01 - 02
笑った泣き顔が、間近に見えた。
その瞬間に、首に感じた生暖かい誰かの体温、体温。
押し付けられた扉が冷たい、代わりに首は暖かい何かがある。
これは、だれの、手?
「見ないよなぁッ!」
「あ、あ…っあ、」
ゆっくりとした力、急速にこもり始める。
押しつぶされるように、空気の出入りはなくなった。
苦しくて、体が痺れだして、涙が涙が、記憶が、溢れる。
記憶が、ぐるぐると巻き戻されて、頭へ。
『いらねえよ』
いらない。
いらないだれがいらないの、いらないのは、だれ。
いたいいたいいたい、痛い、いたい、むねが痛い、よ、あたまがわれる。
『生まれてこなけりゃ良かったんだ』
うまれてこなければ。
どうしておれはいるのここにいるの、あんたはなんで。
ずきずきずきずぐり、しんぞうがいたいよ、むねがいたい。
『お前がいなければ、』
おねがいなにもいうないたい、いやだやだよ。
いうないうないうな、いたい、しつけよりもずっと。
いたいんだなによりも、むねがいたい、ずきずきずき。
おれがいなければいるからわるい、なにもしなくても。
『おまえじゃなけりゃ、』
おれはだめだといった、これはだれ。
首にある体温、力のこもった手、怒った顔が滲んだ。
見える範囲の腕はしっかりとまっすぐ伸びて、背中は冷たい。
今が立っているのか、倒れているのかを俺は忘れる、今は何処。
おれのくびをしめた。
おれをきらいだといった。
だれ。
「あ、あああああ!」
どうして、どうして、どうして、いやだ。
いやだいやだいやだ、俺は俺は俺は、ちがう。
このひとはちがう、なにがちがう、いっしょ、違う!
何が、違うの?
(この人が俺の首を掴んでいることに、変わりはない)
頭が痛い、肩が痛い、じくじくする、痛い、…熱い。
目元が熱い、喉が熱い、肩が熱い、そうして記憶は甦った。
煙の匂い、そんなもの此処にはないのに、匂いが鼻をかすめた。
怖い顔が頭の中で再生、怒った顔。
その口が開いた、息が止まる、いわないで。
何かを言おうと歪む顔、吐き捨てるように何か、を。
「いやだ、や、い、いやだぁっ!」
「うるさい!」
がん、と背中は扉に当たって、お腹はぐずりと痛んだ。
唾が口の奥の喉へと急に吸い込まれて、思わずむせる。
過去の記憶はこの痛みを蹴られたことだと頭に伝えた。
記憶よりも数倍、力も回数も少ない暴力。
首はとっくに解放されていた、昔には敵わない軽い痛み。
こんな力じゃ痣も残らない、誰かが冷静に内側で呟く。
「ご、め、なさい、」
でもそれよりも叱られたことを頭は優先する。
悪いことした、うるさくしたから怒らせた。
謝らないと、謝らないと、早く早く早く。
涙がぼとりぼとりと横へ落ちる、体はとうに床に落ちている。
床の溝がいつもよりも近くて、暗くて、大きく見えた。
そんな状態も今は頭に入らない。
あやらないと、ただその言葉だけが頭を回る。
「ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさ、ごめんなさいごめんなさい」
誰かの顔が、一瞬の瞬きに浮かんだ。
俺と同じ青い色の目が、俺を見下ろす。
もう一度、ゆっくりと口は開かれて、
「ごめんなさいごめんなさいっ!」
聞きたくなくて、手で耳を覆う。
聞こえる声は自分のごめんなさいだけのはず。
なのに目の奥で、暗闇の中でゆっくりと動き出す口を目が追う。
ひゅうひゅう言い始めた喉の音、それよりも大きく頭に入ろうとする言葉、聞きたくない。
ふと、目を閉じなければいいと思った。
そうすればあの人の姿なんて頭から消え失せると思った。
思い出したくない事実(とうにそれは戻っていたのに)が回ることが嫌だった。
そして目に入ったのはゆっくりと屈んでくる体。
部屋は暗い所為で黒い影が、ゆっくりと。
殴られると思った。
そういえばこの人も俺は怒らせていた。
だから当たり前なんだ、また殴られる、痛い。
「ご、ごめんなさい、ごめんなさ、ごめんなさい!」
ぎゅ、と両手で頭を抱える、耳も目も首も全部守るように。
何も聞きたくない、何も見たくない、何もされたくない。
ただ必死にごめんなさいを続けることしか、わからない。
不意に自分の体が押される感覚、動かされる感覚。
首と頭を必死で腕で隠す、嫌だ、首をもたれて体を壁に打ち付けられるのは一番痛い。
(そうやって反抗した所で、いつも強引に痛みはやってくるのだと知っていても俺は抵抗する)
でも出来るなら。
お願いだから何も言わないで、何もしないで欲しい。
目も見せないように隠すよ、声も、しつけも耐えるから。
「ごめんなさい」
ゆるして、父さん。
言葉が浮かんだ瞬間に何もかもが止まる。
ああそうだ俺を否定したのは、父さんだった。
理解で完全に戻ってくる今までの時間と、正気。
俺は初めから此処に居たわけじゃないと思い出す。
優しい義父さんが居たから、此処に居られるんだ。
ゆっくりゆっくり、なるべく痛くないように、上半身だけでも壁を伝って起き上げる。
義兄さんをまた怒らせないように、出来るだけ音を立てないように静かに。
そんな努力をしても、壁を使う事でざりざりとした音は鳴ってしまった。
何とか座る事が出来て、ほっと肺に溜まった息を吐き出した。
あまり首を動かさずに、目を動かして周りのことを見る。
何となくさっきとは、見える範囲が違ってた。
体はいつの間にか扉の横の壁近くにあった。
どうして此処に居るんだろうと思う、蹴られたときは扉にがんって当たったのに。
義兄さんが移動させたんだろうかと思って、周りを見渡しても今の部屋に義兄さんはいない。
何となく、初めてこの部屋を寂しいと思った。
何となく寒い気がした、窓が空いているわけでもないのに。
がくがく足が震えて、体全体がそれにつられてがくがくなる。
すん、と鼻をすする。
床に座り込んで壁にもたれたまま、ぼんやりと床を見た。
ぼろぼろ、今まで横を通っていた涙が、頬を伝って床に落ちる。
ずくんと一瞬、義兄さんに蹴られた場所が痛んだ。
一旦、めくって自分で見ても少しだけ赤くなっているだけ、押したら痛む程度。
そんなに勢い良く蹴られたわけじゃない、これくらいなら明日の体育はきっと大丈夫。
慣れたみたいな確認作業。
変だなって思ったけれど、仕方ないかなって思った。
だって隠さないと痛いから。
当たり前みたいに浮かんだ事柄に、自分で驚いた。
義兄さんも父さんと同じなのかな。
またずっと、俺は殴られるのかな。
しつけだって、悪い子だって、俺は怒られるのかな。
想像するだけでぞっとして、涙が目から流れ出た。
ずきずきとお腹じゃなくて、何もされてないはずの肩が、痛い。
ぐるぐる回り出しそうな気持ち悪さが、胸の奥の方で発生した。
今は誰も触ってないはずの首元が、何だか気持ち悪くて、苦しい。
「やだ、よぉ…っ」
あんなに優しかったのに、一緒に遊んだのに。
今日だけだなんてわからなかった、これからも続くかもしれない不安。
逃げたいと思った。
義兄さんが怒った姿なんて、いつも通り以上のなんか見たくない。
怖い思いはしたくない、義兄さんが父さんと一緒になるのを見たくない。
どこに行けばいいんだろう。
此処まで、きっと楽しかったのに。
俺だけだったんだろうか、義兄さんは本当は。
がちゃり。
都合良く続きを考える事を邪魔した音。
誰かを見る為に、涙でぐしゃぐしゃの目をそっちへ。
「海、」
義兄さん。
口は動いても、声は出ない。
ガチガチに固まる体、息が止まる。
何をされるんだろう、今度は何を。
一歩がこちらに向く。
柔らかな靴下が床に落ちる音。
さっきの乱暴な大きな音じゃない。
それでもさっきの姿が目に交互に映る。
眉のつり上がった怒った顔、眼鏡越しに見た目は冷たくて。
思い出せばぶるりと、寒くなった。
父さんと重なりそうになる姿が怖い。
父さんと同じ人なわけない、少し前の自分ならきっとそう思えたのに。
「海」
体育座りの膝に落ちた俺の頭に触る手は、力ない。
ゆっくり右に左に動いて、それがいつ握られるのか怖かった。
握られて振り落とされるのか、頭を持ち上げられるのかはわからない。
不安だった。
昨日と今は、別の空間みたいだった。
その奥には、疑問がいっぱい積み上がる。
どうやったら昨日に戻れるんだろう。
どうしたら義兄さんは戻ってくれるだろう。
どうすれば、二度と父さんを繰り返さないで済むんだろう。
「ごめんな」
ごめん。
謝る言葉。
「ごめん、痛かったよな」
顔を上げれば、何だか義兄さんが痛そうな顔だった。
俺の義兄さんに蹴られた痛みよりも、義兄さんの方がずっと、ずっと。
「湿布貼ろうな」
そういって義兄さんは、表情を変えて笑う。
そして持って来ていた箱を、俺の前に出す。
透明に透けた箱の中には、いろいろな小さな箱とか入ってる。
その中から、青とか銀の湿布の箱が取り出された。
箱から数枚出した瞬間に、周りは一気に湿布臭くなる。
嗅ぎ慣れた匂い。
鼻につんとくるのが、何だか懐かしい。
昔は自分で、探して、貼っていたもの。
「腹だけだったか」
「う、ん」
義兄さんが湿布の透明なシートを、ぺりっと剥がす。
義兄さんの手を煩わせないように、自分で服をまくり上げる。
そうしたら、ぺっとり冷たい感触が体全体へぞわっと広がった。
「つめたい」
「我慢する、男の子だろ」
ぺたりと貼った湿布を、はがれないようにゆっくり押さえつけられる。
冷たい湿布は、気温のせいもあってかなかなか温まらないで、少し辛い。
痛くはなかったけれど、冷たいままじゃお腹が冷えそうな気がした。
それとも海くんは我慢出来ないのかなー?
それを見抜いたような義兄さんは、からかうように言って穏やかに笑う。
なにを、とちょっとむかっと来た。
ちゃんと我慢出来るよ、そう言い返そうかと思った。
けれど、俺の傷口を眺めて、優しく治そうとしてくれる義兄さん。
それが何だかいつもの義兄さんで、さっきまでのなんか無かったような姿。
ああ、義兄さんだ。
はっきりしたものじゃなかったけれど、何となく思えた。
さっきまでのはきっと、何かの間違いだったんだと思った。
父さんとは違うんだって、やっとはっきり言い切れる気がした。
「大丈夫だよ、男だもん」
義兄さんに負けないように、笑った。
うん、と義兄さんも、今度は俺の目を見て笑ってくれた。
そして頭にぽんって置かれた手が、下向きに乱暴に髪をかき混ぜる。
ぐしゃぐしゃーってされて、手が近くて目も髪が入りそうで開けられない。
多分、義兄さんが手を退けたら、ぼさぼさになるんだろうなって思った。
「誰にも、言うなよ」
手が止まって、声。
何だか似たような言葉を俺は知っていた気がする。
けれど、何となく、声が違ったから大丈夫だと思った。
優しい声だったから、きっともうされないって思えた。
義兄さんは優しいから、手当てもしてくれたから、大丈夫。
父さんと義兄さんは、違うんだから。
(きっとあの頃は、それで十分だった)
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