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第四章第二話 みかげ は きえる


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「なんで!」


がつりと、投げられた目覚まし時計が腕に当たる。
角ではなく、平らな面が当たったようだった。

助かったと、こっそりと息を吐く。
角だと傷ができて、手当てが大変だ。
平らな面であれば、痣にもなり辛い。
言い訳も考えなくていいし、楽だから、良かった。


「絶対大丈夫だって言われてたのに!」


大きな足音が、丸まった俺の体に近づく。
強い口ぶりで、乱暴に近づいてくる。怖い音。

蹴られることを覚悟して、体を丸めた。
義兄さんはそれに気付き、腕で隠した頭を強く踏む。

「い、たいっ」
「ざけんなよ、俺だって……俺だってッ!」

義兄さんの足は頭から離れた。
そして縮こませていた俺の足を強く蹴る。

骨に当たって、じん、とした痺れるような痛み。
蹴られた足はすぐに力を込めることが出来ない。
詰まった息を吐き出した。


きっと明日、蹴られた部分は青あざになる。
明日は涼とプールに行くから、多分見られてしまう。
気分が悪いことにしてやめた方がいい。目を閉じた。

水着だと隠れる部分が少ない。
昔のこともあって、いつも上着は羽織っている。
ただ、足はさすがに隠せない。この青痣はきっと見られる。

なら、やめようと決めた。
見られるわけにはいかない。
だってまた言われてしまう。
やめよう。
涼は鋭いから気をつけないといけない。


蹴りを受ける一方で、明日のことを考える。
まるで自分が二つに別れたような感覚だった。

我慢する俺と考える俺の二人。
痛いと縮こまるのは俺。
いつも通り、明日のことを考えるのも俺。
何だか不思議な感覚だった、二度目の感覚。

あの時も同じだったと思い出す(あの時がいつかは朧げだったけれど)。
痛いけど痛くないように、考えないように。
でも刺激しないように。

俺、頑張れるよ。


唯一、不都合なのは見える場所にも付けられる傷。
初めは、見えない場所へとの配慮があった。
半袖に変わっても気をつけてくれていたのに、今は。

今が夏休みだから、学校がないからかもしれない。
ちゃんと、考えてくれている。
俺のことを、義兄さんは考えてくれてる。

ああでも。余計なことを思い出す。
夏休み直前、見える場所に痣ができていた。

『傷が多いみたいだけど、』

ついでに思い出したのは、担任の先生だった。
体育で転んだ時に痣が見えたと言われた。
体育は普段よりもずっと気をつけていたのに、また見えたのかと後悔した。

『何かあったらいつでも言ってね』

先生は優しく、そう笑っていた。
にっこりと優しく笑った顔は覚えている。

でも、きっと信じてくれない。
今までを思い出して、俺は諦めていた。
大人はオトナの意見しか聞かない。
俺の言葉なんか、信じてくれない。

蹴る足から頭を守る手を、一層ぎゅっと握る。
あの人のときと一緒の結末となるのは目に見えている。
オトナが上手く言って、俺は嘘を言った悪い子になる。
そしてきっと、嘘を吐いた俺として見た後に困った顔をするんだ。
やっぱり俺が悪いと、言うんだ。

俺は、嘘なんかついていなかったのに。


それに。
止んだ蹴りに、腕の隙間から周りを見る。
義兄さんの顔はまだ怖いままで、振り上げられた腕が見える。

義兄さんのことを言ったら、俺はどうなるの。
言ってはいけないという約束を破ったら、どうなるの。
言いつけを守らなかったら、きっと義兄さんに嫌われる。
義兄さんが俺を嫌って、義兄さんにまで嘘つきと言われて、悪い子と見られて。

痛みとは別に、想像だけで体が震えた。
そんなことになったら、ここから出ていかされるかもしれない。
俺にはもう、行くところなんかないのに。

俺は今の家族が好きだった。
俺は義兄さんが好きだった。
義父さんも義母さんも義兄さんも。
皆、優しくて好きだ。

だから、言わない。
ここを壊したくなかった。
優しい人のところにずっと居たい。
ここ以外に、俺を置いてくれるところはどこにもない。

俺が我慢すればいいなら、我慢してみせる。
大丈夫、俺は大丈夫だから。
俺は良い子になるから。

だって、義兄さんはあの人とは違うんだ。
何度も唱える言葉を、今日も呟いた。
いつもの義兄さんは優しいから大丈夫。
俺は耐えられる。大丈夫。


「にい、さん」


早く戻って。そう願いながら義兄さんを呼んだ。
でも義兄さんは、俺に何も答えてくれない。
怒ったまま、俺を蹴るだけ。殴るだけ。

俺の声は、多分、義兄さんに聞こえていない。
この義兄さんは、いつも俺の声を受け取ってくれない。
俺を見下ろしながら、義兄さんは他の何かを見ている。
お腹が力強く蹴られて喉が苦くなって、息が詰まった。


義兄さんはあの時から少しだけ、変わった。
前の義兄さんは優しくて、明るくて、良い人だった。

今は?
今だって、ちゃんと優しい。明るくて、良い人。
ただ違うことは、ずっと続くわけじゃないこと。

あの時を境に、何かが変わった。
あの時から時々、義兄さんがいつもの義兄さんでなくなる。
義兄さんの空気が、言動が、行動が変わる(まるであの人のように)。

まるで誰かが、義兄さんに乗り移っているかのようだった。
いつも俺と遊んでくれる義兄さんを乗っ取り、俺を殴るのだ。


俺と遊んでくれる義兄さん。
俺に暴力を振るう義兄さんじゃない義兄さん。
義兄さんではない義兄さんが、俺はとても怖かった。

今のように乱暴な義兄さんは、俺の声は届かない。
何を叫んでも、誰かは俺の声なんて聞いてくれない。
俺なんかに見向きもせずに、苦しそうに何かを言う。

まるで俺なんかいないように振る舞う誰かが怖かった?
もやのかかった顔が浮かんで、背筋が冷える(誰かはまだわからない)。


義兄さんが変わった原因は、大学のことだった。
乗り越えられるまでは言わないよう、義父さんから釘を刺された。

期待が重かったんだろうね。恭助は十分頑張ったんだけどね。
そう義父さんが義兄さんの部屋を見上げながら呟いたことを覚えている。
義父さんの表情がとても悲しそうだったことも。
俺にはそれが不思議で、特によく覚えている。

義兄さんが、大学のことに顔をしかめるのは理解できた。
けれど、義父さんは大学について全く関係がない。
まるで義兄さんと同じように悲しむ気持ちが、わからなかった。


失望された。
義兄さんがたまに呟く言葉。
気持ちの見えない声色で。

見放された。
勝手に期待してた奴が悪い。
おれは天才なんかじゃない。
そう呟きながら、電気も付けない部屋で、義兄さんは閉じこもるのだ。

……泣いていることは、何となく知っていた。
暗闇の中にいるから、はっきりと顔を見たわけではない。
それでも鼻をすする音や震えている声で、気づいていた。

その姿はいつかもわからない記憶の中の誰かに似ていた。
けれど、いつもそれが誰であるのかははっきりしない。
誰かを考えると、いつもずきずきと頭が痛くなる。
その人が泣いていたのかは知らないけれど、義兄さんは確かに泣いていた。

そのときが一番、おかしかった。
いつもの義兄さんと同じではないことは知っている。
殴る義兄さんと同じで、そのときも俺の声は無視されてしまう。
でも、その時の義兄さんはひどく弱々しい。
声はか細くて、力もなくて、暴力を振るう義兄さんと同一視ができない。

一番、どう接したら良いかがわからない義兄さんだった。
俺にあの義兄さんに何が出来るんだろう。
何か、出来るのかな。
何も出来ないのかな。


「海」


どちらにしても、今だけだと言い聞かせる。
義兄さんは、そう、あの人とは違うんだから。
普段は優しい、一緒にいて凄く楽しい。
あの人と違って、後には手当てもしてくれる。
あの人と違って、殴ったことを謝ってくれる!

本当にごめんと、二度としないからと言ってくれるんだ。
だから黙っててと、お願いされるだけ。

だから、あんな人とは違う!
(どんな人かを忘れたまま、俺は唱える)


これに耐えたらいつものように、楽しく居られる。
いつもと同じように、楽しいことが待っている。

だから大丈夫。
俺は大丈夫だと繰り返した。
我慢出来る。泣いたり叫んだりしない。

耐えられる、よ。

「海」

頭に、触れられる。
痛みに耐えるために、腕に精一杯の力を込める。

けれどその手から、痛みは生み出されなかった。
数回、俺の頭を撫でるように動く。
暖かい義兄さんの手の温度を、感じる。

てっきり殴られると思ったのに、そんな様子はなかった。
状況がわからず、様子を見る為に腕を動かす。
腕との隙間から、義兄さんを見た。


「どうせお前も可哀想って思ってるんだろ」


眉がハの字に垂れ下がり、泣きそうな義兄さんがいた。
暴力的な義兄さんはいなくなって、弱々しい義兄さんがいた。

腕を外して正座に座り直せば、義兄さんは俺を見る。
辛そうで痛そうな表情だった。
誰の前でも義兄さんはこんな顔をしない。
義兄さんの友達も、先生も、誰に対しても笑顔だった。

無理をしていることは誰に言われなくてもわかっていた。
義兄さんは優しいから、心配をかけないようにそうしていた。

そうやって笑う義兄さんは少しだけ、俺と同じように見えた。
八歳も年上でしっかりしていて、そんな風に見えるはずなんかないのに。
何がどう同じかなんてわからないけれど、感覚として何かが一緒だった。


「俺、何も思ってないよ」


義兄さんが思ってるようなことは、何も考えてない。
馬鹿にしてもいないし、可哀想とも思ってない。

だってそんなことを思ったら、義兄さんは怒るんでしょう。
だから俺はそんなこと思わないようにするから、大丈夫だよ。
義兄さんが怒らないように、刺激しないように、がんばるから。
(していることは、あの頃と同じ)

「なにが、」

義兄さんが小さく声を漏らす。
か細く震えた、小さな息のような声。

かちゃりと、義兄さんの眼鏡が揺れた。


「何が何も思ってないだ! 嘘つき!」


義兄さんの目から、涙がこぼれた。
Tシャツの襟辺りを掴まれて、横へと動いた視界。
叩き付けられると思う片方で、初めて声が届いたと思った。

がたん、と大きな音。
机にぶつかって、ばらばらと机の上にあった筆記用具が落ちる。
肩の後にぶつけた頭がぐわんぐわん揺れる。じんじんと痛み出す。


ああ怒らせた、と、思った。
暴力的な義兄さんに変わってしまった。
何が駄目だったんだろう。
次は気をつけなくちゃ。

部屋の時計を垣間見る。
今日はいつ終わるんだろう。
義父さんがいる日は、すぐにいつも義兄さんが戻ってくる。
けれど今日は義父さんは出張で帰ってこない。
それならば、今日はきっと遅い。


「恭助、海くん、どたばたしないの!」


一階から義母さんの大きな注意が飛んだ。
きっと義母さんは遊んでいるだけだと思ってる。
だから注意するだけ。楽しそうな俺たちを想像しているから。

もし、義母さんがこれを見たら何を思うのかな。
この義兄さんを見たら、なんて声をかけるのかな。
義母さんだったら、もっと俺より良いことを言ってあげられるのかな。


「はーい」


もしもを浮かべたとき、返事をしながら義兄さんは俺の元に来ていた。
倒れた体は起こせなくて、だらりと義兄さんを見る。
照明の真下で、大きな黒い影を義兄さんが纏う。


返事は、大好きな義兄さんの声だとぼんやり思った。
表情は見えないけれど、いつもの義兄さんの声だった。

戻って来てくれたんだろうかと、期待した。
その一方で、頭は今までを知っているから否定する。
こんなにすぐ、元の義兄さんには戻ったことはない。


いつもの義兄さんは今、此処にいない。
乱暴な義兄さんはいるけれど、この人は明るい義兄さんじゃない。
黒い大きな影となって暴力を振るう人は、いつもの義兄さんではない。

それなのに、さっきの声はいつもの義兄さんの声に間違いなかった。
暴力的な義兄さんの声はもっと低く、時折震えているものだった。

あの声は優しい義兄さんだ。
でもいつもの義兄さんが、暴力を振るうはずがない。
誰かに乗っ取られたような、乱暴な義兄さんだけが殴るはずだ。

その義兄さんだけが、そうなんだ。
思い込む内容をもう一度唱える。
義兄さんは義兄さんだ。いつもの義兄さんと暴力的な義兄さんは違う。

じゃあ、俺を見下ろすこの人は誰になるの。


頭は混乱した。
黒い影は相変わらず顔を隠し、白い照明を背に立つ。
痛みを我慢して、体を起こす。
その人を見ようと目をこする。

声だけならば、いつもの義兄さんだ。
でも、それならどうして、俺は怖いの?

俺に暴力をふるっていた、誰かを思う。
普段通りでない義兄さん以外だと、その人しか浮かばない。

あれ。あの頃、俺は誰と居たんだっけ。
そうして回想する記憶が、頭痛を生んだ。
咄嗟にこれはあの人じゃないと答えを返す。あの人は違う。

だってあの人は此処にいない!
(どうして、なんて思考は、痛みが封じる)


いつもの義兄さんも、暴力的な義兄さんも、同じ義兄さんだ。
頭の中にぽつりと浮かんだ思考があった。
同じ義兄さんじゃない、それは違う。
俺は心の中ですぐさま言い返した。
これは譲るつもりはなかった。

だっていつもの義兄さんは優しい!
暴力なんかふるわない!
でも殴った。さっき。
違うんだ。
暗い部屋、煙草。
違う。
見下すように。
違う。
この人は、やさ、蹴られたのに、しい。


何度見ても、見える姿は変わってくれない。
黒縁の眼鏡も、黒い髪の毛も、義兄さんと同じ。
俺に向かって伸びてくる手だって、義兄さんの手。

違う。違う。祈るようにつぶやく。
ぼろぼろと涙が流れていく。
義兄さんの手を避けることも出来ない。

記憶が混ざっていく。
義兄さんはどんな人だった?
青い目が嫌い。
違う。
伸びる手。蔑む目。
違う。
優しい人、暴力的な人、どんな人、首を絞める人。
違う。
俺が好きな、いつもの、殴る、怯えた、にいさん?

頭が勝手に、誰かと義兄さんをどんどん重ねていく。
あの人と義兄さんは違うと否定する反対側で、違うことを考える。

伸びた手が届く位置は顎の下。くび。
起き上がっていた体は、勢いのまま床に転がる。
床に散らばっていた文房具が、転がる体に当たる。
それに構わずとても暖かい手は、首を締め上げていく。


「お前なんか、----」


耳鳴りが、都合の良い部分だけを誤摩化した。
義兄さんの言った言葉の続きを強く拒否して、よく聞こえない。

聞きたくない聞きたくない。
泣き叫ぶような声が頭に響く。

けれど、目は口の動きを見ていた。
視界にあった口がどう動くのか、それだけで心が理解する。
(だってそれは、何度も何度も俺に繰り返されていた言葉)
(必死に隠したところで結局、記憶は心にも刻まれている)


記憶が混ざりきる。
どれが誰かわからない。
俺を否定するのは、だれ?

恐ろしい事実は、すぐに否定した。
義兄さんは違う。同じはずがない。

じゃあどうして繰り返されているんだろう。
忘れた記憶を伴って、疑問が突きつけられる。
今はあの時と同じだ。
俺は否定されて、いらないから殺される。


義兄さんは優しい人なんだ。
結論を出した心が、淡々と告げる。
ぼろりと涙が流れた、青い目から。

優しい人。楽しい人。
俺を、弟と言ってくれた人。
家族だと、言ってくれた人。
俺のことを好きだって言ってくれた。

そして、笑顔が甦る。
楽しそうに笑う義兄さんの顔。
義兄さんは、俺に暴力なんかふるわない。
(美化されていく思い出が最善を塞いだ)


ぎりぎりと締め上げられる首。
気管は段々と閉じられる。
空気が入ってこない。

首を絞められる中で、無意識が打開策を探す。
そして右手に当たったのは、夏でも冷たい金属の温度。
上手く働かない頭でも、それが何かは簡単に理解できた。
恐ろしい思考が、脳を染め上げようと立ち上がる。

この黒い影は誰だ。
その思考は語りかけた(まるで思い出させるように)。

“この人”は、だれにしようか?


自問自答の時間は終わる。
おかしな質問を最後に、思考は飛んだ。

「なんにも知らないくせに!」

首が軋むように痛い。
全身が苦しいと痺れ始める。

この人は。左手で、首を絞め上げる手に触れる。
力強く殴って、蹴り付けて、首を絞めて、俺を否定する。
いらないと言うから俺は目を閉じて、ただ目を閉じて、待っていた。
俺を殴る人が満足するまで待って、怒りが静まることを待っていた。
痛くても泣けばまた怒られる。だから、ずっとずっとずっと、我慢した。

だけど俺は捨てられた。
我慢しても、悪い子だから。
溢れた昔の記憶に、父さんの姿を見た。


“この人”は父さんだ。
白い空間を思い出した。あの頃に戻るのは嫌だった。
毎日が悪夢で、体は思うように動かず、呼吸が奪われる。
そんな日々が嫌で、心は嘘をついた。

あの人はずっと見張ってるんだ(疑問を捨てる)。
見張って、ずっと俺を虐めるんだ(疑問を捨てる)。
あの人はどんな俺であっても、青い目を持つから嫌いなんだ(ずきずき胸が痛い)。

いらないから、父さんは俺を殴るんだ(俺は俺を守るために、こうするしかなかった)。

この黒い影は誰だ。
これは父さんだ。 繰り返す問いに、迷いなく返した。
金属についたプラスチックのつまみを親指が押し上げる。

こうなったのは誰の所為?
問いは変化する。
どうしてそんなことを聞くのか、俺にはわからない。
だって、目の前にいる父さんの所為に決まっているのに。
右手に持つカッターを、落とさないように握りしめる。


これはとうさんだ。
迷いない思考を頭は飲み込んだ。
俺を傷つける手なら、俺が傷つけたっていいはずだ。

そうでしょ。とうさん。

がちがちと歯が震える。
酸素が足りない体は、どんどん力が入りづらくなっている。
それでも、抗わなくてはならない。右手に残った力を込める。
首を掴む腕に向かって、精一杯の力を振り絞って動かした。

だってこの人は父さんなんだから。


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