気づけば、白の中に居た。
自分が立っている以外、白色。
周りを見渡しても変わらない。
「海」
若い男性の声がした。
いつもの声だと思って振り返ると、誰もいない。
すぐそばにいるように聞こえていた声だったのに。
もう一度、白を見渡す。
影も何もない、真っ白。
「海くん」
優しい女性の声。
今度こそと思って横を見る。
けれどやっぱり誰もいない。
どこから声は聞こえているんだろう。
いくら探したって、俺一人きりだった。
「海」
穏やかな男性の声。
今度は呼び終わらないうちに姿を探す。
でもやっぱり誰もいない。
俺以外、全部白いだけだ。
どうして?
思った瞬間に、白が赤く変わっていた。
さっきまでの眩しい白色が、今は赤ばかり。
真っ赤に、どこかぬめる感触を持って染め上げる。
そして、いつの間にか俺は右手に何かを持っていた。
そこに何を持っているのかは見ない。
だって、そうすれば下を見てしまう。
下を見てはいけない。
何故だか下を見ることが怖い。
俺の下には、何がある?
よく見れば赤色は動いていた。
下へ下へと流れていく。伝っていく。
その先には何がある?
見てはいけない。
怯えた心が叫ぶ。
だってそこにあるのは、どうしようもない俺の罪だ!
自然に目が開いた。
目が覚めてすぐの状態でも、眠気は全然残ってない。
見えている景色は、家とは違う。
よその天井と照明。そして畳の匂い。
二回目のような気分だった。
前がいつだったのかは思い出せない。
こうやって目覚めることが、二度目だ。
ゆっくりと起き上がる。
体全体に軋むようなだるさがある。
周りを見渡す。
自分が寝かされていたのは、和室だった。
白い襖で仕切られ、部屋の中央に敷かれた布団にいた。
白や赤一色だったあの空間とは違う。
色も物も様々なものが、この空間にはある。
白い夢。
俺の名前を呼んだ人を考える。
呼んでいた人を思い出そうとした。
声は三種類あって、どれも知っている。
でも結局、思い出せなかった。
ずきんずきんと頭が痛み出す。
ゆっくり目を閉じて、もう一度と試みる。
それでも、何も思い出せなかった(深淵に置かれた記憶)。
ただ、頭痛が続く。
こめかみに手が当てれば、どくどくと鼓動を見つける。
確かに知っているはずなのに、どうしても見つけられない。
『×××××』
突然、血にまみれていた自分の姿を思い出す。
自分の着ている服と手のひらを確認した。
しかし、着ていたのは黄色のパーカーだった。
そこに血なんて滲んでいない。
手も変わらず、いつも通りの手だった。
そこにも血なんてついていない。
違和感があるとすれば、髪と服だけだ。
髪がしっとり湿っていて、着ているパーカーは涼のものだ。
本当に、いつも通りの自分でしかなかった。
まるであれが悪夢だったかのように。
夢だったのだろうか?
思い返しても、曖昧な記憶だった。
ぼやけて、虫食いで、繋がりにくい記憶。
あれは全部、夢の中のことだったんだろうか。
再度、手のひらを眺める。
肌色だけしかない手は、普通に動く。
あんなに握りしめたカッターも持っていない。
なんだ、それならばあれはただの嫌な夢だったんだ!
『×××××』
頭に何かが過るけれど、それが何かはわからない。
その言葉も、言った人の顔も、曖昧な記憶では全然わからない。
また頭や心臓が痛くなりそうなことは、考えないように無視する。
「海、起きた?」
ふすまが静かに開く。
見上げれば、少しだけ眉尻を下げた涼がいた。
「涼ちゃん」
呼べば、少しだけ涼は表情を和らげる。
良かった、といつもより控えめに笑われる。
でもすぐにその顔は、難しい顔に変わった。
少しだけ具合の悪そうに、しかめられている。
そんな顔のまま、涼は俺の前に正座する。
俺もそうすべき空気がある気がして、わからないなりに正座した。
そうして、二人で布団の上で向かい合う。
何となく変な緊張感があって、背筋が伸びる。
「……」
「……」
どことなく変な感じだった。
向き合った涼は俯いて、俺のことを見ない。
何か話したいことがあることはわかっても、話し出す様子がない。
「りょうちゃん?」
気まずさに名前を呼んでも、顔を上げることはない。
もどかしさにむずむずした。
正座した足がしびれ始める。
喋らない涼を見続けるのも気が引けて、部屋を見回す。
この部屋に寝させてもらうのは、随分と久しぶりだった。
涼の家で泊まる際には、涼の部屋かこの部屋だった。
畳の匂いが懐かしかった。
昔の家に和室はあったけれど、畳の匂いは別の匂いにかき消されていた。
最近過ごしている誰かと一緒の時の家に和室はなく、全て洋室だった。
あれ、誰かってだれだっけ?
「ばかやろう」
ぱし。
突然、両方の頬を涼の手に軽く挟まれる。
そんなに強い力でなく、軽く当てただけ。
「お前ほんと、バカかよ」
悲しそうに痛そうに、涼が俺をバカと言う。
それはとても珍しい表情で、あっけにとられる。
「なにが?」
なぜそんな顔をされるのかはわからなかった。
涼にこんな風に言われることに、覚えがない。
覚えている限りでは、何もなかった。
あれが夢ならば、何もなかったはず。
頬を挟んだ両手に、触れる。
その一瞬、涼の両手が震える。
涼が言いたいことがわからない。
どことなく責めるような雰囲気がある。
ただ、何故そうなっているのかは見当がつかない。
あれが夢ならば、他には何もない。
「殺したって、どうにもなんねえだろ!」
言い切る涼の目は潤んでいた。
頰を挟まれている所為で、よく見えた。
苦しそうな表情の中に、厳しい目がいた。
ころした。
頭の中で、繰り返す。
ころした。
もう一度、言葉を繰り返す。
そしてようやく、理解する。
あれは、夢ではなかった。
紛れもない、現実だった。
「そうだね」
答えた声は、まるで俺ではないような声だった。
俺以外の誰かが喋ったかのように、他人事じみている。
ただ、ああそんなこと、なんて思ってしまっていた。
あれは夢ではなく、確かに俺は人を殺していた。
理解してしまえば早い(だってもう忘れた)。
「何で、そんな風に言えんの?」
頬を持っていた手は離れた。
一層切なそうに、俺を見る。
「悲しくねえの」
「何が?」
「だってお前、あの人は、」
聞きたくない。
ためらいがちな言葉の途中、目をそらす。
俯いた視界には、正座した自分の膝と布団の白。
無意識に拒否を示した。
何も聞きたくない。聞いちゃいけない。
その拒否を受け取ったのか、涼の言葉は続かない。
頰を挟んでいた両手が離れ、ただ沈黙が落ちてくる。
父さんの所為なんだ。
不意に頭に浮かび上がる言葉。
いつかに聞かれた問いの答え。
あいつの所為だ。
何も持たない手を握った。
父さんが居たから、俺は。
父さんが居なければ、俺は。
あいつの所為だ。
意識しないまま、呟く。
全部、父さんが悪いんだ(所詮、俺はあいつの子供)。
「何でオレに言わなかったんだよ」
ぱたりと、涙が布団へ落ちた。
布団の一部がゆっくり丸く色を濃くする。
じわりじわり。まるでそれは何かと同じように広がる。
ぱた、ぱた。
続けざまに涙が落ちていく。
涼の顔は見ずに、染みの広がりを見続ける。
「言ったらどうにかなった?」
まるで喧嘩を売るような言葉になってしまった。
別に喧嘩を売りたくて発したわけじゃない。
ただ、頼ったところで、何か変わっていただろうか。
俺以外ならば、殺さずに終わらせることが出来た?
ぱたり。濡れた布団にまた新しい涙が吸い込まれた。
「涼ちゃんに出来たことなんて、ないよ」
「っ!」
酷いことを言ってるのは理解している。
俺自身、こんなことを言われたくはない。
親切で言った言葉なら、きっと傷つくだろう。
でも、それでも。
顔を上げて、歪んだ視界で涼を見る。
すうっと吸い込んだ息が、何となく苦しい。
けれど苦しさを何でもないように噛み殺す。
だってもっと、苦しかった人がいる(誰がなんて思い出さない)。
「誰にも何も出来なかった! 涼にだって、何も!」
簡単に解決するものじゃなかった。
誰にも、どうすることも出来なかった問題だった。
今の状況は避けられなくて、仕方のないことだった。
心の奥底から、そう強く感じている。
(だってそうでなければ、俺は無意味にあの人たちを殺したことになってしまう)
涼の手が、再び頬に触れる。
涙で濡れた手が、俯いた顔を持ち上げる。
持ち上げられて、焦げ茶色の目に焦点が合う。
そして何かを言おうとした時、もう一度ふすまが開いた。
「ああ、起きた?」
そこに立っていた涼の父親は俺に笑いかける。
顔にあった涼の手が外れる。
寝させていただいたことに対して感謝を伝えると、涼に似た笑顔が返る。
「涼、少し海くんと二人にして欲しい」
俺の前に座った涼に、涼の父親は穏やかに言う。
それを聞いた涼は、思い切り嫌そうな顔を出した。
何となく、ああいつもの涼ちゃんだと思った。
さっきまでの涼は、いつもらしくなかった。
こうした表情が見えて、少し安心する。
「涼」
もう一度、涼が呼ばれる。
さっきよりもむっとした顔で、口を尖らせた。
そして涼はちらっと、目だけで俺を見た。
何かを言いたそうに睨まれるが、何もできずに見返す。
先ほど突き放したように言った手前、若干の気まずさがある。
「わかったよ!」
大きな声で言い放って、涼が立ち上がる。
ふすまが壊れるんじゃないかと思うほど、強く閉められた。
力が強すぎて、反動でふすま同士に少しだけ隙間が開いた。
涼の父親は、ため息を吐き出す。
反動で開いたふすまを閉めて、ごめんね、と俺へ謝る。
それには気にしていないという意味で頭を振った。
俺の目の前に、次は涼の父親が改めて座った。
「ごめんね」
もう一度、申し訳無さそうに俺に告げる姿に、大丈夫、と答える。
そこで会話は途切れた。
正座のままで、言葉を待つ。
何の話なのか、何となくはわかっていた。
涼との会話で、夢でないことがわかっている。
そして涼が知っていることは、この人もきっと。
「海くん、」
「父さんの所為だよ」
おそらく、怒られるのだろう。
俺が悪いのだと、きっと責められる。
話なんか信じてもらえない。今までのように。
「おれは、わるくない」
俺は悪くない(そうして俺は血をなぞる)。
必要だった、こうしなきゃ駄目だった(言い訳を並べ立てて)。
おれはこうすることしかできなかった(あいつと同じ、血をなぞる)!
「おれはっ、ぜんぶとうさんが、あいつがわるいんだッ」
「落ち着いて」
全部、全部全部、あいつが悪いんだ。
それ以外の理由を、俺は聞きたくなかった。
俺が悪いことを教える言葉なんか聞きたくない。
「海くん」
耳を覆おうとした俺の手を、涼の父親は止めた。
いきなり掴まれたことに驚いて、思わず見てしまう。
「海くんを責めたいわけじゃない」
そこには真剣な目があった。
凪いだ目が、俺を見ている。
何を考えているかは読めない。
一体、どう見られてるんだろう。
……もう関係ないと、頭を振った。
どう見られたとしても、もういい。
良い子を真似ることは、やめなければならない。
もうこだわらない。
あいつを殺すために、生きるのだから。
そこでハッと気づく。
周りを見渡すが、思い出した姿はない。
「アリーはッ!?」
前に座る涼の父親に、思わず掴みかかった。
涼の父親がアリーを知っているのかわからない。
アリーと話した記憶は、輪郭がはっきりしない。
アリー以外にそこに誰がいたのかは、曖昧だ。
でも、この場で、知っているのならこの人だ。
今は少しでも可能性があるものに縋るしかない。
だって気を失う前、アリーは教えると言ったのだ。
あの人を殺すための術を、教えてくれると言った。
俺はあいつを殺さなければならない。
こうなったのは全て、父さんの所為だから(すり替えだとも気付かず、俺は信じるだけ)。
涼の父親は、悲しそうに俯いた。
何故そんな顔をされるのか、俺にはわからない。
アリーも、いなくなったのだとしたら?
沈痛な顔に浮かんだ一つの可能性に、思わず背筋が凍る。
俺は、アリーにまで、見捨てられたんだとしたら。
仮説に、指先が冷えていく。
顔が強張り、体から血の気が引いていく。
予想が本当であったら、どうすればいい。
もうどうにも出来ない?
「一週間後に、」
涼の父親が、声を出す。
「一週間後に迎えにくる、とは、言ってたよ」
紡がれた言葉に、掴みかかった手を下ろす。
ふ、と安心で全身から力が抜けた。
見捨てられたわけじゃなかった。
そのことが嬉しくて、頬が緩む。
同時に、嫌な記憶を思い出さずに済んだと、思った。
白い部屋も、薬品の匂いも、熱いーー。
どこかへ飛ぼうとした記憶を止める。
見捨てられなかった。
それだけがわかっていれば、それで良い。
「でもね、海くん」
今度は、涼の父親が俺の肩を掴んだ。
悲し気な表情と、まっすぐも視線が合う。
そんな顔をされる理由は、想像ができなかった。
「あの人は誰でも殺す。海くんはそんな人に、」
「うん」
言葉を遮るように、うなづいた。
涼の父親が言う"あの人"は、アリーを指している。
アリーと結びついた指輪のこすれあう音を思い出す。
アリーは誰でも殺す。
それは思い出していた。
涼の父親が言うことは、あの日、経験している。
倒れた母さんを、アリーの笑い顔を、思い出している。
母さんを貫いた刃がきらきらと光っていたことが蘇る。
母さんは俺を守って死んだことを、思い出していた。
思い返せば、あの時もおそらく人を殺す方法を教えると言っていた。
数年前になり、部分的な記憶の中での会話を思い返す。
あれが優しさからの提案でないことは、予想できている。
何か別に目的があってだと、理解している。
「俺はどうなってもいい」
でもそれでよかった。
アリーが何かを企んでいようと、別に良い。
俺だって、アリーを利用する。
父さんを殺すために、力がいるから。
「殺さなきゃいけないんだ」
覚悟を口から出せば、涼の父親は厳しい表情を取る。
目前で見た変化に、怖い、なんて、弱音が頭を埋めかける。
けれど、もうそれに負けてはいけない。
涼の父親から目を逸らさないように、手に力を込める。
何にも負けないように、揺らがないように、強く握る。
「俺は何をしてでも、何人殺してでもっ」
「海くん」
たった一言だけだった。
一言で、全身がすくむような感覚に襲われる。
固くした決意もたやすく飲み込みそうな恐怖が、ある。
何も動けなかった。
息が止まる、詰まる。
思い通りに、動かない(まるで父さんと同じ感覚)。
「海くんの言う何人が、どれくらいを指すのかはわからないけど」
ぐずりと膿んだ傷跡をえぐる気持ち悪さが襲う。
ぐるりぐるりと、嫌悪が体を這うような感覚。
必死に布団を握りしめて、目を閉じる。
負けたくない、そんな決意じゃない。
お願い、崩さないで。
手が伸びて来た。
逃げる判断ができない。
苦しい。
幻覚が見える。
黒い影が見える。
はっはっ、と呼吸が乱れる。
「一人一人が、それぞれ生きてる。生活がある」
けれど手が触れたのは、頭。
優しく、やさしく、左右に撫でるように、動くだけ。
痛みを伴わないことに呼吸が和らいだ。
全身を覆っていた恐怖が、減っていく。
でも一方で、別の恐怖が首をもたげる。
この動作をしてくれた人は少なかった。
実際にどうだったかなんて思い出すことはない。
この部分について、思い出すことが恐怖だった。
自分を守るように、腕を掴む。
「命は重くて、……それは全部、殺した人にのしかかる」
いのちはおもい。
道徳で先生からよく言われる言葉だった。
命は大切。代えは効かない。もっとも大切なもの。
よくわからない、が、正直な感想だった。
だって、あの人は"俺"がいらなかった。
「君がお母さんを亡くした時の気持ちに、他の人もなってしまう」
母さんを亡くした気持ち。
それは、俺が忘れた気持ち。
事実だけは頭に残っている。
でも、そこに伴う感情はまだ見つけられない。
母さんが死んで、俺は何を思ったのだろう。
どの程度、辛く、悲しく、感じたんだろう。
すっぽりと抜け落ちている記憶の前で、立ちすくむ。
(彼らが死んだことも確かに何かを感じたはずなのに、弱い俺は逃げるだけ)
母さんが死んだとき、俺は重さを感じたんだろうか?
今の俺には、やっぱりその答えを見つけることはできない。
「海くんに、それらを背負う覚悟はある?」
覚悟。
聞こえた言葉をなぞった。
結局、今まで逃げ続けていたのだ。
辛いことに向き合いもせず、楽な方へ逃げた。
何もかもから、逃げだしたくせに。
小さな俺が、今の俺を内側から見上げた。
いつだって、逃げているから知らないんだ。
非難する声が、全身に冷たく広がっていく。
俺は、何も真剣に考えていない。
母さんの死も、俺が殺した二人の死も。
欠落の目立つ記憶がその証拠なんだ。
二人、義母さんと義兄さんは死んだ。
二人分の命を奪ったのは俺だ。
父さんのせいで、殺さざるをえなかった。
本当に?
思い出そうとすると、酷い頭痛がした。
俺が、この記憶からも逃げているから、何の片鱗もつかめない。
命の重みに耐えられなかったから、忘れた?
嫌なことを忘れたまま、俺はここにいる。
そうして、幸せになろうとしている!
「ちがうよ」
ゆるされないと思った。
人を不幸にしながら、自分だけが助かろうとしている。
空白の思い出には、恐らく義兄さんたちと過ごした記憶もある。
思い出そうとすると、ひどい頭痛に邪魔される。
こうやって辛いことをなかったことにして、今まで居たのだ。
どうして母さんが死んだのかも考えなかった。
父さんが俺を捨てた事実も見ないふりをした。
きっと都合のいい幸せの中にいた。
辛い記憶から逃げるのは、弱い俺だから。
なかったことにしようとする弱い俺が、悪い。
だからせめて、全ての原因を俺は無くす。
「俺はもう、背負うしかないんだ」
もう、父さんからは逃げない。
弱い俺を捨てて、終わらせる。
あいつを、殺してみせる。
(それを責任転嫁だと誰かは笑うかもしれない。
それでもあのときはただ、生き続ける理由が欲しかった)
(生きる理由がなければきっと俺は、)
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