本編 第三章第四話 読了後推奨。

SiGNaL > わからずや。


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はあ、と吐き出した息は白い。
いきなりの冷え込みに、雪さえちらついている。
予報であれば、この冬一番の冷え込みになった今日。

着込んだ体とマフラーを巻き付けた首は、その気温の中でも何とか暖かい。
いつもよりも多めに服を重ねて、一応と上司に貸していたマフラーを取り返しておいて良かったと思う。
けれど、今、何もつけていない手はじんじんと寒さに痛み始める。

そこへもう一度、今度は自分の両手の中へ空気を吐き出した。
じわ、と手のひらは一瞬間暖まって、元の冷えを取り戻し始める。
それを逃さないように、ゆっくりと両手を擦り合わせて少しでも暖を留めた。


「いる?」


隣を歩く、手を擦り合わす俺に気付いたフィリスがポケットから出したのは、小さなカイロ。
正直、それはとても暖かそうできっとこの冷えもマシになるだろうと思えた。

しかし、彼がしていないマフラーを俺はしっかりと巻いている。
それなのに、好意で言ってくれているとはいえ、彼の唯一だろう防寒品を取り上げてしまうのも何だかためらわれた。

けれど、マフラーで首元を暖めても手先は冷える。
そして息で手先を暖めても、それはすぐに冷気にさらわれる。


どうしようかと迷っているうちに、僅かに隣から吐き出された白いため息。
何かと思ってそちらへ視線を向ければ、はい、と目の前に差し出された白い袋。

いきなり視界の多くを占めたそれに少し驚いたが、すぐに片手でそれを押さえる。
俺の手が完全にカイロを押さえたことを確認して、カイロからフィリスの手が退いた。
手のひらへ、じんわりと広がる自分の吐く息よりも数倍暖かな熱。

「これ、」
「貰って」
「でも、」
「もう一つあるから」

俺が完全に言い切らないうちに、フィリスは全ての言葉を言い切ってしまう。
そして、証拠に、とでも言うように上着のポケットから同じ白い袋を出して俺に笑いかける、静かに。

その様子は、たまにこうやって反論を許さない空気を醸し出す。
それがフィリスに自覚があってのことなのかどうなのかはわからない。

「ありがとう」

礼を告げれば、うんと満足げな答え。

とりあえず、両手に収めたカイロは暖かい。
それで良いかなと思った、彼について考えたってある程度の限界はある。
このくらいの距離感を一番望んだのは自分であるから、崩したくもない。


ああそうだ。

何かを思いついたように、フィリスが一言、声を出す。
貰ったカイロで両手の裏表を均等に暖めながら、前を見て彼の言葉を待った。


「今日、何か食べにいこうか」


彼の口から言葉で出されたのは、外食の誘い。
まさか出る言葉がそれとは思っておらず、思わず彼を凝視してしまう。
普段時に、滅多にそんな誘いはないし、そんな流れを作ることもないのに。

食べにいく誘いなど、特別何かあった日くらいだった。
今、すぐに思い出せるような特別は出てこないけれど、本当に滅多にないこと。

「どうして?」

てっきりいつも通り、夕飯を買いにいくかどうかや、何にするかくらいのものだと思っていたのに。
そこから始まって、フィリスの家に行く時の大体は家で済ませるのが、いつもの主であった。
今日もてっきり同じなのだとしていた頭は、予想外のことに疑問を掲げる。

一体どうして、今日に外食を選ぶのだろう。
その物珍しさに、理由が何故か気になってしまった。

「どうしても」

けれどフィリスは具体的に答えること無く、緩やかに前を向いて笑う。
ごくごく自然な動作で、俺の目は見られない。


外食の方が買い出しや調理も片付けも無い分、楽だとはわかっている。
事実、今の時期であれば、冷たい水にはあまり触れていたくはない。
けれど家で食べるのなら、洗うのは機械だとしても多少の水は仕方ない。

それでも俺は勿論、フィリスも、滅多に外食は選ばない。

恐らく外食を避ける理由の中には、俺が普段のままであれば目立つこともあるのだろう。
多くの黒髪や茶髪の中に、別段年老いたわけでもないのに、白い髪なんておかしく思われないのが珍しい話だ。

仮に今のようにカラコンやカツラでカバーすれば、周りには馴染めるだろう。
けれど、それを俺自身が鬱陶しがっていることも、少なからず関係はあるのだろう。


一度、俺が原因なのであれば気にしなくていいと伝えたことはある。
別に我慢出来ないほどではないし、慣れてしまえば大丈夫だと思える。
それに外に出る際は必ず付けているのだから、それが少し増えるくらい別に構わなかった。

けれど、フィリスは軽く頭を振るだけで済ませる。

『家でのんびりする方が好きだから』

気が使われたのか、本音なのか。
そう目を閉じて笑いかけるフィリスは、それを読み取らせない。
それに外食だとお金かかるし、そう続けつつ俺を見て、やはり笑うだけ。


どっちにしろ、有り難かったことには変わりない。
その時はありがとうと伝えて、それからは本当にたまに行く程度。

やはり我慢出来るとは言っても、着脱は今でも面倒でもある。
正直、活動時をカツラにした方がマシに思えて仕方が無い。
いちいち脱色する手間も、そうであればなかったろうに。


だからこそ、今回の提案が余計に驚いたのだ。
別段、此処最近の仕事が忙しくて、一気にぱーっとしたいわけでもない。
ほとんど書類関係だけで、警告も処理もなく、本当に平和の一言だった。

簡単に今日の日付を思い直しても、特別だと思うことも特にはない。
一月の終わりが近づき、寒さが厳しく留まってくる頃合い。
一月の二十七日、恐らくで出した日付で過去を振り返ろうとする。


しかし、途中でやめてしまった。
何かが、そうすることを推奨した。

「一旦、家で着替えてから行こう?」

スーツじゃ息が詰まるからね。

目は閉じられて、柔らかな音声が思考に落ちていた俺に届く。
それはまだ行くと返事をしていないにも関わらず、行く前提の話。

妙な強引さを感じた。
会話の運びがどことなく可笑しいと感じる。
いつもならば、一方的な会話なんて彼はしないはずだが。


それほどに、彼の私生活で何かあったのだろうかと推測を廻らす。
彼の表情からすれば、それが良いことであるのは何となくわかる。
少し内容を知ってみたかったが、別に気にするほどでもないだろう。

フィリスに何か特別なことがあったなら、それにつき合うのもいいと思った。
理由やら内容やらを、彼に言うつもりがないのならそれで別に良かった。
俺の好奇心によって、良い気分を壊してしまうようなことはしたくない。

「白藍は何が食べたい?」
「俺はいいよ」

シュウが選ぶべきだろう?
良いことがあったのはそちらなのだから、というニュアンスを込めて、彼の外用の名前を呼ぶ。


すらりと出た名前は、鈍く何処かを痛ませるけれど気になるほどではない。
やっと最近は、フィリスも日常会話の中でなら顔を歪ませる頻度は減った。
隠されている可能性があっても、目につかなければ言う必要も無い。

元々、掘り出されないように内包された部分なのだ。
それをわざわざ暴く必要なんて、どこにもなかった。


「それでも、シロが決めて」


オレはどこでもいいから。
譲歩の形が取られた、意思のこもる答え。

確かにフィリスは好き嫌いがあまりなく、どこへ行っても大丈夫なのだろう。
晩飯を聞かれた際に出す俺の食材の提案を、一度たりとも嫌がったこともない。
何でも食べていた気がするし、おいしいねと言っていたと俺は記憶していた。

もしかしたら、俺の好みと彼の好みが一致しているだけのことかもしれないけれど。


それでも、自分の特別な日くらい自分の好きなものを食べれば良いのに。
どこまでも俺の意志を尊重する態度を持つフィリスに、不満がないわけじゃない。
かといって自分の意思を持てだとか、そんな教訓めいたことを言うつもりはなかった。

俺がフィリスの好物を知っていれば、それを言えば良いだけの話だろう。
けれど生憎、フィリスが喜ぶ食事を俺は知らなかった。

「フィリス、」
「白藍が決めてくれないと意味が無いんだ」

何でも良い旨を伝える前に、真剣な目とかち合う。
冗談めいた軽さもなければ、普段の気軽さもそこにはない。

ただ俺を見て、何かを促すような視線。


その視線にずっと見られることが不意に怖くなった。
どくりどくり、心臓が変に大きく血を巡らせようと、急ぎ始める。

何故なのかわからない恐怖。
全身に響くほど、早鐘を打つ心臓。

姿の見えない何かに耐えられず、俺は目線を地面へと落とした。
黒のコンクリートが一面を覆い尽くした、何処にでもあるような道路の一片。
その平らな道を一歩一歩踏みしめながら、その先を視線でなぞりながら、歩く。
どろどろとした消化しきれない塊が、心の中に流入する気配を頭の隅で知る。


そのとき、ほんの少しだけ、頭の片隅で起き上がった予感があった。
無意識下の中で、十何年という記憶の中から選び出された事実を予感は見つけた。
それは、自らが疎んでいる記憶に該当している事実。

その予感が意識へ働きかけたが、俺はそれを否定する。
予感の出した答えは、今の自分には当てはまらないと告げる。
いくら彼でも、そんなことは百も承知しているはずだと、告げた。

ならば、フィリスの言う俺が決めた先にある意味は一体、何なのか。
そう考えた時に、否定した予感に変わる理由を俺は持ち合わせていない。


彼は、一体今、何を思っているのだろう。
今あるだろう真剣なまなざしが、どうしようもなく怖かった。
深く深く眠り込んだ部分を、彼が望んでいるような錯覚まで起こす。


ひやり。


「ごめん」


いつの間にか立ち止まっていた、自分たち。
頬に感じた冷たさは、フィリスの手だった。

「気分を悪くしたなら謝るから」

手は顔を上げさせるように、俺の顔をゆるりと持ち上げた。
交わる視線には片鱗は残るものの、だいぶ何かは薄れていた。
そのことで意識外に合ったらしい不安が解けるのを、遠くに感じる。


一度、目を閉じた。
ゆっくりと、呼吸を繰り返しながら。
ゆっくりと、浮かびかけたものを再度沈ませる。

それでも心に居座る塊は、未だに何処かへつっかえる。
どうしても気持ち悪い違和感、見たくない拒否感が心に刻まれる。



「大丈夫」



そして俺も笑う。

知らないフリをしていれば、恐らくこれは忘れていく。
全部、閉じ込めて押し込めて、放置していれば忘れられる。
コンクリートの下の土の匂いのように、忘れ去られていく。


それで良かった。
今までも無意識内では、きっとそうして来たのだ。
多過ぎる情報も、拒絶された記憶も、全てそうされた。

今はそれが意識的に行われているだけに過ぎない。
何も変わらない、どちらが悪いというわけでもない。

「じゃあ焼き肉がいい」

だから、これで良い。

「白藍は肉系好きだよね」

知らないフィリスは、少し笑いを噛み殺し気味で言い当てる。
得意げそうに笑うわけでもなく、穏やかにいつも通りに。

その仕草に、埋まらない年の差をほのかに感じた。
たかが数年、そんな僅かなはずの差を感じた。


子供臭いだろうかと急に恥ずかしくなってしまって、口をつぐむ。
同時に、眉に力が入って眉間に向かって寄っていく。

きっと傍目(はため)から見れば、不機嫌そうに見えるのだろう。
客観的に自分を思えたが、表情を戻すことはどうにもまだ恥ずかしかった。


それでもフィリスは、笑い続けた。
単純に、俺の顔が照れ隠しの類だとわかっているからなのだろう。
拗ねたような俺に対して、美味しいからねとフォローを入れるから、尚更わかっているのだと知る。


「プレゼントはないけど、ごめんね」


一瞬の間、思考の間。

プレゼント、フィリスの言葉をなぞる。
うん、と頷いたフィリスは申し訳無さそうに俺を見る。

けれど俺はそれを意識しない、出来ない。
一気に引き込まれた思考の世界は、暗い。
ぐるりと蠢いた予感は、正解していたことを主張する。
しかしそれどころでない頭は心は、予感なんて知らなかったようにショックを受ける。


そうか、フィリスは。

中途半端に止まってしまう思考、完全に答えは見つかった。
けれど此処まで来ても受け入れたがらない頭の所為で、言葉は止まる。

外食、一月二十七日、俺の意志、プレゼント。

四つは、十分答えに行き着くだけの力があった。
見て見ぬフリをし続けるにも、限界だと思わせるほどに。


恐らくフィリスは初めから、隠す気もなかったのだろう。
そうでなければ、此処までわかりやすく言いはしない。

彼が隠し通そうとしたならば、きっと何も気付かなかったんだろうな。
そういった苦笑しか、もう浮かばなかった。


「今日は帰る」


前を向いていた足を、出て来た事務所へ向け直す。
昨日のように休眠室で寝れば良い、彼の家以外のいつも通りだ。
何の不自由もない場所、こたつはあるし、食料も何かあるはず。


知ってしまったら、もう駄目だった。
いくら思考を外そうと、それを押しのけて思い出された事実。
恐らく、彼は好意でしてくれようとしたのはちゃんと理解している。

だけれど、だとしても、どうしたって今日だけはそれが嫌でたまらなかった。

「白藍っ」

焦ったように呼ばれ、捕まれる腕。
振り返る気は起きず、手だけで出来る限りの力で振り払う。
けれど、彼も離す気はないらしく、結局掴まれたままになった。


「まだ、嫌?」


フィリスが指しているのは、今日だ。
今日を祝うという行為を嫌っているのを、彼は知っている。

「悪い、また今度、食べにいこう」

彼の問いには答えず、外食のことだけに触れる。
今日でなければいつでもつき合うから、また今度。
懇願だった。


「白藍!」


腕を掴んだ手は、強引に俺を動かして、互いの距離を縮めようと引っ張る。
いつもならば彼が飽きるまでどうにでもさせるけれど、今は違う、足に力を込めた。


目の前が点滅する。

心の奥底からこみ上げて来るのは不快感。
誰にも関わりたくない拒絶が全身に広がりを見せた。
誰にも何処にも何にも、関わりたくない拒絶が生まれる。


だから思い出したくなかった。
関わりの切れた、死んだ誰かが俺を無機質に見つめる。

「離せ。見られてる」

彼が大声を出した頃から感じる、通りを歩く数人からの視線。
そんなに人数がいないにしても、注目されることは避けたい。
変に思われることも、なるだけ避けたい。


それでも腕を掴む力は弱まる様子はなかった。
少しだけ横目で様子をうかがえば、何かを迷うように、少し茶色味のある目が左右をゆっくり行き来している。

シュウ、名前を軽く呼んで、もう一度離すことを要求。
名前を呼んだことで俺を見た彼と、目が合った。


「行くよ」
「は、」


ぐいっと強引に、後ろを向いていた体をそのままに腕は引っ張られた。
あまりにもいきなりのことで、足にさっきまでの踏ん張りは利かない。

体は簡単にバランスを崩した。
何とかすぐにもつれた足を直したことで、転ばずには済んだけれど。

「ちょっ、おい!」
「大声出すと余計に見られるよ」

嫌なんだろう、とやけに強気で冷たい言葉がかかる。
さっきの俺の言葉を使った言い回しての言葉も、彼に似合わず挑発的だ。

すたすたと足早に進んでいくフィリスの体。
その手に繋がれた俺の腕の所為で、止まるに止まれない。

早く、事務所に帰ってさっさとこんな一日を終わらせてしまいたいのに。


そうしているうちに、次第に近づいてきたフィリスの住むマンション。
此処まで来てしまえば、もう事務所に帰ることは面倒に思えてしまう。

途中の横断歩道で何度か進まないように力を込めてみたけれど、効果はなかった。
それを苦にもしていないように彼は歩いて、俺はそれに引きずられて。
俺の言葉を聞くこともなければ、様子を伺われることもなかった。


「フィリス」


周りに人が居ないことを確認して、名前を呼ぶ。
やはり歩みは緩められず、振り返られることもない。
進んでいく足は一定の速さを保ったまま、交互に動く。


まるで俺の存在なんて、存在していないかのような気分だった。
誰からも見えずに聞こえずに、俺からしか見えていないような。

馬鹿馬鹿しいと心の中で自嘲気味に笑う、馬鹿馬鹿しいと思ったから。
俺は存在しているし、彼にしっかりと腕は握られている、痛いほどに。

「もう帰らないから。痛い」

此処まで来て帰るほど、面倒なことはしない。
音楽を聴きながらであれば大して辛くないが、机に置き忘れて来てしまった。
そもそも帰るつもりもなかったから、忘れた、と言うのは語弊があるかもしれないが。


それでもやっぱり手は離されなかった。
少し手の力が緩んだ辺り、一応俺の声を聞いてはくれているのだろうけれど。
この様子であれば、きっと部屋につくまではこのままなのだろうとため息を静かに吐き出す。

ぎゅ、と握られた手は、冬なのに暑いくらいの熱がこもっていた。


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