柊と拓巳が来る前の話。

SiGNaL > きっとだれにもとどかない



たん。

コンクリートの階段の最上段を、足は上り終えた。
今まで上ってきた段数を振り返ってみれば、結構な段数に見える。
一つ上の学年の階も通ってきたのだから仕方ないかと、階段から意識を逸らした。


そして向かっていた目的地の方向へ、体を向きなおさせる。
目の前には数年前に飛び降りがあったか何かで鍵をかけられた、扉。
立ち入り禁止、と藁半紙に手書きでかかれた注意文は誰かの落書きでひどく汚れている。

放課後も終わりに近い校舎は、寂しかった。
人は部活やら帰宅やらで、ほとんど校舎には残っていない。
時折聞こえてくる声は外からで、すぐ下の階にいつもいる上級生の声もなかった。
多分、今この近くにいる人間はこの先にいる一人だけ何じゃないだろうかとまで思えた。


そして静かな気分でその扉の取っ手に手をかける。
いつもならば人の存在を確認するけれど、今はいいとそのまま下へ押した。

がちゃりと少しだけ古くさい臭いと一緒に、重い扉は外へと開いていく。
ぶわっと一瞬で俺を通り抜けた風は、校舎内へと走り出した。

かき混ぜられた髪を、取っ手にかけた手と逆の手で軽く直す。
どうせ屋上に上がってしまえば乱れる、ならば丁寧に直すだけ無駄だ。
半ばあきらめ気味に整えながら、扉をくぐった。


その先、入り口から遠い場所に、運動部の声を背中に浴びながら、金網にもたれた涼の姿。
ぼーっと上へと向いたまま、たまに瞬きをする程度の視線。
空を見ているわけじゃなく、おそらくただ見ているだけ

俺は何故だかそれを、苦々しく感じた。
自分に出来ることなんてないと、知ってる。
乗り越えられていない俺が、言葉なんてかけられない。

だって、あまりにも空々しい。



とりあえず、と、屋上と階段を隔てる扉を閉じた。
できるだけ静かに、大きな音を立てて誰かに聞かれるのも困る、し、

思いながら、自分を電話で呼び出した人を見る。
未だ空の方向を眺めて、たまに目をじっと閉じるだけ。
きっと俺が此処にいることなんて、気づいていないんだろう。

憶測が浮かぶと同時に、音を立てるべきではないという空気が、俺の全身を包む。
あって当然の運動部のかけ声さえも、空気はどこか遠くのことだと感じさせた。


「りょう」


無理矢理にでもそのことを振り払うように、名前を呼んだ。
あまりにも現実味がなくなりそうで、足が浮ついて。

考えを振り切りたい一心の、戸惑い混じりな声。
嫌だと思いながらの声は、妙に弱々しくなってしまった。
涼の元に、きちんと届いたのかすらも怪しいくらいのもの。


けれど、ちゃんと声は届いていたらしい。
涼の、上にばかり向いていた視線は、下に降りた。
少しおぼつかない様子で周囲をさまよって、時間を使って、ゆっくりと俺へと動く。

こっちの方向に向いた視線、俺を見ているようにも見えた。
でもその視線は合っているとも言えず、どことなくまだ定まっていない。

弱々しくさえ見える、虚ろだった。


「おいで」


笑おうとしたのか、泣くのを我慢したのか。
どっちにも取れるような表情で、涼は俺にいう。
電話口で聞いたのと同じ声と言葉を、もう一度。


それを聞いた心が呟くのは、疑問。
俺、なんで此処に来たんだろう。

何を喋っていいかわからない。
話題なんて見つからない。
どうしようどうしよう。

「おいで、海」

もう一度、涼は俺に言う。
最初よりも、随分しっかりした声だった。
浮ついていた視線も、今はしっかり俺に固定されている。


恐る恐る、夕日で橙色になったコンクリートに右足を踏み出す。
次に、左足を右足同様に前へ、前へ。

体全体が奇妙な緊張感に襲われていた。
別に涼が怖いわけじゃない、何も怖くない。


そう思うのに何かを怖がった。
重々しい空気が、肺へと流れ込む。

少しでも間違えてしまえば、力加減を誤れば。
そんな緊張感が、手のひらを汗ばませた。


その緊張が解けないまま、涼の目の前まで足は進んだ。
涼の斜め前まで進んで、でも、此処からどうすればいいのかわからない。


辛いと思った。
沈黙が、酷く辛い。
もどかしさと無力感が、胸の奥へのしかかる。

来たくなかった。
今更に、電話口で頷いた自分を責める。
だってこうなることはいつもと同じで、簡単に予想できたはず。

教室でだってまだ、上手く話せないんだ。
同じクラスになっても別に話さないし、ぎこちない。
何を話しても、離れていた時間を感じることしかなくて。


なのにどうして、俺は此処に呼ばれたんだろう。

俯いて上履きばかり見ていた視線を、彼の顔の位置まであげる。
どんな表情を取ろうか迷うような、いろいろな感情がせめぎ合うような顔。


そこで蘇ったのは、電話の声だった。
帰ろうと椅子から立ち上がって、携帯の着信履歴を確認した時にかかった電話。
元気も、覇気も、冗談っぽさも、涼らしさのなく、内容を簡潔に俺の耳に伝えた声。

理由は知っていた。
知っていたと言うよりも、今朝知らされたことだった。
いつもうるさいほどの教師が、嗄れた声で言った内容。


かなしい、しらせ。
どんな風な言葉で伝えられたのかは、もう覚えてない。
事実だけが鮮明に頭に焼き付いて、ぐるりと頭が痛んだことだけを覚えている。


「まあ座れよ」


沈黙に耐えかねたような苦笑いで、隣を促された。
耐えられなかった俺は素直に、涼の手が指した位置に座る。
がしゃりと、金網にもたれた所為で音がなったけれど、すぐにかき消えていく。


ふと、涼は座るのだろうか、そう思って見上げた。
けれど見上げたところで、やはり涼の視線はどこか別へと向いている。
俺が来たときと同じように、もしかしたら俺がくる前からと同じように。

そして視線を俺は前へ戻した。
ずっと見つける意味はないと思った、首も痛い。
ぼんやりと少し先にある、反対側の金網が揺れるのを見た。


ゆるやかに風がながれる。
夕日が傾いて、少しずつ影は長くなり始める。
座り込んだ影と、立っている影、揺れる金網の影、それぞれの影が長く、ながく。

ゆっくり目を閉じて、朝の喪失感を思い出した。
俺は記憶の中にあるはずの喪失感、でも涼は。


「なあ」


震えたような気がしたし、震えなかったような気もした。
かしゃんかしゃんと、金網が音を立てて、運動部の声はそのまた遠くに響く。


「ほんと、びっくりだよなー」


夕方に電話もらってまじかって思った。
そう続けられた言葉、軽く軽くと努められている声。
わかりやすいほど脆い努力が、何となく珍しいと感じた。

それに返事もしないで、静かに俺は言葉を待つ。
涼はきっと返事なんて期待していない。


「じさつ、だってさ」


話すことで物事を整理したいんだろうと、目を閉じる。
自分の中だけじゃもやもやして、ぐるぐるするから。
すん、と息を少しだけ吸い込んで、両手を見た。

俺が出来なかったこと。
そう考えると少しだけ悔しかった。


そこで頭に、何かが乗った。
何かしたとすれば、きっと涼だけ。
そうして見上げると、伸びた腕がかろうじて目に入る。


「オレな、何もわからなかった」


はっきりと、声が揺れた。
同時に頭に乗った手は、強引に俺の頭を下に向かせる。

当たり前だと、つい思ってしまう。
中谷の自殺、それにクラスメイト全員が驚いたのだ。
嘘だと俺も思ったし、誰かも担任に呟いた、それほど誰も知らなかった。


だって昨日も、一昨日も、笑っていたのを覚えている。
楽しそうな声はよく聞いたし、たまに俺はからかわれた。
辛そうな素振りなんて、どこにも見えなかったと思った。

きっとみんなそう見えていた、それだけの話。
たぶん、俺ならそれだけで済ませられた。


「慎が悩んでんの、わかんなかった、昨日も話してたはずなのによ」


ぽたり。
橙を遮った影の中に、涙が落ちる。
ぽたり、ぽたり。
一滴に留まらず、何滴も、何滴も落ちた。


「けっこう、つらいな」


近くにいた涼たちが、辛くないはずがない。
昨日も学校で顔を合わせて、馬鹿騒ぎして、授業中は怒鳴られて。
一昨日も昨日も同じ日常、なら明日もきっと同じだと思って、なのに。


簡単にいなくなる。
俺も涼も、そんなことは理解している。
裏では肝に銘じておかないといけない事実。

それが表でもありえることなのだと、ゆっくり噛みしめた。
裏が完全に切り離された状況でも、誰かが唐突にいなくなることがある。
人間なんて、あまりにもあっけなく、あまりにも簡単に、死んでしまう。


当たり前だ、頭の中で誰かが呟く。
そうでなければ、俺がこの手で何人も殺せなかった。
何人も何人も、あっけなく死ぬ様を見てきただろうに。

でも俺はそう、心のどこかでは思ってはいなかった。
裏だけだと限ってしまっていたんだと、気づいた。

だからこんなにも、中谷の死が堪えている。
そんなに関わりがあったわけでも、ないのに。
知っている人がいなくなっただけで。


がしゃり。
強く金網が動いて、音を立てた。
未だ下向きに押さえられている顔の横目で、そっちを伺えば座り込んだ涼の姿。

その顔は悲痛に歪められて、寄った眉間の皺が納得できないと物語る。
何も言えるわけがない。


「なんでなんだろうな」


ぐす。
もう一度鼻をすする音、ぎりっと歯の音さえ聞こえそうな風に強く。

何も言わないまま、手が退いていくのを感じる。
するりとほとんど力なく、俺の頭から滑った。


そしてすぐに目の前が、影に包まれて。
見上げた先には、さっきと少しも変わらない難しい顔。
かしゃりと耳の両隣に音が響く、かしゃり、すごく近くで。


「おまえは、守るから」


そうして、頭は俺の肩に落ちる。
肩口がじんわり熱を持った、重みと一緒に。


でも、と頭の中に浮かんだ。
俺は自分で生きられるのに。
強くなるから、大丈夫なのに。

そう思いながら、嗚咽を繰り返す涼の背中を優しく叩いた。
出来るだけ宥めることしか、俺には思いつかなかった。



この涙と声は、どこへ届くのだろう。


prevsignal pagenext

PAGE TOP