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いつの間にか残り一口分になっていた牛丼を、惜しみながらも口に入れる。
今日も大して変わりのない味だったけれど、相変わらず美味しかったと両手を合わした。

「ああ、食べ終わった?」

半分と少し食べられた牛丼を持ってフィリスが立ち上がる。
頷いて返そうかと思ったけれど、此処で頷いてしまえば彼は持って行ってくれるのだろう。
それを無意識ではまだしも、気付いた今ではその気遣いをしてもらうことには気が引ける。
調子の悪い時くらいはのんびりとさせるべきだろう。

受け取ろうと伸ばされたフィリスの手を、やんわり押し返す。
それが予想外だったのか、意味を上手く取れなかったのか、彼はきょとんとした顔をした。
椅子から立ち上がって彼の器を半ば奪うように取り上げた。

「白藍?」
「やるから、ゆっくりし、てろよ」

軽く屈まれて覗き込まれてしまうと、なんだか恥ずかしい。
顔を背けつつ台所へと歩いた、後ろで僅かに笑うような声がしたけれど無視をする。

二つに分けられたゴミ箱に俺の分は適切に分別した。
フィリスが食べ残したものは、冷蔵庫で保存すれば少しは持つだろうと考える。
適当に引き出しを探ればすぐに黄色のラップは見つかった、適当に出した皿へ中身をうつしてそれを被せる。


「ごめんね」


後ろから回ろうとした腕を前に出て避ける。
前に避けた所為で体はシンクにあたり、まためげずに来た腕は避けられなかった。
仕方なしに無抵抗で、背中全体へ触れてくる体温を許す、どうせ逃げられない。

「フィリス」

離して欲しいことを、言外に匂わせる。
左頬に回る彼の右手を押さえた、いくら何でも唐突過ぎる。
ゆっくりするつもりで来たのだ、自分にそのつもりは無い。

けれど無理矢理服が変に後ろへと引っ張られる、首周りの圧迫。
首の後ろ側へぬるりとした感触が、それに思わず顔がしかまった。

普通の状態なら、こうなった時点で強引にでも離れさせた。
しかし今は、前は流し台、後ろはフィリス、左腕の拘束。
やっぱり自分にはどうにもできない。


「フィリス!」


強く名前を呼んで、何とか離れた舌と呼吸。
けれど、まだ体温は離れてはいかなかった。

腕の拘束が強まる。
また何かされるのだろうかと身構えたが、それは杞憂に終わった。
頭に堅い何かがあたって、何か細かいものが動くような感覚があったから、恐らくそれはフィリスの頭だ。

「白藍って、いくつになるんだっけ」

酷く落ち着いた声、聞かれた内容はとても平凡だった。
その答えを言うことを躊躇してしまう、彼は知っているはずだ。

自分の記憶を確認しているのか、それとも別の意味合いがあるのか。
そうして次々と浮かぶ可能性を放棄した。
年齢程度で何か不都合が発生するわけでもないと振り切る。

「知ってるくせに」

それでも正直に言うことはしなかった。
今の状態と、さっきのことに対しての些細な仕返し。
正確にそれを読み取ったからなのか、間近で笑う声。


酷く控え気味のそれに苦笑する顔が浮かぶ、きっと今はこんな顔をしているのだろう。
変な確信を持っている自分に少々の驚きと苦笑、いつの間にかわかっていた彼のこと。

続きを考えることを脳は避けた、無意識の拒絶は鮮明に意識へと届く。
拒絶理由など、ただそこに考えたくない物事があるだけのことで気にする必要はない。
そんな単純な思考だけを意識は並べて、脳はそれを理解した、だから思考をやめる。

「いきなりだな」

そして話題を反らす切り口になることを祈って、俺は言葉を紡ぐ。
修正出来ない予感がぼんやり姿を見せる、弱い切り口だっただろうか。

でもだからといって、今更何か別のものを切り出す気になれない。
話題がないのだ、こう言う時にはいつも良いことを思いつけない。


「昔、好きな子がいたんだ」


しかし会話は意図した通りに、あの思考から外れた。
理解の真意も理由も、俺は考えずに済まされていた。
ただこの思考も意識は避けたがる、否、避けるべきものだった。

昔話などをして、フィリスは一体どうするつもりなのだろうか。
いつもならば表情を見て憶測を飛ばすが、今の体勢では何も見えずそれが出来ない。
声だけの情報、それだけでは十分な判断が俺には取れない。

「生きていれば、君と一緒の年になる」

言われた言葉に、心臓が掴まれたような感覚がよぎった。
フィリスが言いたいこと、単なる昔話ではないことを知っている。

もしも彼が裏切りを匂わせる、その程度で済むのならまだ大丈夫だ。
けれどもし告げてしまうなら、告げてしまったなら、決めているなら。
上司の言葉が頭の中に甦る、回避したかった道が段々と輪郭を持ち始める。

「笑ってさ、一緒に高校卒業したりとか、してたのかもしれない」

ただの思い出話であればいいと願う。
そこから未来を決めてしまう言葉だけ言わなければいいのだ。
確信さえ持てなければ、それはただの警戒だけでことは済む。

彼はきっとそれをわかっている、今は素面なのだからきっと大丈夫。
わかっているはずだと、小さく息を吐き出す、震えた息。


「戻りたいのか?」


はずだと思えたけれど、牽制せずにはいられなかった。
しなければ、こちらまで引き込まれてしまうと思った。

彼が今、どれだけ思い出に浸りたいのか、俺にはわからない。
酒を飲みたいという思いが郷愁の念からのものでも別に構わない。
ノスタルジーも含めて、フィリスが何をどう思おうが自由のはずだ。


それでも許されない思考は確かにあって、それを俺は見極めなければならない。
彼が今からどうしようとしているのか、俺たちにとってそれはどう変わるのかを。
俺が、絆されるわけにはいかない。

たかが他人の思い出話だと、割り切る。
今までしてきたように、関係ないと溝を置いてしまえば良い。
引き込まないで欲しかった。

「そうだね、そうだよ」

二度繰り返された肯定、答えは既に納得されていたらしい。
少しの痛みが心に落ちた、後に否定が来ればと何処かで願っていたのに。


戻りたいことは別段、悪くはなかった。
けれど彼の帰る先にある存在が、敵であるのが問題だった。
彼の旧友がただの一般人であれば、何ら問題はなかったのだ。

旧友が敵対視する組織の人間でさえなければ、許された思考。
応援をすることも、俺には出来たのだろうか。


「でももう戻れないんだ」


諦めたような寂しさを悟った。
沈黙は既に部屋に馴染んでいく。

それでも、心の内では安堵を零す、歓喜ほどではない。
その程度には俺も思っていたのだろう、この体温を。
だから余計に、戻れないの意味よりも安心を優先した。

そうしてただの結果だけを気にしている頭を、俺は知っている。
顔が見えないことも原因の一つにはあるだろう、予想するしかないそれ。
直接知れない俺には、面倒事の消失に対する安心しか考えられなかった。


突然、顔が痛いほど後ろへと、視界がぐっと動く。
僅かにフィリスが見えるか見えないか程度の固定。
無理矢理の首のひねりで、首がずきりと痛む。

「痛い」

素直に痛覚を告げれば顎についた手は外れた。
同時にしばらく張り付いていた体温も離れる。

首が痛いままではたまらないと、向き合う体勢へと変えた。
何故だか、久しぶりに彼の表情を見たような錯覚に襲われる。
それはきっと、さっきまでの長い沈黙の所為だけではないのだろう。

眉を潜めているわけではなく、笑っているわけでもない。
彼に不似合いな無表情は、少し懐かしかった。
あの時以来だと、白藍として初めてあった時を思い出す。
昔のことだ。


「どうしてころしたの」


彼の問いかけに考えが何処かへ落ちた、回想の停止。
言葉の意味を解釈する前に対象を探した、そうして思考の停止。

少しの時間で行き当たる答えに、思わず苦笑した。
他にどうすれば良かったのだという問いはもうない。
何度考えても彼が答えを知っているわけでもないし、彼の問題でもない。

「約束だった」

破ることも、破られることもないまま、ただ果たされたもの。
ただの約束、ただの決意、ただ一人の命、それがあの時は必要だった。
一人を消してしまえば俺は此処に居られる、選んだのは俺であって優先したのも、自分だった。

願わない事柄を叶える為の、ただの犠牲だったと笑うしかなかった。
その時のことを思い出せば、簡単だったという簡素な感想しかそこにはない。


あっけない、そう思って目を閉じた、あまりにも簡単に存在は消えてしまった。
十何年間そこに存在したものが消える、必死になっていたことが馬鹿だと感じるほど。

「だれとの?」

いつの間にか表情がフィリスへと帰っている。
それでも、威圧的な空気が満ちたままの部屋だった。
そのことがほんの少し笑えてしまった、相手に悟られない程度で苦笑を零す。
随分と好かれていたのだなと、自らが殺した相手を思った、もういない相手だけれど。


ぼんやりと昔を思い出そうとする。
そうだと甦る記憶、彼が此処に入った理由だって俺が原因だった。
彼が求める説明はいつかするつもりだ、それだけはきちんと心内で決めている。
けれど逃し続ける機会はそれを忘れさせて、いつの間にか今まで来てしまった。

今がその時なのだろうかと、僅かに思う。
わざわざ彼から話題を振ってきたんだ、何も言わずに今まで傍に居た彼から。
待って待って待ち続けて、彼にしてみれば十分待ったからこその切り出しなのだろうか。


「フィリス」


けれど俺は咎めるように彼の名前を呼ぶ。
酷く落ち着いた声を意図して、発生させた。

まだだと思えた。
彼と俺の整理がついたところで、機会が来た所で、状況がまだ整っていないような気がした。
この状況で彼に説明をした後を俺は全く予想出来ないが、消えたはずの可能性が甦ってしまう予感がある。

回避した可能性を掘り返すようなことはしたくない。
ならば次、また今度の機会に回してしまおうと決めた。

「そう」

むっとした表情で沈黙していたフィリスは、渋々承諾した。
納得していないことは十分に伝わっているが、そこを指摘しなければもうこの話は終わる。
彼と言い合うことはあまり得意ではない、言いくるめる自信も無い。


不服そうな顔のまま、彼は冷蔵庫へと向かう。
恐らく、夕方に言っていた酒でも入っているんだろう。
取って戻るのを待つことはいつもならば出来るが、さっきの今では気まずい。

少し迷ってテレビの前にあるソファに座ることにした。
勝手に座ってしまうことに気は引けるが、立ちっぱなすことよりは気まずい空気は減るだろう。

ばふりと座れば、柔らかな反発、ゆっくりと低くなる視界。
目の前で流れていた歌番組は、明るいコマーシャルへと変わっていた。
コレステロールの下がるだか、少ないだかの油の宣伝が騒がしく耳に入る。


「白藍」


ごめんねと入る声はただ淡々とした声、押し殺したもの。
それが怒りなのか嗚咽なのかどうなのかは、全く知れない。

彼の顔を見るように、喉をのけぞらして見上げる。
片手に持たれたビールはどことなく似合わないイメージがあったが、実際に見るとそうでもない。

俺には炭酸が渡された、いつも冷蔵庫に置かれているグレープ味。
半ば俺専用のようにフィリスは買い置いてくれている。
そんな気遣いに、とても申し訳なくなった。

「いや、こっちが、」
「悪くないよ」

遮るように強い声。
俺がいる反対側から回って、フィリスは隣へと座る。
座った彼の視線の先は手に持たれた酒だが、それを意識的に見ているわけではないんだろう。

きっと思考に集中しているか、何かだと決めつけた。
見続けるのも嫌で、移り続けるテレビへ視線を逃す。

「悪くない」

まるで言い聞かすような響き、誰に、なんてことは考えなかった。
不意に彼の手が俺の頭を撫でてきた、癖のようにそのまま目を閉じる。
髪の上を滑る心地のいい動き、あまり好きではない動き、少しだけまだ怖い。

引き寄せるように力がかかった。
抵抗はせず、力を抜けば斜めに自分の頭は落とされる。


「オレはオレの意思で此処に居るんだ」


耳の近くには心音があった。
一定の音が連続する、とくんとくんとくん、ゆっくりと流れる鼓動。

変な感覚だった。
他人の心音を聞いている体勢。

もどかしくなって目を開く。
流れているテレビもこの位置では十分に見えない。
その下のビデオデッキが丁度見やすい位置にあった。

「白藍は何も、悪くない」

再度繰り返される内容。
何を確認しているのか、何を確認させようとしているのか。
ぼんやりと思考を巡らせる、道の先を見つけかけた瞬間に停止させる。
その先はきっとほんの少しの恐怖を持っている、逃避を自らに促す。

「そっか」

納得の声で終わらせた、穏やかに頭を撫でていた手が離れた。
体勢を元に戻す、いつまでも持たれたままでは居辛い。
彼の寂しそうな顔が見えたが、何も言わないまま座る。

無関係なのだと自分に言い聞かせた。
今、自分には関係無いことを言われているのだと頭が呟く。


「かんぱい」


彼は笑って俺の持った缶に、いつの間にか開けていたビール缶を軽く当てた。
グラスのように良い音はならず、けれどそのことを気にした様子もなく、彼の視線はテレビへと向いた。

それだけで彼を見ることはやめた、手元の開けていないジュースを開ける。
喉へと中身を流し込めば痛いと感じる少し手前程度の刺激、ブドウの味なんて全くしない。
けれどそれでも、これが好きだった、昔から炭酸が好きだった。

「白藍」

先ほどまでよりも少しだけ、後を引くような声だった。
もう酔ったのだろうかと返答するついでに彼の顔を伺うけれど、表面的には何ら変わらない。
悪酔いするタチではなかったように記憶しているが、どうだっただろう、あまり知らない。


「どうしようもなく、好きなんだ」


突然の告白は形容しようのない顔で、形容しようのない声で行われる。
その視線は、今此処にいる俺に向けられたものではないように感じる。

刹那、俺は形容しようのない気持ちに襲われた、形容しようのない表情を浮かべようと心が動く。
けれど表にそれを出さぬよう頭は動いた、顔の筋肉を動かさないように意識して無表情を保つ。

「白藍」

唐突に俺の目を手が覆い、片腕は首を回った。
再び心音が近づく、体温の近づきに酷く胸が痛む。

それを忘れる為にただ暗いだけの視界を見つめた、映像とノイズが走っていく。
どうせこれは閉じた視界と同じだと思えた、それならばと目蓋を閉じて完全な闇の中へ。
ゆっくりとした空気が喉を通って肺へと到達した。


その間、脳は彼の求める言葉を探した。
彼が自分に何を言わせたいのかを探るわけではない。
自分を抱きしめているようにした彼が、求めた答えなんか簡単だ。


「ありがとう」


そして行き着いた平凡な感謝を返した、視界を覆う手の強張り。
詰まり気味の呼吸音を拾う耳、少しだけ早い心音を感じる。
同時に肩に力を感じた、フィリスのもう片方の手だ。

「どんな好意でも嬉しい」

きっと誰でもそうなのだろうと告げた。
憎悪や嫌悪よりも好意は望まれるだろうという、ただの推測。
フィリスがそれをどう受け取るか、どう反応してしまうかは予想しない。

特別視は存在しないのだと、諦めてしまえばいいと思った。
いつまでも思ったって叶いはしない、忘れてしまえば楽なはずだから。


「ありがとう」


揺れた声はすんなりと耳へ入る、ゆっくり瞬きをする暗い視界。
瓦解して、色に犯された世界が目を焼いた、痛いくらいの抱擁。
何となく閉じていた瞳に外は眩しくて、目を閉じると黒へと戻る。

そして、暖かな体温とノイズ混じりの暗闇は、しばらく傍に寄り添って。


(見えない壁と溝も、きっとずっと、此処に居座り続けるのだろう)


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