SiGNaL > うせものさがし


01 - 02


努めて、息を深く吸った。
そうでもしなければ、呼吸すらままならなかった。
ただでさえ先程まで浅かった呼吸に余裕はない。

数度、深呼吸を繰り返す。
目を閉じて、男への恐怖をやり過ごす。
肺に満たした冷たい空気を、次は長く吐き出す。
応急処置的な深呼吸によって、震えが少し治まる。
この男は本当に底が知れない。

「教えてよ」

その声は、冷たく尖っている。
先ほど同様、誤魔化しは通じないだろう。
きっと、俺が事実を伝えるまで彼は緩めない。


伝えればいい、のだろうか。
絶対的な力の差と殺気に当てられた心は疲れていた。
俺は、彼の知りたがる疑問の答えを持っている。この事実は伝えたとしても、大きな問題はない。

伝えればいい。
伝えた先に何があろうと、もういいだろうと心が言う。
彼がこうして探し当てた結末に足るなら、身を任せよう。

そうして、彼の求める事実のために口を開く。


「俺が殺した」


つい、諦めの色が声に滲んだ。

「そうじゃない!」

俺の両肩を掴んで、男は声を荒げた。
その衝撃で右肩が軋んだが、言葉を止めてはいけない。

「俺が殺したんだ」
「違う、」
「もし藤川 柊が憎むとすれば俺だ」
「そんなことを言わせたいんじゃないッ!」

どうでもいいとすら思っている心は、躊躇なく事実を口に出せる。
それが彼の望み通りかどうかなんて関係はない。
横山 海は、シグナルに属する白藍によって殺害された。
これが、横山 海の死に用意された事実だった。

見たことないほど狼狽して言葉を探す男の頰に、左手を当てた。
さっきまでとはまるで逆だなんて、心のなかで笑う。


「殺して満足するのなら」


続きは言わなかった。
言わずとも、彼は理解する。現に、彼の顔は血の気をなくして青ざめている。
生への執着なんて、心はとっくに手放していた。


男は目をそらして、うつむいた。
色素の薄い髪が風に煽られて、サラサラ流れる。
歯を噛みしめる音が聞こえて、彼らしくない、なんて、白藍である俺が思うはずのないことを思った。

この場には、もはや、殺気も怒りもなくなった。
彼の内側に渦巻くものを窺い知ることはできないが、肌に刺す感覚は消えた。

彼は顔をあげないまま、肩を掴んでいた両手を俺の背中に回す。
抵抗を迷ったものの、左手でできることなどたかが知れている。
諦めて、なすがままにさせた。

こうして抱きしめられたのは、随分と久しぶりだった。
人の体温が、コート越しでも伝わるような気がした。

「きみ、を、責めるつもりはないんだ」

男の声にさっきまでの覇気はない。
丁寧に選んだのだろう言葉を、彼は紡いだ。
まだ彼は彼なりに、守ろうとするのだろうか。


思春期の中性的な顔立ちは、苦労をする。
俺を抱きしめるこの男も、そうであったらしい。
文字だけで触れた情報が頭に蘇る。

横山 海という個人への執着は、彼のコンプレックスによるものだったのだろう。
異常とはいわないが、友情や親愛というには異質な部分があったのは明らかだ。

既に髪を人並みの長さに切り揃えた彼を見る。
思春期が終わり、成長期を過ぎれば、男性的特徴は増える。
男も例にもれなかった。
体格は、見知った頃で既に華奢という分類から脱していたし、顔立ちも精悍とまで言わないにしても、今の容貌を女性的と称されることはないだろう。

彼のコンプレックスは、時間が解決する。
だから、彼の執着は考えなくていいと判断していた。
もし残ったとしても、彼は折り合いをつけると思っていた。


しかし、蓋を開けてみればこの結果だ。
予想通り、中性的を脱した彼であったが、個人への執着は予想外に強く残ったらしい。
随分と計り間違えたと、息を吐き出す。回った腕の力は、依然として強い。

「オレは君と居たいだけだ」

か細い声がこの場に落ちる。
少しだけ浅い呼吸に合わせて、彼の肩が上下する。


「ひどい状況だなあ、シロ」


突然、軽い調子の声が響いた。
男がすぐさま飛び退り、俺から距離をとる。
追うように、パシ、とアスファルトに弾かれた硬い音。
同時に左から、金属の跳ねる音を耳が拾った。

ガードレールに背中をもたれさせたまま、声の方向を見やる。
そこには、直属の上司があくび混じりに歩く姿があった。
片手には、サイレンサー付きの銃を携えている。


距離をとった男の方は、片手を腰に回し、何かを抜き取る。
見えたのは、同じくサイレンサーが既に装着された銃。
どうやら男は防具だけでなく、武器も装備済みだったらしい。
素手のみで応戦されきった自分に、呆れた。

右腕の激痛は依然として治まることはない。
この痛みは、脱臼だろうか。
検討がついたところで治し方を知ってるわけではないので、状況は変わらない。


改めて上司の様子を伺えば、俺を見てわざとらしく鼻で笑う。
しゃがみこんだ俺と転がった拳銃から、状況は把握したらしい。

「よっぽど可愛がられたようだな」
「余計な入れ知恵がされてたようなので」

あの人が俺に向けたからかいの言葉を、男が叩き落とす。
その声に先ほどのか細さなど微塵も残っておらず、ただただ刺々しい。
通常は柔らかな眦(まなじり)すら、今は鋭さを持つ。


「引きずり込んだのは、あなたか?」


男は銃を構えていた。
構えから見て、もう既に照準は合わせられている。
一方の上司は、銃を持つものの、構えてはいない。

「随分な言い方だなあ」

上司が言い終わるのを待たず、男の手元から空気を圧縮した音が鳴った。
追うように一発分、空薬莢の跳ねる音が後に続く。

「事実を聞いている」

威嚇射撃だったのだろう。
上司は動いていないが、怪我を負った様子はない。

「おお怖い。
 門鍵が使いこなせなかった諸刃っぷりは健在か?」

上司は男に対しても揶揄した調子を崩さない。
しかし細められた目は、男を注視していた。
微細な動作も見逃さない、猛禽類のような視線が彼に注がれている。

男は軽口に何も返さなかった。
新たに動きもせずに、沈黙する。
彼自身も、出方を見ようとしている。


一気に場に満ちた緊張感に、肌がひりつく。
真夜中を超え、ただでさえ人気の少ないここは静まり返っている。
アスファルトと細かな砂利がこすれる音すら、聞き取ろうと思えば可能だ。

それでも、今はわずかな音すらこの場には落ちなかった。
部外者となった自分には、この沈黙が嫌に長く感じる。


「ここでやりあうのは本意じゃない」


沈黙を破ったのは上司だった。
鋭い眼光を伏せて、男に対して片手を振ってみせる。

しかし、男の敵意は消えない。
依然として銃口は上司に向けられたままであり、下ろす様子も見えない。
問いに答えるまで変わらないことを汲み取り、上司が苦笑う。

「そいつは紹介だ。偶然だろうよ」

その解答を得ても、彼の厳しい表情は崩れなかった。
それどころか疑いの色さえ浮かべている。

男の疑いを、俺は掴みあぐねる。
あの人が告げたことは紛れもない事実だった。
彼は別の答えを想定していたのだろうか。

「偶然、ね」

訝しげに目を細め、彼は復唱する。
慎重な彼が引っかかった違和感に、俺は気づかない。


「なんなら、お前も入ればいい」


こともなげに、上司が彼に提案した。
愉快そうに、笑みを深める。

その言葉に真っ先に反応したのは、俺だった。
声を上げようとしたが、不意に右肩の痛みが傷んで一拍遅れる。
肩を押さえてその波をやり過ごそうとして、その隙に上司が口を開く。

「戸籍がない人間であれば、処理も不要。こちらとしては扱いやすい。
 門鍵を疎ましがるのも内部には居る。内部情報には利用価値がある。
 対してお前はこいつの所在、現状を知ることができる。
 処遇も、そして望むならそこに至る経緯を聞き出す機会が得られる。
 まさにWin-Winだ」

まるで台本でもあったかのように、流暢だった。
互いのメリットらしき点を、淀みなくまとめていく。
今の様子だと、この人はもう決めている。

ただ、彼にシグナルの誘いをかけるのは。
行き着く先を想像して、苦いものが胸の奥に広がる。
それは、自分にとって、あまり望ましくない状況が出来上がる。
痛みの波を横においてでも、止めなければならない。

「それはっ」
「口を挟むな。お前の失態だ」

俺に対して、上司は声の調子を変えた。
一瞥もされぬままに、発言は制される。

確かに、上司が言ったことは、もっともだ。ぐうの音も出ない。
上司はどんどんと利点を並べ立てていく。
どうやっても止められないこの状況に、唇を噛んだ。


男は、なおも上司から目をそらさなかった。
誘いを受けるのか、拒絶するのか。はたまた迷っているのか。
感情が隠された表情と一文字に結ばれた口元からは読み取れない。

静かに深く、上司は息をつく。


「何を企てようが、そいつの居場所はここだけだ」


男に語りかける声からも、冗談めいた響きが消えた。
そして、上司は左手を腰にあてながら、もう片方で銃を宙へ放った。
まるでおもちゃのように銃を回し投げ、右手で掴むことを繰り返す。

乾いた手のひらの重い銃身を受け止める音が、周囲に反響する。
意図が掴めないまま、男とともに、ただそれを見ている。


もう三度ほど、銃身が回転しただろうか。
受け止められた銃は再び、宙に投げられる。

ただ先程とは違い、やや高い軌跡を描いた。
そしてそれは滑らかに右手へ収まり、銃口は、―― 俺を見た。


「今回の処罰を含め、どうなるも組織次第だろうなあ」


眉間の辺りへと、照準が合わせられている。
引き金には、既に指がかかっていた。
後ろに控える表情は、片方の口端を上げ、嗜虐性を帯びている。

なあ、白藍?
声は発せられないまま、そう上司の口が動いた。


表社会に露見しないこと。
それは自分たちが幾多の組織に要求することだった。
表社会と裏社会がつながることによる損失は大きい。
暗躍するからこそ都合がよく、利用価値が認められる。

それを脅かす存在は、不要。
今のあり方を続行することで、表と裏は保たれる。
裏は表から見えてはいけない。
組織立ったものは特に、表に露見してはいけない。
芋づる式に暴き出される影響の範囲が読みきれない。

これはシグナルに属する人間とて、例外ではない。
今回、組織に属する自分の居場所は特定され、果ては力でも押し負けている。

もし解釈の余地があるとすれば、男は裏社会側の人間であることだ。表社会しか知らない人間ではない。
そこをどう捉えるのかによって、おそらく処分の重みが決まる。
このまま、死刑宣告となる可能性もありえる。

組織の決定に逆らう意思はない。
そう示す意味でも、今は頷くしかなかった。

「脅しですか」

それを見てか、男が幾分か低い声を発する。

「まさか。仕組みの話だろう」

上司は、それを軽快に笑って済ませる。
なあ、なんて俺へと話しかける目は、全く笑っていないのに。

男は、上司に向けていた銃を下ろした。
真似るように、俺に向いた銃口も下げられる。
知らず強張っていた肩から、力が抜けた。


「これは独り言だが」


切り出したのは、また上司だった。

「門鍵の間違いは二つ。
 個人対組織において、個人は組織との対立を当然避けるものと思い込んだこと。
 お前の実力と執念を見誤り、目先の利益を優先したこと。
 だから、逆鱗に触れた」

これは、おそらく三年半ほど前の事実を言っていた。
彼は過去に所属した門鍵のチームと一拠点を潰している。たった一人で。

当時の彼は十六歳ながら門鍵内で高く評価され、模範的存在だったらしい。
"影"という抑止力として存在し、実働部隊としても十分に機能していた。
その活動期間は、年齢から考えれば、決して短くはなかったと記憶している。

それがある日、牙を剥いた。
刃物、紐、毒物、鈍器、銃。
記されていた多様な手段は、能力の高さを垣間見せた。

この人が男を”諸刃”と称したのは、それが理由であるように思う。
上司が言う通り、扱い方を間違えなければ、彼は非常に有用なのだろう。


この人は、いったいどこまで知っているんだろうか?
先の考察を含め、男に対する発言が、経歴を把握した上での言葉に聞こえる。

俺が書面で知った男の経歴は、もちろんこの人も確認可能だ。
しかしそれは、一定の手順を踏まなければ手に入らない。
自分が知る限りの人柄からして、この人は気が向いた程度でそんなことはしない。

俺が取り寄せた書類を偶然見た可能性も、正直考えづらい。
書類が到着してから目を通すまでに放置した記憶はなく、確認後は念のためにシュレッダーにかけたことも覚えている。

そうなると上司はわざわざ手間をかけて、男の経歴を調べたことになる。
なんの目的で?


「褒美を手元に置けば、飼い慣らせただろうに。
 そう思わないか?」 


口だけで笑う上司に、気味の悪さを感じた。
今日のことを予見したと言われれば、黙るしかない。
けれどそれは、あまりにも突飛な理由に思える。
言い表す言葉を持たないが、噛み砕けないものがある。


「飼い慣らす力があれば、そうでしょうね」


彼のため息が聞こえた。
男が先に、銃をホルスターに仕舞う。
上司は、それを見て満足げに目を細めた。
それに負けじとしてなのか、彼が穏やかに上司へ微笑む。

「せいぜい上手に扱ってくださいね。
 なにせ、諸刃らしいですから?」

彼の言葉に、あの人は返事をしない。ただただ、おかしそうにくつくつと笑うだけだった。

男はそのさまを不満そうに見ていたが、なにか考えを振り払うかのように頭を振った。

そして彼は、しゃがみこんだままの俺を見るなり、数歩の距離を、足早に埋める。

「立てる?」

男からすれば助けようとしたんだろう。
左脇から腕を差し込まれたが、いきなりのことに驚いて、とっさに体がのけ反った。

「! あ、ゔ……ッ」

運悪く、右肩がガードレールへぶつかった。
途端に、激痛が駆け巡る。眼前が白く点滅する。
慣れ始めていたはずの痛みが牙を向き、冷や汗が吹き出る。
噛み殺しきれなかった悲鳴が、喉から漏れた。

「なんで避けるかな……。後で治すから、今は我慢してね」
「ゔ、……ぅん」

痛みを押し殺すことに必死で、妙な返事になる。
できれば、しばらく話しかけないでほしい。
呼吸を止めて、必死に痛みをやり過ごす。

立ち上がらせようとしていた彼は、今は俺の背中をさする。
優しく上下する動きに、心なしか痛みが和らいだように思う。

彼は、優しい。
覗き込む顔の眉は、ゆるくハの字を描く。
そこに懐かしい面影が過ぎりそうになる。


「シロ!」


そんな思考から引き戻すように、上司の声が響いた。
呼び声にはなんとか顔をもたげて応える。

「明日、そいつと事務所にいるように」
「いたい」
「気合で治しとけ」

男を指差した上司は、何とか絞り出した言葉に全く取り合わない。
それどころか、用は済んだとばかりにさっさと踵を返す姿があった。
スタスタと歩き去る姿には、寸分の迷いも見えない。

心配する仕草など欠片もしない人が居るから、男の温情が余計に染みるのかもしれない。
冗談半分でそう思いはしたものの、かといって彼のような優しさを持つのは想像できるかと言われれば、できない。

飄々として、雑な性格で、何も悟らせない。
不気味とも形容できる存在が優しさを備えれば、それはきっと別人だ。


そうして、この場には彼と俺だけが残った。
肩の痛みはいまだに引かないものの、ピークは過ぎたように思う。
左手でガードレールを掴めば、彼が即座に支えに入った。
長らく温めていた地面から、ようやく腰が離れる。

並び立った彼の表情は、どこかすっきりとしていた。
理由は、簡単に見当がつく。だから、それとなく視線を外す。


「よろしくね」


そんな挨拶の声さえ、朗らかだった。

そして彼は半月という異例の速さで配属試験を終える。
どうやら彼の才能は、シグナルでも十二分に通用したらしい。
上司はゼロ支部配属の通知を掲げ、新人に負けんなよ、なんて冗談めいて笑った。



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