01 - 02 - 03 - 04 - 05 - 06 - 07 - 08 - 09


す、と意識が浮上した。
すんなり眠気は消える。

ゆっくりと一度目を閉じて、また開く。
目の前には、さっきと変わらず同じ光景。


見慣れた灰色がかった枕があった。
視界を少しずらせば、いつもの白い壁紙が部屋を仕切る。
壁際に散らばる紙を見て、あのまま寝入ったことを思い出した。

「なんじ」

充電コードをたぐり寄せ、既に充電し終わった携帯を取る。
開いて見た時計表示には、午前三時頃だと表示されている。
日付は、休日を示す赤。


そういえばと、大型連休を思い出す。
ゴールデンウィークの初日が今日だ。
一週間の休暇。依頼の期限と、同じ期間。

楽しめそうにない休日に、ため息が出た。
今のうちに休もうと、布団を被る。


「……、」


何故か不思議なほど、目が冴えた。
長く寝ていたわけでもないのに、眠気がない。

ぐるぐると、胸辺りが気持ち悪かった。
喉にも何かが絡み付いたような、とても居心地が悪い。


水を飲もうと思った、まだ今よりはマシになるはず。
そうすれば、いつものように眠れると勝手に信じる頭。
悪夢を見た後とも違う感覚が何かわからないまま、渦巻く。

被った布団を抜けて、床へ素足を降ろす。
冷蔵庫にある水を飲んで、妙な感覚を早くなくしたい。
ただその一心。やけに冷える床を歩く足が、速まった。


キッチンの角に置いた、小さな冷蔵庫。
買いだめも尽きてきて、ほぼ空同然の中。
そこからペットボトルを取れば、冷気が手を伝う。

パタ、と扉を閉めながら、キャップを開ける。
そのまま口を付けて、冷たい水を流し飲もうと傾けて、

途中で止めた容器の中を、水がたぷりと緩やかに揺れた。


後ろにいることをはっきりと感じた。
誰かは、裏の人間で考えたらキリがない。

だから直感で浮かべた答え。
昨日散々口にして、耳にした名前。
今まで、話のタネでしかなかった人。


「か、げ?」


震えそうになった声を抑えた。
手の震えは握ることで隠せる。
あとは動揺を、声から隠すだけで。

けれど、隠しきれない恐怖感。
全身から冷や汗が吹き出ていた。
妙に目が冴えていた原因を、今更に理解する。

どうすればいいかはまだ浮かばない。

「こんばんは」

発音の良い、変声機越しのような変な声。
一緒に小さく笑ったわずかな音を、耳が拾う。

予想の的中は喜ばしくも何ともなかった。
むしろ、外れてくれていた方が楽だった。


どうすればと自問する。
何度も繰り返して、でも答えは出ない。

後ろを取られていることが、まず不利だった。
これでは相手の出方がわからない。すぐに対応できない。
かといって不用意に動いたら、どうなるかもわからない。


今、自分の手元には何も無かった。
丸腰状態が、数少ない対応策を潰す。

まさか家が突き止められているなんて思わなかった。
油断したことを後悔し、不用心の塊だと自分を罵った。

唯一の武器にもなりえそうな包丁は、近くにはある。
けれど少し、手を伸ばさなければ取れない距離。
多分、取ろうとした瞬間を狙われたら、アウト。


まだ殺されるわけにはいかない。

思っても、どうにか出来るものでもない。
まずは状況をどうにかしないといけない。
でも、少しでも動けば殺されるかもしれない。


だとしても。
頭に渦巻いた迷いを捨てて、覚悟を決める。
このままでも結果は変わらない、…いずれ殺される。

不意に、相手が音を立てた。
近くに固いものが床に当たるような、恐らく靴の音。
踏み出したんだろう間に、出来るだけ早く前へ向き直る。

「!」

振り返った先で、思うよりも近い相手の位置に驚いた。
少なくともあと二、三歩分はあると思ったのに。

二歩無い位置で、存在すら疑っていた影がいた。
フードを被った黒い姿は、影という名前通り黒一色。
単に明かりがないから、そう見えるのかもしれないけれど。


相手の顔は。
見ようとして、暗闇に慣れた目を凝らして。

そうしてフードの中に見えたのは、ゴーグル。
大きめのそれは、フード下の顔を更に隠す。
その所為で、見れたのはほぼ口元だけ。

そこにあると思っていた変声機はなかった。
まさかの地声かと、緊張感のない疑問が浮かぶ瞬間。


手が俺へ伸びた。
ば、と迷いない動きが見えた。

状況を思い出した体は、避けるために足を引く。
すぐに冷蔵庫へ当たって、方向のミスを悟った。


「い…っ!」


とっさに、体を守ろうと両手を前に出した。
しかし伸びてきた両手に掴まれ、強引に上へ。
痛いほどの力で引っ張られた手は、冷蔵庫横の壁に固定。

持っていたペットボトルが、そこでやっと床に落下した。
零れて広がった水が、足を冷たく濡らしていく。


あまりにも早い動作だった。
満足に息をする間も、なかった。

危険に閉じていた目を開けば、間近にある顔。
ゴーグルの中から見られているような、感覚。
一切中の見えない黒の奥からの、一方的な視線。

「なん、」

俺が言い出すことと、目の前の頭が下がること。
二つは同時で、言いかけた言葉は変に止まった。
下がった頭は、ちょうど顔の下で停止する。

自分の呼吸が部屋に響く。近い。
変な圧迫感で、息が浅くなっていく。

見えているのは、フードの布だけ。
直接、睨まれているわけでもない。
なのに、指先さえも動かない。


しばらく、何の動作もなかった。
ただ顔は見えず、黒い布地が前にある状況。
それでも言葉の続きさえ言えない、強張った体。


「ひ……っ」


突然、喉に生暖かい感触が当たる。
生温い温度と湿る感覚が、じわじわ皮膚に染み入る。

ぞわぞわと、寒気とも鳥肌ともつかない感覚。
全身に感覚が広がって、何これ何だこれ、え?

何が起こったのかわからない。混乱。
なにこれ。


どうされたのか理解しようと頭が働く。拒否。
ならまず深呼吸だと息を吸い込もうとして、同じ感覚。

もう一回来るなんて、心の準備はなかった。
落ちつこうとした心は驚くだけ、息が止まる。
深呼吸は忘れられて、何もかも飛んでいった。

落ち着けない、何も理解できない。
なにこれ、なにされてんのおれは!


「なに、」


ようやく出した声も震えた。
どう頑張っても見えない喉元。
上手く噛み合ない歯が、がちりと音を鳴らす。

そこで、小さく下から響く音。
震えるような調子で、言葉ではない。


「このくらいで感じた?」


続いた言葉に、はっと覚めた。
感覚があった場所は、風でひやりとする。
喉を舐められていたのだと、ようやく理解。

「漣夜」

返事を求めるように、裏での名前が呼ばれる。
相手は、俺の顔をゴーグルを通して覗き込んだ。

なんて、言った。
ゴーグル越しに、自分の顔を見る。
自分は影から何と聞かれた、思い出す。


「はあ!?」


ぶわっと一瞬で、顔に熱が。
顔から耳にかけて、火照ったような暑さ。
全身にも、どんどんと熱が巡り出していく。

何を言うのか、何が、反論したい言葉が頭を占める。
とりあえず言うために開いた口、でも文句はまとまらない。
どの文句から言葉にするのか、でもどれも言いたいことで。

言葉が出ないまま、口だけが開閉を繰り返す。
結局、どの文句も伝える形にはなってこない。


そして機械音が微かに漏れた。
耳障りな音で流れたのは、抑えられてない笑い声。
心なしか、近くに見えている相手の肩も震えていた。

遊ばれていることに、奥歯を噛み締める。
さっきまでの恥と一緒に、わき上がる悔しさ。
先ほどよりも強くゴーグルの奥を睨みつけた。


「誰が!」


気迫を込めて、影に叫んだ時。
俺の声に、音が重なりあった。
耳をすませば、小さな音とくぐもった音。

どちらも何かの音楽のように聞こえた。
聞き覚えのある小さい音は俺の携帯だ。

もう一つは、バイブのような振動音のようだった。
けれど、この家に携帯以外で鳴るものは無いのに。
じゃあ何が、頭が候補を探す。


どちらも一向に鳴り止む気配がなかった。
ずっとループした音楽と、断続的なバイブ音。

影の携帯かと疑いながら、目の前を伺う。
影は少し横に視線を逸らして、ただ静止している。


「侮れないな」


変声機のおかしな声が小さく零す。
何を指して言ったのかまではわからない。

わからないが、此処まで鳴り続けてる着信だろうか。
何となく推測しながら、目を音の方向へ向ける。

「つ…っ」

そ瞬間に再度、首に頭が寄って来る。
気づいた時には吸い付かれて、……?


また、混乱。
ちょっと待って欲しい。
舐められる以上に、え?

わけのわからないことに、止まった。
それでも事態を把握しようと試みる、失敗。

何故舐められたり、あげく吸い付かれるのか。
疑問を投げたって、答えは全く思いつかない。
身長やシルエット的にも男相手に、どうして俺が。


じ、と吸われる感覚が続く。
耐えきれなくて、目を閉じた。
早く離れてほしい。心の中で祈る。

散々な目にあっているように思う。
命の危険以外だと、今が一番。
多分、それは間違っていない。


ようやく目下にあった頭が離れた。
安心に息を吐き出して、肩から力が抜ける。
これでなんとか、そんな根拠の無い安心感。

「!」

無理矢理、視界が動く。
強制的に上を向かされて、何かが滑り込む。

舌にのったそれは、僅かに苦い。
その周辺が変に乾いて、錠剤?

薬。
思いついたものに、急いで喉を閉じる。
飲み込まないように、口の中までに留めた。


でも、上を向かされたままじゃいずれ。
一つ、拘束が外れた片手で、必死に顎の手を外そうと試みる。
けれど予想以上に強い力は外れず、引っかくだけに留まった。

その間にも薬は、徐々に口内で溶けていく。
どんどん溜まった唾液は、簡単に喉へ落ちた。
運悪く気管へと入り込んだそれに、思わず咳き込む。


俺が咳き込み始めると、影は顎から手を外した。
唾が散らないよう口を覆って、必死に咳き込む。
けれど、その覆った手はまた影の手に掴まれて上へ。

なかなか咳は収まらない。気持ち悪い異物感。
続く苦しさに、思わず視界の橋が潤みだした。
早くと願う心で、口に含んだままの薬も忘れる。

そして、げほ、と大きく咳が出てようやく、元通りだ。
口の中に溜まった唾をつい、飲み込んだ。


するすると、一緒に通っていく固形物。
え、と思って見たのは白い天井だった。
その端には、腕を固定するように伸びている手。

薬を飲み込んだと気付いた時にはもう遅い。
喉を通って、感覚のない所まで薬は落ちた。

どうしようと頭を回す。
指を口に突っ込もうにも手は使えない。


良い案を考えている間にも、ぼんやりと意識がぶれた。
立つ体を支える力も抵抗する力も、徐々に抜けていく。
どうすればいいと問うことさえ、億劫に変わる。


「おやすみ」


遠い声、ぼやけた意識。
一気に離れていく感覚。
取り残されるように、今は黒に飲まれる。

何となく懐かしいと感じるほどには、慣れていた。
意識が落ちることに、慣れも何もないだろうに。
確かに、俺は慣れていた。

こうやってよく、俺は誰かに止められていた、ような…。



prev signal page next

PAGE TOP