ねこサマサマ。



ぼんやり。
眠りから覚めると視界がおかしかった。
ぼやけた灰色のふっさふさ、なんだこれ。

顔をあげて数回瞬き、ようやくはっきりとピントが結ばれる。
やけに部屋が大きく見えたけれど、横たわってるからだと勝手に思った。

そしてもう一度元の位置へ目を戻す。
ぼんやり。なんだこれ。視力1.0のはずだぞ俺は。


とりあえず落ち着くために寝ぼけた頭を振った。
目を閉じて、横たわっていたソファの皮に爪を食い込ませ、しっぽの先まで伸びを、

は?
自分の取った行動に自分で驚いた。
爪はまだしもしっぽ?と思い返す。

そんなもん人間にあるはずねえよ。
心の中で吐き捨てつつ振り返ると、あらまあ綺麗な毛並みだわ。
あまりにも見事にはえそろった見慣れない毛に、おもわずソファから転げ落ちた。

カーペットの上にぼてっと落ちた。
四足歩行の体は上手く使い方がわからず、受け身も満足に取れてなかった。
その際の痛いと出た声さえもう人間語以外、みゃっだかにゃっだかが濁った音。


確か眠る前はちゃんと人間だったはずなのになあ。
ソファに座って、この前もらった義理チョコ様をやけ食いしていたはず。
あのときのチョコか、あのチョコが原因なのか、明らかに既製品だったけど!

知らねえよもう。
半ば投げやりにカーペットの上で脱力。
落ちて横向きの体、力を抜けば重力に従って体がだるーっと広がる。

また睡魔がこみ上げてくる。
時計を見たわけではないからわからないが、随分と寝たはずなのに。

なんだかカーペットの感じがいつもと違うように感じた。
いつも足の裏で踏むだけだったり、服を挟んでの感覚だったから。


今は、今はと考える。
地肌の上と言うんだろうかこれは。
自分から生えた毛の上、服よりもだいぶカーペットの感触が近く感じる。
これなら猫を撫でていた人の手も、もっと近く、また違って感じられるんだろうか。

目を閉じた、まっくらなような明かりが透けているような。
人間の時もこうだったっけ、比較してみようと思ったけれどそんなこといちいち覚えていない。

俺は人間だったんだろうか、始めから猫だったのかもしれない。
夢で人間になった気がして、長い夢を見てただけだったのかもしれない。
始めから俺は猫で、灰色の猫で、こうしてたまにカーペットに寝転んでいた?

そうだこうやって寝っころがっていた、頻繁に繰り返していた記憶が見つかる。
こうしてカーペットに横たわって、今は見てないけどいつもは天井を眺めていた。


だれかと。
誰だっただろう。


手を思い出した、うらやましいと眺めた手。
伸びる手が俺に伸びていたのか、別の何かに伸びていたかが曖昧に溶けている。
うらやましいとは思っていたのは確かなはず、はっきりと撫でるように動く形を覚えているから。

どうしてうらやましかったのかまでは覚えてない。
やっぱり近いカーペットや視界に入る自分の手はぼやけていた。
でもドアははっきりしている、ずっと閉じたままの玄関の扉は。


口を動かした。
口が覚えている限りの動きで、精一杯口を動かしてみた。
歯がなんだか違っている様子で、少し動かしづらいがそれでも。

けれどやっぱり出た声は違っていた。
にゃあとみゃあの二つが混ざったような泣き声でしかない。
呼ぼうとしていたものが名前だったと気づいて、俺はやっぱり人間だったと噛み締める。
猫だったら良かったのに、そうすれば、知らず知らず今までを思い返して、胸が痛くなった。



ぴんぽん。
短くなった音、インターホンの音だ、俺の家の。
たまに調子が悪くなるのか、音が濁るようなインターホン。

横たえていた頭だけ上げて、寝転がっていたときにも見えていた扉を注視する。
誰か訪ねてくるような用事はなかったように思う、宅配便も覚えている限りでは予定に無い。
実家からであるなら唐突であっても不思議はないかと思いあたって、けれど猫の状態で受け取れるはずが無い。

頭を元のように横たえた。
出れないし、言葉もにゃんにゃんしか言えない。
もうこの姿じゃ、ごろごろ過ごすしかないのだろう。


がちゃり。
耳に馴染んだ鍵が開く音がした、かちんと形にはまる音まで鳴った。
俺は此処で寝転がったままなのにも関わらずだ、猫の姿で。

ついに扉が開く、遠慮気味なのかゆっくりと。
この部屋の合鍵を持っている人、誰に渡していたっけ、すぐに浮かばない。
あまりほいほいと渡すものでもないから、そう人数がいるわけでもないのに。

むしろ一人だ、覚えている。
思い出したくないだけだとは知っていた。
しかし来るはずが無い、原因を考えると胸が痛い。

「まさはる?」

覗かせた顔が部屋を見回す、彼の視線は自分の幾分か上を通る。
一通り見渡したような視線が部屋全体を通って、そして俺に降りた。

「ねこ?」

目が合った瞬間、少しだけ大きく開いた目。
玄関で靴を脱ぐ彼を見る、こっちへ来るつもりなのだろうか。

「飼ってたのか」

とん、とん。
足が床を踏みしめる振動を、毛を伝って肌に感じる。
人間であったときには感じたことは無かった、ただ空気だけ感じていた。

黒い影が視界に落ちて、体にも落ちる。
安っぽい蛍光灯の白い光が遮られた黒、いやに大きく見える人間。
伸びてくる肌色の手も、前は自分と同じほどの大きさだったのに、やけに黒く大きい。


こわいとは思わなかった。
ぼうっとぼやけ出した輪郭に、目を閉じる。
する、と耳と耳の間を手が滑る、するするって。

「かわいいなおまえ」

にやけているんだろうなあと表情を想像する。
彼は猫が好きだった、確かそうだったと覚えてる。
俺が見たことの無いような表情で、彼は猫を触っていた。

撫でる手が、自分の落ちていく思考を止める。
気持ちいい、あたたかいだけの感触だけにする。

手は喉元まで降りて来て、そこを引っかくように撫でた。
頭の中が馬鹿になったみたいにほわほわする、眠たくさえなる。
猫が喉撫でられてとろんってなる気持ちがわかった、むしろ現在がその状況だからわかって当たり前か。


「まさはる、」


けれどその気持ちよさも眠気も、名前である程度覚めてしまう。
人間の名前、猫の名前、どっちの名前だったかまたおぼろげた。

人間の声が少しだけ、手前の声より落ちたのは聞かないフリ。
そんなに嫌いか、なんて女々しい思考も見ないフリ。

「どこいったか知ってるか、にゃんこ」

やっぱり声は、ほんの少しだけ低い。
怒ったとはまた違うもの、もう少し穏やかでぴんと尖ったような声。
なんと表現すれば的確だろうかと考えて、彼の表情を見る、ああ真剣だ。


じっと彼の目を見つめてみた。
何を考えているのかを知りたかった、何を考えて俺の名前を呼んだのか。
心配しているのか、怒っているのか、どちらにあたる真剣なのかを見極めるために。
どちらであっても俺は猫のままであるし、何が変わったり、言ったりするわけでもないが。

ただ、それがもし心配だったなら、少しだけ嬉しいと思う。
こうやって優しく触れてもらえる機会なんて無かったから、心配とか、感情の一端だけでもくれたら、嬉しい。

「しらないよな」

手から伝わる温度が変わる。
温かな手が冷たく変わって、のんびりとした空気は重く沈みだす。
穏やかだった時間が、男の存在だけで切り替わった、いつも通り。

「こうやってしてやれば、きっとな、まんぞくしたんだろうけどな」

誰かに向けられる言葉をただ聞く、内容は後悔だろうか。
男はまた俺の頭を、今度は少しだけ押し付けるように強引な撫で方。
ぐしゃぐしゃと毛が逆立つのを感じた、すっとした空気が直に肌へと触れる。


「まさはる」


やさしいこえ。

呼ぶなよ、こんなときだけ。
あまりにも今更じゃないか!

「にゃんこ?」

声が出ない、うなり声しか出ない。
俺がいた時はそんな声で呼ばなかった。
こんなときだけ、こんなときだけ呼びやがって。

猫が涙を流すかどうかは知らないけれど、今人間だったら確実に泣いているんだろう。
みっともないくらいのしわくちゃの泣き顔を見せてしまいそうだと思った。
見せないで済んでいるのだから今、猫だということを感謝するべきだとも。

「まさはる」

よぶなよ。
どうせ声はにゃおにゃおにしかならないと知っているから出さない。
どうも顔が湿っている感覚がして、ぐずぐずの顔になっているような感じ。

「まさはる」

よぶなってば、悲しくなるだろ。
今更、彼が俺に向かって関心持っていたことを知ったって俺、今は猫だ。
一回も呼んでくれなかったくせに、俺なんか鬱陶しいみたいな目で見たくせに。

つらつら浮かんでくる文句は、やっぱり頭の中だけに留めた。
なんだか鼻水まで垂れて来てしまうし、ずるずる吸ってしまうし。
目を強く閉じたら閉じたら、やっぱりなんだか湿った感触があるから、やっぱり猫も泣けるんだなんて。

「まさはる、こっち向いて」

顔の側面を男の手が挟む、べちょりとした感覚。
凄まじいべちょべちょ、ちょっとだけぺちゃって音が聞こえるほど。
もう俺は猫のままでいいとさえ思った、戻り方もわからないから戻りようもないのだけれど。

俯いた顔を無理矢理、結構力強く上に上げられた。
少し近い彼の顔に、はっきりとピントが合う、所々は涙で潤んでしまっているが。
くっそイケメンだな、好きな顔だよなあなんて思いながら、一方的だった交際期間を思い出して、涙。

「まさはる。泣いてんじゃねえよ」

近づいて、ピントが合わせづらいほどの近位置にまで近づいて。
思わず目を閉じた、目の方向に何かが近づいて来ていたから反射で閉じた。

べろん。

舐められた、瞼舐められた、恐らく毛むくじゃらな、え?
閉じていた目を開く、ちゃんと近い位置でもピントが合った。
相手の眼球の中には、人間の顔があった、ぶさいくな俺の顔だった。

「良く聞いとけ」
「なにを」

人間の言葉を発したのが、えらく久しぶりに感じた。
だって今まで、何を言おうとしたって耳が拾ったのはにゃんにゃん言葉だ。

「いままでごめん」

今になってどうして謝ってくるんだ。
それまでも冷たい態度でしか接してこなかった癖に、謝罪なんかされたことなかった癖に、なんて文句。

「つっぱねててごめん」

ろくに恋人らしい会話なんてもの、自分たちの間になかった。
正直、つき合ってるなんて思えない付き合いだっただろうが。

それこそそこらへんの、野良猫に嫉妬するくらい自分たちは希薄だった。
猫好きだとは元より知っていたけれど、向ける声やら目が俺へよりずっと優しいんじゃ、そりゃ嫉妬だってしたくなる。
あの野良猫になったら、優しくしてくれるんじゃないかって想像してもおかしくないだろうよ、なんて言い訳を連ねる、脳内で。

そんないつもだったから、俺は嫌われてるんだって感じた、引導を渡そうって決心した。
好きを押し込んで昨日別れを告げたら、そこでお前は承諾したじゃないか。
だから俺はもらったバレンタイン義理チョコをやけ食いして、さっきまで猫にまでなってたんだぞ。


なのにこの男は、部屋にまた来て、謝って、なんて振り返る。
猫のときに聞いた俺の名前を言った、優しい声も一緒に蘇る。
そのことは少なからず俺の得にはなっていて、責任取れなんて叫ぶことも出来ない。

俺が聞いていないところで、そんな声で俺のことを、例えば猫だとかに話していたりしたんだろうか。
冷たい声は、作っていただけだったって信じるぞ。


「まさはるくんがだいすきです。おれとつきあってください」


うっぜえ、こいつおれの告白パクりやがった。
そんな悪態よりも先に、涙の方が溢れ出てしまった。
一年も前の告白を覚えていてもらえていることが、嬉しい。

「かってにしろ!ばーか!」


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