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第五章第一話 傍にいてくれた彼へ



「ユロに会った?」

コップに水を入れながら、彼の驚いた声へ縦に頷く。
大きく目を開いた顔から怪訝な顔へ、フィリスの表情が移った。
斜めに逸れた視線を、時折水の入り具合を確認しながら見送る。
彼は何か考え、そして次第にあからさまに表情が曇った。
おそらく、特に表情を隠すつもりはないのだろう。

そのうち、何か問いたそうな視線が俺に向いた。
はっきりと口に出せば良いのにとは思う。
けれど、言い淀むのはまた別に理由があるのだろう。

どうせ相手のことだろう。
フィリスは極力、ユロのことを口に出そうとしない。
自分にとってそれはありがたいことで、別段理由を問いつめない。

「自販機で水買ってたら、いた」

言いながら、コップへと傾けていたペットボトルを戻す。
キャップを締めながら簡素な説明を口から出した。
キャップを締めた手で、冷蔵庫へと水を仕舞う。

そしてソファ近くにいた彼を見やれば、眉間にしわ。
これはまずかっただろうか。そんな予感がひしひしと皮膚を伝う。
言わない方が良かったのかもしれない。
墓穴を掘ってしまったかもしれなかった。


ふっと息の漏れる音。
フィリスは目を閉じてうつむいた。
おもむろに柔らかそうな髪を、くしゃりと掴んだ。

「で」
「で?」

何が。
思いつかない、話のつながりが見つからない。
彼の目が真剣そのもので、俺の目を覗き込む。


「また何か言われたの」


また、の指す意味を考える。
そして、何も、と答えた。

納得していない表情はそこにあったが、事実だった。
別に、彼が俺に対して何か言ってきたわけではない。

ただ知られただけ。
それが一番の問題でもあるのだろうけれど。

「向こうは?」

気づいた?
穏やかさを装った声に頷いて返せば、無関心そうな返事。
トーンは下がることも上がることも無い、いつも通り平坦だ。


怒っているんだろうか。あきれているんだろうか。
ぼすん、と彼がソファに勢いをつけてもたれる。

そこへ自分も座ろうと思っていたが、どうにもこれは座りづらい。
かといってわざわざ他に座るにしても。
少し戸惑ってしまった。
別に、あまり使われていない座布団を敷いてそこへ座ることも出来る。ただ。
とりあえず彼の近く、彼の表情が見られる辺りまでは歩み寄る。


「信じてたくせに」


どこを見るでも無くフィリスが言い放つ。
彼の顔には、嘲笑だけが浮かぶ。

しんじてたくせに。
冷ややかなその言葉をなぞれば、思い当たる記憶。
簡単に予想はついたものの、本来知るはずが無いので詳細は沈めた。

「信じてたよ、涼は。信じたくないって顔してさ」

返事はしない。
頷きもしない。
俺には関係ない話だと、脳が耳からの情報に壁を築いて拒絶する。
色を抜いた白髪が入り込む視界で、スリッパを履いた自分の足下を見下ろした。

「拓巳も一緒」

だらりと垂れたままの手を、フィリスが掴む。
ひやりとした体温が手を伝う。

頑なに彼自身へ目は向けなかった。
彼の離す事実は、俺に何も関係しない。
そう、関係ない。

「あれは単に驚いてるだけだったかな?」
「フィリス」

回想する彼を止めた声は随分と平坦だった。
感情も揺れも思考も、何も込めずに隠す。

俺に関係ない事実を聞きたくなかった。
あくまで独白なのだとしても、心がざわつく。

聞いたところで、どうすることもできない。
彼が何の意図もなく喋っているわけではないと、理解できている。
けれどその意図を知ることは避けた。
死んだ人間の話につき合うつもりはない。

「小田くんは泣いてたよ。最後まで、別れを言いたがってた」

止めたい。この話は必要ない。
頭のどこにも留める必要は無いと、自らに言い聞かす。
留めていたらいけない。
脳内で浮かぶ顔を塗りつぶす。知らない。

「葬式も親族だけで済まされた、別れも告げられない。いきなり過ぎる」

しかし止めるためのいい言葉が浮かばない。
ここで下手なことを言えば、困ることになる。
しかし生半可な言葉で彼もやめはしないだろう。

たかが、彼の思い出話だ。
必死に自分に、そう言い聞かせる。

それでも頭は拒絶したがる。
許されるなら、直に耳を手で塞いでしまいたい。
俺は聞きたくない。


「彼らにとっては中谷君の自殺よりも、」
「フィリス!」


それは、いけない。
とっさに、彼を睨んだ。

中谷、という名前につい蘇る面々の顔。
下手を打ったという自覚はある。
ただそれは、二人だけとはいえ、口に出すべきじゃない。
引き合いに出していい類のものではない!

「どうして怒るの? 君と横山 海は別人なんだろう?」

白藍は彼のことなんか知らないはずだけど。そう笑う。
あくまでそれは表面上だけだ。
本心が笑っていないことは明白だった。

彼はそのまま俺を見上げる。
掴まれたままの手が汗ばむ。

「オレだって知らないそれを、海じゃない白藍は知ってるの?」

まるで俺を責めるように、彼の目は俺をじっと見る。
逸らすことも出来ない。

「五年前に死んだ人間だ」

フィリスが確かめるように、告げる。

「涼はだんまりでさ、田中と拓巳はそれに気を使って疲れて。
 小田は泣くし、長谷は泣いてる小田に当たる。ぎこちなくて、ほんとさんざん」

悲しげに眉が下がった。
じっと見ていた目が外れて、力をなくす。
短くすっきりとした彼の髪がさらりと揺れた。

「信じられるわけない」

短い髪。
相変わらず色素は薄いまま、ほどよく整えられた髪。
昔に伸ばしていた理由も、今が短い理由も、聞いたことはない。

ただ彼は髪を短く切り落とした。
俺は、肩下まで髪が伸びた。
時の移りは振り返ると早かった。

「情報なんかいくらでも変えられる。文字なんて信用できない。
 この目で見ないと、納得できなかった」
「もういい」

彼の言葉に一言告げる。
これ以上は聞かない姿勢を示す。

後のことは全て、目を背けるつもりだった。
心をすっと冷めきらせる。
長い間で作り上げた割り切ったものを取り戻す。
これはいらないものだろうに、そう哀れむだけ。

そのために暗闇を見ようと、目を一瞬間閉じた。


「よくない」


りんとした声がそれを防ぐ。
沈んでいた部屋が、次は重苦しい空気で満たされた。
肌を伝って緊張を感じ、押しつぶされそうな空気で息がしづらい。
全身に緊張が満ちて、呼吸はひそめるように勝手に浅くなっていく。
無理矢理に深く空気を吸い込み、呼吸が満足に行えなくなることを回避する。

怒らせた。
真剣な表情にかち合う。

「知るべきだ」

やや潤んだ目が、俺を睨む。
柔和な雰囲気はどこにもない。
押しつぶすような感覚を、彼が作り出す。

「海がどれだけ思われていたのか、君は知るべきだ」

痛いほど、彼は俺の手を握りしめる。
こうして彼が怒ることは数度目だった。
この話題は、どうも彼を不安定にする。

いいや、違うか。
思考の間違いを、顔に出さず笑った。
彼がいつもの彼でなくなるだけだった。
きっと、彼が最も感情を出す話題が、これなのだ。

最近は少し、持ち出される頻度が多くなって来たように思う。
そろそろ、始末をつけるべきなのだろう。


「知ったところでどうする」


少しずつ、沈めていたものを故意に浮かび上がらせた。
別人だと区別した記憶が、ゆっくり自分に馴染みだす。

今まで拒絶した記憶。
オレが存在を殺した人間のものだった。
忘れるよりも捨てようと努力した過去。

フィリスが訴えるのは、大半がこの部分だ。
多少、それを見て見ないふりを通していた。
俺が捨てきれていなかったからだ。

だから今日、捨てる。


「俺は確かに横山 海を殺した。
 殺して、白藍としてここにいる」


曖昧にしていたことを、はっきりと口にした。
彼に面と向かって、同一であることを言葉に出すのは初めてだ。
伝えずとも彼は確信を持っていたが、あえて言葉にするのは避け続けた。

彼が知らないのはどの範囲だろうか。
伝えるタイミングは、今だ。
恐らく、今日しかない。

「どうでもよかったよ。死ぬか殺すかなんて」

ずっと昔の感情を、そっと瞼の裏に書き出す。
疲れた。そんな感情で決まった、一人の結末。

「元々、ここに引き渡されるために生かされていた。
 それなら、いらないから、どうでもいいやって」

どこから、なんて考えることはしなかった。
父親がシグナルに籍を置き、母親が殺され、俺は義家族を殺し、裏社会に入った。
全ては一つの流れで、誰の思惑がどう絡み合っていたのかもわからない。

俺の意思がどうであっても、傍らで誰かの思惑が進んでいく。
上手くことが運ばない中、身を任せた方が楽だと錯覚した。

結局は、自分が選べる選択が少ないと項垂れただけだ。
それならば勝手にしろと、切り捨ててしまったのだ。
息をするだけ、ただ生きてるだけのこの体が使えるなら勝手に使え。
そんな拗ねた子どもの自棄のようなものだった。


かい。そう口が動かそうとした彼を目で止める。
名前を出してほしくはない。
その名前で己を呼ぶ声は聞きたくない。

「なんでそんな風に思ったの」

か細い声が、耳に届く。
ハの字に歪んでしまった眉と、細まった目。
こんな顔をさせたのは、自分の行動の所為だ。

「あいつがいないと思ったら、空しくなった。何をしていいかわからなくなった」

混同する記憶。
五年が経過した今、思い出した絶望感に苦笑する。
嘘から生じたあの感覚がまだマシであることを、あのときの俺は知るはずがない。


「俺はずっと父親しか見てなくて、わからなくなった」


顔を歪めた彼に、別にあの嘘を恨んではいないと付け足す。
彼らの嘘が優しさから来ていたことは、理解できている。
詳しく調べることもなく、そこで立ち止まったのだ。非は俺にある。

「フィリスの言う通り、知らなかったんだとも思う。何も知らなかったよ」

ごめんな。
今更に、昔のことを謝った。
考えが足りなかったことを、自覚はしている。
心配をかけさせたことについても、同じく。

今の俺は後悔の有無について、考えることはできない。
その一方で、もう少し考えていればと思いそうにはなる。
今の状況を覆すつもりはないとしても。


「じゃあ、君に持ちかけたのは誰?」


彼の目が変わった。
その奥では憐憫、憤怒、憎悪が渦巻く。
それらが目指しているのは、復讐。
彼はもういない人間のために覚悟している。

つくづく、フィリスを優しいと感じた。
彼が俺に執着する理由を知っていても、そう思う。
彼はもうやめてしまえるはずだと俺は認識している。
彼の存在は確立されており、よもや間違われることもない。
そのことに、彼はきっと気づいているはずであるのに。

握られた手を握り返した。
冷えた彼の手が、今は熱い。

「死んだよ」

自分を拾って育てて、シグナルへと導いたアリーは死んだ。
殺されたのか、ただの偶然かは、定かではない。
たまたま上司が伝えてきたから知っただけだった。

シグナルや敵対する門鍵(もんけん)、様々な組織を渡り歩いていたからいつかは。
上司が煙草の煙を吐き出しながら、呟いた言葉を覚えている。
わざわざ彼の子供がどうなったかは、聞かなかった。


「もう昔を知ったところで、戻れるわけじゃない」


アリーの死に対して言葉を選んでいた彼を、まっすぐ見据える。
いつの間にか、やんわりとした力に変わっていた彼の手を外す。

全ては今更だ。
何も出来やしない、戻れやしない。
ここからあの空間は、絶対に繋がらない。

改めて知ることは何もない。
今のままを延長すれば良い。
そう目をそらし続けてここまで来た。
わざわざ思い出す必要は無く、俺は白藍のままでいれば良かった。


横山 海は死んだ。
今やどこにも存在しない。
再び存在を戻すことは不自然で、不可能に近い。
シグナルを抜けることができるかもわからない。

理解した上で、俺は名前を捨てた。
横山 海という存在を、殺したのだ。
それが感情に流された判断だとしても、情状酌量など無い。

「フィリス、」

口を開く。
彼に伝えなければならないことがある。
もし彼の理想に俺がいるのなら、それは叶わない。
今、はっきりと口にしたことにより、関係性も変わった。

早く捨てるように言うべきだった。
今日まではっきりさせなかったのは、俺の甘えだ。
フィリスへの申し訳なさが胸に広がる。
彼が知りたがったことを今まで引っ張り、決断を遅らせた。

「もうここには来ないよ」
「白藍!」

不服なのは、見ればわかる。
だからといって、言い分を聞くはない。
この話題があるたびに、薄々考えていたことだった。
上司の前であれば、さすがに彼も話題は振ってこない。
そんな危険なことをする人間ではないと、知っている。

「深く関わりすぎたんだ、互いに」

彼の目が、不安げに揺れている様が珍しい。
それでもここで俺は伝える。何も残らないように。


フィリスが、ここまで追ってくるとは思ってなかった。
白藍として相対したときの驚愕は、今でも鮮明だ。
探してくれたこと、心配してくれたことを嬉しいとも感じた。

けれど一瞬で、わずかな間の話だ。
昔を知る人に会いたくはなかった。
俺は、彼に、会うべきでなかった。
こうして思い出すことを俺自身、良いとは思っていない。

世話を焼いてもらい、安心できる空間ももらった。
一緒にいることで感謝した面もあり、ありがたい存在であることは確かだ。

でも、これ以上は邪魔になる。
戻りたいと思っているのは、彼だけじゃない。
自分の中にそんな願望が多少なりともあることを認める。
だから余計に、そんな馬鹿なことを本気で願う前に断つ。

もっと深くに沈めなければならない。
彼の手から離れた手を強く握る。
白藍として、存在するしかない。
その状況で、昔を思い出させられても苦しい。揺らぐだけだ。
揺らいだところで、結局は打開できない現実が待つだけなのに。


だから離れる。
離れてしまえば、ひとまず回想の機会は減る。
フィリスが諦めるかどうかまでは、知らない。

過去と変わらず、今も己で精一杯だった。
自分を安定させることに必死で、相手を思えない。
その申し訳なさは今は封じ込めた。
今この瞬間は、それを滲ませる時じゃない。


「ありがとう」


今までを思ってくれたことに、精一杯、笑ってみせた。


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