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第一章第四話 戸惑う存在の、



「海、」

青いクッションに顔を埋めたままで、呼ばれた方へ片目を出した。
拓巳は困ったように眉を下げて俺を見ている、理由は何となくわかっている。

無言の沈黙を破るのは、いつだって拓巳からだ。
拓巳は俺の家に来ては、ただ座り込むだけの俺にこうやって眉を下げて話しかける。


どうして此処に来るのかは知らない。
特に約束をしているわけでもない。
別に嫌なわけでもないから、部屋に上げる。

黙ったままの俺の相手なんて、つまらないだろうに。
一度だけ拓巳が話を切らした際に告げた時は、苦笑が浮かんだ。
食べ物買いにいかないだろ、とその時は冷蔵庫を指された。

確かに自分で買いにいくことは、前よりも減ってしまった。
水は十分あるし、カロリーメイトだってまだ残っている。
それ以外の物が不要だから、買いに行かない。


食べることがわからなくなっていた。
空腹になって、カロリーメイトを食べて、水を飲んで。
学校はもっと簡単で、昼食にカロリーメイト、他はガムくらいだ。
最近の一日の食生活なんて、そんなもの。

それだけでも、十分に生きられる自分。


「最近、涼や柊と話してないな」


ふ、と記憶をさかのぼっていた自分を呼び戻した声。
切り出された話題は、きっとずっと彼が尋ねたかったことだろうと思う。
どことなくそわそわした様子で言いよどむ様を、横目でずっと見ていた。

クッションを軽く握り込む。
完全に視界をクッションに埋めた。


あの一件以来変わった関係性。
特別意識はしていないつもりだが、どうしても会話を避ける自分。

父親のことに関係した二人を見ると、どうしたって思い出してしまっていた。
どうでもいいともう割り切っていたとしても、ある程度二人はそれをにおわせない努力があった。
その所為で逆に思い出してしまう事実が、喪失感を再び浮かび上がらせる。

どうでもいいなんて、心から思うなんてまだ出来なかった。
俺全体に染み込んで、ついて離れなくなったあいつの記憶。
それをどうすれば、どうでもいいなんて思うことが出来る。


そうして思考は戻る。
でもあいつはもういないと自分に言い聞かせることしか出来ない。
死んだことを認めてはいるのに、それから先をイメージすることが未だに出来ない。

もしも俺があいつを殺したならという未来の、イメージすらも。


「ごめん」


ぐるぐる廻り出す事実を、拓巳に伝えることは出来ない。
これは凄く個人的で、誰にも関係のないこと。
ただでさえ、拓巳は裏に無関係な存在だった。

だから、こんなこと話すべきじゃないんだと口をつぐんだ。
拓巳だけじゃない、誰にも話すべきじゃない。

何も他人と共有出来ないと思ったし、したくもなかったから。


「俺は別に気にしてない。ただ、」


結構堪えてるようだから、落ち着いたら許してあげて欲しい。
一拍空いての戸惑いの後に続けられた言葉に、思わず俺が苦笑した。
主語の無い言葉でも、ちゃんと二人のことを言っているのかはわかった。


落ち着いたら、という仮定。
きっと俺は、もう十分落ち着けているのだとは思う。
二人に対して、あの柊を責めた時ほど言いたいことももう消えた。
問いつめたい事柄も無ければ、怒りなんて多分ずっと前になくなっている。

けれど、それでも心の中にひっかかりは確かに存在した。



「ゆるせないんだ」



小声で、聞き取られるかもわからないほど小さく、もはや独り言のように漏らす。
青いクッションに顔を押し付ける、買った当時はふわふわだった感触はもうない。
これを買った時の俺は、何を思っていたんだろう。
未来であいつを殺せないのだと知ったら、どうしたんだろう。

それでもと、浮かぶのは変わらない事柄。
それでもきっと、俺はそれを信じなかった。
元より占いは嫌いだった、未来予知だって信じてない。

そうして今の俺をまた作るんだろうなと、苦々しく笑った。


「あんまり、拗ねてやるな」


くしゃりと頭を撫でられた。
ゆっくりと左右に動いていく手は、気持ちいい。
気恥ずかしさも少し前はあったはずで、何か思うものもあったと思う。

けれど今は何も思わなかった。
落ち着くような感覚は呼び起こされたけれど、今は何となく虚しさまで。
それを誤摩化すように、この人は優しいのだと思うしか出来なかった。


「俺、弱い?」


弱く見えたから、柊は代わりに殺したんだろうか。
弱く見えたから、涼はあいつを殺すように頼んだんだろうか。
強く見えていたら、あいつは生きていたんだろうか。

もうとっくに俺は、強くなったはずだったのに。
どうやったって上手くいかない、どうしても弱いままでいるような錯覚。

この錯覚が本当なのかどうかを確認する術は、もう無い。

「わからない」

そう言って、撫でていた手は止まり、離れた。
一瞬、呆れられたのかと思って顔をすぐに上げる。
拓巳の声は見放すような声ではなかったが、それでも確認しなければ不安だった。


「あんまり人と喧嘩するような経験がなかったから、わからないんだ」


俺は相談に乗ったり、何かの役に立つことが出来ない。
聞くことしか、出来ることがない。

眉が八の字に下がって斜め下の床を見つめていた。
俺が見ていることに気付けばすぐに、無理矢理に拓巳は笑う。


それを見たくなくて視線を青いクッションへと移した。
ずきりずきり、心臓が針で刺したように痛み始める。
クッションを強く握る、視界に入る皺が増える。

拓巳を、傷つけた。

「ごめん、拓巳」

どうして傷つけることしか出来ないのか、自分に尋ねる。
誰かを傷つけることを嫌っていたはずなのに、どうして気付かなかった。
きっとあの言葉は多くの感情がこもっていたはずで、何らかの思いがあったのに。

どうでもいい。
そう呟いていた自分を、俺は叱責するしかなかった。


ぎしり、不意に立ち上がる音。
ゆっくりと俯いていた視線を上げて、意識を向ける。
立ち上がった二本の足を目は見つけた。

「何か飲むか?」

拓巳は、座った俺を見下ろしながら笑った。
珍しいと思いつつも、自分の家には水しか無いことを笑いながら伝える。
そもそも水しか飲む気はなかったのだけれど、拓巳の言い様だと他にもあるように思える。

わかった、と答えて拓巳は俺に背を向けた。
場所わかるかと聞こうと思ったけれど、冷蔵庫に物を入れてくれる際に見ているはずなのでやめた。
クッションの青にもう一度、顔を埋めてゆっくりと大きく肺の中の空気を入れ替える。



(どうしておれはついていかなかったんだろう)



がこん。
何か、恐らく水のペットボトルが落ちた音がした。
拓巳が手を滑らせて落としたのだろうと思って、特に気にはしない。
ぼうっと眺める青色は段々と点滅して、黒を増していく。

「…、……」

だん。
何かくぐもったような声に続いて、少しの振動が床を伝って俺に届いた。
いくら何でもどうかしたのかと思って、顔をクッションから離す。

「たくみ?」

冷蔵庫までの距離に横たわっているのは、絶対に彼だ。
今まで傍に居た服装の色が、同じだった。

此処には俺と拓巳の二人だけだったはずだから、間違いない。


そしてゆっくり、拓巳の倒れた体の向こうにある土足を見る。
黒い靴、黒めのジーンズ。
手には白い布のようなものが握られて、夏だというのに着ている上着。

まるで俺が仕事に行く時に行く格好のような、相手の格好。
そうだ、こんな格好でいけば遠目には血は目立たないと教えられた姿。

教えられた際、例にと着ていた格好と、同じ。



「あ、りー?」



此処にいなかった人だった。
俺の部屋には拓巳しか招いていない。

それに、と浮かぶ事実。
俺の今の居場所も、アリーに教えたこともない。
殺し屋として自立する以上、この人だって敵になることだってあると思ったから。


じゃあどうして、アリーは此処に居る。
拓巳が倒れてしまったのは、どうして。

「なん、で、ここに?」

来る理由なんかないはずだ。
拓巳は裏に全く関係無い、絶対に関係なんて無いはず。

俺に何か用件があるなら、どうして今このタイミングで現われる必要がある。
誰か他人がいる時に、どうして訪ねてくる必要がある。
他にいくらでも時間はあった。


口だけが、にやりと弧を描く。
全体を見たって笑顔でもない、口だけが笑いの形。
思わずクッションから手を外して、すぐに立ち上がれるように下へと手をついた。

立ち姿に既視感を覚えた。
いつかと重なる記憶に収納されていた映像。
黒と白、濁った灰色と赤、誰かと俺と、アリー。

きっと始まりだったと思う、いつかの日。


ゆっくりとアリーの手は、ポケットに向かい煙草のケースを取り出した。
手に握られていた白い布は下へと落とされ、手はケースから一本を選び出す。
ジャッ、と安っぽいライターで、その選び抜かれた一本へと火がつけられた。


「あと半年」


部屋の中に、アリーは紫煙を吐き出した。
その口が俺へと告げたのは、中途半端な期間。
半年、と言えば、そろそろ卒業の準備が始まるくらいの時期。

何がと、少しだけ睨み上げながらアリーへ問う。
決定期間、とやけにするりと流れる日本語が返った。
それが日本語の上達と単純に解釈すれば良いのか、元々なのかは知れない。


アリーは煙草の煙を吸い込んで、外へ吐き出す。
部屋の中が段々と、アリーの持った煙草の匂いで満ちていく。



「死ぬか殺されるかを選ぶのも、お前だ」



これだけ、その最後の一言だけが片言調に戻って、アリーは母さんを殺した時と同じように笑った。


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