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第五章第三話 ずっと忘れない友へ
「そっちは」
「終わったよ」
お疲れ。
フィリスと声をかけあって、張りつめさせた自分の緊張を解いた。
まず切れた息を整えようとした。
呼吸をするたびに、鼻につく錆臭さと生ぬるい空気を感じる。
血なまぐさい部屋。
多くが血にまみれて、死体が床に転がっていた。
もがいた跡があるのもいれば、倒れたその形のまま絶命しているのもいる。
全部此処に有るのは、俺が殺した人間だった。片手分くらいの人数。
散々避けて撃ってを繰り返した体が、だんだんと調子を戻した。
浮かんでいた汗も、興奮が冷めるに従ってじっとりと冷えていく。
そして最後に、深い息をついた。
終わったことに対する達成感はない。
そのまま、ポケットに入れていたハンカチを取り出す。
血でべったりと汚れてしまった銃を、それで拭き取る。
手を動かす度に、紺色の布地へ赤黒い滲みが広がった。
スーツにも血は飛んでいるだろうが、それは構わなかった。
すれ違う人から気づかれなければいい程度にしか、気は払わない。
此処でどうにか出来るようなものでもないし、と拭き終わった銃を腰のホルダーへ仕舞う。
もともとこのスーツ自体が、それ用のものだった。
警告から、そのまま処理作業に移行しても問題ないように。
そう決めて、汚れても大丈夫な一着として持っているのがこれだった。普段使う仕事用とは別にしてある。
「始末と運転呼んだから、いこうか」
階段に近い位置の彼が携帯をおろして、一つの光が閉じた。
銃撃で割れ落ちた蛍光灯が、その光にきらきら光って消える。
了解した旨を伝えて、床から目を上げた。
どうせこの拠点も中身ごと処理される。
拭き終わったハンカチは、ついでにとそこへ捨てた。
一階に降りるために、血が覆った廊下を歩く。
靴底にべったりと血がついているのが、水音でわかる。
後々が面倒だと思って避けようとは思うが、無理かとため息をついた。
点々と転がる死体から流れ出た血は、廊下の大部分へ広がっている。
出るときには靴底をしっかり拭いておかなければ、と注意を頭に浮かべる。
外でもし、足跡でもつけてしまったらと思うと恐ろしい。
少しくらいであれば、あまり拭かずとも大丈夫なのに。
「面倒くさいって顔してる」
歩きついた先のフィリスが言い当てた。
「拭くもの持ってたりとか、」
「探したらあったよ」
此処のものでやればいいと言わんばかりだ。
実際、その意図で話されたんだろうけれど。
そして、フィリスはわずかに笑って俺を見る。
「白藍の撃ったところは、まだまだわかりやすいね」
その顔で言われたことは、耳が痛い。
そして差し出された来たときに汚れない場所へ置いていたマフラーを、受け取る。
シャツに着いた汚れが見えないよう、それを大きく首へ巻き付けた。
渡してきた本人も巻いているものの、きっと汚れは俺よりもずっと少ないんだろう。
スーツも大して汚れていないように見えるし、顔に小さな黒子のように血が飛んでいるだけ。
自分で気づく場所を既に拭いているからかもしれないけれど。
それでも、彼が俺より酷く汚れているということはないだろう。
顔はさすがに自分では気づかないかと思って、指先で彼に伝えた。
自分では、狙いすましたつもりだった。
急所を狙って、固定して、避けられる前に。そう撃ったつもりだった。
しかし動く相手の急所へは上手く当たらず、やけに血が巻き散った。
最低限にはほど遠い、弾数と汚れ。
弾の無駄使いだと詰(なじ)る上司でないだけ、彼の物言いは優しい。
けれど、言われている内容は彼も上司も同じことだ。
上司やフィリスのような一発には、まだほど遠い。
年単位で使っているにも関わらず、これだ。
数年ですぐに上達するとは思っているわけじゃない。
自分なりの練習はしているつもりだった。
おかげで、止まっていたならほぼ当たるようにもなった。止まっているものなら。
動きになると、使い物にならない。
ついでに言えば、経験も足りない。
上司が嬉々として下す指摘は、その通りだと自分でも感じる。
気落ちを隠せないまま、階段を降りた先には干されている雑巾。
今まで仕舞われていたんだろう。干すもの自体が汚れていなかった。
必要になることがわかって出してくれているフィリスの気遣いが、有り難い。
その一方で、力不足がマイナス面を引き出す。
恐らく彼が1階を進んで引き受けたところも、彼の気遣いだ。
二階の俺の惨状がわかっていたから、ドアから見えてしまうかもしれない一階を引き受けた。
あまり考えるとためにならないと切り替える。
駄目な部分だけが見える状況。それを受け入れて、頑張るしか無かった。
気分が上がらないまま、靴底は丁寧に拭いてから外へ出た。
極力中が見えないよう、最低限の隙間から抜ける。
街は気にも留めないだろうが、一応の注意だった。
もしもがあることは、避けなければいけない。
あったときになじられるのが嫌だ。
そして事務所の前でフィリスを待つ。
一人で来たこの場所も聞き入れなかったと、行き交う人を眺めた。
聞き入れなかったのは此処だけだったわけじゃない、今回だけじゃない。
警告を入れても聞き入れないなら、処罰する。
その流れをスムーズになぞる人も組織も、多かった。
むしろ、警告したことでより過激になろうとするのもいる。
流れを見送って少し、俺と同じようにフィリスが出て来た。
お待たせ、と言った顔には、散っていた血液は残っていない。
運転役との待ち合わせ場所まで向かうために、すぐ傍の路地へと入る。
前は一人で通った道を、今度はフィリスを先頭にして歩く。
運転手の待ち合わせ場所が変わった。
連絡を取った後に、そう謝罪する彼だけが、今は場所を知っている。
変更になった理由に、もしかして、と思い当たることがあった。
すぐにあるはずがないとその意見は否定した。違うはずだ。
ここを歩いた後のことは、誰にも言っていない。
記憶に向けた意識を、暗がりに戻す。
またなんてことは、ない。
あちこちを曲がって、尾行に備えながら彼と歩いた。
ビルの合間を進んで、曲がって、進んで、曲がる。
繰り返していくうちに道を考えるのはやめた。
目印も無い壁ばかり、しかもよく来る場所でなければわからない。
「此処かな」
言われたものの、まだ来ていないらしい。
ぐねぐねと歩いて出た先は、前と同じ通りだった。
煌々と光る自動販売機を前と逆に通り過ぎて、同じくらいの距離。
ふ、と右手で首に触れる。二人で待つのはつらいかもしれない。
部屋にいかないと言った一件以来、どうにも俺が言葉が出ない。
彼は次の日、いつも通りだった。
いつもと同じように顔を合わせて、仕事をして、話す。
期待していた通り、事務所で過去のことを話そうとはしない。
戸惑ったのは自分だった。
もう少し、距離が出来るものと予想していたのに、実際は。
「何か暖かい飲みもの買ってくるね」
フィリスが長く息を吐いたと思ったら、そう告げる。
「あ、い、」
「来るの待ってて」
一緒に、と言いかけた声は遮られてしまった。
誰もいなかったら困るでしょう。
そんな風に諭されてしまえば、もう動けなかった。
全てわかって言ってるんだろうから、敵わないと感じる。
別に飲み物もいらなかったけれど、そうとも言わせてくれなかっただろう。
また別の言葉で、気を使って何かを言う。彼は俺よりずっと上手だった。
徐々に、道の奥へと歩いていく背中を見送った。
は、と吐いた息が白くて、たまに相手の姿を曇らせる。
首に巻いたマフラーで口元を隠して、来る方向だろう道路の先を見据えた。
けれど見た限りではまだ車が来る様子はなく、静かな冬が周りへ広がる。
壁を作りたいのに、上手く作れないのがもどかしい。
覆ったマフラーで暖まった空気を吸い込んだ。
マフラー越しに吐いた息は、とても白く空気に浮かぶ。
年が明けて、より寒さを極めた空気を感じながら、今後はと目を閉じる。
「よお」
しかしフィリスとは別の声が、鼓膜を叩いた。
フィリスが暗闇に消えて少し後。
何かが来ているような感じはあった。
ただの通行人だろうくらいに考えていたが、まさか。
またこのタイミングかと、前を向く。
前も通行人と間違ったことを思い出した。
俺は馬鹿かと、二度目の判断ミスをした自分を責めた。
マフラーに埋めていた口が、冷気に触れる。
一度見られた相手から顔を隠す必要は無い。
静かに息を吐き出せば、白い息はすぐに掻き消えた。
「ユロ」
重苦しい空気が声になった。
アスファルトの硬い音が、空気に冷やされて耳に響く。
あの日のようにはならない。
そう覚悟して、手を後ろへ。銃を取り出せる位置へ構えた。
何の用で、此処にいたのか、これがただの偶然かどうか。疑うことは多い。
数週間前と同様に、この男は同じタイミングで此処にいたとでもいうんだろうか。
まさかと切り捨てる。二回もそんなことは起こらない。
なら、と奥歯を噛んだ。どうして此処に居る。
「雪でも降りそうな寒さだな」
今日の冷たく透き通った空気は、確かに彼の言うとおりだった。
既に数回、この冬に雪も降っている。
今日も降ったところで、不思議じゃない寒さではあった。
「近づくな」
けれど、素直に肯定はしない。
彼の言葉への返答はせずに、ただ剣呑な空気で返す。
相手とは、世間話をする仲ではないと自分へ言い聞かせた。
緊張感を無理矢理に作り上げて、相手が作ろうとした穏やかな雰囲気をかき消す。
この相手とは、すぐに離れてしまいたかった。
フィリスを普段から遠ざけたように、この男も。
捨てるなら全てを切り離したかった、自分が辛くないように。
しかし迎えを頼んでいることで、自分が移動するわけにもいかない。
フィリスが離れていることもある。自分からでは、今回の担当への連絡が取れない。
どうするのが最善か、思考を巡らせる。
この男は早々に追い返さなければ。早く離れたい。
「なあ」
俺の言葉は無視され、一歩分足が動く。
そのことに、やっと熱の失せていた銃を取り出した。
「寄るな」
銃を彼の顔へ向けた。
すぐ撃てる状態まで用意をして、神経を尖らせる。
それを見た彼は笑顔を消した。真顔になって俺を見る。
けれど降ろすことは考えない。
この間の二の舞はごめんだった。二度と。そう決めた。
「おまえは撃てねーだろ」
その決意を知らずに、相手はまた顔を笑顔に戻す。
穏やかさを作るためでなく、自信ありげな笑みの形。
絶対に。そう付け加えるような表情で、俺へ笑ってみせた。
「撃てる」
だから証明するように、ユロの足下を撃つ。
アスファルトへ弾が当たって、堅い音を返す。
相手は避ける素振りを見せなかった。動かなかった。
どこから来るのかわからない自信を持ったまま、静止している。
撃たれた足下を見る動作すら、男にはなかった。
見る必要はないと言われている気分にさせられる。
本当に、俺が本人を撃たないと思っているように。
でも、撃てる。
捨てた以上、追い返さなければいけない。
震えだしそうな右手を、左手で握り込んだ。
「なら撃ってみろよ」
挑発的な言葉と共に、俺だけ張っていた緊張が双方のものになる。
容易に軽々しく動けない、慎重さを持たせるような空気。
その空気の中で、真剣な面持ちが言った言葉。
まっすぐ俺の前に立って、撃てと言った。
煽られたことに、カッとなることは無かった。
ただ、言葉に止まる。その意味に、止まる。
自分の迷いを、見せられた気がした。
一歩、相手が前へ進み出る。
地面へ靴が降りて、音を立てた。
そこで放心した意識が我に返った。
すぐに相手の肩へ、照準を合わす。
外さないように、しっかりと構えて、固定。
「急所、撃ってみろって言ってんだよ」
あえて相手は、狙いが喉に当たるようにと横にズレた。
確実にこのまま引き金を引けば、相手の喉元を弾が通る。
ユロが歩き出す。
肩に合わせたはずの照準の先は、喉元のままだ。
撃ってしまえば致命傷にはなるだろう位置のまま。
相手は歩いてくる。
距離をつめてくる。
このままじゃ、
「近づくなッ!」
これ以上、近づかれるわけにはいかない。
体を撃たれれば、さすがに止まると判断を下した。
考え込む時間はなかった。
今すぐにどうにかしなければいけないと、焦った思考は思う。
どうにかする。
その思いで固定した腕が動く。
人差し指が引き金を引いた。反動。
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