SiGNaL > そしてまた明日を歩く



は、と息を吐いた。
勢いよく覚醒した頭で、見える視界はまだ暗い。
うつ伏せて強く握りしめていたシーツを離した、皺は伸びない。

喉元に、何かがぐるぐると渦巻く感覚があった。
気持ちが悪い、頭が痛い、夢に引きずられている体。
目にへばりつくように広がっていた赤色、ぐずりとした感触。


強く掴まれていた足をベッドからおろした。
そのまま手を伸ばして、壁に触れる、それに体重を乗せながら歩く。
歩く足は夢の中よりは軽いが、思うように力が伝わっていない。

食道を逆流し出した胃の内容物を、必死に押さえ込んだ。
自分自身としては、すぐにでも吐き出してしまいたかったが、後処理はしたくない。
急ごうと気ははやるのに、足はゆっくりとしか動かない、ひきずるようにしか動かせない。

きっと今の自分は酷い顔色だろう。
額ににじんでいる汗を拭う余裕もない。
昼間は苦でもない距離、短いはずの距離が長く感じる。

背後がやけに静かで、ひたひたと音が聞こえそうな暗闇がやけに不気味だった。
白い壁を伝う手が赤く後を付けているのではないかとした不安も生まれる。


早く。

もつれないように足を運ぶ。
あれは夢だ、夢でしかないとしきりに頭の中で呟いた。
だって死んだ人間が此処に存在することなど出来ない。

やっと行き当たったトイレの扉を開けた。
覚えているスイッチの場所へ手をやり、橙の光が灯る。
出来るだけ、俺が今取れる出来るだけの早さで便器の蓋を開けた。


は、と一息、吐き終わった口で紡ぐ。
そして口に残っていた苦々しい味の唾を吐いた。
胃液が喉を焼いて苦しい、口の中が妙な味で満ちる。

そうして吐き出した内容物を見ないようにして、流す。
力を抜いていた足に、もう一度力を込めて立ち上がった。
冷蔵庫にある水で口の中をすすいでしまいたかった、このままだとまた吐きそうだ。


よたよたとした足取りで、また壁に手を当てて進む。
冷蔵庫の扉を開けば、冷気が頬を撫でた。
その中から目当てを取り出す。

とぷ、と揺れたペットボトルの蓋を開けた。
それを一気に口の中に流し込む、喉を通る液体の冷たさが頭を冷ます。

何口かそれを繰り返して、一旦、シンクに置いた。
そのままシンクにもたれる、全身がダルい、眠りに落ちたい。
しかし目を閉じれば想起してしまいそうだった、見たくはない。


ぴたん、とシンクに水が落ちた。
大きな水滴が底に当たって、小さな粒となって跳ねる。
頬に当たった粒はすぐに冷たさをなくして、生ぬるく。

立っているのがつらくなって、シンクを背に座り込んだ。
立てた膝の間に顔を埋(うず)める、本当の暗闇を迎える。
短く息を吐き出す自分の呼吸音がやけに大きく聞こえた。


黒色の中に記憶を見る。
紛れもない自分のした行為だと、心内で吐き捨てた。
この目で見てきた行為に過ぎない、夢はそれに余計な幻覚が付随しただけ。

血溜まり、苦悶、嗚咽、内蔵。
段々と増えてきた映像を噛みしめる。

何年分もの記憶。
一つ一つの表情が蘇ってくる、責めるような顔ばかりが。
ずっしりと何かがへばりついているように、体が重かった。


いのちのおもさ。
誰かにいつか説かれた言葉を思い出した。
上の空で聞いていた内容であって、よくは覚えていないが。
この体には、一体何人分乗っているんだろうなと苦く笑う。

自覚するまでは苦痛でも何でもなかった。
何も感じないで、ただ目標だけ目指していればよかった。
一度自覚して、実感してしまった時から離れなくなった。


重いと感じる。
常は考えずに済んでいるけれど。
でもこうして不意に、駄目になる。

潰されそうだと、吐いた息が震えた。


ぱっ、と、唐突に廊下とつながる部分から光が差し込む。
光に暗闇が薄れて、目に見えていた記憶が単なる床に変わる。
彼を起こしてしまった。


「白藍?」


ほら。
部屋の出口から呟かれた声が聞こえる。
その後に続いた、素足であるだろう足音も聞こえた。
近づくのを隠さないように、あえて出されている足音が。


立たなければと思った。
余計な気を使わせたくはない。
泊まらせてもらっている上に、心配をかけさせるまではさすがに。

項垂れていた頭を上げる。
体を起こすために、手を床について力を、…入らない。

「大丈夫?」

真っ青だ。

目の前にしゃがんだフィリスが頬をなぞる。
温い手の体温がじわじわと俺に移り始める。
頷いて笑ってみせる気力すら出てこなかった。


彼の手に頭をもたれさせて、目を閉じる。
大丈夫だろうか、多分大丈夫だとまだ言える。
潰されそうなだけだ、潰れたわけじゃない、明日になればまた立てる。
また明日も、この重い体を引きずって歩くことは出来るだろう。

どこまで続くんだろうか、

その疑問に触れたと同時、いきなり影が深まる。
何かと閉じていた目を開く前に、唇に手と別の体温。
柔らかな毛先が、肌にちくちく当たってこそばゆい。


「一緒に寝ようか」


保護者ぶりが随分と板についてきたことを、隠れて苦笑う。
立ち上がるためにと伸ばされた手に、掴まって力を込める。

この男も苦痛を味わったのだろうかなんて考えながら、引き上げる力に従った。


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