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第三章第三話 蓄積された過去を


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「起きてくださいって」


夕日の当たる上司の椅子の背もたれめがけて足を上げた、ガコンと音がなる。
不快そうな視線に知らないフリをして、ついさっき書き終わった書類を渡した。
あああ、唸るように低い音の羅列、そのまま一向に受け取られない紙の束を机に置いた。

「今日はえらく早めだな」
「約束があるんです」

一度俺の顔の少し上を見て、そして周りを見渡した後に返った納得。
にやけた表情がえらく勘に触るが、いつものことだと気持ちを押さえる。
想像していることは、いつもからかっている内容とそう大差ないだろう。

「お熱いのか切ないのか」
「あんたには関係無いですよ」

そうかい、さほど機嫌を損ねたわけでもない陽気な頷き。
あまり勘くぐる人ではないが、この人はフィリスと俺にどこまで気付いているんだろう。
フィリスについて、過去の経歴を含めて調べられているのは知っている。ただ、今のあり方は、どう写っているんだろうか。
考えたって上司の思考がわかるはずがないかと、そこで考えることを止めた。

「じゃあ」

黒い上着をハンガーに通して近くにかける。
服を着替えることは億劫で、相手も気を使う必要がある相手でもないからいいかと止めた。
適当な服装で行っても怒りはしないだろう、向こうも適当な服装であるはずだろうし。


「もしあれが裏切ってる様子があるなら、」


突然後ろから声がかかる、引っかかるような言葉だった。
視線を向ければ睨むような視線とかち合う、不真面目な笑顔。
口だけがただ笑っている場合もそう言うのなら、ではあるが。

その他は笑っていない表面。
きっと警告や忠告、そんな類い視線、俺に対する警告も兼ねられたもの。

「……」

答えないまま扉を開ける。
答える必要はないだろうと判断する、俺は此処を離れられない。

きい、と僅かな音だけを部屋に残した。


フィリスから裏切る素振りを感じた時に、俺は、言うのだろうか。
通路の先、蛍光灯の白い光だけの階段を淡々と降りる、窓のない空間。
急でも緩やかでもない段差が続く、最後の一段を降りて左の扉に鍵を差し込んだ。

それをがらりと引けばもう一枚の扉、そこを押し開ければやっと外の光が入る。
すぐにその扉は閉めた、中から出て来たことを極力誰にも見られないようにする必要がある。
此処にも鍵をつけるべきだろうかと迷うが、つけてしまえばそれはそれで目立つよなと悩む。


「白藍」


扉を見ながらああだこうだと思っているうちに、後ろからの声。
振り向けば少し先にスーツ姿のフィリスが見える、手を軽く左右に振る姿。
それに振り返すことはせずに、フィリスの居る方向へと歩いた、その方がきっと早い。

「ふぃり、」

近くで呼ぶ言葉は口に手を当てられて、最後まで音には出来なかった。
少しの混乱の後、どうしたのかと疑う、周りを見回すが対していつもと変わらない。
本人から聞くべきかと思って彼を見れば、視線が合うと同時に手は退けられた。

「外じゃ違うよ」

そんなことかと肩から力が抜けた。
ため息ついでにそっちだって呼んだくせに、そう軽く毒突けば笑って流される。
笑えば許すと思っているんだろうか、そう思いながらも結局、最後にはこっちが折れてしまうのだから言えないけれど。

「シュウ」

彼の外用である名前を呼べば、いつも通りにフィリスは笑う。
一瞬の表情の変化は未だ変わらない、一瞬だけれど彼にしては珍しい顔。
そんな顔をするならば思い入れのないものを選べばいいのに、一からの名前に変えてしまえば良い。

彼の全てを知っているわけでもない自分が勝手にそう思う。
まだ言ったこともないし、言うつもりもなかった。

「日本名で通じるものを初めから使えば良いのに」
「何処でも使える名前の方が国籍はバレないだろ?」

確かに、そう頷けば嬉しそうな表情を見せた。
此処ではたいして必要のないことだろうが、納得は出来た。
漢字ならばそれだけで国を絞り込めるけれど、カタカナは無理矢理英語とも推測出来るだろう。

「白藍は変えないの?」

するりと出された質問。
疑問は抱かない、名前にしてはおかしな響きだということは知っている。
与えられたものに対して思い入れもない、上司が勝手につけた名前というだけ。
変えないのはある程度、自分でも気に入っているからなんだろうか。

「他が浮かばないから変えない」

簡単に答えれば、そう、と言葉が返る。
俺よりも簡素な答えは納得も疑問も含まない。
最近知った、立ち入らなければ立ち入らない、という彼の性格、それが俺は好きだった。

「ハクとかシロとか、どっちがいい?」
「……」

それでもどうにか彼は呼び変えたいらしい。
軽く提案してくる選択に、拒否が許されないことをうっすらと悟る。
頑固なわけではないものの、彼はたまに望むこと以外を言わせない雰囲気を出す。
ああでも上もシロって呼んでるな、そう言いながら少し悩む様子はただの優男にすら見えるけれど。

「どっちでもいい」

大して変わらないから、と付け加えれば、不服そうにするものの納得したようにフィリスは頷いた。
別に自分が呼ばれている、とわかるものならば何でも良かった。
フィリスが馬鹿にしたものや、からかうような呼び方は選ばないだろうと知っている。
だからまかせることに不安はない。


「シロ」


どうやらシロに決めたらしい、試しに短く返事を返す。
頭に撫でられている感触があった、いつものことだと気にせず歩く。

けれどふと、人通りもなくすぐに退くこととは言えど、これを人に見られる可能性が無いわけではないことに気付く。
もう習慣のようにもなってきてしまっているが、これからは出来るだけ止めさせようと心に決めて、頭に乗った手を払った。

少し後ろに下がったフィリスのため息が聞こえる、酷く落胆した様に低いため息。
此処で振り返ったら負けなのだと何度も自分に言い聞かせて、目の前を意識する。
なんだかんだと言いくるめるのが上手いだけでなく、彼は表情を作るのも上手いのだから。


そうして数分歩き続ければ、フィリスは再び俺の隣につく。
横目で表情を伺えばそこには普段の顔があった、どうやら諦めたらしい。

「そういえばどうする、ご飯」
「牛丼」

昼頃から考えていた内容を言う。
最近まで忘れていたものを思い出してからずっと食べたかった牛丼。
チャーシューラーメンでも良い、そうCMで見てから思い浮かんでいた方も告げておく。

「別に良いけど、飲みにはいかなくていいの?」

てっきり飲みに行くものだと思っていたとフィリスが零す。
それに少し驚いた、煙草だの夜遊びだのには厳しい人であるのに。
ただ煙草に関しては、純粋に嫌いだということを聞いたことはあったが。

「俺、まだ未成年」
「あ」

きっと忘れていたんだろう、そうだったと苦笑をフィリスは浮かべた。
上司がよく誘っている所為だろうとは容易に思いつける。
あの人は俺の年齢を把握しているんだろうかと思うが、きっとしていないのだろうなとすぐに行き当たった。

別に酒が好きだ嫌いだということではなく、ただ未成年であるうちから、飲みはさておき、誘おうとは思えないだけである。
考え込むような様子をしているフィリスの横を、一定を保って歩き続ける。

「うちじゃ駄目? 牛丼持ち帰りでさ」
「別にいいけど、」

妙な物珍しさを感じる、今まで彼が飲みたいといったことをあまり聞いたことがなかった。
目の前を見ていた視線を密かに横へとずらして相手を伺うが、大して変化はない。
ただいつも通りにまっすぐに目の前を見ている、歩きもしっかりとしたもの。


「今日は、飲みたいんだ」


声だけがいつもと違う、覇気が無いまま、あやふやな空間を漂っていた。
だから彼の顔を見ない、ただ前だけを向いて赤に変わろうと点滅を繰り返す信号を見送った。


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がちゃりと扉を開ければ、外とは違う空気が出迎えた。
けれどすぐにフィリスの手に持たれた牛丼の匂いが、それをかき消した。
上がってと振り向きざまにフィリスが俺に言う、牛丼を渡されて持てば、あっちと廊下の先の扉が指差される。

恐らく着替えるつもりなんだろうと悟って、一度だけ頷いて歩き始めれば玄関近くの部屋へと入っていく音が聞こえた。
けれどすぐにまた開かれる音、何かと思って振り返ってみれば彼と目が合った。

「洗面台は自由に使って良いからね」

そのまま、彼は扉を閉めた。
きっとウィッグとカラコンのことを言っているんだろう。
確かにこの後だらだらとするのは目に見えている、それならいつも通りでくつろぎたい。
フィリスの言葉に甘えて、遠慮なく洗面所を使わせてもらうことに決めた。

ただ牛丼まで一緒に持っていくわけにはいかず、一旦彼の指示通りに扉を開く。
そうすれば、なんとなく居心地の良い程度の温度、暑くもなく寒くもない温度。
来慣れた此処の机の上に牛丼を置いて、此処にくる途中にあった洗面所へと入った。


鏡の中には、髪の色も目の色も違う俺がいた。
それをなるべく視線を下げて視界から消す、自分の顔をじっと見れるほどの自信はない。

ウィッグを止めていた金具を退けて外せば、視界から髪が消えて視界が広がる。
それを横へと落として、前髪が落ちないように止めていた数個のピンを外し、後ろ髪を縛っていたゴムも外した。
多少上げていた癖で降ろした前髪が跳ねる、それを押さえつけようと水を出せば、ぬるいような冷たいような水が流れた。

その水で乱暴に髪を押さえつけて、適当に鏡を見ながら整える。
見るとすればもうフィリスだけなのだ、そこまで丁寧に整わせる必要もない。


もう一度手を洗い、鏡を見ながら黒目を摘めばぬるりと取れた。
それをポケットの中に入れていたケースを開けて放り込み、もう片方も同じように。
今はもう装着感には自然だと思える程に慣れることが出来たが、この外す感覚だけはどうも慣れない。

ケースの蓋を閉めてから、一度顔を洗う。
近くにあったタオルを一枚とって、顔を拭いた。
秋といえどもまだじんわり暑い空気での、微量な汗。
それが一気にさっぱりとして、酷くすっきりとした。


再度、リビングへと足を踏み入れる、そこに彼の姿はなかった。
一度、彼が入った部屋へ目を向けたが、まだ来そうな様子はない。

どうしようかと迷って一度椅子へと座った。
ただぼんやり待つというのも何だか気が引ける、何かしようとさっき座った椅子から立ち上がる。

まず傍にあるキッチンの二段冷蔵庫を探す、記憶通りの位置にそれはあった。
それを目指してキッチンの中へと回ったものの、使って良いコップの場所がわからない。
そういえばとこの間のことを思い出して、勝手に乾燥機を開けた。
その中の二つを流し近くに置く、ガラスが向こう側を歪めて映し出す。

次は、また勝手に冷蔵庫を開ける、作られていた麦茶を取って片方へ、自分の分。
フィリスの分も注ぐべきかどうか迷うけれど、酒を飲むのは食べている途中なのか終わってからなのかがわからない。
わからないうちに注ぐのは止めておいた方がいいとは思うものの、人のもので自分の分だけ用意するというのも変に偉そうだ。
今更になって、注がなければ良かったと後悔する。


そのうちにがちゃりと扉の開く音、ラフな格好に着替えた姿。
さっきまでのスーツ姿とジーパン、雰囲気は変わらないまでも着ているもので案外印象は変わるものだと改めて思う。

「ごめん、そんなに待たせた?」
「いや、」

何を自分が言おうとしたのかわからないまま、口に出してしまった。
おかしな沈黙が続く前に何かを言わなくては、どうして俺は動いたのか。
なんか悪いと思ったから、やっと出た答えを口に出せば再度謝罪が返る。
もっと別の言い方はなかったのかと気遣えない自分にため息をついた。

「食べようか」

流しに置いていたコップ両方を持たれる。
片方は自分のものでもあるから持とうと思って手を出せば、避けられた。
どうやら持っていってくれるらしい、気を使われているのだろうか。

「フィリス、」
「お箸持って来て、そこに入ってるから」

振り向き様の言葉、視線の先を探れば、流し台の一番上にある引き出し。
確か牛丼を買った店でもう割り箸は入れてもらったけれど、使わないんだろうか。
そんなことを思いながら少しその引き出しを眺める。

「シロ?」

それが彼には不思議だったらしく名前が呼ばれた。
顔を彼の方へと上げれば、彼の表情も不思議気なもの。

「どうしたの?」
「割り箸」

入ってる、と袋を指差せば、ああ、と納得するような声。
そうだったと零す所を見ると、忘れていたんだろうか。
しっかりしている面が多いのに、案外抜けている面もあることを思い出して笑いそうになる口をバレる前に、手で覆い隠す。

「笑ってないで、食べるよ」

どうやら隠していた表情はバレていたらしい。
自分では上手く誤摩化せたと思っていたので、少しだけの落胆。
後に引きずるようなものでも、気にするほど大きなものでもないが。

柊の向かいにある椅子を引いて座って、袋から自分の分である牛丼と割り箸を取り出す。
持ち帰り用の白い容器を開ければ、白い湯気と強さを増した美味しそうな匂いが上がった。
割り箸を割って手に持った時に、じっとこちらを向いているフィリスに気付く。


「食べないのか?」


一瞬の間、驚いた視線がしっかりと俺を捕らえた。
すぐに浮かべられたものは誤摩化すような笑いだった、何を考えていたのかは知らない。

いただきます、フィリスが行儀よく言ったのを聞きながら口へ肉を入れる。
久しぶりの味だった、数週間前に食べた以来のもの、やっぱり肉は美味しい。
次はご飯と一緒に口の中に、二種類の噛み心地が好きだった。

「そんなにお腹空いてた?」

どうやら見ていたらしい、フィリスの方は一口分程度しか手がつけられていない。
自分ががっついていたようで何となく出てくる、恥ずかしさ。
久しぶりだから、と返せばそっかと相手が頬を緩めた、喜んでもらえて良かったと告げられた。
フィリスの言動はいまいち反応に困る、ありがとうと告げるのもやはりなんだか気恥ずかしい、どうすればいいだろうと頭をかいた。

かたりと柊が席を立つ、牛丼を食べながらそれを見送った。
ヴン、と低い音がしてテレビが点滅、すぐに音声と映像が追いつく。
女性アナウンサーの声が流れ出した、淡々と読み上げているものは近々開催される地区イベントのことだろう。
すぐにその音声は別の音声へと切り替わる、それが数回。

「ニュースかお笑いか歌番組」
「ん、…歌」

最近テレビを見ていない、新曲を耳にする機会もなかった。
ずっと聞いている曲も聞き慣れて、飽きすら感じて来ていた。
好きな曲とは言えども、いつまでも飽きないものは滅多にない。

今自分の聞いている曲を思い出しながら、牛丼をまた一口含む。
それと一致しない音がテレビの方から流れ出した、明るい陽気な声。

目の前の椅子へ、戻って来たフィリスが座る。
今日はやけにぼんやりしているように思った、よく笑うのは相変わらずだとしても少々の違和感。
何かあったのだろう、酒が飲みたいと珍しく彼が言うくらいなのだから。


「……」


沈黙の中ただ口へ牛丼を運ぶ、残ったご飯と肉の量が明らかに違ってきていた。
仕方なく白米だけを口の中へと運ぶ、肉汁が染みていたそれは十分美味しかった。
けれどやっぱり牛肉がないと物足りない、食感というのか味というのかそんなものが。
だからすぐに二口目をつぎ込む、やっぱり好きだなぁと思う瞬間。

目の前のフィリスをまた観察してしまうことを避けて、テレビを意識する。
新人だろう見慣れないストレートの長い髪の女性が、安定した高音を生み出している。
どことなく安心する穏やかな声、けれど曲調は激しく、しかしどことなく寂しいような錯覚。

目を閉じればより曲が頭を廻る、不快ではない侵入。
今度探しにいこうと思った、左下にこじんまりと入っている曲名を頭に刻み付けた。


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