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「そろそろこっちに話を戻しても?」
「うるさい、帰れ」

後ろからの質問に厳しい命令が飛ぶ。
ゴールデンウィークから、一年と少しの間で聞き慣れた声。
さっぱりした声は変わらないけれど、内容だけは初めて聞くほど酷い。
まるで柊の本質に触れてしまったか、垣間見てしまった気分に襲われた。

とりあえず、ずっと背後から抱きしめられた状況から抜け出したい。
えー、とさっきよりは柔らかい声が聞こえた気がしたが、自分の足だけで立った。
柊は或る程度のラインからはしつこく言ってこないからそういう分には良いと思う。
それをひっくるめて、優しいと感じた。


ふと思ったことが変に気恥ずかしかった、口の端が下がるのを感じる。
口に出していないのがせめてもの救いだと思って、一歩横へ柊から遠ざかる。
今の顔もすぐに直るようにと、思考もろとも反らすように目線も反らしてみる。

目の前の男はいつの間にか、一人。

「あれ」

口から出た疑問に、柊が俺を見たのを端に感じる。
すぐに柊自身も目の前に目を向ける、俺は男と目が合っている。


ごめんね。


口パク、けれど大きく動いた口はしっかり言葉を伝える。
意味をすぐには取れない、一年も前のことを言っているわけでもないだろう。

あたかも記憶を探るようなフリをして目をそらした、見たくなかった。
ただ笑顔だけが酷く気持ち悪い、排他、嫌悪感、誰かと同じだと警告。
誰となど探りたくない、勝手に探る、きっと行き先は柊のと同じだ。

かつんと音が鳴って、工場内に大きく響いた。
そこですぐに動けば良かったのに、体は無意識が怯えて動けない、役立たずの精神。


「おとうさん」


ふわりと眼前、耳元へ冷ややかな声が届いた。
ぶつかりそうな近さに現れた高校生くらいの顔立ち。
それさえも気にしない頭、言われた関係の呼称に全てが止まる。

レン、大きな声で柊が叫んだの聞き取る。
目の前の茶色の目が酷く怖い、逃げたくて後ろへ下がろうとひとまず右手を後ろへ、下がれない。
そこに目をやればがっしりと掴まれている、退けなければと焦る左手、この人と目を合わせたくない。

右腕を掴む手が離れた、その瞬間に下がろうと蹴り出そうと足に体重を。


「君に会いたがってたよ」


喉元に当たる手、ひゅいと喉がなる、おろそかになるこきゅう。
疑問が頭に苦しいほど広がる、何でなんでなんで知ってるんだ。
心の中に深く埋めていたものを掘り出された、無遠慮に。
がんがんがんがん、頭が痛い、聞きたくなくて耳を塞ぐ。

「肩、背中、煙草、あざ、今でも痛いよね」

それでも通る声、はっきりと頭に響く。
首が痛い、ぎりぎりと締め付けられる。
耳を塞いだって目を閉じたって苦しい。
両腕が次はぎりぎりと痛み出す、痛くないのに記憶が痛いと伝える。

肩が焼けるように熱かったことを、記憶は頭に思い出させた。


思い出したくない、頭に念じる。
今は違う、俺は違う、何が違うかはわからない、とにかく違うんだと唱える。
目の前を見てみればこの人はあいつとは違うはず、全てあいつとは違うはず。

意を決して目を開く、前にあるのが違う人物だと認識するため。
認識すればきっとこの混乱なんてどうにかなってしまう、大丈夫だと再び言い聞かせた。
そうだ男もこの人も、あいつとは全然違う、似ているのは笑い方だけで他は何も、なにも。


「まだ夢にまで出てくるんだろう、お父さん」


開けると目に入ったのは、やっぱり笑顔。
加虐性が滲む笑顔、内心と表面の不一致。
指が押し込む、左肩の火傷。


「何で殴るのって泣いて、どうしてって、ずっと言い続けた」


俺の目の奥まで見透かそうとするように覗き込まれる。
どうして知ってるんだ、何で何で何で、知ってるはずないのに。
最近は見ない夢を思い出す、今は見ていない内容、ずきんと頭が痛い。

思い出したくない。
覗き込む目から視線を逃がす、思い出したくない。
忘れてたのに、見なくなったのに、思い出させるな。
呼吸は首を絞められていなくても不安定で、酷く苦しいまま。

違うと呟く、もう違う、十分強くなれたはずなんだと今までを思い出す。
人の命の上に成り立っていることを誰かが責めても、生きる為だと押し通して。
だから、あいつに一方的に暴力なんかふるわれない!



「お義兄さんも、君を酷く罵って、殴って、



ぐずり。

より深く、封じ込めていた記憶が疼く。
溢れ出そうな記憶は、思い出したくなくて意識から消していた記憶。
ぐるぐるとめまぐるしいスピードで、まるで話でしか聞いたことの無い走馬灯を見る。
断片的な記憶が、上へ上へと意識されようと浮かび上がる、過去へと戻って行く記憶。

やめさせたい、聞きたくない、思い出したくない。
鮮明に映る思い出に頭はたくさん要望を出し続ける。
ズボンのポケットにある折りたたみナイフのふくらみに右手が当たった。


『海、本当にお前は——』
『やっぱり、引き取——』


うるさい、うるさいうるさいうるさい。
耳を塞ぎたくても手はそこまで上がらない、何かどうにか。
こんな記憶、いらない。

後ろ手でかちんと響くか響かないかの音で、ナイフを開いた。
ぐるりぐるりとまだ映像は回る、心臓がずきんずきんと痛い。
目元の潤みを拭うよりも前に、今は記憶からどうしても、逃げたかった。

しっかりと持てない右手を左手で覆って、しっかりと握り直す。
相手は気付いた様子で、耳元にあった息が前へと流れる。
それよりも前に、自分に出来る限りの早さで脇腹横から目の前へ突き刺した。

当たらない相手に自分がよたつく。
間合いを取った相手を睨むように見上げた。


「そんな状態でやられても、当たりませんよ」


相手はただ何とも無い様子で、人差し指で眼鏡を上げるような動作。
肌に指がついた際、少しだけ呆れたようなため息をつく。
いつもは眼鏡をかけているのだろうか。

ぐるぐる視界と映像が混ざり合う。
そういえばあの人も眼鏡をかけていたと思い出されようとして、無理矢理に押し込めた。
溢れる涙を拭うことはしない、拭ってしまえば泣いていることへの誤摩化しが効かない。

回想される記憶全部が涙腺を弄って、ぼろぼろ出る涙はもう無意識。
せめて、今だけでも積極的に自覚するようなことはしたくなかった。
昔の自分の弱さを思い出すのは、今じゃないとわかっている。


不意に目の前の相手が動く、過去へと何度も逸れる意識を戻した。
安定しない思考と意識の矛先を、出来るだけ目の前に戻して行く。

構えられた銃、既に引き金に指はかかっていた。
両手でしっかりと俺へ固定された銃口、引き金が引かれれば、確実に俺へと弾は当たるだろう。
だから引かれる前に、その軌道から外れるように一旦左に避けてから、間合いを詰めた。
警戒すべきなのは銃だけじゃ無いだろうけれど、目の前の危険から回避する方が確かだ。


そんな最中でも、頭の中はまだぐらぐらと今と過去に揺れている。
鬱陶しい頭、どちらかにいっそ占領されてしまえばまだマシかもしれない。
ただ、現実の方がまだ耐えられる程度で、だから目の前に意識を集中させる。
右手で持ったナイフを勢い良く振り上げた。

「……」

カツ、と小さく金属が軽くぶつかった音。
恐らく金属片を潜ませただろう腕を交差させて防ごうとしていた。

振り上げた手をその腕へは落とさずに、すぐに上体を落として相手に蹴りを入れた。
我慢するような声、感覚からしても金属片は無く、直に当たったんだろう。

「取り乱してんのが必ず弱いなんて、ありねえんだよッ!」

強くなっているわけでも無いけれど、完全にいつもの力が出せないわけではない。
或る程度、集中力は欠いているけれど、そこまでじゃない。
まだ、死ぬわけにはいかないから、気を保てている。


それでもこれ以上踏み込まれたくなかった、何も喋ってほしくない。
耳が聞こえなくなってしまえばいいとぼんやり思っていた、そうであれば思い出さずに済んだ。
全部忘れたまま、あいつのことだけ覚えている状態で居れたのに、涙が頬を伝って地面に落ちた。

これ以上入り込まれてしまうなら、狂ってしまう方がきっと楽だと何処かが叫ぶ。
何処かの思考はきっと息を止めることを選ぶ、でも体を支配する俺はまだ息をしていたい。
優しいあの人たちがいなくなった理由を消してしまうまで、ずっとずっと、鼓動を続ける。


痛そうに足を一度擦った男が俺を見る。
何も思っていない目、暗い茶色の瞳が俺の青を見つめた。
表情がつまらなさそうに動いた気がしたが、ほんの一瞬で確信が持てない。


「誰にも愛されない、愛さない」


ぽつりと呟かれる、呪詛のような響き。
どこか無意識に植え付ける風な錯覚まで起こる。

そんな淡々とした言葉に、体の中心がぐるりとざわめいた。
今言われていることが、どうにかして過去に繋がる可能性が怖かった。
握ったナイフは汗ばんで、その重みだけで下へと滑り落ちてしまいかける。

「黙れ」

これ以上言うなら、そんな意味を込めてナイフを相手の方へと突き出す。
耳を塞いだって結局何の解決にもならない、この男をどうにかしなければ。
完全にねじ伏せることは出来なかったとしても、動いている途中に言うことなんてしないだろう。

そんな思惑の行動、けれど男の表情は変化しない。

「他人の介入が怖い、他人の裏切りが怖い、他人が自分を必要としなくなるのが、」
「だまれよっ!」

ぐるりと頭は呟いた、いらない。
低く低く、青年の声とあいつの声と、高い高い、女性の声が混じる。
気持ち悪い音の混ざり。


理解する流れ、やはり過去に繋げる気なのだ。
男に向かって走り出す、汗で滑らないように右手を左手でがっちりと固定。

男はさっきのように腕で防ぐ様子は見せず、体は微動だにしない。
ただ一向に逸れることの無い目と、口から出る言葉はしっかりと俺を追いかける。
さっきと同じように真上に振り上げようとした両手は、男の手によって止められた。


「怖い」


間近で唱えられた呪文。
聞きたくない、怖くない、うるさいうるさいうるさい。
怖いわけじゃない、一人で生きられる、今だって生きてる。

本当に?
今度は自身が問いかけた。

「だから弱いと言われることが怖い」
「うるさい、黙れって言ってんだろ! なにも、」
「弱いと思われて人が離れていくことが怖い」
「なにもしらないくせにッ!!」

自分に出来る精一杯で睨みつけても、男は喋り続ける。
俺の手を掴んだ手は当に力を失っているのに、気付けない。
言われたことが頭を占める、ずきずきずき、もう頭が痛いのか心が痛いのかわからない。


それでも、男の言いたいことはわかっていた。
ちゃんと俺は言われた部分部分は自覚していたし、諦めている。

けれど自分が楽しいからそれを無視して、わざわざ裏と表を持って。
結果的に自分が両立が辛くてもやめないのは、ただの怖がりの所為。
克服出来ない恐怖はただ弱いと判断した、だからずっと忘れて、目を背けたのに。

「ただの独りよがりなんだよ」

全てあいつの所為だと頭が呟いた。


「それ以上言うな!」


柊の声が工場内に、鋭く響き渡る。
記憶と思考が何処かに落ちた、工場の景色が頭に伝わる。
慣れていたはずの雨と生臭い鉄サビのような匂いを、改めて鼻が嗅いだ。

すぐに俺の手から外れた手、ため息を聞いた。
声の方へと向き直れば、倒れているサクラと無事そうな柊。
柊の怪我はぱっと見た感じわからないが、相手は恐らく生きていたとしてももう駄目だろう。

「あんたたちは、レンが目的だったんだね」
「さあ、僕は何も」

男は少し遠い位置の柊へ、飄々とした風貌で笑いかける。
僅かに視界に入ったその横顔からが何となく、柊と似たようなものを感じた。
それを見て苛ついた様子だった柊も笑顔を取ったが、どう見たって怒っているのがわかる。

一歩一歩とこちらへ、急いだ様子でもなくゆっくりいつも通りのペースで歩いてくる。
思わず敵でない俺でさえも、後ろへ下がりたくなるような威圧感を伴いながら。


「最初からレンに構う気で居たくせに。よく言える」


工場に入った時と同じ寒気、二度と味わいたくないと思っていた圧迫感。
風が吹いているわけでもないのに体が冷える、指先の体温が下がっていく。
引きかけていた汗はまた吹き出す、じっとりと鬱陶しい湿気は寒気を呼ぶ。

「まあ、そろそろ失礼します」

サクラさんもあれですし、と付け足して柔らかい動作で、男は一度柊に頭を下げる。
それと同時に喉に伸ばされた手、いきなりのことで反応が遅れた、つんと針のようなものが喉にあたる。

下手に動けない、柊はそれと同時に歩みを止めた。
ギリギリに止められている以上自分でどうにかは出来ない、助けを求める動作もアウトだろう。


失礼します、と言っている以上、どうせ立ち去るまでだ、と言い聞かす。
離れた時に何かしら仕掛ければいいだろうと楽観思考を流した。
とりあえず今、何処を見ればいいのかわからず一度男に視線を固定。

何ら切羽詰まっても居るわけでもないような表情。
上司が死んでいた様子を見たときも、こんな表情だっただろうか。
此処まで上手くポーカーフェイスが出来るようになろうと、目標を頭に刻む。

「動かないでくれると助かりますね」
「帰るなら別に止めないよ」
「そうですか、それが嘘だと怖いのでお断りします」

まだ少し遠い位置で柊が舌打ちをする音が聞こえた。
此処まで聞こえるのは静か過ぎる所為もあるだろうが、そこまで苛ついているのも確かだろう。
動かないで下さいね、と念を押すように柊に告げれば、乱暴な口調で肯定、確実に苛ついている。


男が俺の横へと回る、ナイフの位置が横へとずれた。
右腕を掴まれて後ろへと一度引っ張られた、下がれという意味だろうか。
一歩下がると男も下がる、そこで止まれば再び腕が後ろへと引っ張られる。

どうやら入り口までこの状態で行くらしい、確かに背中を向けて移動するよりは安全だろう。
申し訳無さそうな柊の顔が目に入って、大丈夫だという意味も含めて笑ってみせた。
けれど上手く笑えていなかった様子で、泣きそうな顔に変わった、初めて見る。


「会うのもこれで最後でしょうし、お詫びも込めて一つだけ教えてあげます」


男が小声で俺に呟いた。
柊から視線を外して男を見上げようとしたが、喉のものの所為で中途半端な位置で止まる。

「お父さん、生きてますよ」

二択の答え、生きてるのかと知ると、やっぱりと思った。
あいつがそう簡単にくたばるようにも思えない。
どうせ何処かで、今ものうのうと生きているんだろう。

俺にとって重要なのはその、何処か、だった。
今ものうのうと生きている、死なずに生きている。
わかっただけでも良かったけれど、わかってしまえば浮かび上がる憎悪。

殺してしまいたい。


「何処にいるかはジレンと、恐らくユロも知ってるでしょう」


一人の情報屋の名前の後に続いた名前に、喉のものも気にせずに男を見上げた。
喉に痛みは走らない、後退は止まる、男は何でもない表情で俺を見た。

ユロには頼んでいるはずなのに、過去の約束を思い返す。
涼は俺の決意を知っているはずだし、協力もしてくれるはずだ。
涼だけはあいつの本性を知っている、だから教えてくれるはず。


じゃあどうして今、名前が出たのだろう。
恐らく、とはついていた、何割かの可能性。

男の言葉から考えると、男はジレンから聞いているんだろう。
だからジレンには恐らくがつかなかった、ならどうしてユロが出たのか。
確かに情報量は半端なく多いし、裏でもある程度、ユロの名は通っている。

「今日、貴方に告げたことはジレンからの情報です」

僕の推測混じりですがね、といきなり話し始めた男。
腕が後ろへと引かれて止まっていた足を後ろへ動かした。
男が一体何を言いたいのかが、いまいち掴めない。


「ユロについてはジレンが調べているならば、という推測からですが、きっと持っていると思いますよ」


再び止まりそうになった足を、ぎこちなくも動かす。
心臓がどくりどくりと酷く大きく脈を打つ、それにあわせて体まで振動しているような感覚。


あいつの情報を持っている、ならばどうして言わないのか。
約束は絶対だと思っているわけではないけれど、或る程度は協力するという言葉も聞いた。
嘘は嫌いなはずだと無理矢理否定、もしかすると手に入っていないのかもしれない。

けれど、思い出したのは涼の優しさ。
人殺しを良しとしない性格が此処で出たとすれば?
あいつを殺そうとすることも本当は反対だと思っていたのだとしたら?
ありえなくはない可能性、わからない。


しかし、この男が嘘を言っている疑いもある。
俺のことを此処まで調べたのなら、ユロの正体だって気付いているかもしれない。

だが、情報屋である涼が自分の情報をそう簡単に誰かに取られるようなヘマをするとも思えない。
第一、もう会わないと言っているのに、俺と涼の間にそんな疑念を渦巻かせても何の得もない。
逃げる時に俺を行動させない為かと、憶測を絞り出す。
この男がそこまで俺を警戒しているようにも見えなくて、どうにもそうは思えなかった。

「信じられませんか?」

こんな状況ですしね、と相手は言葉を付け足す。
あくまで敵同士であるのに、情報提供など本来ありえないでしょうね。
ただ貴方に酷く不快な思いをさせたことを悪くは思ってますよ、すいません。
そうやって謝られたけれど、大して悪びれた様子も無い。

嘘だと呟いてみせれば、当たりですとさっきと同じような調子。
あの人は地獄の底まで復讐に来られそうなんでね、弁解お願いしますよ。
ネタばらしは酷くあっけなく行われる、けれど柊を頭に思い浮かべるとその気持ちは理解出来た。


大きな段差に足が当たる、入り口のレールだ。

「復讐、頑張って下さいね」

そう言って触れていた体温が離れて、喉元の痛みも消える。
振り返れば走り去る所だった、黒い服の所為でじきに見失うだろう。

ふくしゅう、男の言った言葉を次は自分の口で発す。
あいつを殺すこと、復讐、何の復讐なのかは頭が回らない。
ただぼんやりと今まで思って来たことに、いきなり名前が付けられた。


「大丈夫?」


背後からの声に振り返る、心配そうな顔は俺を見て消えた。
一応、質問には答えておくべきだろうと思って、頷く。
手元を見ると柊の鞄と傘、そして俺の鞄があって持って来てくれたのだと知る。
良かったと声が聞こえた気がしたが、そこで止まった思考には関わらない。

ぼんやりと自分の手を見た。
昔よりも大きくなった手、若干骨張ってきた手。
昔の自分の手を覚えてはいないけれど、それでも大きくはなっているはず。

「何話してたの?」

疑うような響き、何でも無い世間話だよと返せば更に疑う返答。
本当に何でも無い情報提供の話をしていただけ、それだけだった。

柊はきっと、あの男との会話の内容を問うて来ていたのだとはわかっている。
けれどありのままを言う気にはどうしてもなれなかった。
そこまでの仲だとかではなく、恐らく俺の気持ちの問題。


気付けば、雨は既に止んでいた。
通り雨だったんだろう、外は工場内と違って泥の匂いが濃い。
そこに風が吹けば、周りを覆う湿気が少しだけ取り払われた錯覚を抱けた。

「雨、止んだから一人で帰るな」

持って来てもらった鞄を受け取って、傘の礼を告げる。
別れの挨拶を簡単に済ませて歩き出せば、風で取り払われたはずの湿気が巻き付いた。
けれどそれでも、何となく今は不快に思わない、また風が吹けばそれはなくなるだろう。


ぱしゃりと水たまりを踏み込んだ、ついている街灯で飛沫はきらきら光る。
それを眺めたと同時に、後ろの柊が俺を呼ぶのが聞こえた。

「何を話したの」

柊は俺が反らした答えを珍しく認めない。
何でもないことであるのは確かだ、柊には関係のないことでもある。
そんなことにどうして今回、柊が引いてくれないのかがわからない。

「なんでも、」
「違うよ」

同じように答えようとすれば、それを遮って否定された。
何が違うというのか、話した内容を知っているわけでもないだろうに。
止まっていた俺の隣に柊が追いつく、近づいた距離、僅かに上を見上げる。


「どうして、そんなに嬉しそうなの?」


嬉しいからだと心はすぐに答えを出す。
もしかしたら解放されるかもしれないからだと頭は叫んだ。

けれど柊には言わない、再び家の方向へと歩き出す。
やっぱり言うようなことじゃないのだと、感じていた。
これは俺のことであり、柊のことじゃない、共有出来るようなことではなかった。


「柊の気の所為だよ」


俺だけの、問題。


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