SiGNaL > うせものさがし(印刷追記版)



 散々な一週間だった。
 怒涛のように押し寄せた業務を思い出してため息をつく。思うように事務所へ帰れなかった日々のせいで、いつもの倍近く働いた気分だった。
 きっかけは二週間前、浅瀬に警告した日からだった。
 帰り道に後ろをつける気配があったのが、事の発端だ。もちろん、たまたま道が重なっただけの可能性を考え、事務所までの帰路を外れて意味もなく道を回ってはみた。何事もなくとも遠回りしている道を蛇行し、戻り、横道に逸れた。それでも、後ろの気配は消えることなく付きまとい続けたことから、偶然の線は消えた。
 確認している道中、それとなく路上のガラスや道路反射鏡ごしにその姿を探りもした。しかし、映りこむものにそれらしい人物はおらず、場所を変えて同じ人物が映ることもなかった。
 自分の後を影のようについて回った、見えない気配。確かにいるとわかるのに存在が掴めなくて、いっそ幻覚である可能性すら頭によぎった。自分を苛む夢が、とうとう現実を侵食しだしたか、なんて。
 そんな自虐めいた思考はさておき、現実として誰かに尾行されているのは確かだった。その姿をとらえられない分、俺を尾行する目的は予想しづらく、念のためとして事務所には向かわなかった。メールにて現状を報告した上司からも、それが適切と促された。
 けれど。
 思い出しながら、手元の荷物を抱え直す。適当に折りたたんだジャケットは、湿り気を帯びて重い。鉄さびじみた臭いが漏れないよう固く口を絞ったビニールが、歩く振動によって時折、音を立てる。
 尾行にあった次の日には、忽然と気配は消えてしまったのだ。当日は事務所に帰らず、ビジネスホテルに宿泊したことから、尾行の失敗を悟り、断念したのかもしれないとは思った。
 それでも、すぐに事務所帰りが許可されるわけではない。気配は消えたとしても、近くに潜んでいるだけの可能性も捨てきれない。だから、数日間は事務所に帰らず、ビジネスホテルを転々とする生活だった。
 けれど結局、あの気配が再び現れることはなかった。確認として、あえて外を出歩く時間を作りもしたが、足音が一つ増えることもなく、得体のしれない視線もなかった。
 そうして、尾行が完全に途絶えたと判断され、ようやく事務所へと戻れたのが、一週間前のこと。そこからは、ただただ業務に忙殺された。
 なにせ、事務所外で出来ることは限られる。持ち歩いていたパソコンで、書類関係や調整ごとなどの事務的な作業はできなくもない。しかし、十分な設備の整わない環境では、どうしたって効率が落ちる。防諜の面から、電話を使用禁止とされたことも大きい。
 しかしながら、そうした状況など仕事には関係ない。少なくとも、ゼロ支部における支部長の考え方はそうだ。あの人は俺の状況を知ってなお、通常通りの業務を俺に割り振る。
 せめて電話口ならば、まだある程度言い返せた。けれど、メールで来てしまえば素直に承知するしかない。不満を発散する手段がない分、精神的にも疲れたのかもしれない。
 ただただ、仕事に追われるだけの一週間だった。
 来週には、通常通りの業務量に落ち着きはするだろう。しかし、予定をまだ十分に詰めきれてない以上、元通りの動きとなるのはまだ先だ。
 凝り固まった肩を軽く回せば、小気味の良い音が鳴る。
 いっそ、一週間で遅れを取り戻せたことを喜ぶべきなんだろうか。来週もドタバタと追われる日々が容易に想像できて、思わずため息をついた。
 吐いたため息は、キンと冷えた空気の中を白く泳ぐ。
 新しい年を迎えて、二ヶ月。寒さは一層厳しい。コートを着てはいるものの、ジャケットがない分、いつもより風の冷たさが身に染みる。
 真夜中をとうに回った住宅街は、暗く静かだった。立ち並んだ家々の明かりは消え、一定の間隔で並ぶ街灯と、少し先にそびえたつ大きなマンションのエントランスから漏れる光だけが、夜道を照らす。
 早く事務所に戻って、風呂で体を温めたかった。どうせ来週も忙しい。いまは体を休めて、万全に動けるよう備えることが優先だ。帰った後の段取りを考えながら、人気の失せた住宅街を歩いていく。

 ふと、疲れを抱えながら歩く先に、目が留まった。
 高層マンションの前に、男が佇んでいた。黒いロングコート姿の男は、歩道のポールに軽く腰かけた姿勢で、うつむき気味にスマートフォンを操作している。風除けとしてなのか、フードは浅く被られ、その合間からは淡い髪色が覗く。
 別に、珍しいと感じる要素があったわけではない。マンションの住人を待っているのだろうと、容易に想像がつくシチュエーションだ。
 特別、変わったことなんて何一つない。男の姿に奇抜さがあるわけではないし、この場の空気に妙な緊張感があるわけでもない。そう思うのに、なぜか、目を離せない。
 男の淡く柔らかな色合いが、自分の中の何かを揺り動かしていた。それが何であるのか、正体は掴めない。もやがかったような、輪郭をはっきりと掴めない何かが、胸に巣くう。
 進行方向に立つ男を、それとなく盗み見る。
 彼はマンションを背に立っていることもあって、顔をうかがい見ることは出来ない。腹部付近で操作されているスマートフォンが顔に近づけば可能性はあったが、男は光源を近づけることはなかった。
 あえて、何か行動する必要はあるのだろうか。
 おもむろに足を止めるのもはばかられて、男に近づきながら自問する。自然と立ち止まる理由がない以上、俺の行動によって相手の意識を逆にこちらへ向けさせてしまうリスクは取りたくない。言い訳を重ねる間にも、男までの距離は詰まっていく。
 何が、こんなにも引っかかるのだろう。
 風に揺れている茶髪を眺める。柔らかく風にそよぐ髪に傷んだ様子は見えない。おそらく生まれ持った色なのだろう。そう思うと、日本人ではないのかもしれない。そんな想定に、どことなく安堵した。
 うつむく姿勢でありながら、すっと伸びた背筋は、陰鬱な印象を抱かない。どこか堂々として、当たり前のようにそこにいる。自信のある姿。力。
 そこに重なったのは、肩を過ぎる程度に伸ばされた、亜麻色の髪。
 そこまで思い出して、足が止まる。頭の中で、警鐘がなった。

 次の行動を考えるよりも先に、男が動いた。
 ゆったりとした動きで、行き道を塞ぐように彼が俺の前に立ちはだかる。エントランス照明が男を、その柔らかな髪色を、はっきりと照らす。
 男が、被っていたフードを外す。うつむいていた顔が上がり、柔和な顔つきが真正面に俺と向き合う。
「久しぶり」
 穏やかな双眸が、俺を捉えて微笑んだ。その笑顔は心の奥底に閉じ込めた思い出を揺する。
「探したよ」
 低過ぎない声色は、相変わらず聞き取りやすい穏やかさを持っていた。
 男への違和感の正体は、懐古だった。

 一歩、男から距離を取るように後ずさった。
 次に、退路を探す。ここはただの一本道であり、入り組んだ道までは少々距離がある。ここは尾行に気づくには都合のいい道だが、誰かを振り切るには到底向いていない場所だった。
 しかし、だからといって何もせずにこのまま立ちすくむことはできない。
 男の正体がわかった以上、何とかして逃げなければならない。この男と対峙する状況は、非常にまずい。俺にとって、良くないことだ。でも、どうやって?
 思案している間に、一歩、男が俺に向かって足を踏み出した。
「まさか三年近くかかるとは思ってなかったなあ」
 また、一歩。男は俺に親しげな声色で、苦笑を零した。
 男からは現状、敵意も害意も感じなかった。あくまで友好的な雰囲気を持って歩み寄る。俺のことを何ら疑う様子もなく、待ち合わせた知り合いに声をかけるような気軽さすら感じた。
 彼は、俺のことを知っているはずがないのに。黒色に偽った目で彼と視線を交わしても、男が戸惑う様子は一切なかった。
「話がしたいんだ。警戒してほしくない」
 男は徐々に間合いを詰めながら、なだめるように俺に声をかける。
 逃げるか、それとも別の方法でこの場を切り抜けるか。俺はまだ対応を決めかねていた。
 逃げを選ぶには、周囲の状況が良くなさすぎる。かといって、相手の言葉をとぼけたところで、通用するとは思えない。それで通用するならば、先ほど向き合った際に動揺したはずだ。彼の性格からしても、おそらく確信を持って動いている。
 唯一、状況の読めない選択肢があるとすれば、力に任せた対応だ。しかし、一番成功イメージが見えないのもこの対応だ。
 既に知っていることとして、彼は特殊な存在だった。彼の過去は中学以降、通常とはおおよそ異なる。
 早くから裏社会の存在に触れ、早々に磨き上げられた戦闘能力と元来持ち合わせたセンスが、そうそう退化するだろうか?
 浮かぶ選択肢が少ない上に、どれもが悪手のように感じる。それでも、何かを選ばなければならない。もう行動に移さなければ、完全に手詰まりとなる。
 一秒進むごとに、状況はどんどんと厳しさを増していく。ただでさえ成功イメージを描けない選択肢の難易度が、さらに上がっていく。
 それでも、早く選ばないと。少しでも成功率の可能性が高いのは。頭の中で実行できる案を見直す。
 対面で彼に対応するのは、そのまま失敗する可能性があまりにも高い。身動きが取れなくなる可能性が大きい。そう考えると、いまは、……この場から逃げる!
「!」
 とっさに、手に提げていた荷物を投げつけた。ある程度の重みがあったのが功を奏して、思い描いた軌道どおり、男の顔めがけて荷物は飛んでいく。
 投げつけることによって前へ移った重心を、即座に後ろへ移す。荷物が無事、男に命中するかは、特に重要ではない。少しでも初動を遅らせられたならそれでいい。
なるだけ急いで踵を返し、地面を蹴った。
「海!」
 大きく、男の声が響いた。

 ここまで歩いてきた道を、今度は全速力で走り抜ける。
 人通りのない道は、特に困難なく走り抜けられる。けれどそれは相手も同様で、駆ける足音は少しずつ近付いてきていた。
 追いつかれるのは時間の問題だろう。まだ大きく開けた一本道を抜けていない。あと少し先には細い路地があるが、そこにたどり着くころには、きっともう傍まで追いつかれる。逃げ切るのは、やはり無理だ。
 それならば。選んでいた手段を切り替える。
 最低限、留意すべきはひと目を避けることだ。ようやく見えた路地の入り口に飛び込み、細道へと抜け出る。数歩離れて、後方から道を曲がるために砂利を踏みしめる音がした。予想以上に、そのタイミングは早い。
 懐に忍ばせていたナイフを、手に取った。左足を軸に、半ば無理やり左周りに振り返る。右手を振り上げ、振り向く勢いを借りて切りかかる!
「……ッ!」
 振り返った先で、すぐ傍まで伸びていた左手を見た。あと少し、振り返りが遅れていたら、あの手に捕まっていた。
 しかし、応戦する男の反応は早かった。
 こちらに伸びていた左手は引かれ、左肘を突き出す姿勢に変わる。左腕で受け流す姿勢が、そこに整えられた。
 いま振り下ろした腕は、勢いを借りたこともあって方向をそらせない。このまま、受け流されることは明白だ。
 思わず、顔が苦々しく歪んだ。

 案の定、勢いだけの刃は、彼の腕にあたって流された。
 当然、振り下ろしたそこに柔らかい肉の感触はなく、硬い金属音がくぐもって聞こえる。相手から出向いてきて、無防備なはずがないか。
 受け流されたことにより、俺の体はナイフの勢いを殺せないまま、彼の右側へと滑り落ちる。そうして無防備に懐を晒したのは、自分のほうだ。
 間髪入れず、彼の右膝が腹部に入った。溜め動作なく放たれた蹴りとはいえ、ろくに重心の安定しない体は簡単に飛ぶ。
 歩道と車道を分けるガードレールへ、強かに背中を打った。
 ぶつかった反動で体が前のめりになり、地面に左膝をつく。喉までこみ上げた胃液を吐き出せば、そこには血が混じっていた。
「話そうよ。痛いのは嫌だろ?」
 男はせつなそうに俺を見下ろす。
 その表情に、記憶が散らつく。今の男よりもいくらか幼い顔立ちが、その面持ちにぼんやりと重なろうとした。
 こんな記憶は、もう無いと同じだ。頭を振っておぼろげな記憶を振り払い、自分に言い聞かせる。これは、捨てなければならないものだ。
 痛みの中でも離さなかったナイフのグリップを、握りなおす。
 男はその動作に気づいたのだろう。目線が俺の右手に降りた。
「なんで逃げるの?」
 それでもなお、男は俺の前にかがみこんだ。
 距離を近くした男から逃げるように上体を下がらせたが、元々ガードレールに寄りかかった背だ。大した距離は稼げない。
「話も禁止されてる?」
 男と話をするつもりはなかった。
 しかしここで俺がはっきりと拒絶した場合、男がすぐさま実力行使に移らないとも限らない。次の対抗手段が見つかっていない中で、その選択肢は危うい。
 今は出来る限り、男が穏やかに話しかけている時間を延ばす。ただしこの男も鈍くはない。稼げる時間はそう多くはないんだろう。
 もし、次の策を思いつかなければ。そんな思考が、心の奥底から這いよった。
 連動するようにこみ上げた無気力感が全身に広がる前に、頭を振って振り払う。ここ数年、足を止めようとする思考が増えてきていた。
 どうすれば打開できる?
 直属の上司から、絶対的に不利な状況に唱えるよう指示された言葉を思い浮かべる。どうすればこの状況を変えられるのか、頭が問いの答えを探す。
 右手に握り込んだナイフは、突破口とはなりづらい。男はナイフを握りこむ動きを見ていた。対策も、既に考えているだろう。けれど、もし隙ができれば――……。
 まるでその思考を読むように、彼の手が、俺の手ごとナイフに触れようとした。とっさに、完全に握り込まれる前に手を引く。
「い……っ」
 すぐ目の前にあった顔が、痛みにゆがんだ。伸ばしていた手のひらごと、男は後ろに下がる。
 そのタイミングを見計らって、握りこんだナイフをそのままに、右手で地面を押して体を持ち上げる。男も対応するように立ち上がろうとしたが、腹部を押さえていた左手で、すかさず男のコートの襟元を掴んで引き留める。
 立ち上がり切れなかった男の首筋に、ナイフの刃先を沿わせた。
「動くな」
 男を見下ろして、睨んだ。
 中腰の姿勢ではあるものの、この状態であれば男が動くよりも俺が右手を滑らせる方が早い。
「良い判断だね」
 それでも、男の顔から余裕が抜けることはなかった。
 ナイフの刃先は、彼の首筋にあたっている。その冷たさを、男は皮膚で感じているはずだ。この状況からの逆転は、この男にだって難しいはずなのに。
 彼の目は凪いでいた。先程までと何ら変わりなく、静かに穏やかに俺を見つめる。
「でも、面白くない」
 声のトーンが、下がった。
 同時、彼の両腕が上がる。目はその機微を捉えた。男が、この状況から反撃に打って出ようとしていると、頭がはじき出す。
 刃を動かせ!
 反射的に右腕に力が入る。
 瞬間、胸を裂くような痛みがよぎった。耳鳴りがする。白い照明が、脳裏によみがえった。影に隠れた苦しげな表情と、赤く染まった手のひら。その先にある後悔の念が、体の動きを鈍らせた。
 おそらく、固まった時間としてはごく一瞬だった。そんなわずかな時間でも、男にとっては十分な時間だった。
 強張った右手は、交差した彼の両手首によって強引に下に落とされる。中腰の体勢は、より低く落とされる腕についていけない。簡単にバランスを崩す体。
 そして、再び地面に膝をついた。
 あっけないほど簡単に形勢を逆転した男は、改めて俺の前にしゃがんだ。男は、ナイフを持つ右手を今度こそ捕まえる。両手で包み込むようにして優しく、丁寧に、俺の手からナイフを取り上げた。
 ナイフを取り上げた後も、男は俺の右手を大事そうに包む。寒空に冷えた手も、じっと掴まれていれば互いの体温が伝いだす。
 それがひどく怖いものに思えて、男に捕まれた右手を引いた。そうすれば、彼は引き留めることなく手を放した。既に力の差は歴然と示されている以上、俺がさらに抵抗するとは男も考えなかったんだろう。
 彼から放された右手に目をやれば、彼の赤い血がかすれていた。薄い赤線が走った右手に、再び、べったりとこびりついた血の映像が重なる。
 暑い夏の日だった。昼間でもカーテンを閉めた部屋は、空気がよどんでいた。照明は白々しく、何も照らさなかった。血だまりに倒れた、二つの死体。それらが、ゆっくりと首をもたげて、――……。
 その先は見なかった。かぶりを振って、幻覚を払う。俺の罪悪感にまで、彼らを巻き込みたくなかった。

 やむを得ず彼と向き合えば、男も真正面に俺を見た。まるで何かを待つかのように、動く様子はない。
 男の行動の意味をあえて読まずに、いまは深く、息を吸い込んだ。まずは、落ち着ききらない息を平常に戻す。息が戻れば、思考が戻る。あらゆる可能性を考えるために、冷静な思考を取り戻す。
 どうすれば打開できる?
 もう一度、今度は落ち着いて、自分に問う。
 最初に、現状を整理した。近接武器は取られた。体術で有効な術はない。おそらく、この近距離で通るものはない。背後には腰丈ほどのガードレールがあり、動きが取りづらい。彼との力の差は、不意打ちでようやく埋められるかどうかだろう。
 次に、今の自分が持ちうる対抗手段とは何かを考える。どうすれば、それを活かしきれるかを、考える。

 まず、立ち上がるためのスペースが必要だった。左手で男を押せば、彼は素直に二、三歩程度、立ち上がりながら距離をとる。
 彼の動きに合わせ、俺も左手を支えに腰を上げる。ゆっくりと上体を起こしながら、右手は腰のホルスターに伸ばした。ホルスターにかかった落下防止のロックを、解除する。
「海」
 何度も呼ばれる名を拒絶するように、意識を塞いだ。
 俺の右手の動きでようやく、彼の目から穏やかさが消える。
「人違いだ」
 銃を、男に向けて真っ直ぐに突きつけた。
「その名前も、あんたのことも、俺は知らない」
 男に見せつけるように、銃の安全装置を解除する。
 彼相手に、扱い慣れていない銃を選ぶのは危ういと考えていた。しかし、もうなりふりかまってはいられない。幸い、この距離であればコントロール技術は考えなくていい。手元がブレないよう、銃を構えた右手に左手を添える。
 男は沈黙した。少し眉を吊り上げた顔が、俺を見る。銃を突きつけられてなお、そこに焦りはなかったが、それでも先ほどとは明らかに空気は変わっていた。
「そんなこと、言うんだ?」
 怒っている。そう直感した。
 表面上、何か激しい発露があるわけではない。むしろ、男の顔からは感情が欠落した。それでも、それが怒りなのだと、本能で感じる。
 ぞわりと首筋が粟立った。全身から冷汗が噴き出て、首がすくむ。無意識に、肩へ力が入る。引き結んだはずの口が震える。気を抜けば、後ずさってしまいそうだった。本能が、目の前の男から逃げることを選ぼうとする。
 そんな様子を見てか、ふ、と彼が目を閉じた。ため息が一つ、こぼれる。
「!」
 次の瞬間、彼に向けていた銃身は左へとそらされる。
 銃と己との間に、彼の右手が差し込まれた。銃がひねられ、動きについていけない両手は離れた。離れた右手は、すぐさま彼の左手に掴まれる。
 そして、強制的に下へ引かれると、
「あ゛……ッ!」
 肩に、激痛が走った。

 あまりの痛みに、思わずしゃがみこんだ。視界が点滅する。必死に奥歯をかみしめ、傷みに耐えた。
 右肩が痛い。動かない。痛みを耐えるように力を込めたつもりが、右腕はだらりと垂れたまま、動かない。
 一体、何をされたのか、わからなかった。脳が、全く動きを追えなかった。一気に右手を引かれた。そこまでは、理解している。ただ、その先はわからない。気づけば、肩から先が動かなかった。処理が追いつかない。
 いま、右腕を押さえる手の感覚はわかる。少なくとも、神経系に問題はない。左手で右肩を押さえたが、そこに血がにじむわけでもない。どうして動かない?
 そうして思考は堂々巡りをする。
「利き手が使えないんじゃ、抵抗できないね」
 俺と目線を合わせるように、男がかがんだ。
 彼は喋りながら、銃の安全装置を元の位置に戻し、俺の右手近くへと銃を置いた。簡単に手に取れる位置だった。でも、いまはその手が伸ばせない。
「他になにかを持ってる様子もないし」
 無表情に淡々と、男は俺の状況を整理する。
 彼のいう通り、対抗できる手段はなかった。手持ちの武器は、ナイフと銃だけだ。
 見た目で悟られづらく、携帯に支障がなく、かつすぐに使用可能なものとなれば、必然的に種類は絞られる。
 特に今日は、結果として荒事に発展したものの、元々はそれを想定した業務ではなかった。あくまで非常用として携帯するのは最低限であり、到底万全とは言えない。もしこの男と対峙するとわかっていれば、もっと違った装備を十分に用意しただろうが、そんなの未来予知能力でもない限り、わかるはずもない。
 彼の手が、痛みで動けない俺のコートポケットに入り込む。即座に左手を動かしたが、寸での差で携帯が抜き出される方が早かった。
「加勢も呼べない」
 地面に向かって、それは落とされる。追撃するように彼の左腕が携帯表面を打ち、画面が完全に砕けた。ナイフを受け流されたときのことを思えば、そこには金属製のプレートでも仕込まれているんだろう。
「他になにか手はある?」
 彼は、俺の選択肢をすべて潰していた。
 利き腕は動かない。連絡を取り、他からの救援を頼ることもできない。この男から逃れる術は何一つとして残っていなかった。
 そもそも。間近で俺を覗き込む男を、目だけで見上げた。冷ややかな目が、そこに映る。彼だって、他がないと知った上で問いかけている。
「ああ。足は無事だし、また走って逃げてみる?
 ね、海」
 名前を呼ぶタイミングで、男はそれまでの無表情から一変して、穏やかにほほ笑んでみせた。
「まあ逃げたところで、行き先はすべてわかっているけれど」
 先日感じた気配は、どうやらこの男だったらしい。そして、彼の言うとおりならば、尾行対策は不十分だった。
 ああむしろ。彼の行動理由に思い至る。
 彼は、選択肢をすべて潰したからこそ、会いに来たのだ。
「べつじん、だ」
 そう理解しても、彼の言い分には反論するしかなかった。ふうん、なんて納得していない声が返ったとしても、変えられない。
 男の見下ろす目に、あからさまな怒りが浮かぶ。
「ほんと、面白くない」
 男が、眉をひそめて呟いた。
 彼の左手が俺に伸びる。右肩をかばうように身構えたが、掴まれたのは頭だった。
 ぐ、と鷲掴みにされて、いくらか強引に引っ張られる。数本、髪の毛が切れた鋭い痛みが走った。数度、前後に揺すられた後、ばさりと白髪が顔にかかった。どうやら束ねていたネットごと、ウィッグを外されたらしい。乱れた白髪が視界に入るので、頭を振って払う。
「いつの間にか髪も染めてるし」
 不満げな声で、男は無理やり外した黒髪のウィッグを睨む。
「これも、」
 次は、俺の顔へと彼の手が伸びた。
「偽物だろう?」
 彼の右の親指が、左目のキワをなぞった。
 故意に押し上げられた瞼に、コンタクトごしの視界が動いて歪む。また、無理やり外されるのだろうか。さすがに眼球となれば、想像しただけで身が強張る。固い唾が、のどを通る。
 それに気づいてか、彼の手は目から頬へと降りた。
「普段は黒髪に黒目。仕事の時だけ白髪と青に戻す。そうだね、特徴的な点があれば、その他の印象は薄れる」
 上司からもらった指示と理由を、男は見事に当ててみせた。
 白藍という名も、この容姿も、全てはあの人の指示だった。

 シグナルでの所属部署が決まったときのことだ。
 教育担当からゼロ支部の支部長だと教えられたのが、今の上司だ。あの軽い口調と態度は教育担当に対しても発揮されており、対する教育担当は過度に委縮していたという異様さがあって、いまだに覚えている。
 顔合わせでは、教育担当は俺を『二十三番』とあの人に紹介した。
 シグナルは、所属員を番号で識別する。名前での管理は、業務に応じて偽名を使うこともあって煩雑だったらしい。綻びを最小限にするために、組織としては各人員に番号を付与するのだと教わった。
 それを、破天荒なあの人は呼びづらいと一蹴したのだ。
 教育担当が唖然としている間に、どこまで冗談としているかわからない態度で俺に『白藍』と名乗ることと、ついでのように髪色を指定して、今に至っている。
 もっとも、この男には容姿の変化など通用しなかったようだが。

 静かに怒気を携えた男の執念とも言える結果には、驚いている。
 しきりに彼が名前を口にする男が死んで、もう二年は経っただろうか。
 何でもない日常にありふれた事故の被害者。裏側としては、犯罪に手を染めていた人間が、その報復によって殺害されたということ。そんなつまらない事実を、この男は疑ってかかったことになる。
 この件は、シグナルが統制に動いている。大きなほころびがあったとは思えない。
 シグナルは決して新しい組織ではない。古くから裏社会に根を張った組織だ。
 組織体制は日本に限らないと、いつか聞いたことがある。組織の性質上、必要以上の情報開示を嫌煙しており、あまり部署間の連携がないこともあって、この組織の全体像はいまだにつかめていない。
 けれど、こうして目の前に男がいるのも、また事実だった。
「俺は、あんたなんか知らない」
 こうなってしまっては、もはや否定を続けるしかなかった。
「まだ言うんだ」
 男がため息をつく。それは白くたなびいて、男と俺の間を流れていく。
 ふいに、俺の頬を辿っていた彼の手が下に伝った。
 冬の寒さで冷えた指の軌跡が、温度として肌に残る。彼の手はゆっくりと首を降り、鎖骨をたどる。服の上から左肩へ流れ、―― 彼の手がやわく押した位置に、体が跳ねた。
「じゃあ、ここに、傷はないと言い張るんだね?」
 俺から視線を寸分もそらさず、鎖骨上に醜く残った火傷を服越しになぞった。
「ここでなくてもいいよ。腕にする? 背中? 脇腹?」
 彼の右手が、動けない俺の体をたどっていく。左肩から腕、脇腹、腹。
 自分が知っている傷を、男は的確に触れていく。
「オレが知ってる傷、全部調べてあげようか。ひとつひとつ言い訳するなら、それが尽きるまで付き合ってあげる」
 一転して楽しそうな声で、彼は笑った。一部の揺らぎもない眼差しを俺に向けたまま、笑ってみせる。
 いま浮かべている笑みは、会ったときに浮かべられていたものとは違う。相手を圧倒する威圧感を伴い、意に沿わなければ牙を剥くこともいとわないと、明確に伝えてくる。
「知らないものは、知らない」
 声が震えないように力を込めて、否定した。男の空気に呑まれないように、己を奮い立たせ、彼を睨む。
「強情だなあ」
 あきれたように男がぼやき、俺が畏怖を感じた目は瞼の奥に仕舞われた。
 傷跡をなぞっていた彼の右手は、手持無沙汰そうに着込んだ服の裾をいじる。
 わずかな隙間から吹き込んだ冬の寒さが、服の中に満ちていた暖かな空気を冷やしていく。
 もはや、平行線だった。

 俺と彼のどちらも、折れる気がないのは明らかだ。解決の糸口は見えないまま、ただただ睨みあう。
 彼は、横山 海と白藍が同一だと認めさせたいのだろう。一切の否定が無駄だと理解させたい。そのために材料を揃え、突きつけ、あらゆる手段で追い詰めている。
 彼に対して、生半可なものは到底通じないと俺もわかっている。決定的なことを示さなければ、おそらく男は引かない。彼が揃えた事実と確信を、真っ向から否定できるものでなければ、きっと彼は納得しない。
 しかし、だからといって彼の言葉を認めることはできない。彼の探す人間は、既に鬼籍に入っている。その存在は、既に過去のものだ。それは変えようもない事実で、覆ることはない。もはや、どこにもいないんだから。
 そうして結局、こうして硬直状態が続く。
「じゃあ、聞き方を変える」
 俺が答えるつもりがないと悟ったらしい男は、仕方なく、との態度を隠さなかった。男は目を閉じて、息を長く、ゆっくりと吐き出す。
 持ち上げられたまぶたから覗くヘーゼルは、ひどく冷たく尖っていた。
 ぶわ、と、全身が総毛立った。氷が背筋に伝ったかのような、鋭い悪寒が追うように体を走り抜ける。さっきの怒気とは比べ物にならないプレッシャーが襲い掛かる。
 夜の闇が、深さを増した気がした。冷たく、それでいて重く、体にのしかかる。
 自分を覆う彼の影が、喉に這う幻覚を見た。ぐるりと巻き付いて、締め上げられているような、息苦しさが襲う。
「海を殺したのは、だれ?」
 口端を下げたその唇からでたのは、硬く冷たい声だった。柔らかさなど、一切そこには含まれない。
 彼はただ、俺に問いかけただけだ。それだけのことなのに、恐怖が思考を染め上げる。気を抜けば、何もかもが怯えに塗り替わっていきそうだった。瞬きすら、満足にできない。
 耐えるように噛み締めた奥歯が、震えた。

 努めて、息を深く吸った。
 そうでもしなければ、このまま呼吸すらままならなくなりそうだった。彼の放つ殺気に、完全に気圧されている。通常よりもずっと早い鼓動の音は、はっきり耳まで届いていた。
 数度、深呼吸を繰り返す。
 目を閉じて、男への恐怖をやり過ごす。肺を冷たい空気で満たし、次は細く長く吐き出す。応急処置的な深呼吸によって、体の震えは少し治まった。
 この男は、本当に底が知れなかった。
 日常的ではないにしても、シグナルに所属していれば他人の殺気にさらされる機会は多い。浅瀬ではない分、手練れた人間を相手にすることも多い。それでも、彼が放つ威圧感は今までの経験を鑑みても、別格だった。
「教えてよ」
 低い声が、落ちる。ねえ、と急かすような言葉が続く。
 先ほど同様、この男に誤魔化しは通じないのだろう。きっと、俺が事実を伝えるまで、彼はこの殺気を緩めるつもりはない。
 伝えればいい、のだろうか。
 絶対的な力の差と殺気に当てられた心に、ぽつりと浮かんだ。いま取れる対抗手段を考える方向に、意識は働かない。
 誰が、横山 海を殺したか。
 俺は、この問いの答えを持っている。彼が殺意を抱くべき相手を、知っている。この事実は、いま、俺の口から伝えたところで大きな問題もない。
 もう何をしたって無駄だ。そう、心が言った。
 彼に事実を伝えればいいと続けてささやく。伝えた先に何があろうともういいだろう。彼がこうして探し当てた結末に足るなら、身を任せよう。
 まるで走馬灯のようによぎったのは、大雨の日だった。大雨の中、流れていく赤い血を思い出す。体温を失う過程を覚えている。あのときから始まった悪夢は、俺を沈め、四肢を引きちぎり、怨嗟を吐いた。もういいだろう、と、心が重ねる。
 そして、彼が求める事実のために、口を開く。
「俺が殺した」
 つい、そこに諦めが滲んだ。

「そうじゃない!」
 俺の両肩をつかんで、男が声を荒げた。
 肩をつかまれた衝撃で、右肩が軋んだが、ここで言葉を止めてはいけない。すべてを、言い切らなければいけない。
「俺が殺したんだ」
「違う、」
「もし藤川 柊が憎むとすれば、俺だ」
「そんなことを言わせたいんじゃないッ!」
 どうでもいいとすら思っている心は、躊躇なく事実を口に出せる。この事実が彼の望み通りかどうかなんて関係ない。無論、彼の静止を聞くつもりもない。
 横山 海は、シグナルに属する白藍によって殺害された。これが、横山 海の死に用意された事実だ。
 今までに見たことがないほど狼狽し、言葉を探す男の頰に、左手を当てる。
 さっきまでと、まるで逆だ、なんて、場違いなことを思って、笑う。
「殺して満足するのなら」
 続きは言わなかった。
 言わずとも、彼は理解する。現に、男の顔は血の気をなくして青ざめた。
 生への執着なんて、心はとっくに手放していた。
 死ぬ理由がないから生きている。任された仕事があるから、予定された仕事があるから、仕事で向けられる殺意や憎悪に抵抗する。上司の指示に従わなければならないから、不利な状況下でも打開策を考える。そうやって、生きているフリを続けてきた。
 それも、もう、疲れた。
 男は、目をそらしてうつむいた。色素の薄い髪が風に煽られ、サラサラと流れる様を見る。
 殺気は完全に霧散した。この場を支配していた彼の重圧は解け、眠りに落ちた町の静寂が漂う。
 しばらく、男は動かなかった。何かを考えているのか、外側からは見て取れない。ただ時折、歯を噛みしめる音がわずかに落ちて、それを、彼らしくない、なんて、白藍である俺が知るはずのないことを思った。

 そうして数分は経っただろうか。肩を掴んでいた彼の両手が、おずおずと背中に回る。それに抵抗を示すか迷いはしたものの、どうせ動かせる左手でできることなどたかが知れている。結局、相手のなすがままに任せた。
 コートの硬い生地が、頬に触れる。調和のとれた柔らかな香りが、うっすらと鼻をくすぐる。
 こうして抱きしめられたのは、ずいぶんと久しぶりだった。コート越しに、彼の体温が伝うような気がした。実際のところは、彼に抱きしめられている分、風が当たる面積が減っただけなのかもしれない。
「きみ、を、責めるつもりはないんだ」
 恐る恐る紡がれるそれに、さっきまでの覇気はない。丁寧に選んだのだろう言葉を、彼は舌に乗せる。
「オレは、君と居たいだけだ」
 か細い声だった。少しだけ浅い呼吸に合わせて、彼の肩が上下する。
 まだ彼は彼なりに、守ろうとするのだろうか。

 思春期において、中性的な顔立ちは苦労をする。
 俺を抱きしめるこの男も、そうであったらしい。彼の経歴について、文字だけで触れた情報を思い出す。人当たりの良い性格から大きなトラブルは発生していなかったようだが、些細な揶揄は存在した。
 横山 海という個人への執着は、彼のコンプレックスから来るものだったのだろう。異常とまで言わないにしても、彼の態度は友情や親愛の類としてくくるには少々異質だった。
 特定の個人を守護する役割は、男性的と捉えることが多い。彼は、中性的な見た目への劣等感を、男性的な役割を確立することによって克服しようとした。あえて長めに伸ばされていた髪は、彼が内面による印象を重視したことを裏付けるもののように思う。
 いま、俺を抱きしめている男の姿を、瞼の裏に描く。彼の髪は、既に人並みの長さに切り揃えられていた。
 成長期を過ぎ、思春期を終えれば、男性的特徴は増える。
 この男も、例にもれなかった。体格は、見知った頃で既に華奢という分類から脱していたし、顔立ちも、精悍とまで言わないにしても、今の容貌を女性的と称されることはないだろう。
 彼のコンプレックスは、時間が解決する。そう考えたから、これまで彼の執着を考えることはなかった。むしろ、考えなくていいとすら判断していた。もし何かしら残るものがあったとしても、彼は折り合いをつける、と。
 しかし蓋を開けてみれば、この結果だ。
 予想通り中性的を脱した彼であるが、個人への執着は予想外に強く残ったらしい。
 ずいぶんと計り間違えたと、息を吐き出す。背中に回った腕の力は、なくなる様子はなかった。

「ひどい状況だなあ、シロ」
 突然、場違いなほどに軽い調子の声が路地に響いた。
 男は言葉が言い終えられるよりも早く、俺から飛び退った。目の前から男の姿が消えた直後、パシ、と間近でアスファルトを弾く音が鳴る。間髪入れず、左から金属の跳ねる音が一発分、落ちた。
 ガードレールに背中をもたれさせたまま、声の方向を見る。そこには予想通り、直属の上司があくび混じりに歩く姿があった。気の抜けた姿はいつも通りで、唯一異なるとすれば、その手にサイレンサー付きの銃を携えているくらいか。
 距離を置いた男に目を戻せば、サイレンサーを装着した拳銃を腰から抜き出すところだった。手元の金属板には気づいたが、どうやら武器も携帯済みだったらしい。それを当然と思うかたわら、素手のみで応戦されきった自分に気づいてしまった。
 右肩の激痛は、相変わらず治まらない。ただ、こうも長く痛みが続けば、幸か不幸か、多少痛覚に慣れる。ようやく右肩について、痛み以外の感覚にも目を向けられる余裕が出てきた。
 感覚的に、恐らく脱臼だろう。確信は持てないまでも、やや関節の位置がズレているような気持ち悪さがある。しばらく前にはなるが、同じく肩を脱臼した時の違和感に似ていた。
 ただ、原因の検討がついたところで、状況は変わらない。他人に関節を戻されたときのことはまだ覚えているが、自分でしてみようとは思えなかった。
 上司は、俺を見てわざとらしく鼻で笑った。しゃがみこんだ俺と転がった拳銃から、これまでの状況を察したらしい。
「よっぽど可愛がられたようだな」
「余計な入れ知恵がされてたようなので」
 上司が俺に放った揶揄は、俺が受け取る前に男が叩き落とした。
 男は、全身で敵意を示していた。そこには先ほどまでのか細さなど微塵も残っておらず、ただただ刺々しい。通常は柔らかく目じりを下げている眦も、いまは鋭く睨みを利かせている。
「引きずり込んだのは、あなたか?」
 男は、上司に対して銃を構えた。銃口はその頭部に向けられている。
 迷いのない殺意があった。回答次第では、彼はすぐにでも引き金を引くつもりなのだと、容易に想像できた。
 一方、銃を向けられた側の上司に緊張感はなく、むしろリラックスした様子にすら見える。手にした銃にいたっては、人差し指をトリガーガードに引っかけ、ぶらぶらと揺らしている始末だ。
「随分な言い草だなあ」
 上司の茶化したような物言いに、男が発砲した。
 サイレンサーを装着したとしても、発砲音が零にはならない。空気の圧縮音と空薬莢の落下音が宵闇に響く。
「事実を聞いている」
 威嚇射撃だったのだろう。上司の立ち位置に変化はないが、怪我を負った様子もなかった。
「おお怖い。門鍵が使いこなせなかった諸刃っぷりは健在かぁ?」
 上司は表向き、軽い調子を崩さない。大げさに感情を表し、煽るような言葉を吐く。声だけを聞けば、空気を読めない人間が喋っているだけにも取れただろう。
 しかしその目には、警戒が見えた。
 細められた目は、緊張感のない声とは裏腹に男を注視している。微細な動作も見逃さないよう、瞬きが減っている。普段は状況把握のために周囲を絶え間なく見渡す目が、今は男たった一人を対象として定め、機会を伺う。
 男は、動かなかった。軽口に返答するでもなく、かといって新たに動くわけでもなく。彼自身も、上司の出方を見ようとしていた。
 一気に満ちた緊張感に、肌がひりつく。
 真夜中を超え、住宅街から奥まった位置にある路地は、静まり返っている。アスファルトと細かな砂利がこすれる音すら、意識すれば聞き取れるほどに。それなのに、今はそんなわずかな音すらこの場には落ちない。
 部外者となった自分には、この沈黙が嫌に長く感じた。静かに睨みあう空気を、下手に刺激することもできない。右肩の痛みに耐えながら、肌を刺すプレッシャーを身に受けることしかできなかった。

「ここでやりあうのは本意じゃない」
 沈黙を破ったのは、上司だった。
 鋭い眼光を伏せ、男に対して片手を左右に振ってみせる。なあ、と警戒を解かせようと、さっきまでの陽気さで取り繕う。
 しかし、男の敵意は消えなかった。今もなお銃口はあの人に向けられたままであり、下ろす様子はない。上司を睨む視線も解かれる気配はない。
 問いに答えるまで変えるつもりがないことを汲み取って、あの人は苦笑う。
「そいつは紹介だ。偶然だろうよ」
 その回答を得ても、彼の厳しい表情は崩れなかった。それどころか、疑いのまなざしに変わったのを見る。不信感からか、彼の眉尻が少し角度を上げた。
「偶然、ね」
 訝しげに目を細め、彼は復唱した。
 慎重な彼が引っかかった違和感に、俺は気づけない。
 あの人の告げたことは紛れもない事実だった。シグナルはその特殊性から、表立って人員を集めない。所属員の紹介、あるいは浅瀬とこちら側の両方を行き来する人間が声をかけ、連れてくる。
 俺は後者であり、行き来する人間とはアリーだった。だから、あの人の言うことは何ら間違っていない。
 彼は、なにか別の答えを想定していたのだろうか?
 警戒を解くことなく、上司と対峙する男は、再び沈黙した。何かを考えているのか、ゆっくりとその目がまばたく。
「なんなら、お前も入ればいい」
 男の熟慮を断ち切るように、上司が彼に提案する。愉快そうに、笑みを深めながら。
 真っ先に反応したのは、俺だった。何を言っているのか。そう前のめりに叫ぼうとして、右肩にひときわ強く痛みが走る。呼吸が詰まる。
 その波をやり過ごそうと耐えている間に、あの人は口を開く。
「戸籍がない人間は、こちらとしては扱いやすい。門鍵を疎ましがるのも内部にはいるから、あちらの内部情報には利用価値がある。
 対してお前はこいつの所在、現状を知ることができる。処遇も、そして望むならそこに至る経緯を聞き出す機会が得られる。
 まさにWin-Winだ」
 まるで台本でもあるかのように、流暢だった。それは互いのメリットらしき点を淀みなくまとめていく。
 この様子だと、この人はもう決めている。男をシグナルに所属させるために、様々な視点から物事を切り取り、わかりやすく提示する。
 ただ、彼にシグナルの誘いをかけるのは。上司の思惑が叶った場合に行き着く先を想像して、苦いものが胸の奥に広がる。自分にとって、あまり望ましくない状況が出来上がってしまう。
「それはっ、」
「口を挟むな。お前の失態だ」
 一瞥もされず、端的に発言は制された。そこに男に語り掛ける軽さはなく、意見は許さないと態度で示される。
 上司は、なおも利点を並べ立てていく。発言を制された以上、どうやっても止められない状況に、唇を噛んだ。

 上司から勧誘を受ける男は、依然として口を開かなかった。不信感を強めたまなざしで、銃の引き金に指をかけている。
 誘いを受けるのか、拒絶するのか。はたまた迷っているのか。感情が隠された表情と一文字に結ばれた口元からは、何も読み取れない。
 一向に緩まない男の態度に対し、あの人はおもむろに、深く、息をついた。
「何を企てようが、そいつの居場所はここだけだ」
 男に語りかける声からも、冗談めいた響きが消える。
 そして唐突に、上司が銃を宙へ放った。
 投げられた銃はくるくると回りながら、背ほどまで上がり、元の位置まで落ちる。そのグリップを手のひらが受け止め、また宙へ放つ。重い銃身を受け止める手のひらの乾いた音が、周囲に反響する。
 意図が掴めないまま、男とともに、ただそれを見ていた。もう三度ほど、銃身は投げられただろうか。
 いま受け止められた銃も、再び空へと投げられる。ただ、今回はさっきまでと違い、やや高い軌跡を描いた。
 高い位置から落下した銃は、上司の右手へとなめらかに収まった。乾いた音は鳴らない。銃のグリップは握り込まれ、銃口が、―― 俺を見た。
「今回の処罰を含め、どうなるも組織次第だろうなあ」
 眉間に向かって、照準は合わせられていた。引き金には、既に指がかかっている。当然、安全装置も解除済みなのだろう。
 後ろに控えた表情は片方の口端を上げ、嗜虐性を帯びる。
 なあ、白藍?
 声を発することなく、あの人は俺を呼んだ。

 表社会に露見しないこと。それは、シグナルが幾多の組織に要求することだった。
 表社会と裏社会がつながることによる損失は大きい。裏社会は暗躍するからこそ都合がよく、利用価値が認められる。それを脅かす存在は、不要だ。
 裏は、表から見えてはいけない。組織立ったものは特に、表へ露見してはならない。芋づる式に暴き出される影響の範囲が読みきれないからだ。
 このあり方を続行することによって、表と裏は保たれる。
 これは、シグナルに属する人間とて、例外ではない。今回、組織に属する自分の居場所は特定され、果ては力で押し負けた。この人が言った処罰の対象にあたるのは、ここだ。
 もし解釈の余地があるとすれば、男は裏社会側の人間であることだ。
 彼は、表社会しか知らない人間ではない。そこをどう捉えるのかによって、おそらく処分の重みが決まる。いまこうして銃を突きつけられているように、このまま処分が下される可能性もありえる。
 どちらにせよ、組織の決定に逆らう意思はない。ここで眉間を撃ち抜かれたとて、仕方がないと承知している。そう示す意味で、今は頷くしかなかった。
「脅しですか」
 それを見てか、男がいくらか低い声を発する。
「まさか。仕組みの話だろう」
 上司は、軽快に笑って済ませた。なあ、なんて続けざまに俺に同意を求めた目は、全く笑っていないのに。
 感情のかけらも滲まない、冷たさがあった。この人は時折、軽々しい冗談を吐きながら、もしくは業務時に指導として立ち会いながら、この視線を俺に向ける。少なくとも、約半年ほど前から。
 今までその意味を考えたことはなかったが、おそらく、この人は――……。
 男は、上司に向けていた銃を下ろした。それを真似るように、俺に向いた銃口も下げられる。知らず強張っていた肩から、力が抜けた。
「これは独り言だが」
 再び、上司が切り出す。
「門鍵の間違いは二つ。
 組織対個人において、個人は組織との対立を当然避けるものと思い込んだこと。お前の実力と執念を見誤り、目先の利益を優先したこと。
 だから、逆鱗に触れた」
 これは、おそらく四年ほど前の事実を言っていた。彼は過去に、所属した門鍵のチームと一拠点を潰している。たった一人で。
 シグナル内部の調査報告書に記されていたこととして、当時十六歳の彼は、門鍵内で高く評価されていたらしい。『影』という浅瀬の抑止力として存在し、実働部隊としても十分に機能していた。所属期間は、当時の年齢から考えると、決して短くはなかったと記憶している。模範的存在だとすら言われていたらしい。
 それがある日、牙を剥いた。
 上司が彼を『諸刃』と称したのは、そこが理由であるように思う。この人が言う通り、扱い方を間違えなければ、彼は非常に有用なのだろう。刃物、鈍器、紐、毒物、銃。殲滅に用いられた多種多様な手段は、彼の能力の高さを垣間見せていた。
 ただ、気になることがある。
 男から、上司へと視線を移す。いつも通り、強かな笑みを浮かべて、立っている中年の男。
 この人が先に述べた考察は、確かに男の経歴を汲んでいた。俺が確認した調査報告書の内容と矛盾せず、あれらの事実から考察したものとしては十分なものなのだろう。
 でもなぜ、この人は彼についてそこまでのことを知っている?
 俺が書面で知った男の経歴は、もちろんこの人も確認可能だ。しかしそれは、一定の手順を踏んだ場合に限る。逆に言えば、定められた手順を踏まなければ、手に入らない。自分が知る限り、この人は気が向いた程度でそんな面倒なことはしない。
 自分で手配する以外だと、俺が取り寄せた書類を偶然見た可能性もあるだろうが、それも正直考えづらい。書類が到着してから即座に目を通してはいなかったものの、そう日数をあけた覚えはなく、見える位置に放置した記憶もない。確認後は規定通り、シュレッダーにかけている。
 そうなると、この人はわざわざ手間をかけて、男の経歴を調べたことになる。
 一体、なんの目的で?
「褒美を手元に置けば、飼い慣らせただろうに。そう思わないか?」
 すべてを見透かしたように話す様に、気味の悪さを感じた。
 今日のことを予見したと言われれば、黙るしかない。けれどそれは、あまりにも突飛な理由に思える。言い表す言葉を持たないが、どこか噛み砕けないものがあった。不快感が、胸の奥で小さく渦を巻く。
 そのむずがゆさを呑み込めないなか、上司と向き合っていた男の方からひどく大きなため息が聞こえた。
「飼い慣らす力があれば、そうでしょうね」
 男はそう言って、下げていた銃をホルスターに仕舞った。この場で折れたのは、男の方だった。
 上司はそれを見て満足げに口端を釣り上げた。ようやく尖っていた目が閉じられ、その周りが緊張感のない空気に戻る。
 男は、それを不服そうに見ていた。あまりにもあからさまな表情なので、相当、思うことがあるのだろう。それでも、あの人の目が開くタイミングに合わせてか、瞬時にそれは微笑みに変わる。
「せいぜい上手に扱ってくださいね。なにせ、諸刃らしいですから?」
 彼の口から出たのは、少々、負け惜しみじみた言葉だった。あの人もそう感じたのだろう。返事はせずに、ただただおかしそうに笑うだけだ。
 男は、少し口をとがらせる。調子を崩しにくいこの男であっても、上司相手となれば本調子とはいかないらしい。

 そうして観察していたら、こちらを見た男と目があった。途端、なにか考えを振り払うかのように、男が頭を振る。
 改めて俺を見据えたそこに、イラついたような雰囲気は残っていなかった。しゃがみこんだままの俺まで、足早に駆け寄る。
「立てる?」
 俺に近付くなり、男から声がかかる。ごめんね、と続けざまに謝られ、痛みは、と矢継ぎ早に質問が飛んでくる。
 柔らかい口調のわりに、ずいぶんと早口だった。返答を求める内容を聞くわりに、口をはさむ暇がない。おおかた苛立ちは表面上隠しているだけで、内側にはまだ居座っているんだろう。
 複数の質問に対してどう答えるべきか迷っている間に、突然、左脇に腕を差し込まれた。あまりにいきなりのことで、とっさにのけ反った。
「! あ、ゔ……ッ」
 運悪く、右肩がガードレールにぶつかり、間髪入れずに鋭い苦痛が駆け巡る。噛み殺しきれなかった悲鳴が、喉から漏れる。
 時間をかけてやっと慣れかけた痛みが、一気に膨らんで再び牙を剥く。あまりの感覚に息が詰まる。すぅ、と頭から血が降りる感覚があった。
「なんで避けるの……」
 困惑したような男の声が耳に届いた。
 男としては手助けのつもりだったんだろう。近寄った際の第一声などを考えれば、片腕が使えないのを気遣って、出来る限り負担を少なく、立ち上がらせようと補助するつもりだったと、今ならわかる。
「後で関節は治すから、今は我慢してね」
「ゔ、ん……」
 優しく声をかけてもらっていることはわかったが、痛みを押し殺すことに必死で妙な返事になった。しかしながら、いま、そんなことを気にする余裕もない。呼吸を止めて、必死に痛みをやり過ごす。
 立ち上がらせようとしていた彼の手は、俺の背中をさする。優しく上下する動きに、心なしか、鋭い痛みが和らいだ。
 彼は、優しい。
 痛みに耐えてかすんだ視界のなか、俺を心配そうに覗き込む彼の顔が映る。ところどころボヤけた像は、記憶が形を補正する。懐かしさを、そこに描きそうになる。
「シロ!」
 そんな思考を現実に引き戻すように、上司の声が響いた。
 呼び声には、なんとか顔をもたげる形で応える。
「明日、そいつと事務所にいるように」
「いたい」
「気合で耐えろ。休むなよ」
 男を指差した上司は、何とか絞り出した言葉に全く取り合わない。それどころか、俺に釘を刺した後、用は済んだとばかりにさっさと踵を返した。スタスタと歩き去る姿には、寸分の迷いも見えない。
 元より、彼の所属入りや右肩の怪我が自分自身の失態であるのはその通りなので、文句を言える立場でないことは重々承知している。気遣いを期待したわけでもないが、まさか根性論で返されるとは思わなかった……。
 男の温情がやけに染みるのは、あの人が近く居るからかもしれない。冗談半分に、そんなことを思う。かといって、あの人が彼のような優しさを持つのを想像できるかと言われれば、できない。
 飄々として、ひどく雑な性格。されど一貫して、何も悟らせはしない。
 不気味とも形容できる存在が優しさを見せたなら、それはきっと別人に違いない。
 上司が去ってしまえば、この場には彼と俺だけになる。
 肩の痛みはいまだに引きはしないが、ガードレールにぶつけた分はマシにはなってきた。左手で、背にしたガードレールを掴めば、彼は何も言わずに即座に支えに入ってくれた。
 男にだいぶ体重を抱えてもらって、長らく温めていた地面からようやく腰を離す。長く折り曲げ続けた膝が固まって少し動かしづらいが、何とか両足が地面につく。
 そうして、亜麻色をもつ男と並び立った。
「よろしくね」
 晴れやかな表情で、彼は俺に笑いかけた。その理由なんて、すぐに見当がつく。だからこそ、何も言わずに視線を外す。
 その喜びはきっと、俺が見てはいけないものだった。

(了)


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