本編 第二章第二話 読了後推奨。

SiGNaL > ふたつなみだ



「かーい」

ぱっと目をあけた。

ぜえはあ、うるさい声がした。俺の呼吸の音。
変な音が大きくなって、普通の音じゃない音。


落ち着けないと駄目だった。
心臓のところを押さえる、押さえられてるみたいに苦しい。
汗で服がひっつく。気持ち悪い。体がどくどく揺れる。

は、は、と走った後みたいな息が続く。
どうやっていっつも、普通の息はしてたんだろう。
考える、でも苦しくて、どうやったっけ、どうやったっけ。


ゆっくり空気を吸い込んだ。
すぐ空気を吐き出しそうになるのをちょっと堪えて、ゆっくり。
それで次は、一気に吐きそうなのを、ゆっくり吐いた。ちょっとずつ。

何回か繰り返した。
だんだん、そのおかげで変な音が出なくなっていく。
自分が揺れてるくらい大きかった心臓の音も、小さくなる。


ここどこ。
息が戻って、思った。
此処は、匂いが違う。

どこだろう。
家。家じゃない。
家はこんな匂いじゃない。もっと、もっと。


誰かが頭を触った。
驚いて、歯ががちって鳴ってしまった。

そしたら触ってたのが退いて、見えた。
手、触ってたのは俺とおんなじくらいの手だ。

手を辿ったら、ベッドの横に立っている涼ちゃんが見えた。
父さんじゃない。父さんじゃなかった。じゃあ、とうさんは?


「大丈夫か」


声がして、何か言った。
橙色のカーテンがふわふわしてる前にいた、涼ちゃん。
涼ちゃんなら、俺の知らないこと、何か知ってるのかな。

「どこ?」
「びょーいん」

病院。
違う匂いって思っていたのは、薬の匂いだった。
病院だから、こんな匂いがしたのか。

真正面にある天井を見た。
白い天井に、カーテンの橙色が映ってる。
白くて、明るくて、家じゃない病院。


どうしてなんだろう。
どうして暗い部屋じゃないんだろう。怖いところじゃないんだろう。
此処は散らかった部屋でもない。ずっといたあそこじゃない。病院。

だって。思っても、先が出てこない。
父さんは此処にいない。なんでいないんだったっけ。

「家帰る」
「海」

起き上がろうとしたら、涼ちゃんが止めた。
肩をもう一回、ベッドにくっつけられる。

「もうあそこ、空き家になってる」

眉をへの字にして、涼ちゃんが言った。

「なんで」

何も考えないで、口から出した。
だってあそこには母さんもいたんだよ。
俺のものもあったんだよ。父さんもいたんだよ。


頭の中に散らかった部屋が出て来た。
花と線香が供えられてた母さんの遺影も、ぐちゃぐちゃな俺の部屋も思い出せる。
俺が住んでる家。母さんと父さんと、一緒にいた家。

あそこは怖いけど、俺あそこに帰らなきゃ駄目だった。
だって居られるのは、あそこしかない。他はどこもない。
父さんがいるけど、父さんは、静かに、良い子にしてた、ら?


背中がぞわってした。怖い。
早く、はやく帰ろう。布団に包まって、寝たらわからなくなるはず。

早く帰って、父さんがいないうちに、ご飯食べて部屋にいればいい。
それで父さんに見つからないようにして、良い子にするんだ。
そうしたら、良い子になったら父さんは俺のこと、きっと。


早く、と、ベッドから起き上がって降りようとした。
けど、また涼ちゃんが止める。

「帰るから、またね」

ばいばい。
そういって降りようとしても、やっぱり涼ちゃんは止めたまま。
起き上がろうとした体を、涼ちゃんの腕でベッドに戻される。

「海のもの、全部うちにあるから」
「どうして?」

聞いた途端、涼ちゃんの顔が、しまったって顔になった。
それからちょっとずつ困った顔になって、俺を見なくなった。
俯いて、前髪が涼ちゃんの顔を見えないようにした。
なんでそんな風なんだろう、涼ちゃんらしくない。


でも本当にどうして、俺のものが家からわざわざ出したんだろう。
そんなことしなくても良かったのにと思った。
父さんに壊されるのなんか慣れっこで、仕方ないって知ってる。
俺が全部悪いから仕方ないんだ。良い子になれてないのが、悪いんだから。

しつけもちゃんと頑張って耐えるから大丈夫。
ちゃんとしつけされないようにも、ずっと頑張る。

「あ」

しつけ。 

「あ」

そうだ。違う。とうさんは。
目が熱くなってきた。喉に何かが詰まったみたいに、息も詰まってきた。


「あ、」


父さんは、俺なんかいらなかったんだ。

思った瞬間に、涙がぼろぼろぼろぼろ落ちだした。
頑張っても駄目だったんだ、むだだったんだ、おれじゃだめ。

怖い。見えない手が俺の首に伸びる。
ぎりぎり締められる、ぎりぎりぎりぎり。

息が出来ない。息が出来ない。
しなくてもいいから?

「落ち着け、かいっ」
「いやだ、いやだ!」

触る手が、怖い。この手がきっと殴るんだ。
しつけだっていって、何も、何してもだめだから。

「ナースさん! ナースさん!」

ばたばたした音と、誰かが大きく叫ぶ。
頭の中がぐらぐらした、何を言ってるかわからない。

「ご、めん、なさい」

きっと俺を責めてるんだ。
俺が悪い、俺が悪い、おれがわるい。
あやまってもきっと済まない。だめだ。

「ごめんなさい!」

誰かが触った。自分よりおっきな手。黒い手。
黒い手が触れる。頭ががんがん痛くなった。

頭が痛い。
痛いのは嫌だった。でももっと、いらないは嫌だった。

良い子になれるように頑張るから、頑張るよ。ねえ、とうさん。
だから、いらないって言われるのは、いや、だ、いやだ。
浮かぶみたいな、沈むみたいな感覚に流されながら、思う。

謝るから許してほしかった、謝るから捨てないで。
俺が全部悪いから、謝るから、謝っても駄目だけど、でも。

でも、いたい。

がちゃがちゃ、声も音も、うるさい。
ぷかぷか浮いたのと、ぐらぐら暗くなっていくのとが俺へ覆いかかった。

「ごめんなさい」

いたいよ。
感覚の失せた手を誰かが握る圧力。
でも全部は全部、別の人に向いたまま。


「おれのせいだ」


俺の声じゃない声が、俺の心を代弁した。
わかってるんだよ、ちゃんとわかってるのに。
ぎりぎり。ぎりぎり。力が入らない、頭が痛い。



「オレが、守る、から」



prevsignal pagenext

PAGE TOP