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( そしてく )



騒々しい朝。

チャイムが鳴った今も各自はまだそれぞれの話をやめない。
テレビの話、雑誌の話、馬鹿な話、とりとめのない話、いつもの話。


そんな音声の満ちた空間に担任は足を踏み入れた、いつもと違う表情で。
誰も彼の異変に気づくことはなかった、誰も彼の表情を見ていなかった。


「委員長」


いつもよりも一段低い声で、担任は一人を呼んだ。
担任に、自分の纏う暗い空気を隠す努力は見えない。
沈鬱な面持ちは今もなお存在し、回復を見せる様子はなかった。

その彼に呼ばれた涼は、対照的に何も滲ませない。
代わりのように、彼に対して返事も返すこともしなかった。
ただ静かに、起立、礼、と大して間隔も空けずに号令をかけるだけ。


周りは、がたがたと大きく音を立てながら号令に従い、未だ自分たちの話からは離れなかった。
多少、やりとりの声を小さくする程度で、他者へと意識を向けているものはほとんどいない。

こんないつもの朝に、いつもと違う様子を探す者など、どこにもいなかった。


「……、残念で、悲しいお知らせがある」


静まらないままの教室で、担任は話を切り出し始める。
その目は少しだけ赤く潤み、声も少しだけ嗄れ、揺れていた。


うわ大げさだな何言うんだよ。
そう言って周りは大げさに笑った、無意識に感じている予感を拭う為に。

まさかオレたち全員卒業出来ないとか。
一人が冗談を大声で言葉を投げる、周りはまたそれに大声で笑う。

何人かはまだ冗談を繋げていく、一つずつ、全てがおかしな言葉。
一生懸命に彼らは、勉強以外の冗談の為に頭を回転させる。
予感がどこまで進めば拭えるのか、誰にもわからない。

けれどそうすればきっと、そんなことを無意識に大勢の誰かは思っている。
予想が的中しないことを、各々が必死に心の奥底で祈る。

思い過ごしである必要を誰かは心で説いた。


そして、声の中にいつも混じっているはずの涼の声はなかった。
予感を拭うことに必死で、騒ぎ立てる周りの大勢は気づかない。

ただ柊だけが涼の変化に気付いていた。
肘をついて笑い声に混じろうとせず、外を眺め続ける彼が、柊には珍しく映る。
いつもより一つ多く空いている机を気にすることもなく、彼の変化の理由を想像していく。


拓巳と彼は、クラスメイトの感じる予感を知らなかった。

誰も余裕を持たせない必死の努力。
担任の言葉のその先を全て誰かが邪魔をする意味。
二人はこれがただの悪のりにしか見えていなかったし、それ以上思うこともなかった。


「真面目に聞け」


担任はいつもと違って声を荒げない、酷く静かな注意だった。

彼らの怯えが、全体に浮かび上がる。
彼らは前に一度だけ、この声を聞いていた。
そしてその時も、涼の声だけが周りになく。

彼らの無意識の予感が意識へと促され、現実に繋がり始める。


誰かが思い出したのは、意識した予感の理由。
過去へ埋めようとした記憶の回想が始まっていた。

担任の酷く静かで堪えた声。
それは、彼らの仲間が —— したその時と同じ調子なのだと容易に記憶は繋がった。


騒がしかった喧噪が、重苦しい沈黙へと切り替わる。
息苦しいと誰かが感じた、けれど打開するものを彼らは持ち合わせていない。

この先の事実は、担任以外で涼だけが知っていた。


そして彼らは、ぼんやりといない人間を探す。
空いた席を探し始め出した。

いつもと違う異変を探す。
いつもいる人間を捜す。
いつもの日常を、探す。

いつもを願いながら、彼らはいつもと違うものを探していた。


そうして彼らの目に捉えられた机。
今現在、教室の中に空いている机は二つあった。
そのうちの一つ、窓側の一番後ろにある机の持ち主はもういない。
残ったのは、隅に持ち主以外からの落書きが書かれただけの、机。

涼、柊、拓巳の三人の視線は、初めからそこへと注がれていた。
担任の注意の声が教室へ響き、大勢が空き机を探し始めた時から気付いていた。


今日、唯一の欠席者。

机の中に入っている教科書はこの前までと変わらないまま、全く同じ状態でそこにある。
もう使われることが無いことも知らず、ただ次に使われる時を待ち続けるものが、そこにあった。

所有者を表す文字は擦れて、うっすらとしている。
散々使い込まれた証で、でもどこかしっかりとした文字で。
特別綺麗丁寧とまではいかずとも、誰でも読める普通の字。



「交通事故だそうだ」



誰一人として、静かな中に響いた担任の言葉に返さない。
注意されるまで溢れ返っていたはずの、冗談さえも消えた。

もう誰も騒ぎ立てようとはしなかった。
彼らにとって必死に騒ぐことなど、もう意味はない。


予感の的中、恐れた結果の再来を防ぐ術など彼らは持ち合わせていなかった。
そのことをまざまざと真正面に叩き付けられて、もう目をそらせない。

教室内の全ての視線、驚きの目が机を見続ける。
うそだと呟いた、なんでと呟いた、呟いた所で何も返さない空席。
挨拶も、冗談も、笑い声も、怒鳴り声も、泣き声も、必死な声も、何も。


「既に葬儀は身内だけで済ませたらしい」


沈む声、重苦しい沈黙の支配。

焼香だけでもとは思ったんだが。
担任の、何かを押し殺した声だけがゆっくりと生徒の耳へ届く。

実家も近くじゃない、だから。
そう続ける言葉に耳を傾けるのは半数。

続きは誰にでも想像出来ていた。
今度は線香をあげることさえ出来ないのだと誰もが知った。


何の別れを告げていない最期。

予感さえ嫌がっていた彼らが、それ以上に避けたがった事態。
今度は最後の区切りにさえ別れを告げられないまま、終わってしまった。
気付かないうちに、遠くへと、彼は行ってしまったのだと思うしか出来ない。


「でもさ、荷物取りには来るんだろ!」


小田が沈黙を破る為に、大きな声で叫んだ。
明るく努めた声、必死に心の中にある狼狽を隠している。

彼は少しの可能性に頼りたかった。
このままの別れなど彼は嫌で、せめて何かと考えて出た答え。
せめて、自分が告げられなかった思いを何かで、そんな裏心。


彼の言い出したい言葉を悟って、担任は口を開く。
しかしそれが決して良い表情でないことを、彼は見た。
だから懸命に、否定を言わせないように小田は、無理矢理にでも口を開いて。

「その時に色紙とか何かで、」
「荷物は全てこっちで処分する」

無理矢理の言葉は、無理矢理に途中で切られた。
必死の努力さえ無駄だった、全てが決まった、挨拶を無くした別れ。


ただ担任の言葉に、柊は疑問を感じる。
机へ向けていた視線を外し不可解そうに担任を見た。
担任は視線を落としていたし、彼と目が合うことはない。

そして次は涼へと視線が向かった。
涼は何を思うでもないような表情で空き机を見ている。
無表情というには何かしらのものはあったが、他の表情名があるほど感情は強くない。


「引き取りにも、来ないそうだ」


横山 海、と書かれたものは全て、置き去られた。



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「涼っ!」

担任が出て行った後の静寂を、柊が突然破った。
視線を下げていた周りが、柊を見る為に視線を上げる。

大きな音をさせてらしくない様子だと、彼を知る全員が思った。
彼らの知る、いつもの柊にある落ち着きが、今、そこにはない。
いつもの彼は良くも悪くも物静かであり、大抵のことには動じない。


けれど彼らは、そんな彼がどんなにいなくなった彼を大切に思っていたかも知っていた。
その感情の向く方向がどうであれ、柊は彼を誰よりも大事にしているように周りには見えていた。

だから、きっと怒りや悲しみがそうさせたのだと誰かは結論づけようとする。
大事な人がいなくなってしまったなら、いつも通りにいることなんて無理だと決めつける。
柊においてもそれが例外でなかっただけだと、柊の内心など何も知らずに話を終わらせる。

「どういうこと」
「どーもこーも、岡崎の言った通りじゃねーの」

涼が言い終わるか終わらないかのうちに、大きく椅子の倒れる音が教室に響く。
柊が席を立つよりも大きな音に周りは目を上げた、彼が涼の首元を掴み上げている。
その表情は彼らの誰一人として見たことの無かった、彼の怒りの表情。

それでも涼は、掴まれた手を退けようとするわけでもなく、ただ素直に受け入れていた。
だらんと垂れた手は力がこもる様子を見せない、顔も柊を見るわけでもなく俯く。
ぼんやりと床についた足下を涼は、見つめるだけ。

その態度に苛ついて、彼の眉が余計につり上げられた。


「ふざけるな!」


柊は涼をまっすぐと睨む、けれど涼と視線はあわない。
涼は俯いたままただ下を見る、柊はその様子に苛つきを募らせてしまう。
募っても仕方がないことだと知りながらも、彼には募らせることしか出来ない。


涼以外の何処へ怒りをぶつければ良いのか、柊はわからなかった。
確実に今日の態度では、海の死を涼は知っていたのだろう。

それでも柊には納得がいかなかった。
自分よりも長く傍に居たくせに、と思う。
好きだと言っていたくせに、思考は続ける。


その程度かと彼の頭の中には、涼を見限る言葉が浮かんだ。
調べに調べて結論を下したのか、自分の所に入った情報をただ信じたのかは知らない。
どっちにしても、涼が直接確認するような行動を起こしていないことが、柊には気に入らなかった。

家に行くなりして、直接調べるのが一番確かなんじゃないのか。
そこにあるだけの文字だけで、正確な判断など出来るのか。
彼の中にある不満は浮かぶだけで、声にはならない。


ただそれは、情報の正確さを知る涼とは違う考えでしかなかった。
涼にとっての情報の捉え方と、柊にとっての情報の捉え方は違う。

恐らく涼は柊よりも長い期間、情報との関わりを持っていた。
同時に彼は、情報の正誤をある程度付けることも出来ている。
長い間、父親を通して教えられた知識が涼にはある程度身に付いていた。

その自分にも、あの文字をひっくり返すことは何もわからなかった。
どこを探しても彼の求める答えはなく、裏付けされていくばかり。
認めざるを得ない状況まで情報は蓄積されて、もうどうも足掻けなくなった。

だから彼は了承したのだ、文字で伝えられた事実を。


すっかり俯いたまま何も言わなくなった涼を、拓巳は見ていた。

意気消沈、そんな言葉しか彼の頭には浮かばなかった。
あんなに揚々としていた涼が、淡々とした対応しか今日はしていない。
きっと、淡々とした態度しか今は取れないのではないだろうかと彼は思った。

受け止められない、大きな悲しみ。
その所為で、きっと気が配れていないのだろうと彼は仮定する。


とりあえず彼らを止めなければ、拓巳は椅子から立ち上がる。
柊は拓巳に気付くことは無い、ただ涼を睨んでいるだけだった。
その人相はとても怖かったけれど、柊、と名前を呼びつつ、二人の間へと入る。


「涼を殴っても、どうにもならないだろう」


柊と涼を一旦、一定の距離まで引き離す。
二人とも、特に柊は話せばわかる相手だと知っていたから、彼に戸惑いはない。
ただそれでも、そんな柊が涼へ殴りかかってしまうのも時間の問題のように、彼には見えていた。


間に入られた柊は、苛立ちを隠すことなく拓巳を睨みつける。
彼はそれに激しい恐怖を感じた、自然と彼の足はすくんでしまう。

そして恐怖は、拓巳の思考さえも奪おうと手を伸ばした。
このまま引き下がったところで良くなるとも思えない、そう彼の頭は恐怖に支配される前に心に発す。
恐らく彼の頭の判断は正しく、それこそ柊が涼を殴ってしまう事態に陥ってしまうに違いなかった。


拓巳は、怯えて震え出しそうな体を叱った。
此処に居るのは柊だ、話せばわかる、と最初の頃の思考を取り戻す。

柊にしろ涼にしろ、二人の心にある大元の感情は同じなのだろう。
柊はきっと感情を取り違えているだけなのだ、拓巳はそう理解する。

彼は二人のどちらよりも裏から遠い存在であり、事柄の裏側は見えていない。


それでも、双方への理解を促す為に動かない足を拓巳は必死に前へ出す。
柊の手をやんわりと押さえた。

「ひーさんひーさん、もういいんじゃね?」

一連を間近の椅子に座ったまま眺めていた田中も、ようやく柊に声をかける。
拓巳の行動が大勢を我に返らせた、現に田中も今まで柊に気圧されていたのだ。

声をかけられた柊は田中を一瞥し、一旦視線を戻す。
そして短く息を吐き、ようやく掴んでいた手を下ろした。
そこにある表情には、先ほどまでの形相の片鱗すら見て取れない。


それを合図のように、他もスイッチが入ったかのようにざわめいた。
心配する声と宥める声が教室を満たし始め、まるでいつものような喧噪に包まれる。
暖かな空間、心からの心配が大半を占めているのだろう。

ただ、喧噪は教室の外にもあった。
騒動のことは他クラスまで知られているようで、廊下には好奇心の人だかり。

「本当に、合ってるわけ?」

穏やかな呼吸と共に、柊が涼に言葉を向けた。
二人の周りは自然と静まった、誰に言われたわけでもない。

他には何のことかもわからない言葉。
しかし、遮るなという空気がそこにはあったのだ。
沈黙の輪は教室の外まで浸食しようと、次第に範囲を広げていく。


「何とか言えよ涼!」


声が裏返りそうなほどの叫び、その声で完全に雑音は消える。

何をそんなにと、誰も問わない。
呆然とした視線、落とされた視線。
意味はわかっていないはずの全てが、どちらかの視線を取っていた。


言われた当人の涼は未だ俯いて柊に顔を見せない。
顔を上げようとする様子も一切なく、動かない体。
言葉を発することもなく、泣いているというわけでもなく、ただ下を向いている。

歪めた表情を直して柊はただそれを眺めた。
柊はこれ以上、彼を待つ時間を持つつもりはなかった。


「違ってたら何かあんのかよ」


やっと涼は、柊に向かって面倒そうに言葉を発した。
上げられた顔までも、いかにも面倒を訴えるようなもの。


その様子に柊が少し目を細めれば、涼はすぐに視線を外す。
僅かな時間だけ合っていた目、それが少々充血していたのを柊は見ていた。

泣いたということを隠す為に彼が俯いていたのか、別の理由があるのか。
彼に全く興味は無かった、柊が興味を示しているのは彼のことではない。
個人に干渉するつもりはない、泣く泣かぬなど、彼にとってはどうでもいい事柄。


別に、涼の問いに彼は素っ気なく返した。
涼は再び彼を見る、まっすぐに見る目には僅かな悲哀。
彼も受け入れられないのだと、涼は彼の心情を勝手に分析する。

けれど運良くその目を柊は見ることはなかった。
見ていたのなら確実に、先ほどまでの剣呑な空気が彼を包んだだろう。


いつもならば、柊はそこまで場の空気を乱すことは好まない。
海のこととは言え、場をわきまえることくらいの余裕を今の彼は持っている。
勿論、死体が目の前にあったならば、その余裕は幾分かすり減ってしまうだろうが。

しかし、彼はこの場の空気を自分の感情通りにかき混ぜる。
自分が苛つけば恐怖を誘い出したし、怒りを隠しもしなかった。


この場に気を使う必要がなくなっていたのだ。
後のことを考える必要など、何処にもなかった。
彼には先の未来を此処で過ごすつもりなど、毛頭ない。

今、涼が答えたあの瞬間、彼の中でこの場所は無意味へと成り果てていた。
いなくなった彼が居たからこそ、柊は此処に意味を見出していたし、いたいと思っていた。
クラスの雰囲気は自分が過ごした中学と同じ、もしくはそれ以上に非常に楽しいものではあった。
けれどクラス以外も合わせて、彼以外の好意、特に欲の混じったものにうんざりしていたのも事実である。


拓巳はただ心配そうに涼と柊を交互に見た。
二人の間の雰囲気は和らいだことは、確かに感じる。
柊の表情はいつも通り穏やかであったし、先ほどまでの怒りも消えた。

もう大丈夫だろうと、押さえていた柊の左手を離す。
そのことを悟ってから一歩一歩、柊の足は前へと進み出す。
まるで涼へと歩み寄るように進み、涼の横を通り過ぎる際。


「探すだけだ」


小さく小さくただ静かに、涼にだけ向けられた言葉。
他の人間には聞こえないように、聞かせないように調節された声。


それを涼はゆっくりと理解する。
でも彼は、それが間違いないことを信じている。
何回も何回も何回も、変わらない事実を告げるそれを彼は何度も見た。
あの文字たちは既に彼の心に鎮座して、動き出す気配など全く見せない。

十分な死因、十分な理由、十分な信用。
不十分な箇所の見当たらない情報を全て彼は手に入れていた。
だから、それ以外の可能性を探すなんてもう無駄にしか思えなかった。

「そうか」

ただそれに頷くだけで、涼は柊が横を通り過ぎるのを待った。
それ以上彼にかける言葉も持っていなかったし、言うつもりもない。

どうやって彼が海の死を受け止めるかなど、涼には関係のないことだった。


教室を出て行こうとする柊を、拓巳が戸惑いつつも呼び止める。
けれど彼は結局止まらずに、そのまま人が割れた道を通って姿を消した。
必要ないのだと、彼が全身で拒絶を示していたことに気付いていたのは誰か。

拓巳は静かにため息を吐き出す。
彼にさえ、柊のあの感情を露にした理由はわかっていない。
怒りの理由を知っているだろう涼へ視線を向ける、再び俯いてしまった姿。


彼は自分が蚊帳の外であることを感じていた、今までよりも強く。
だからといって中と外の違いを彼は知れない、想像でしかわからない。

個人の感じるものが違うのだとしてもどうかこれだけは、彼はただそう願う。
それが中へ入れない自分への慰めでも良かった、そうであればいい。
きっと悲しんでいることは彼を知る者たちに共通なのだと、信じた。



「海は、死んだんだ」



誰に宛てるでもなくそう呟く涼はただ、納得を重ねた。


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