01 - 02 - 03 - 04 - 05 - 06 - 07 - 08 - 09


ふぁ、とあくびが出る。
視界が少し歪んだ、手で目元を擦る。


「寝不足?」


柊が俺の顔を覗き込みながら聞く、いつも通りの表情に無意識に安心する。
頭を振って意思表示する。

「多分違う、と思う」

今日は結局3時まで寝ていたし、と思い出す、本当に今日はよく眠れたと思う。
欠伸の原因を考える、寝不足なわけじゃないなら寝過ぎなんだろうか。
そこまで思いついたけれど結局答えは出ない、どうでもいいかと諦めた。

「ひいらぎー、」

前で拓巳と喋っていた涼が振り返って柊を呼ぶ。
器用に後ろを向いたまま歩いていく、転ぶぞ、と拓巳が注意した。
いっそ転べば良いのにとさっきの恨みで念じてみる。

「そーいうことは聞かねーの」
「あ?」

涼の言っている意味が分からずに短く聞き返す、何で聞いたらいけないんだと見る。
返すと同時に涼がにやけた顔を見せて右手の小指だけを上げてみせた、どこのオヤジだと呆れる。

「涼って下ネタ好きだよね」

呆れたように柊がため息混じりに零す、それに頷きで返した。
そう思うと随分変わったような気がした、昔はと思い返す。
けれど昔は昔で下ネタを言っていたような気がした、変わっていないことが変に、羨ましくなった。

「そういうわけでもねーよ?」
「そう?」

此処二日で何回も聞いたんだけどね、また柊が小さくため息と同時に吐き出す。
ぼんやりとそのやり取りを見る、不意に柊と目が合った、うつされないでね、と頭を撫でられた。
何をうつされないようになのかはわからなかった、馬鹿がだろうかと考えてそれだと納得する。

「けどよー、お盛んだからって普通考えるだろ?」
「考えない!」

何でそうなるんだと唸る、振り返った拓巳に相づちを求めると微かに頷いてくれた。
普段は寝不足なだけで今日は寝過ぎなだけだと決めた、言わずに自分を納得させる。


「あ、ちょっと」


不意に道の端に座っていた老人に腕を掴まれた、にこやかに笑いながら俺を見上げている。
その顔に見覚えは無い、どうして引き止められたのかわからない。

「…、なんですか?」

強引に振り払うのも悪い気がして一応訪ねてみる、答えずに老人はにこにこと笑っている。
前を見れば3人は呼び止められたことには気づいてくれている、少しずつ進みながらも待ってくれている。
早くあっちへ行きたいと思った、漠然とこの空気から逃げたかった、理由はわからない。

この人はどうして俺を呼び止めたんだろうと考える。
たまたま通りかかっただけで、何かをした記憶もない。


「あんた、死相が出てるよ」


すぐには理解出来ない単語。
一拍置いてやっと言われたことを理解する。
シソウは死相、漢字を当ててやっと意味が理解出来た。

「知らない、離せよ」

占いは嫌いだった。
どうせ未来なんかわからない。

掴んだ手を振り払って、三人の元へ向かう。
老人の力なんて、少し力を込めればすぐに。
そう思って軽く払った、なのに掴まれた手は老人の手から離れなかった。

「はなせって…!」

もう一度、さっきよりも強く、振り払ったのに。
それでも外れない手に、軋む腕に、よぼよぼの老人をもう一度見た。


「頑張り過ぎたんだね」


唐突に声が変わった。
さっきまでのしわがれた声はそこにはない、もっと若い大人の。

そこまで思った時に、ガラン、と遠くで大きく音が響いた。
俺の周りを影が覆う、ぼんやりとした灰色の影が俺を覆う。

見上げればくすんだ臙脂(えんじ)色の鉄骨が太陽を遮る。
随分な高さの先でも、それなりの大きさのものが、二本。

「海!」

大きく涼の叫ぶ声が聞こえた、意識が前へと戻る。
いつの間にか腕を引き止める力は無くなっている。
居たはずの老人は既にそこには居なかった。

ただ一人、俺だけが影の中に取り残されている。
ぼやけた影は次第に形を成して、黒さを増す。

自分の名前がもう一度涼によって呼ばれた。
走ってくる姿。此処に来るつもりなのだろうか。

「りょ、う」
「こっち! はやく、」

おいで、と口が動くのが見える、
手が伸ばされた、掴まれということだろう。
けれど動けない、わあん、と耳鳴りがなった。全てがスローになる。

死ぬ。曖昧だったイメージが意識された。
もう間に合わないだろうと心が諦めた。
だって一歩も、指先の一本も動かない。
うまく逃れる方法が、浮かばない。


涼へと視点を合わせる。
未だに走っている姿、無駄だ。
涼が来たって。二人ともが、死ぬ未来を想像する。

「やめろ」

誰かを巻き込みたくない。せめてと心が思う。
口はまだ動く、大声を出す為に息を吸い込む。

もうだれも、おれのせいでしなないで。


「くるな!!」



左脇に右腕が入り込む、後ろ向けに体が崩れる、片足が僅かに浮いた。
ゆっくりと動く視界、背中を涼のもう片方の手が支える。
いきなり流れ始める景色、黒い影の中を移動していく体。

「ばかやろ」

怒った低い声が耳元に近い場所で響く。
早まる再生速度、黒を増す影から勢い良く抜けた。


ガラアアンと、大きく轟いた。
一瞬の浮遊、塵が目に入って咄嗟に閉じる。

コンクリートに打ち付けた背中が痛い。
頭は腕に守られており、大して痛くない。

轟音がやめば、酷く近い位置で荒い呼吸が聞こえる。
体温、じんと背中が痛い、汗の匂いがする、目が痛い。

目をこすり、多少痛みがマシになった中で見えたのは、涼の肩と空だった。
空は青味に少し夕闇が混じるだけで、もう鉄骨の影はどこにもない。
そこを流れる雲はゆっくりと動いている。

生きていた。


上に乗っていた涼が、立ち上がる。
自分もいつまでも地面に寝転がっているわけにもいかず、立ち上がって服を叩く。

一通り叩き終わってさっきまで自分のいた位置を見た。
二本の鉄骨、それがコンクリートを見事に突き刺さっていた。
それを呆然と見つめる、頭の中はその光景に全て吹き飛ばされ、何も考えられなかった。


隣から小さく涼の舌打ちが聞こえた、何に対してかはわからない。
どこかに怪我でもしたのだろうかと視線を向ける。
同じタイミングで涼もこっちを見ていて、目が合った。

「大丈夫か?」
「いちおう」

そか、一言で返った返事。
足元を見れば、砕けたコンクリートのかけらが転がっている。
涼が間に合わなければ、俺は。嫌な未来を頭を振って払った。


引き止めたあの人が影だったんだろうか。
老人の姿で欺き、引き止め、鉄骨を落とした。

改めて突き刺さっている鉄骨を見る。
太い鉄骨も相当な高さから落ちた分、曲がっている。
影として動いているのは、複数いるのか。


拓巳が鉄骨を避けて、こっちへ戻って来るのが見えた。
心配が前面に出て、周囲に頭を下げながら走って来ている。

その向こうで柊は上を見ていた、まっすぐと鉄骨が落ちたビルを見ているように見える。
何か見たんだろうかと気になった、けれどどうやって聞けば良いのか言葉が思いつかない。
それとなく今度聞いてみようか。

「大丈夫か?」
「何とか」

心配した拓巳の声に視線を戻す。
体の方は背中を強く打ち付けた程度で他に怪我はなかった。
涼はと振り返れば、軽く腕を擦りむいている様子が見て取れた。
血が滲んでいるようだったが、拓巳への応答を聞く限り、大丈夫そうだ。

「涼、ありがとう」

驚いたように涼が拓巳から視線を外して俺を見た。
随分と意外そうに見られて、何だか恥ずかしくなって視線を反らす。
もしかすると別に言わなくても良かったかもしれないと変な後悔が頭を廻る。

反らしている間に俺の足に影が被さった。
何かと思って見上げると、涼。


「わるかった」


頭を撫でられて、いつもと違うしょげたような表情。
小さく言われたことは何のことかわからなかった、謝られるようなことは無かったはず。
少しの間考えて見たが答えは出ない。
拓巳はわかるだろうかと思って拓巳を見た。

けれど拓巳は俺と目が合うと気まずそうに小さく周りを指差す、その方向を見ると大勢の人。
鉄骨が落ちたことで集まったんだと納得する、もの凄い音だったから当たり前か。


ただその中にこっちを見る数人と目が合う、すぐに外れたけれど。
その意味をすぐに理解した、この男の所為だと簡単に気付いた。
頭を撫でる動作を無理矢理やめさせて、少し涼から距離を取る。

なんだよ、と軽い声がかかるけれど、答えるのも恥ずかしくなって言わない。
拓巳が小さな声で説明するようなのが聞こえる、これで向こうもわかるだろうと思って見上げる。
するとただ面白そうな笑いに変わっている、どういうことだ。

「照れてんのかこのこの」

さっきよりも乱暴に頭を下へ押し付けるようにこねくり回される。
鬱陶しい、と叫んですぐに払うけれど、相変わらず面白そうに俺を見ている。


「大丈夫だった!?」


めげずに頭に向かう手を払い続けていたところに、柊が来る。
凄く心配そうな顔で、聞き取れないほど早口で怪我の様子が聞かれる。
何だか焦ったような姿は、普段の温厚さはどこへやらで、面食らってしまう。

とりあえず落ち着かせる為にも、大丈夫、と一言簡単に返してみた。
さっきまで緊張していた顔つきが、一瞬顔色を無くす。

「良かった」

それから柊が笑う、酷く安心したと伝わるくらいに。
何だかそれにつられて俺も笑った。

「さって、そろそろどっか行かねー?」

横から涼の声、拓巳の肩に手を回しているのが見える。
少し背が足りてないことに気づいて笑いそうになるのを堪えた。
拓巳は背が高いと思う、正直わけてほしいと思うほどに、あと5cmくらいは欲しいと願う。

「人集まってやだし、警察来てもいろいろあれだろ」
「ああうん、そうだね」

警察にはあまり会いたくなかった、恐らく職業的な者もあるとは思う。

今までは何とか目をくぐり抜けて来た、けれどもしかしたら。
警察が傍に寄る、パトカーの音を聞く、その度にいつもそんな不安がよぎる。
処理屋にまかせてもどこかに不安は確かにあった、きっとこれからもそうなのだろうと予感した。

「海も大丈夫みたいだし」

そう言われて涼を見ていた視線がこっちに向く、それはとても唐突で慌てて返事を返す。
変に思われてなければいいと願う、バレてはいけないのは警察だけじゃないと自分に言い聞かす。
普通に生活する限り他の人間には極力バレないように気をつけないといけなかった、…繰り返さないように。


思い出しかけたものを奥へと沈める、前を歩いていく三人の後ろを歩いた。
上を見上げればまだ明るい薄い水色が目に入る、その端で涼が隣へ来ることを見た、目線を前に下げる。

「なんて言われたよ?」

小声で問われた、どう答えるかを考える。
けれど、その前にどうして言われたわかったのかを疑問に思う、あの距離で聞こえたのだろうか。
相手は多少声を細めていただろうと思う、俺との距離からすれば絶対に聞こえる音量ではあったけれど。

「別に、関係無い」

言う必要があると思わなかった、言った所でどうにかなるものでもない。
ただ、涼に聞こえていたのなら前を歩く2人にも聞こえていた可能性があると無意識に警戒。
その一方に無意識下でこんな自分が嫌だと嫌悪する。

「言われてたのな」
「は?」

涼の反応に驚きを返す、知ってたんじゃなかったのかと言い返そうとしてやめた。
どうせかまをかけたんだろう、乗ってしまった自分に少し苛立つ、毎回簡単に乗ってしまうことは直したい。

少し頭をかく、改めてどうしてそれを聞く気になったのかが気になり始める。
涼の方を見てみても知らぬ顔で前を向いている、俺から言わなければ言われないだろうと思った。

「何で言われたと思ったんだよ」
「勘」

勘で言うな、そう言えばただ笑いだけが返ってきた。
けれど正直、涼の勘は侮れないと思っている、鋭いというのかはよくわからなかった。
ただそれが当たることは今までで知っていた、今回だって結局はその通りになった。

「嘘だって」

横から手が飛んでくる、俯いてそれを避けた。
手が引いた後に見上げるととても悔しそうな顔と目が合う、すぐに消えたけれど。

「あの時お前、驚いてたし」

初めからそう言えば良いのにと思った、事実口からもそれが出る。
また同じように笑って手が飛んでくる、また頭を下げて避けようとしたけれど次は上から頭を抑えられた。
前のめりになって足が少しもつれた、すぐに離れたから体勢を立て直す。

「なにすんだよっ」
「スキンシーップ!」

平然と答える姿に苛ついて足を軽く、歩きながら後ろから蹴ってみた。
いて、と声は聞こえたけれど気にせずに前を向く、からかわれたんだからこれくらい、そう思う。
涼の少し前を歩く、後ろからすぐに肩へ腕が回った、鬱陶しそうに見た所で外される様子はない。


「心の交流っていうだろ?」


耳元で突然呟かれた声に飛び上がりそうになった、何とかそれを隠して涼を睨む。
にやにやした視線、もう一度蹴ってやろうかと考える、拓巳が不意に振り向いた。
どうしたのか問いかけようとしたけれどすぐに焦ったように前に向き直られる、タイミングを逃して話しかけられずに終わる。

前を見ていた顔をいきなり横に向かされた、ぐち、と首が小さく音を立てる。
僅かに痛む首を抑えながら強制に横へ向かせた手を外す、痛い、そう反論しようと思った。
脳に伝わる視覚情報、理解したその表情にそれは出来なくなった。


「で、何言われた」


涼の真剣な表情はとても苦手だった。
誤摩化せない人であるのにそれ以上に見透かされそうに感じることがとても、怖い。
全て何もかもを言うことは避けたかった、相手は情報屋で情報を与えてしまえば売られる危険だってある。
影のことで俺個人のことはもう全て情報が流れていることはわかった、どこから流れたのかはわからない。

考え出すとキリがないことを頭を振って振り払う、流れているものはもうどうしようもない。
それよりも、と別のことを無理矢理に思い返す、話が逸れた、そう一瞬思った所に掘り返すかと呆れる。

勘も嘘だとは言っていたけれど本当の所はわからない。
表情で判断したかどうかなんて自分でもどんな表情をしていたのかも覚えていない。

「仕事?」
「そんな、ところ」

あまり話したくなかった、これでこの話で終われば良いのにと思う。
今まで思い通りに行ったことの無い会話、今回だけはと願った。


言われたことば、ぼんやりと浮かぶ情景、重要な部分はぼやけたままの役に立たない記憶。
頑張り過ぎた、恐らくそれは殺し過ぎたということを意味することは簡単にわかる。
何処かで誰かに関わる誰かを俺が殺した、それで恨まれた不利益が出た、結局は不快にさせる存在になった。

わかってる、無意識に小さく呟く。
殺される方が悪いんじゃないとわかっていた。
仕方が無いことで終わらせられるものでもない。

ただ俺に必要なこと。
そう言い聞かせるしかなかった。
此処でまだ挫けるわけにはいかない、まだ、先へ。


「殺し過ぎって?」


ゆっくり理解するように頷いた。
他人に殺し過ぎだと言われた所でどうせまだ。

そこまできてやっと気づく。
他人に、自分の声じゃない声が質問された? 誰が?
そんなの。

横を見れば、緊張の多少和らいだ顔の頬が少し引きつっている。随分と、おかしそうに。
聞き出されたのだと悟るには、それだけで十分だった。

「おっ、おまええええっ!」
「なにかなー」

ついに大笑いした顔が近づく、手で額を押し返す、そのついでに鼻をつまむ。
ふが、という声に気にせず上に伸ばす、慌てた様子で肩にあった腕が退いてその手を止めた。

「いてーよ!」
「はめたお前が悪い!」
「引っかかるお前のがワリーだろ」

俺が思い出して考えに没頭すること知っていたからの、間。
まるで誘導尋問だと思った、少し簡単過ぎるようにも感じたけれど。
その簡単過ぎるものに引っかかった自分が酷く馬鹿に思えた。

癖、その一言で片付けられる俺の行動、考えることと他を両立出来ない癖。
直すべきだといつも思っているのに、いつだって出てしまうそれが情けない。


目の前少し先で柊が振り返る、その時に少しの段差に足が引っかかる、前へとつんのめった。
何とか逆の足を前に出して踏ん張って転ばずには済む。

「海も涼も、目立ってるよ」

間にため息を混じらせながら柊が苦笑した。

周りを見れば何人かこっちを見ている。
言い合っていた時の声の音量を思い出して急に恥ずかしくなった。
周りと目を合わせたくなくて下を向いた、今日は恥かいてばっかりの一日だ。


いきなりまた肩に重み、どうせ腕だと決めつけた。

「気にしてんのな」
「お前の所為でもあるだろうがっ」

小声で睨めば、そっちもあるけどな、と返る。
じゃあどっちなんだと考えるけれど、さっきの恥を思い出す。
思うように反論を口に出すことが出来なかった、気持ちを抑えようと心がける。

それよりも肩にある腕からかかる力が重い、ついでに少し暑苦しい。


「あのオヤジの言ったことだよ」


言われたことに驚いた、顔に出さないように努める。
止まりかけた足を無理矢理、前へ進める。
涼の顔を見ないように視線を前へ固定すれば、前の二人が何かを楽しそうに話している様子が見えた。

それを眺めながら、やっぱり涼は怖いと思えた。
考えていることは、すべて涼に見抜かれている。
いつだって不安は拭われる、危険は知らされる、間違いは消される、…ただ安全なものだけを俺に残す。

「お前が狙われた理由はどーせ別のことだろうけどな」

頭に、撫でるように手が置かれる。
だから、うるさいと言って、俺はそれを振り払った。

いつも、歯がゆかった。
同い年であるはずなのにどこか子供のように扱われることが。
確かに涼の言うことは正しいのだ。そして俺はそれを判断しようとしない。
それさえなければ、いらないと拒絶することさえできるのにと、舌打ちする。


そういえば。
今までの考えを切り捨てて、横峰の予定を思い出す。
今日は確か黒町で行動があったはずだと、頭に浮かぶ。

横峰の明日の予定は、どうにも今は思い出せない。
少しだけ盗み見る形で涼を見る、情報は口頭じゃなくて紙で渡してほしかったとため息をつく。
もう一度聞いたところで教えてくれるかどうかは別としても、覚えられないだろうなあと自分の記憶力に嘆いた。
今日の予定だけならギリギリで覚えているからもう良いかと、再度涼に聞くことは諦めた。


「あ、ごめん」


柊が突然前で止まる。
少し空いていた距離のおかげでつんのめることはなかった。

「オレ今日塾あるんだ」

右につけた腕時計を覗き込みながら、少し焦ったように言う。
呑気に塾に行ってるんだなと考える、凄いなと何がかもわからず漠然と思う。
その一方で少しの罪悪感、それを拭うように俺等のクラスは行ってる奴少なそうだなと考えた。
どっちかと言えば部活に専念している方が多いんだろうなとメンバーを思い出す、とてもしっくりと来る予想。

「ごめん、じゃあまた」

謝る柊に各々で別れの挨拶を告げる、柊が軽く手を振って反対方向へ進み出す。
塾があると言った割には特に急ぐ様子も無く、ただ歩いて行った。
急がなくても大丈夫なんだろうかと少しだけ心配になった。

「あー、オレもここらで帰るわー」

涼が思いついたように横で言う、肩にあった重みがずるりと動いて消えた。
柊と同じように後ろへ歩いていく、涼の向こう側にまだ柊も見える。
拓巳と一緒にまた同じように別れを言う、涼はそれに答えるように振り返らずに手を振った。

「……」

自分の携帯をポケットから取り出して開く、もうそろそろ5時になる時間。
これからどうしようと考えながら前にいる拓巳を見る、目はあわない。
何すればいいのか良い考えは浮かばなかった、そのまま帰ろうかと迷う。

「帰るか?」

一歩進んで拓巳と並ぶ、見上げなければいけないことに少し悔しい。
それが結構上を向かないといけないことが余計にそう思える、とても悔しい。
けれど当の拓巳本人は俺が声をかけたことに多少驚いたような顔で俺を見る。


「あ、ああ、…うん」


少し戸惑いながらの返事に、心臓が軋む感覚がした。
嫌な思い出が再び蘇るような恐怖があった。



prev signal page next

PAGE TOP