くるぐるくる



「落としたよ」

すっと耳に飛び込んだ声に、え、と振り返った。
電車を降り、ホームを抜けていく人の波の間に男。
柔和な顔つきの人が、まっすぐとこちらを見ている。

「はい」

そして差し出された定期入れ。
財布と同じデザインのそれは、まさしく自分のもの。

うそ、いつ落としたっけ。
ちゃんとズボンのポケットに入れたと思っていたのに。
一度、記憶に沿って入れていたはずのポケットを触るが、中にはなにもない。


「気をつけてね」


にこっ。
そんな音さえ聞こえそうな笑み。

その表情のまま、男が自分の手に定期を渡した。
渡すとき、少しだけ触れた男の手。体温。

「じゃあ」

そういって、男は足早に自分の隣を抜けた。
あ、とお礼を言うために口を開き、出来るだけ急いで声を出す。
けれどそのまま彼は人の波に乗って、自分の隣を抜けてしまった。


拾ってもらった定期を見下ろす。
こんなに込み合った中で、放っとかれていても文句は言えないのに。

改札で自分が困るのを防いでくれた恩人。
あの様子ならきっと急いでたんだろうに。


親切な人だったなあ、なんて改札を抜けた。
いつもの帰り道をたどっていく。心の内はどこか浮いている。
紛れもなく、数分前の出来事のおかげだった。人の暖かみに触れたことともう一つ。

あのお兄さん、好みだったなあ。
顔も整ってたし、優しそうだし、親切なのっていいよな。
理想を並べ立てて、勝手に数分の出会いだった彼を頭に描く。


でもすぐに気持ちは急降下。
あんなに好条件が揃ってるなら、きっと彼女も居るんだろう。
ゲイに転がってくれるかを横に置いたとしても、現段階でいるなら…。

人の恋人を取る気はない。
横恋慕なんて冗談じゃない。
された側の気持ちを考えると、出来るわけない。
むしろ、される側の心情ばかりを、痛いほど知っている。


素直に諦めるしかない恋、か。
久しぶりに、めちゃくちゃ良い人の予感だったのに。

歩きながらこぼすため息。
吐き出すと同時に幸せが逃げるという迷信を思い出しながら、それでも吐き出した。
もう既に自分の恋愛的幸せなど、とっくに逃げ出している。止める気も起こらなかった。


ゲイである時点で、望みは薄い。
何とか理解はもらえても、対象だとなると受け入れてくれる人は途端に減ってしまう。
それを何とかつなぎ止めて、何とかゲイの嫌なイメージを払拭させて、何とか頼み込んで、こぎ着ける努力がいる。

ただ、そうしてこぎ着けて実っても、今度は周りから隠れながら、親に隠しながら、こそこそする毎日だ。
おちおち手も繋げやしない。恋人自慢も仕方ない、嫉妬も仕方ないで言えもしない。二人だけが知る関係。
で、最後はそんな努力も空しく、相手は女の子と良い関係にってんだから、悔しすぎる。

つい昨日の話。
思い出すとずきずき、手のひらをつねって誤摩化した。


あー、でもやっぱり惜しいなあなんて道に転がった小石を蹴った。
あの人ならなんか情で何とかって思えたし、恋人になったら大事にしてくれそうだし。
理想彼氏、って感じのオーラがばんばん出てたのになあ。つい一目惚れしちゃうレベルで。

でもこの出会い方じゃ、もう一度再会することすら期待出来ない。
会っても、いつもの如くつなぎ止めてからのイメージ直し、までの段階が至極厳しい。
今までは友人とか知り合いとか、身近といえば身近で、連絡も容易に取れたからこそ出来たようなものだったし。

「あー…」

無理か、やっぱり無理なのか。
これは幸せな出来事だったで、終わらせよう。
定期なくさなかったのも凄い幸せなこと、拾ってくれたのがイケメンだった良い出来事。

心が温かいうちに家に帰ってしまおう。
自分を騙すのもどうかと思うが、こうでもしないとやっていけない。
沈みかけた太陽が完全にビル群の中へ身を隠しきってしまう前に、と家路を急いだ。


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「さいこん?」
「うん」


うんってあんた。
けして軽々しく言ったわけではないだろうが、言葉に詰まる。
手前に並べられた前置きも、まあ座りなさいと改まっていたわけもわかった。

でも待ってよ。
男手1つで育てるって墓前で合わせてた手は何だったわけ。
自分の前で、母さんの入った石組みの前で、誓った言葉は何だったわけ。

「考えてるんだ。会ってほしい」

会ってほしい。
残念ながら心の準備に少々手間取りそうだ、なんてぎこちなく笑う。
そう笑ってみせようと、言ってみせようとしたのに、実際顔も口も、寸分も動かなかった。


そう、準備どころかまだ片付けも終わってない。
食べ終わったばっかりの食器が自分の前にあるんだ。
親父と自分と、二人で分担してきた家事。それに他人を入れたいってことかよ親父。

さっきまで食べて、自分たちが調理して、暖かかった皿が酷く冷めて見えた。
物が乗っていたのを自分が食べた後は、汚らしい食べ後に見えてきた。
いつも通りの美味しかったって感想はどこ。


「おれがいやつったらやめんの」


その程度で再婚すんの、なんて思った。
自分がちょっと否定しただけで、やめれるようなことなの。
そんな強い想いも無しに、再婚なんて、母さん以外に永遠を誓おうとなんてしてんの。

矛盾してるなあ。これじゃ再婚してほしいのかしてほしくないのかわからないじゃないか。
自分の冷ややかな声が頭、思考に投げられる。知らねえよ知らねえよ。


意味わかんね。
自分自身が、自分自身の思考を、わからなくなってきた。
何をどう父親に伝えれば、自分の本心で、自分が納得するのかわからない。

「向こうにも子どもがいるんだ。ひとつ上くらいの。合わないならやめることも視野に、」
「ごめん、出てくる」

聞きたくない一心で、親父の言葉を遮った。
椅子から立ち上がった音が、やけに大きく耳に入る。

そうか、いつもつけっ放しているテレビが消えているからだ。
父親の声と、自分の声と、思考の声しかなかったのかと思い出した。
今更静かなことに気づく。静かなことなんて感じる余裕がなかった。

「時間頂戴」

そこまで伝えて、玄関へ走った。
玄関を閉めるその最後まで、親父の声は何も聞こえなかった。



学校からの帰り道を少しズレた河原まで、歩いた。
さらさら水の流れる音と、少し勢いの衰えた蝉の声がする。
もうだいぶ暗くなった今の時間にも、走り込みをする人影がちらほら。

何となく、座り込みたい気持ちで、下の草原まで降りる。
端の、一番川に近いところまで歩いて座って、だらりと足を落とした。
少し長めの草がズボンを突き抜けて皮膚を刺すが、すぐに慣れるからと放置。


川の水面を眺めた。
道に等間隔で並べられた街灯で、きらきらしてる。
黒い底の見えない水が上辺だけきらきらきら、思わずため息。

何だよ、あの帰りのハッピー打ち消すこの仕打ち。
イケメン兄ちゃんかっけーな、今日も一日良い日だったな、で終わらせてくれよ。


母さん、母さん、親父はあんた以外にも愛する人出来たらしいよ。
親父はさ、あんた以外にも愛してくれる人が出来たらしいよ。
その相手と、永遠を誓い合いたいんだって。

亡き母の面影を脳内に浮かべる。
よく笑って、時に親父以上に怖くて、しっかり構えててた人。

なあ、言いたいこととかあるんじゃないの。
あんたが愛した男が別の女愛そうって言ってんだから。


じり、と胸がきしむ。
自分は嫌だった。愛してるって言ってくれた相手が、さっさと別を愛すのは。
だって男じゃん、で言い返せない自分は焦(じ)れちゃったけど、女なら言えるじゃん。
マジョリティで、おかしくなくて、気持ち悪くとも何ともない、後ろ指も刺されない、異性愛者なら言えるだろ?


「はは、」


乾いた笑い声が喉を通る。
ごっちゃごちゃだ、頭の中。

けして親父を責めたいわけじゃない。
大変だったと思う、男一人で此処まで育てるのも。

ずっと独り身でいてほしいなんて、思っているわけじゃない。
残った親父が自分の所為で幸せ逃がすのは嫌だよ、此処までお世話になったし、幸せになれよとも思うよ。
母さんだけずっと愛してよなんて、駄々をこねたいわけじゃなかった。母さんを塗りつぶさないなら、別に良い。

けれど、どうして今なんだ、と思わずにはいられない。
結局、男女でも一緒なのかな恋愛なんて。
親と自分を重ねてるのも、変な話かも。


手元に転がる石を、適当にひとつ、川へ投げた。
ぽちゃん、と小さく音が鳴って、小さな砂利は水に飲み込まれる、

自分はどうしたらいいんだろう。
次の不安材料が、思考に入った。
親父が愛した人、親父を愛してくれる人、ならおれは?

おれどうしよ。どうすりゃいい?
自分が再婚を認めたら、自分の立ち位置が揺らぎそうな不安感が浮かぶ。


こうして自分が悩んでいる間も、水面はきらきらきらきら。
なんだかだんだんまぶしくさえ見えてくる、まぶしくて涙出そう。
出た後に、出そう、だなんて思うのはなんだか間違ってるけど。

手でざらざら地面を撫でると、ごつごつ痛い。
大小様々な大きさの石が手元に集まってくる。


こつ、と、平べったい石が目に留まった。
水切りに向いた石だなんて、経験から知っている。

手元にすっぽり収まる。
出来るだけ丸くて、平たいもの。
自分が投げやすいと思ったもの。

水切りに向いている石を、自分へ真剣に教えてくれた姿が蘇る。
今の手元に見つけた石は小さくて、心地よく手に収まることはないがこれでいい。

力を入れないまま、横に滑らせて投げた。2回。
2回だけ跳ねて、そしてとぷんと沈んでいった石。
自分の視界からはもう見えない。
きっと川底で、別の石と寄り添った。


「まあいっか」


親父も男手ひとつ、苦労したんだ。
自分が思うよりも、ずっと大変だったろう。

おれも高校生になった。大人には近づいた。
親父無しでも、きっとちゃんと出来る。
一人で歩く練習も、していかないと。


いい人そうなら、認める。
親父が選んだ人なら、大丈夫だろうと思うけど。
母さんは忘れないなら、最低でも自分の心には居る。
愛してた息子の中にいることで、勘弁してもらおう。




「こんにちは、はやとくん」

開いた口が塞がらない。
相手に会うということを父親へ伝えて、セッティングされた席。
こんな機会でもなければ入ることの無かったような、おしゃれな店で向かいにきたのは。

連れ子さんってこの人なの。定期のお兄さんなの。
不思議そうに奥さんがおれを見つめてますけど、きっと自分の顔は真っ赤だから見ないで。

「仲良くしようね」

おれにも幸せくれようとしたのかな、神様。
でもこれは、おれの心臓に良くないよ!


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