は聞き取り辛い。
自分の発した言葉はちゃんとわかっているが、相手のまではさすがに。

同じような単語だったような気がするのは、わかるのだけれど。
読み取ろうと集中さえすれば、ある程度はわかるだろうかと目を閉じた。
ぐるぐるとしためんどくさいと思う自分の意識ばかりが耳につく、探る探る探る。


そうしているうち、黒々した視界に浮かび出す頭痛。
やはり自分には向いてないらしい。
目を閉じた視界はあまり好きじゃなかった。



「隙有り」



ぐいん。

揺らぐ体に驚いた瞬きの間、かさつきの感触。
さっきの横たわった状況よりも近い、弟との距離。
距離というよりも、もはやこれはただの。

目と目は同じ位置にあった。
引っ張られて僅かに苦しい首の向かい側にも、恐らく首はあった。
若干、人からは小さいと言われている鼻は、弟のとぶつかっている。

そして俺の口元、もっと言えば口がある場所には当然、弟の口が。


なんだこれ。
何でこんなに弟が近いんだよ、馬鹿じゃねえの、なんだこれ。

唐突に目の前の伏せられた目の、まつげを数えようと思った。
人って大体何本くらいあるものなんだろう、ああ凄く抜いてやりたい。
いっぽーん、にほーんってぶちぶちピンセットで抜き取ってやりたい。

まつげ無しになった自分の顔と言うものに、少し興味があった。
けれど自分で試すなんていう勇気はないから、うんそれがいい。
それならばまつげの本数も正確に数えられる、きっとそれがいい。


ぬめり。


半開きの口が悪かった。
湿った何かの味が、俺の舌に触れて、触れて?

とりあえず、今この瞬間だけでもこいつがのっぺらぼうになればいいと思う。


「うがああああああッ!」


今度は自由な両手で、弟を必死に押した。
とりあえず力加減などせずに、思い切り弟の体を自分から引っぱがす。
とても驚いた顔で弟は俺を見たような気がしたが、何しろ一瞬では正確な判断は出来ない。


胸元がぐるぐるし始める。
これはこれはこれは、どことなく感じ覚えのある嫌悪感。

ドアップな弟の顔が脳内へ、唇の感触さえも甦る。
生温い体温だけならまだしも、まるで自分と、ぐらりと揺れる感覚。
その後にトドメのように思い出されたのは、ぬめりといった舌の。


ふに、とした感覚ならばまだ救われたし、夢もあった。
それならば目を閉じることで、可愛い子だと現実逃避も出来た。

なのにかさついた唇は、この冷える季節の自分の唇と同じ。
女性よりも何割か薄い唇、それが逆立った痛み、乾燥を感じてしまった。
夢も一気に落とされる現実味溢れる、感触。

果ては、自分の顔だ。
そこまで好きというわけでもない、自分の顔と、キス。


ぐるり。

胸元の感覚が、大きく揺らいだ。


「吐く」
「は?」


嫌悪感の正体を自覚してしまえば、体の反応は早かった。
嘔吐感になれているわけではないのだけれども、対処はわかっている。

すぐにあぐらをかいていた足をほぐし、立ち上がる。
その途中に視界が若干、白黒の反転をし始めた。
平衡感覚が失われていくような感覚、嘔吐感を紛らわす。

早く、早くトイレに行かなければ。
自分の部屋を汚すことだけは、したくない。
壁を伝って、一生懸命ぐるぐる渦巻くものを押さえ込む。


部屋を右に曲がってすぐの扉を、力一杯奥へ押し込む。
半ば倒れ込むように、便器の蓋を開けた。

「俺今にもショック死しそうです」

後ろから、かなり低い声がかかる。
低い、というよりは沈んでいる、元気が感じられなかった。

何か返答をすべきなのだろうということはわかる。
でも、いかんせん、自分は嘔吐感を早く解消することに必死で無理だ。
弟の心をとことん傷つけている最中であることはわかっているが、こっちだって余裕は無い。

弟を労るよりも、この嘔吐感を一番に何とかすべきだ。
そうしないと言葉さえ、碌に発せられない。


「無理すんなよ」


弟の手が俺の背中をゆっくりと上下した。
ぐるりぐるりと廻る感覚が、一応、山を越した事で和らいでいく。
帰ってからは何も食べておらず、胃に残るものも少なかったのが幸いした。


それから弟の手は数分間、背中を上下し続けた。
適度な力を保つ手が、やんわりと鳥肌となった肌を沈める。
胃液が喉を焼く感覚はまだ鮮明に残っており、気持ち悪いのには変わりないが。
苦々しい胃液の味はまだ喉元から口にかけて残っていて、つばさえあまり飲み込みたくない。

そうして嫌な余韻を残して、ようやく吐き気は完全に鳴りを潜める。
ほっと一安心して息を吐き出せば、次はぐったりとした疲労感がこみ上げた。
相変わらず弟は俺の背を、ゆっくりとさすってくれていた。


「てめえ、まつげ洗って待ってろよ」


一本一本数えて抜いてやる。
弟に吐かされた恨みを込めて、まつげへの死亡宣告。

「抜くってエロいな兄貴」

なんて頬を赤らめながら笑うもんだから、今度は殴った。
その際、疲労感を訴えていた体の何処かがきしめいたような感覚。
悪化したらもう一発くらい殴って、蹴り付けてしまおうと決めた。

抜くがエロいなんて言う馬鹿だから、それくらいは許される。
そもそも抜くがエロいわけではなく、単に弟の脳内変換がエロいんだろうに。

そう思うと同時に、どことなくああやっぱり一緒なんだなと実感する。


「それはこの前俺が友達に言ったよ」


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