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第五章第二話 記憶に居続けた人へ



久しぶりの大雨だった。
窓越しに聞こえる音は激しく、雨粒だけでなく、窓縁に当たった滴も跳ねて、窓を叩いている。

そこから外を見てみても全体が白く霞んで、遠くは見えない。
最近点灯されたイルミネーションも、今は消されているだろう。
少し外れた位置の事務所からも見えていた赤や緑も、今は見えない。
外はただただ無彩色に見えた。雨の所為で全ておぼろげだ。


「シロ」


奥で座る人から、お茶の一言が続く前に動いた。
もう仕事の大半は片づいているし、何かを新しく言い渡す時間でもない。
ぼんやりと眺めていた外から目を外して、年末の冷気が伝う窓から離れる。

銀色のシンクにひっくり返していたマグカップを起こした。
傍に立てかけていた茶こしを上において、茶葉を適当に入れる。
あらかじめ保温状態だったポットのロックを解除、湯を入れて少し待つ。

ついでだと思って、自分の分も準備した。
インスタントコーヒーを瓶から直接、カップの中へ。
お湯を注げば、香る程度だった緑茶の匂いが掻き消えてコーヒーの匂いが立った。

もういいだろうと茶こしを上げて、シンクの中へ置いた。
自分の分はそのまま置いて、何かを読んでいる風な上司まで歩く。

「お茶です」
「んん」

こっちも見ずに手元にある書類に目を落としている彼の斜め前に、コップを置いた。
熱いですよ、と一応注意促したが返事はなく、聞こえているのかどうか。

言うには言ったのだからいいか。
半ば投げた思考で、自分のコーヒーを取りに戻る。
飲みに自分のデスクへ帰る前に、茶こしを軽く洗ってまた立てかけておいた。


「雨、やまねえなあ」


茶をすすりながら、上司が白い窓を見て呟く。
穏やかになる様相を見せない空、昨日まで晴れていたのが嘘のようだ。

「しばらく止まないらしいです」

インターネットで見た情報を、上司へと通す。
今日どころか、予報では明日もこの雨は続くらしい。
少し穏やかになるなら外にと考えていたけれど、この分では無理だろう。

今日の晩飯は此処にあるものでどうにかしよう。
この天気じゃ、歩いて数分の距離でも買いに行きたくない。
わざわざ濡れてまでインスタント以外が食べたいというわけでもないし。食べられれば良い。


「この時期にこんな酷い雨は、2年ぶりか」


去年はなかっただろう。
そう零した後、まっすぐ俺に向かって細められる目。
同じ天気だった2年前のその表情は、俺へ罪を突き付ける。

そうですね。
心を滲ませないように気をつけながら、相づちを打った。
そのまま、カップの中で揺れるコーヒーに、視線を落とす。
2年経った今でもまだよく覚えている事柄を、そこへ映した。


同じように、周りが白く霞むくらいの大雨だった。
雨の粒は痛いほど激しくて、雷の光と音が時折届いた。

違っていたのは、降り始めくらいかと目を閉じる。
今日は朝から弱い雨が降っていたが、2年前は夕方からだ。
丁度あの人と向き合った時から、徐々に降り出し始めた、雨。


目を開いて、コーヒーを口に含む。
じわじわと食道を通って、熱い液体が体内に入り込む。

「よく覚えてますね。2年前の天気なんか」
「あのときはこっちでも少しあってなあ」

濡れたまま帰った俺と、いつもの時間を過ぎても此処にいた上司。
少しあった、と言う内容が自分に関するものだったのか、別件だったのか。
頭の隅で小さく気にしていた事柄を、今更に聞く気はなかった。
聞いたところで、終わった話なんだろうと流されてしまうような気がした。


聞き出した住所の近くで、対峙した青色。
記憶にあった姿からずっと変わった姿を、思い出す。
相手は記憶よりも少し老いていて、もう見上げる必要もなかった。
それでも何かわからないものは同じ。空気か雰囲気か、その類いのものが。

あの人の憎悪をぶつけられたのは、随分と久しぶりだった。
もう無いのだと嘘を信じていた気持ちと、同一かと疑っていた頭は、一瞬で冷めた。
全身が竦む恐怖心を思い出しかけたのも、伸びる手に感じた恐怖も、過去に戻った。


今の自分の首に、自らの手を這わす。
冷たい体温が、通った筋道を主張する。

時間が経っても、結局は何も変わらなかった。
自分の中の感情も、相手の中の憎悪も、変わらず。
殺してやると言い連ねた俺に対しても、やっぱり何も変えてくれないままだった。

身長は変わらないほど伸びたのに、冷たく冷たく見下ろされた。
カラーコンタクトで隠していた青い目も、変わらないと嘲られた。
捨てられた俺はいらないままであって、あの人がいたからだと押し付けていたことも同様。


人殺し。
罵られた言葉を痛く感じた。
里親とのことすら知って喋る態度が、恐ろしかった。

けれど全部、あんたの所為だと俺は思っていた。その時でも。
責任転嫁に何の違いも無い。嫌っていた本人と一緒のことをした。
身勝手に押し付けた俺の言い分を聞いて、あの人はどう思ったんだろうか。


記憶の中で、その人の表情はよく見えない。
俺は相手を睨んでいたが、相手を見ているわけじゃなかった。
自分の中で起きた置き換えは仕返しのつもりでしかなく、その人個人には何の関係もなかった。

あの人も俺に押し付けていた。
俺はそれがつらくて、だから同じように辿ってしまった。
自分の逃げ道にして、楽になったって、いいだろうって。
思い返して、自嘲した。


「雷」


パ、と外が光った。
応じるように、部屋の光が点滅する。

「おーおー…、停電しなきゃいいが」

数秒してなんとか安定する蛍光灯。
どこか軽い口調は深刻には捉えていない。
もし停電しようものなら、此処はほとんど何も出来なくなるのに。

そうとしてもこの人には関係ないか、とため息。困るのは自分だけ。
部屋を借りずに、支部に寝泊まりしているのが悪いと言えば悪いのだけれど。

フィリスが入ってからは、こういったときの避難先に彼の家を使わせてもらっていた。
といっても、去年の夏にエアコンが壊れてからは、ほとんど同居みたいに入り浸っていたが。

それはもう取れない手段へと変わった。
停電しても今日一晩、耐えるしか無いと腹をくくる。
覚悟はするが、もう後は軽く体を流して寝るくらいだ。


何か有るとすれば明日だろう。
しかし強い雨は今日がピークらしいし、明日は明日でなんとかなる。

楽観的な答えを出した後に、ぱらりと乾いた紙の音が耳に届いた。
2、3枚が軽く擦れ合う音。


「白藍。お前は満足したのか」


投げかけられた質問に、上司を見た。
2年前に聞かれた言葉と、同じ声色がまた俺を問う。

「満足、」

言い表す言葉を取り出そうと、一旦声を出す。
今はどう思っているだろう。あの時はわからなかった。

「満足、というよりは」

心の奥が静かで、言葉が潜り込んで出てこない。
もどかしい感覚はなく、実際は言葉に出す気になれないだけだ。
何もかもの終わりを見た気分、固執したものが消えた瞬間。寂しいとは違う。

確かに思ったし、信じていた。
これで良くなるなんて都合の良いことだけ思って、刀を握った。
相手を害すことが罪滅ぼしなんて思いながら、仇だなんて思いながら。
自分を否定した存在が嫌で嫌で嫌でたまらなかったから、強くなったから、とか。


昔、死んだ殺したと聞いた時の感情とは違っていた。
そんなはずない、敵わない相手、誰よりも絶対だった人がそんなやすやすと。
間接的に伝えられた死は、何か言い訳をつけて、でもそうではないと絶望する繰り返しを招いて。

夢にまで見た。
本当は死んでなんかない。また俺を責める夢。どこかで見ている夢。

でも起きてしまえば、どこにもいないなんて嘘が待っていた。
そして行きようのなくなった思いが渦巻いて、その時の自分は馬鹿みたいに、自分を止めた。


実際に自分の前で消える過程を見てしまえば。
自らの手のひらを広げた。ただの肌色だけ。

傷は綺麗に癒えた。昔と違って完全に癒えた。
元より、それほど体へ傷はつけられなかった。
一挙一動が心を抉ることはあっても、相手は日常を過ごしていた途中。ろくな準備もなかった。

今の自分と同じところに身を置いていたのに、油断していた相手が悪い。
相手もただ生きてきたわけではないはずだ。なのに警戒を怠った。
あの人の存在だけに、小さな刀の一本だけに、負けるほど、俺はもう。


相手が倒れたとき、自分の末路をそこに見た気がした。
同じように都合の悪いことから目を背けて、同じように人を殺して、気づけば同じ組織にいた。
あんなに自分は嫌悪していたくせに、そこまで一緒になっていた。馬鹿らしい結果。


「満足も何もなくて」


待ち望んだ解放感も、やっと越えたと思える達成感も。
ぐるぐるとした中で、特に何かが浮かぶことがなかった。


来た刃を避けて、刺して、血が溢れて、…青い目が閉じて。
だんだんと冷えていった体温に触っても、雨に晒された動かない腕を見ても。
何も浮かんでこなかった。強くなったはずなのに何も嬉しくなかった。呆然とした。

雨はばちばちと自分を叩くほど強くて、痛かった。
同じように叩かれているあの人は、ただ叩かれ続けていた。
雨によってあの人の体温が失われていくのを止めてみたかったが、傘は持っていなくて。
父さん、なんて久しぶりに呼んだところで、もう怒られもしなかった。

雨雲が厚くなった空は光をより遮って、唯一の明かりをともす街灯も遠かった。
怯えて見ていたことしかない父親の顔は、その時は頬が痩けて、弱々しげに見えた。
記憶の限りでは触れたことのない顔に触れて、凹凸に触れて、それでも動かなかった。何も。


しばらく、死体の傍に座り込んでいたと思う。
今からすると随分危うい行動をしていたと、自らに呆れる。
元々、人通りの少なかったことが幸いして今のところ、見られた情報は入ってないが。

そして気が戻ってからは仕事のように、対応支部に連絡を取って要請した。自分では運べなかった。
同じ組織の人間の処理を頼む躊躇はそのときにはなく、後から気になったものの、今まで結局お咎めはないままだ。
シグナルからしてみれば、ただ空き番号が出ただけに過ぎなかった。

その番号が今、どうなっているのかは知らない。
誰かにまわったのか、まだ空き番号としてそこにあるのか。
そもそも父親の番号を俺は知らないから、確認仕様もないけれど。
ふと、後に入ったフィリスの番号を思ったが、大体常に10個以上の空きがある。確率は低いだろう。


「でもどうする?」


相手はもういない。どうにもなりゃしない。

冷め出したコーヒーを一口、含んだ。
体温程度に温度の下がった苦みが舌を伝う。
戻りようのない事実を作ったのは、俺だった。

記憶にある2年前の感情に、目を閉じる。
それまでこだわっていたこと全て、溶けて消えた日。
横山 海は父親がいなければ生きられなかったらしい。


また一口、コーヒーを含む。
ふっ、と息が漏れた。天井を仰ぐ。

視界に入ってくる白髪は、随分と馴染んだ。
たまに着ける黒のウィッグの方が、違和を感じるほどに。


「父親以外、秀でて何も思えないんだろう。今も」


今も。
後に付け足された言葉を小さく復唱した。

けれど、上司に対して頷きを返すことはしなかった。
自らの左腕を弱く握るだけで、肯定も否定もしない。


ざあ、と一層雨が激しくなった音がする。
窓から少し離れた位置からも、うるさく聞こえた。

その雨が激しさを増すより早いか遅いか、部屋の電気がそろって消えた。
ブレーカーを一応。そう考えて、立ち上がるために体を椅子ごと回す。


そのとき、じっとした視線に気づいて、そちらへ顔を向けた。
暗い中でよくは見えないが、鋭い目をかろうじて俺の目が捉えた。

「最近、いろいろ動いてんな」

電気が消えて、どうしろという話ではなかった。
そうだ。立ち位置からして、相手が停電を気にする必要はない。
上司から俺は外からのわずかな光で見えている。対しての俺は。

大半が見えずに困るのは自分だけか。
どう動くのか、わからない。もう少し目が慣れれば、まだ。


突き刺さるようなプレッシャーの中で、無警戒でいるのは危うい。
すぐさま、回想に浸りかけようとする頭を止めた。
使えないと考えれば、この人はすぐに俺を切り捨てる。

時折、見極めるように俺の動作や行動を見られている気がした。
こうして空気が冷えた時は、そのときであることが多い。

「そうですか」

動いている人物に見当はついている。
知り合いの顔ぶれと、時期を考えれば簡単だ。

そのことに対して、じわりと重苦しいものが浮かぶ。
割り切れていない部分が広がり始める。広がるだけつらいのに。

「でもまあ、」

不意に衣擦れ音がして、暗闇が動いた。
すぐに目で追う。何事にもすぐ対処できるように。

でも存外、相手の声のトーンは緩んでいる。
いつもの軽口をいう声色と、掻き消えた冷たい空気。


「抜けることを止めはしないさ」


そのまま何もなく影は歩いて、ぱたんと出入り口の扉が閉まった。
上司の階段を下りていく一定のテンポが、壁越しに聞こえる。
だんだん遠くなって、下の扉が閉じる音で終わった。


「……」


何となく、席を立った。
まだ雨が激しく叩き続ける窓に触れる。

体温が窓に冷やされて冷たい。
指を縁取るように、窓が白く曇って広がる。
冷やされた血液が、ぐるぐると自分を巡る。

落とされた言葉の先は考えない。
ただただ、ぽつりぽつりと明かりを取り戻すビルを眺めた。


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