扉の隣に空く少しのスペースの影から、至って普通に涼は歩いてくる。
日向に出た一瞬は多少眉を寄せたが、すぐにいつも通りの顔に戻して。
まっすぐにこっちを向き、口元をおかしそうに笑わせた顔。
「高橋?」
かしゃりと、俺を囲っていた腕が静かに退いた。
変に上がっていた息を、そのうちにゆっくりと整える。
関が退いた安心感が広がった、でも不安がまた違うことで浮き上がる。
聞かれたのだろうか。
何処から聞いていた、いつから聞かれていた。
扉の開く音は聞こえなかったはず、聞こえてなかっただけ?
かち。
下唇を噛んでいた歯が、歯へと当たる。
同時に口の中、唇近くから血の味が広がった。
「なーんかすっげー怖い顔してさー、喧嘩?」
酷く軽く間延びした声が、今は屋上を支配する。
ゆっくりゆっくりコンクリートが涼の影で隠れていく、影が近づいてくる。
影、太陽の所為で白く光っているようにさえ見えるコンクリートの所為でよりそれが黒く見えた。
「横山、場所変えよ」
握りしめていた右手が掴まれて小声で言われた言葉に、ひとまず頷いた。
このまま此処にいたら、涼は聞いている、見られたことをきっと責める。
だから従う。
ひとまずは関についていって、涼のことを終わらせる。
関の問題はそれから解決すれば良い、関の記憶違いだと思わせれば。
涼との接点は、なるべく持ちたくなかった。
本当に少しで良かった、ないのが一番良かった。
小学校を転校してから2年くらい会っていなかったし、涼は全部知ってる。
俺の今まで、俺がしたこと、傍に居て、遊んで、知られたくないことを知っている。
それに涼も裏の人間になっていた。
信じるわけにはいかない相手になった。
裏切るなんて成立しない、信じるがまず存在しない世界の人間。
ならせめて、情報屋と殺し屋として会うくらいで留めておきたい。
学校では関わらないで欲しい、何が情報として扱われるかもわからない。
昔とはもう違っていた。
昔に戻るのだけは許せなかったから安心した。
誰かを頼って、何もかもを忘れることだけは禁じた、それが当たり前。
そうして一歩一歩と、二人で出口に向かう。
歩いて近づいて来ていた涼は、止まっている。
出口にいくためには、すれ違う必要がある位置。
強ばったように感じる、他人の体温。
見た目には大した変化はないが、多少関も焦る要素はあるんだろう。
ただ、それに負けない俺の手に張り付く汗。
この空間から早く出たいの一心で、関の足跡を踏みなおした。
「待てよ、関」
丁度隣に来たとき、最小の距離のとき。
昔通り、いつもと変わらないような声色が呼び止める。
トーンはさっきのまま、あくまで平常が貫かれた声。
関はその言葉に、わざわざ止まってしまった。
無視して歩いていけば良いのに、そう思っても動かない。
ついていっている形を取っていた所為で、先に歩いていくことも出来なかった。
どうなるんだろうと冷めた思いで、ただひたすらに、コンクリートの影を見つめた。
そう形容した思いとは裏腹に、震えている手の感覚はない。
にじみ出る汗も、きっと夏が近づいた証。
「気分悪そーだな」
強い日差しが陰った。
灰色にではなく、黒に。
「海」
右手にまた違う温度。
それまで握られていた温度は、引き剥がされる。
コンクリートから上げた視線は、焦げ茶を見た。
「あ」
音になったかならないか。
息と声、どちらともつかないものが口から出る。
思わずふらついた足を、片足を後ろへ伸ばすことで支えた。
「先に帰ってるよ」
若干の焦りが伺える声で、関が背中を向ける。
こっちから見る限りはいつも通り、でも歩いていく足は早い。
追おうかどうしようか迷って、でもしっかり掴まれた右手は離れそうにない。
しっかりと高い温度が手から伝わって来ている、ただでさえ暑いのに。
上からの太陽の熱と、じっとりと侵入してくる熱に、汗が出る。
扉がゆっくりと、騒々しい音を立てて閉じた。
来た時よりも、その音は大きく、完全な遮断を感じさせる。
この授業が終わるまで後どれくらいの時間があるんだろう。
不意に右手が離された。
横に立っていた涼がゆっくりと背中を向ける、関同様に。
ゆったりとした動作で、出口と少し逸れた方向に歩いていく。
ただ見送るように突っ立っていると、振り返られず手だけで手招きされた。
どうせ涼は元の影に行こうとしている、そっちに行くついでに帰ることも出来るだろう。
けれど、ゆっくり足を涼の歩いていく方向へと向けた。
此処で帰ったら、きっとまた別の場所で話をしなくちゃならなくなりそうで。
それならば今終わらせて、それからまたいつものように何でもなくなればいい。
「どーすんのお前」
日向と影の境界線を踏んだ途端に、涼しい風と一緒に飛んで来た質問。
涼が座り込んでくつろぐ姿は様になっていて、もう何度も此処で休んだことがあるんだろう。
座っている隣には飲みかけのストローが刺さったままの紙パックと、宿題かなにかの紙が置かれている。
そこにただ棒立ちになっているのもあれで、俺はフェンスに持たれた。
「どうするって?」
あいつ。
涼が酷く簡潔に単語だけで言う。
目線は俺ではなく、フェンスの向こう側。
だから俺も涼を見ないで、青々とした空を見た。
関のことを指しているのはわかっていた。
さっきまでのやり取りの中で、言うとするならそのことしかない。
それ以外に問われる筋合いがあるようなものもないし、と目を閉じた。
じゃあ初めから聞かなければよかったなんて、今更に思う。
聞き返したのはただの無意識で、理由はなかった。
「関係無いよ」
一息で言い切る、短い言葉。
関はどこまで知ってるかは、まだよくわからない。
完全にバレているような気もするけれど、まだ微妙だ。
まだ、判断するには早い。
飲み込んだ今の判断、それが俺の判断。
まだ、どうするかを決める段階じゃない。
「海、」
「お前には関係無い」
少し怒ったような、たしなめるように呼ばれたけれど、もう一度告げる。
本当に知られていたら。
関が見ていたんだったら。
俺のことに気付いているんなら。
俺が取る行動なんてたった一つで、それはきっと涼にだってわかるはずだ。
これ以上広がらない為に、警察に捕まらない為に、いつも通りを続ける為に、しなくちゃいけない。
手が少しだけ震える。
何でもない繰り返し。
相手が知った相手かそうでないかだけ。
だけのはずなのに、怖い。
たったそれだけのことで。
でもやらないと、と震える右手を左手で押さえた。
こんなことでつまづくことなんか出来ない、ちゃんと、殺す。
何だってしてみせる、誰にも頼らないで、一人の力で生きてみせる。
「ころしてやろうか」
何かを抑えたような声で吐き出される言葉。
その内容に上へ逃がしていた視線を降ろす。
かちあった涼の目はとても真面目で、仄暗い。
「つれーんだろ」
あのタイプは口止めしたって意味ねーし。
そう言いながら涼は立ち上がった。
立ってからもまっすぐ俺を見る。
馬鹿にしてるのかと、眉間に皺が出来るのを感じた。
勝手に辛いと言われたのも嫌だったし、出来ないんだろと言われた気がして、苛つきがこみ上げる。
「別に辛くないし、自分で出来る」
「嘘付け」
ぶっきらぼうに言い返した言葉は、近寄った一言で否定される。
また近くにきた涼の手が、宥めるように上がるのが見えた。
「嘘じゃない!」
がしゃん。
ポケットに入れて、中の物を取り出す際に腕がフェンスに勢い良く当たる。
それも気にせずに、ただ前から来る涼に向かって折りたたみナイフの刃先を向けた。
近寄らせる気はない。
何をするかがわからない。
俺の考えを見透かすような目が、今は酷く苦手に思う。
右手だけじゃみっともなく震えて、左手でまたそれを押さえつける。
「馬鹿じゃねーのお前」
気に留めた風もなく、涼の手は柄(つか)を持つ俺の手に向かった。
それに驚いて、すぐに自分の方へと逃がしたのに、手首が掴まれる。
振り払う前に力がこもって、変に動かすと痛みが走った。
「馬鹿だっての」
「うるさ、いてっ」
ナイフを掴んでいた両手を強引に離されて、片方ずつ涼の手に持たれる。
ぎりぎりと痛む腕を、必死で自由にしようと力を込める。
そうしているうちに、勝手に腕が下へと降りた。
刃先は方向を変えられて、今度は俺の喉元に向く。
当たっている感覚はないけれど、自分の手がひねられている場所はきっとその位置。
「よわいくせに」
がっちりと掴まれて、後ろに引こうにもフェンスが揺れるだけ。
睨むような涼の視線と言い放った言葉に、奥歯を噛み締めた。
弱い。
誰が。
俺が?
ありえないと睨んだ、睨んでくる目に負けないくらい強く。
何を言ってるんだと思う、あの頃しか知らないくせに。
涼は何も知らない、俺が昔と変わらないみたいに言う。
何も知らないくせに。
「弱くなんかない」
声が安定した。
声変わりはまだ迎えてないけれど、低く聞こえる声。
全身がしんと静まって、風の音だけが通り始める。
「俺は刀もちゃんと使える。ちゃんと一人で生きられる」
涼の眉間に寄っていた皺がぴくりと動く。
隠しもされない不快そうな空気、焦げ茶が少しだけ細まる。
怒ったような形相が、次第になくなって、そこにあるのはもう無表情だ。
「もうあの頃とは違うッ!」
強くなったんだ、と、腹の底から叫んだ。
今が授業中で、先生が来るかもしれないという不安なんて弾き飛ばす。
伝えないといけない気持ちだけを頭が感じていて、他なんて何も思っていない。
弱いままなんてことない。
あるはずないし、あったらいけない。
涼が知らないだけ、見ていないだけ。
ただ静かに、表情を消して俺を見るのなんか怖くない。
見透かす目も本当は違う、知ったように話しているだけで、何も知らない。
他人なんか怖くない、ちゃんともう抵抗できる、抵抗の仕方も知ってる、俺は強くなれた!
「だから、おまえが裏に入ったの嫌だったんだよ」
ふ、と俺と対照的なほど、静かに声は吐き出された。
目は同じように、キツく俺を睨んでいたままだけれど。
無理矢理に右手を動かしていた手は、再び横へ押しやられる。
その間に、ゆっくりと力が下に全部が、降りていくような。
影で暗かった空間が、より暗みを増す。
きっと太陽を雲が隠したんだろう。
「アリーが引き込みやがって」
「ぅあッ…く」
左手が離されたと思ったら、勢い良く頭がフェンスに押さえつけられた。
その力と、フェンスの反動で、頭の中身自体が揺れているような気持ち悪さ。
たった一瞬のことだと割り切って、やり過ごそうと目を閉じた。
は、と息を吐いて、吸って、数回繰り返せばすぐに和らいでくる。
ぐらりぐらりと揺れて、すぐに治まる、けれど打ち付けられた痛みは継続する。
斬られたり、殴られたりなどよりは、断然マシだし我慢出来るものではあるものだ。
「強くなった、つったな? だったら、この状態から逃げてみせろよ」
わらわせんな。
そう言いた気に、若干の差を見下ろす涼。
同時に頭をつかんでいた手は、左手を掴みに戻る。
俺が知らない顔だった、数年の間で涼も変わった。
俺が変わっていけたように、涼も変わってしまっていた。
「わかった」
何も変わらない。
変わらなくても、変わっても、空いた距離は確かにある。
埋めるなんて今更、出来もしない、しようとも思わない。
曖昧な意志は、固まった。
浮ついていた気持ちも、ちゃんと把握した。
昔のままじゃないから、昔のままの関係なんて、出来ない。
俺の答えに力の緩みかけた涼の手、掴まれた手、まず左手を外回りに回す。
容易に外れる手、涼が驚いている合間に外れた左手で、涼の肩を思い切り押す。
そこでふらついた時に、ナイフを持ちっ放していた右手も同じように離させた。
「……」
釘を刺そうと思った。
弱いって嘘を言い続ける口に。
左手でただ目を見開いている涼の首元を掴む。
そして俺にしたように、喉元にナイフを突きつけた。
「もう俺は弱くないよ」
そして笑ってみせる。
何でも出来る、強かったら、何でも出来る。
こうやって涼を負かすことだって、出来た。
俯いた涼の横を通って、出口へと向かう。
念のためとナイフは折り畳まずに、右手に持ち続けた。
繰り返す気はない、次にまた難癖つけるつもりなら本気で斬りつけるつもりだった。
そうだよ、俺のことを否定する人も、全部、殺せばいい。
今の俺はそれが出来る、ある程度の力を持てている。
抵抗出来る力を、今の俺はちゃんと持っている。
だから関も、もし誤解として終わらなければ。
目を落とせば、再び出た太陽の光を刃が反射する。
あいつを殺すことを邪魔する物全部、無くさなきゃいけない。
その為の力だから、この程度のことに怯えてなんかいられない。
俺は、まだ生きなきゃならないから。
境界をくぐって、扉が閉じる少し前。
何かを叫ぶような声と鈍い音が、聞こえた気がした。
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