フィリスが入る前の話です。

SiGNaL > ほろにがい



報告書をお決まりの言葉で締めくくり、決定キーを押す。
終わらないと思っていた紙の束も、ようやく半分。

力を抜いて、椅子の背もたれへ上体を預ける。
白く発光する画面からは、上に目をずらして逃げた。

書面と画面とを交互に見ていた目が、痛みを発する。
目頭をつまんで、溜まった疲れと緊張をほぐす。
一度、休憩をいれようと思った。

「休憩か?」
「はい」

目が痛くて、と揉みながら答える。
そうしたら、年寄りかと上司の笑う声。

大量の報告書を押し付けた張本人のくせに。
原因とも言える人に言われたくはない、そう不満が顔を出す。
けれど相手は上司という立場な手前、心の奥にしまい込んだ。


「不満が顔に出てんぞ」


そう言いながら、上司はコーヒーに口をつけた。
まだ初めて会ってから一ヶ月も経ってない男。

数週間前に顔を合わせたのが、最初だった。
実際に部下として配属されたのはつい二日前のこと。


未だに、名前すら知らない相手だった。
見た目は自分より一回り以上は、上に思う。

よく口元を笑わせて、緊張感を持たない。
そして一切、隙を見せない人に見えていた。
似た人を知っている気がしたが、すぐに姿は沈む。


シロ、と独特の呼び名が聞こえた。
顔を上げれば、顔めがけて何かが。


「お疲れのシロに」


飛んできたものに目を落とす。
銀紙に包まれた小さく丸いもの。
包み紙を開いてみれば、チョコ。

「なんですか?」
「貰い物。まあ食べろ」

コロ、と手のひらを転がるチョコレート。
ねっとりした甘さを思い出して、つい顔が歪む。
甘い味は元々そう得意じゃない。チョコは特に。

でも貰った以上、食べないわけには。
苦手だからと返すのも、失礼になりそうだ。
結局、一粒だけなら、と苦手な甘みを口に入れた。


けれどビターだったのか、意外と苦みの方が舌につく。
苦みへ控えめに入る甘みは、まだ食べやすい。

滅多に食べない味を感じながら、口の中を転がす。
ただこのチョコ、いくら何でも苦過ぎないだろうか。
ずっと前に食べたカカオの強いチョコも、此処まで苦くは。

違和感を抱きながらも、吐き出すわけにもいかない。
出来るだけ舌を避けさせながら、溶けていくチョコを飲み込んだ。


「今日で何日目だっけな」


不意に上司が切り出す。
三日目ですねと返せば、聞いたにも関わらず興味無さげな声。
コーヒーで使ったティースプーンを、指先で回している始末。

「もう慣れた?」

ある程度は、と何気なく視線を逃がす。
その途中、机のプレートがやたら目を引いた。

元々、引き出しに入っていた「白藍」のプレート。
今は机の枠へはめられ、表面の細かい傷を光らせる。
自分よりも此処に馴染んでいるように見える、二文字。

この名前も二日前からだった。
白い髪も来ると同時、三日目の付き合い。
どちらも指示したのは、この上司だった。


顔合わせの、支部長だと紹介を受けた時のこと。
会っていきなり言われたのは、名前と髪のこと。
あまりにも唐突で、未だによく覚えている。

自分が名乗る名前がないことを、事前に知っていたからだとは思う。
言い放った際のただただ面白がった顔は、簡単に思い出せる。
シグナルでのナンバーである二十三も、上司が選んだものだ。


「空き机、機会があればそのうち人が入るかもなあ」


机を眺めていた目を上げて、上司を見る。

「当分は一人だけどな。やめるのも死ぬのもいるが、入るのは稀(まれ)だ」
「はい」
「入れ替わりは激しさは、浅瀬にいたなら予想もつくだろ」

浅瀬。
その言葉を、無関心を決め込んで思考から流す。
俯いた自分の耳には、空気が震える音が聞こえた。


前にいたところを、浅瀬だとシグナルは言う。
確かにと、此処に入ってから感じる時はある。

全て、バランスが管理されている場所だった。
それぞれの相場や問題行動が、適正に処理される。
バレないよう、密かに手が入って全体が回ってる。

そうやって作り上げられてたのが、浅瀬
調整役とも言えるのは、シグナルと門鍵(もんけん)。
門鍵については、概要的な部分を聞いたくらいだった。

ただ、教え込まれたはずのシグナルのことも、まだ少し。
判断材料についてや報告書の書き方も、おぼつかない。


慣れようと思考を閉じる。
とりあえず、今は一息入れたかった。
椅子を引き、立ち上がるために足に力を入れる。

瞬間、ビリと痛みが走った。
ガタンと大きな音が。視界が傾く。
バランスが取れずに、床にうつ伏せた。

意識は、はっきりとある。
けれど手足、舌がビリビリと酷く痺れていた。
感覚は膜に包まれたように鈍い。頭が困惑する。


「用心が足りてねえなあ、白藍」


近づく足音が、振動として顔に伝わった。
どうやっても動かない体に、抵抗をやめる。
真上に影がかかって、傍にしゃがみ込む姿。

そして感じたのは冷たさだった。
首筋にあたる、金属の硬さ。
物が何なのか、想像はつく。

何も出来ない。
そう諦めて、目を閉じる。

「ここはな、そんな目のうちはそうそう死にはしねえさ」

うっすらと目を開く。
先の見えない伸びた手と、嘲笑。

そんな奴は誰も殺さない、勝手に死ぬからな。
必要に迫られない限りは別に野放しだろうよ。
上司から言われる言葉が、鼓膜を揺らす。

でもな、そう言葉は切れる。
説教なんだろうか、もう殺す相手に。


「生きたいに変わったら、牙を剥くぞ」


上司の表情は、よく見えなかった。
冷たい声色だけが、痺れた体にしみ込む。

けれど何故だか、自分に言われている気はしなかった。
少なくとも今の自分には無縁の話だから、そう感じた。
これから先も、その心配とは無縁なんだろう、とも。


「ちなみにお前が食べたのは、痺れ薬入りな」


大層、おいちゃんを気に食わねえ奴がくれてさあ。
毒自体は大したものでもなし、冗談の範疇だな。

笑いながら告げられた言葉に、耳を疑う。
この痺れを、そんなに軽く扱ってるんだろうか。

「こ、なの、じょ、だ、でも」

痺れ薬の所為か、上手く喋ることが出来ない。
精一杯動かしても、なかなか文章にはならなかった。

「命に何の影響もない、冗談じゃねえの」

それでも、なんとか正しく言葉は伝わったらしい。
ばっさりと切り捨てるように、言葉は返ってきたけれど


「まあ勘づけとは言わないまでも、味で気づけなきゃなあ」


未熟者の証だ。
ぐ、と冷たさが声と共に押し付けられる。
鋭いだろう金属への恐怖に、身をよじった。

今思えばと、あの苦みが毒の証拠だったんだろう。
じりじり舌に刺激を与える味は、やっぱりおかしかった。

けれど、今までに毒を飲んだことはない。
だからわからなかったと、言い訳に過ぎないことを思う。


は、と緊張で息を吐く。
喉元にいつ痛みが走るか、その覚悟を決める。

「ま、説教はこれくらいだな」

首元から手が引かれた。
そのまま上司が、持っていたティースプーンを舐める。
首筋に当てられていたのは、ナイフではなかったらしい。

「シビレなら数時間とかからずに解けるさ」

ぴたぴた、ティースプーンで頬を叩かれる小さな感覚。
さっきまで舐められていたスプーンだと思うと、顔が歪む。
覗き込むようにした上司はそれを見て、面白そうに笑った。


「あまちゃんで止まんなよ」


さらりと、脱色したての白髪を触られる。
その際に偶然見えた懐かしむ表情に、何故かチョコの苦みを思い出した。


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