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戸惑う頭を必死に意識へ結びつける。
偶然に過ぎない、思考は誰にもわからない。

ただ、相手の声に敵意好意は一切感じられないことだけを思い出す。
きっと、何かしらを仕掛けようというつもりはないのだろうと、思考を逸らす。
それにしたって、嫌な予感が冷や汗となって背中を伝ってしまうのだけれど。


振り返るべきか、立ち去るべきかを迷う頭と心。
いつもなら迷わず答えが出せる頭も、今回ばかりはまいっていた。
警告のことに対しての疲れもあるし、男の存在に気付かなかったことも少なからずショックだった。

今にして思えば、完全に男の存在など足音が無ければ気付かなかった。
それは故意に男が足音や音を消していたからだと、どうして気付けなかったのか。
わざと音を消す、しかも完全にだなんて、一般人のはずがないのに。


ふと、今は反省する時じゃないと自らを叱る。
今一番重要なのは、男に対しての態度決定だ。

ぐるぐると後悔を始めていた頭を一度リセット、いつも通りの思考へと戻す。


それでも、敵意か好意かが混じっていれば簡単だった。
敵意が混じるなら立ち去ったし、好意が感じられ、且つ、聞き慣れた声であれば振り返った。

なのに、この男の声にはどちらも存在しなかった。
好奇心のような表情は読み取れたが、好奇心への対応などわからない。
自分をどう見ているのかが判断が出来ない以上、戸惑うしか出来なかった。


「無視かよ」


笑う響きが含められた言葉、不満は滲んでいない。
通常思考に戻り出した頭も、やはり一部は上手く回らなかった。
声に伴った記憶が思考を拒む、それが頭の一部を使わせない。

記憶など、捨ててしまうことが出来れば楽なのに。
出来もしない仮定を思ってしまう心を、頭が戒めた。
弱音に繋がるようなことを思うのは、やめなければならない。


そんな葛藤のうちに、いつの間にか右手首は掴まれていた。
掴んだ相手を確認することはしない、それよりも足まで上手く動かなくなった。
手も足も頭も、全てが全て、記憶に拒まれた思考と同じく、どう動けば良いかを見失っていた。

硬直状態。
これはきっと自分が見下したあの男たちと同じ状況。

痛むほどでない拘束が、軽く振り払えば簡単に抜けられるということに、俺は気付かない。


「なあ」


返事を促すような言葉、俺は何も返さない。
どうして腕を掴むのか、どうして声をかけたのか。
そんな疑問は頭の隅に追いやる、どうでもいいことだ。


そもそも何を思って引き止められたのか、選ばれた疑問を考える。
フィリスならこの男も話すことはあるとしても、俺には何もないはずだ。


殺した。

思い出したフィリスの言葉に含まれていた比喩。
そう言うと、比喩でも何でも無い事実だと彼はやんわり主張するから、事実か。
本当のところ、俺にはどうでも良かったけれど、それが一番しっくりとは来ている。


そのことを、この男も俺に聞きたいのだろうか。
殺した経緯、殺した理由、話せることなんてそれくらいだ。

フィリスには何処までを話しただろうと、回想を始めようとした頭を止める。
今はそれどころじゃない、そんなものに思考を使える状態ではなかった。

ただ、この男はそこまでのことを知っているのか?


あれは、表向きには事故だとしている。
勿論、裏側では別の事実があったけれど、そのことについてはフィリス以外も多少は気付いていた。
気付いては居ただろうが、そこまでの情報はあまりにも無意味で、調べるものなどあまりいなかったはずだ。


結局は、浅瀬全体の情報屋全てがシグナルの情報に従っていた、シグナルを信じていた。
大方は発信源を疑うことなく事故として周囲に広めたし、信心深い一部は裏を取って、殺されたという結論を出した。
誰に、なんて興味も持たずに、どこも結果を出すだけに収まっていたから、情報を疑う理由さえなかった。
誰も誰に殺されたかなんて気にしない、浅瀬を含めた裏ではよくあることだから尚のことそうだった。

ただ、フィリスだけはそこまでを追求して、此処まで辿り着いているのだが。


「白藍さんは寡黙ですかー?」


からかうような言葉がかかって、結局回想に浸っていた頭を呼び戻された。
男の表情は見ずとも、簡単に想像出来るまでに声色に染み出ている。


この男は一体どちらを信じているんだろうと、少しだけ疑問のような好奇心が混じる。
ただの事故だと思っているのか、誰かによって殺されたと思っているのか。
フィリスと同じ結論に至っている、という可能性は初めから除外していた。

あれが特殊なのだ、そう誰もが思っている。
俺へと行き当たったフィリスに驚きを隠せなかった。
頼りになる情報屋は全て、統制されたものばかりであり、綻びなど何処にもなかった。
未だにフィリスがどうやって俺まで行き着いたのかは、話を聞いても教えてもらえない。


執念だよ。
穏やかに彼は笑ったが、そうとしか言い様はないのだろう。


「聞いてっかよ」


少々苛ついた彼の言葉に応えるように、ヴン、と自販機がうなり声を上げた。
唸りを上げる機械の中で十分に冷やされていた天然水は、段々と周りの水滴を減らしている。
手から滑り落ちた水は、下のアスファルトへと黒々とした染みとなってまでも存在を主張する。


不意に掴まれた腕が後ろへと僅かに引かれ、体が反転させられた。
光の無い元では灰色だった前髪が、自販機に照らされて元の白さを取り戻す。
引っ張られた腕に繋がる肩は若干痛んだが、わざわざ苦痛を訴えるほどではなかった。

視界には目の前の男のスニーカーが映っていた。
黄色かオレンジかの中間色、明るい配色のそれ。
ぼんやりと思い出した相手の顔、その色は彼に酷く似合っている。

ただ、そのまま視線を上げて、相手の顔を再度見る気はなかった。
相手は俺の顔色を伺う為に、わざわざ自販機側へと俺を向き直させたのだ。
相手の思い通りに行動することはあまりしたくはない、そんなただのプライド。


それに顔が知られる事態は、出来るだけ避けていたい。
此処で顔を上げて彼を見るということは、彼からも俺は見られるということ。
見られてしまえばきっと相手は顔を覚えてしまう、それだけはなるべく避けたい。

そもそも顔の印象が残らない為に上司に白髪にされたのだ。
わざわざ顔を見られてしまうような状態へと持っていってしまえば、意味がない。
ただ国籍などをわかり辛くする為や何となく、とも言っていて、本当の所どうなのかはわからないが。


不意に男の舌打ちが道に響く。
きっと答えない俺に、痺れでも切らしたのだろう。
男の足が数回、つま先で地面を叩くような動作を見せた。

苛つくくらいなら最初から構わなければいいものを。
心の中で呟くそれ、実際に言うほど、俺は嫌味でも親切でもない。
それに今日のことで、十分嫌味を心で言うことの大切さを学んでいる。


それにしても、もうそろそろ解放してくれないだろうか。
持ったままのペットボトルが完全に冷気を失う前に、早く飲んでしまいたかった。
何となくで買ったものだったが、今は酷く喉が渇いていたし、気を落ち着けたい。

忘れていたが、上司も待たせている。
あの人は、勝手に帰っていたりするあたり、ありえない。
数分の遅れで帰られていたときは、本当にフィリスとしか行動したくないとさえ思った。


「顔くらい見せろよ、白藍」


ため息の後の言葉と同時に、手を掴んだ方とは別の手が伸びる。
言われた内容を咄嗟に理解して、左手で防ごうとするが間に合わない。
額あたりをがしりと掴まれた、前髪を丸ごと掴んで上へと掴み上げる手。

「い…っ」

引きつる痛みに顔が歪む、痛い。
うっすらと開いた目に入る自販機の光、痛みから出た涙でそれは幾分か量を増やす。
無駄にきらきらときらめく白い光、ただでさえ眩しい光だというのに。


無理矢理上へと向かされた首が痛み出す。
左手で男の手を掴んでいるが、力は緩まず外れそうにない。
精一杯視線を下へと動かし、そこで俺の顔を見ているだろう男を睨みつけた。


そうして、やっと視界に入った相手の表情。
逆光の中でも、目が大きく見開かれているのはわかった。
孤を描いていた口も、今は開かれている様子だった。

酷く驚いている。
一拍遅れて彼の表情を表す言葉を理解する頭。


「お前、……、」


相手の声は震えて、続きは発されない、前髪を掴む力は緩んでいた。
無理なく少し見上げるように見た相手の顔は、先ほどと同じ驚愕一色、他の何も滲まない。

それが何を意味するのか。
頭はすぐに、一番わかりやすい答えを出す。


「離せ!」


叫びつつ、左腕だけで精一杯前髪を掴む手を払った。
相手の手の力は抜けたまま、容易に引き剥がすことが出来た。

このまま右手も外して逃げてしまおう、と頭は提案する。
すぐに実行に移そうと左手で右手を掴む手を引っ張ったが、その時には既に力は戻っていた。
それでも、腕を無理矢理剥がさせた相手は、何かを言いたそうな表情のまま、ただ俺を見る。

頭の出した答えが当たっていることは、明確だった。


懐に戻した銃へと左手を差し込む、左で使えるかはわからないが何とかなる。
この状況で硬直してしまうことだけは避けたかった、打開策にはなり得るだろう。
言いふらすような人ではないだろうが、知られただけでも十分な失態ではある。

「なにしてんだよ」

銃は完全に抜き出す前に止められた。
相手の右の手が、勝手に明後日の方向へと銃口を向けさせる。
強引に左右へと手を振って逃れようにも、完全に俺の手首を握った手は離れない。


それにしても随分、弱気な声だ。
確信出来ないからの弱気ではないだろう、きっと彼にあるのは戸惑い。
態度が決定出来ないのか、現実を受け止められていないのかはわからない。

相手の表情はどこか固いまま、俺は自分の目を覗き込まれているような気分に襲われた。
目の奥、心の中、思考、全てを相手が覗き込んで、読み取ろうとしているような感覚。
どこか自分の中身が暴かれるような、深い深い場所まで抉り返すような、錯覚。

いつだって何もかもを知ったように話す、記憶。


それを頭の隅へと意識的に追いやる。
所詮ただの思い込みだ、実際わかるはずがないと頭に唱える。
自分のことは自分にしかわからない。他人には言わない限りわからない。

今はどうやってこの状況から抜け出せばいいかを考えるべきだ。


この男と自分であれば、力は負けている。
両手と片手ならまだしも、片手同士はなかなか外せないだろう。

けれど、今は両手とも使えない状況。
右手を掴む手が外れさえすればペットボトルを落としてでも使うのに、割れ物でもない。
左手が外れたとしても使える短刀は手の届く範囲にはあるが、この相手に通用するかはまた別だ。

銃と同じように寸前で止められてしまえば、意味がない。
武器が全て出きってしまえば、完全に終わりだ。

「おま、」
「ユロさーん、どこまでお茶買いに行ってんですかぁー!」

男の声を誰かの声が遮った、誰かのバタバタと走る音が道路へと響く。
男はその方向へと振り向いた。
彼の後ろに少年の姿が見える。

明らかに態度を決めかねていた男の様子。
口が何かを言おうと開閉を繰り返したが、結局言葉は出ていない。

それが何故なのかはわからない。
しかし、明らかに男の意識はそっちに流れていた。


今のうちだと、緩んでいた左手で男の掴んだ手ごとを突き飛ばす。
右手を掴む手も一旦引いてから押し払えば、簡単に離れた。
いいタイミングで走り寄って来た少年に、少しばかり感謝する。

押し払った際によろめいた男は自販機にぶつかったようだった。
くぐもった鈍い音がして、光源がやや陰ったことは捉えている。
ユロさん。そう彼を呼んだ少年の心配するような声が聞こえた。


一つ一つの反応を見ている暇など無かった。
男にも、その男に走り寄る少年にも構わずに走り出す。

早く早く早く、この場から去らなければ。


「かいッ!」


男の声は頭に響かずに終わった。
ジジ、と街灯が点滅する音が耳には優先される。

男の呼んだ名前など、どこにも存在しなかった。





ぽつりぽつりと寂し気に立つ街灯。
自販機の辺りよりも、また一段と間隔が開いているように思えた。
さっきよりも一層濃さを増した暗闇、少し離れた大通りの光さえ見えてしまう。

走り続けることは無理だと悟って歩き始めたのは、数分前。
生温い水を体の中へと導いてから、足は酷い疲労を訴えてきた。
振り返れば結構な距離を走っていたし、後を追って来ている様子も無かったから良かったけれど。


それにしても、上司を随分待たせてしまった。
まだそこで待ってくれればいいけれど、大丈夫だろうか。
あの人の忍耐強さなど、気分によって左右されて正確に計れた試しはない。

居なかったら連絡を取ればいいが、今は待ち時間が辛かった。
支部から此処までだと、恐らく十数分では着く距離ではあるだろう。
それでもあの人の取りかかりが遅い場合を考えると、三十分が妥当か。

段々と吹く風は冷たさを増している。
更に、すぐに終わると思っていた為、防寒もろくにしていない。
今でさえ寒いのに、このまま立ちっぱなしで半時間など出来れば待ちたくなかった。


今、連絡を入れて確認しようかと頭が提案。
けれど、あの人は携帯を今日こそ携帯しているのかが疑問だ。

たまに充電器に繋ぎっぱなしで、重要なときほど連絡を絶つ。
それがわざとなのか、ただのボケかはわからないが、後者だと救い様がない。
何歳なのかは知らないけれど、言動はまだしっかりしているから大丈夫であると信じたいが。


先にとまる見慣れた車、何とか待ってくれていたらしい。
何となくお礼を言おうと、運転席に座っている上司を後ろから様子を見る。
手には黒い携帯、画面は何となく懐かしいような四つ並べて消すゲーム。

この人は何をしてるんだろうか。
待たせてしまったことさえ忘れて、どうしても思ってしまわずにはいられない。
たまに自分達よりも、携帯ゲームやSNSを活用している上司はどことなく軽い。


それでもこの人について行っていいのか、最初の頃は思う暇さえなかった。
うんざりした中で、言われたままに訓練していればこの人のことなど気にならなかったし。
一年間の鍛え直しや銃の扱い方を習うのに必死で、今の上司に接することもあの時はあまりなかった。

配属が決まってから、本格的にこの人の存在を知った。
どことなく無理難題を押し付ける人だという第一印象は、未だひっくり返っていない。
此処まで余裕が出て来た今から思ってもやはり、あまり尊敬したくない上司でしかなかった。


過去を回想しながら、左の後部座席へと回り込む。
そこの窓をノックすれば、上司が後ろを振り向いた。
がち、と全体のロックが外れる音。

「遅かったじゃねえか」

扉を開けて、ばふりと乗り込む、それと同時にかけられる感想。
すいません、と簡素な謝罪を述べて、自分の座りやすい形へと一度座り直した。

手こずったか、まだまだ、もっとスピーディに物事は。
そんな言葉が聞き取れるが、返す気分には何故かなれない。
深くクッションに腰掛けてから、今日一日の疲労が全身へと広がってしまった。


クッションの気持ち良いこの車は、上司の私物らしい。
確かに事務所によく止まっているが、帰る際にはいつも無くなっている。
この車にどれだけの価値があるかはわからない、それでも中の上以上であるだろうと予想は出来た。

この人がいくらの収入を貰っているのかは知らない。
下の方であるはずの俺でさえも十分な額は、シグナルから貰っている。
ならば上司はもっと上なのだろう、十分すぎるほどの金額であることは容易に想像出来た。


「何かあったか?」


上司の問い。
バックミラー越しに俺を見る目は、真剣さを帯びる。
睨むようにも取れるその視線はどことなく強制感を伴った。


男と会ったことを言うべきなんだろうか。

ふわりと頭の中に甦る、自販機でのやり取り。
あったことと言えば、正体がばれた程度だろう。
特に大したことでもない、そう勝手に自分の中で結論を出す。

報告して、何らかの指示を仰ぐほどのことではないと自分には思えた。
何かあったとしても俺の方で処理すればいいことだという、楽観視。
どうせ今まで会わなかったんだ、これからも会うことは無い。


不意にぱたん、と上司の携帯は閉じられた。
携帯はもうとっくに閉じていたものと思っていて、突然のそれに驚いてしまう。

「シロ、返事」

暗がりで、何かを酷く面白がったような視線が俺に向く。
驚いて固まった頭は働かないまま、何とか、はいと上司へと返す。


何を面白がっているのかを頭は探ろうとするが、上司はすぐに前を向いてしまった。
バックミラー越しにその人を見るが、鼻歌でも歌い出しそうな上機嫌の顔。

何を考えているのか、何を思っているのか、何処を疑うのか。
フィリスよりも、思考や感情が隠されることの多い上司の表情。
にやついた顔を判断出来るようになったのもフィリスに会う少し前だったか。


「帰るぞ」


じじじ、と、街灯の光が途切れる音がした。


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