轍 > まっさら



「例えば、太陽のない港町、息も凍る南の果てにいくとして、どうすれば後悔しない?」


そう、先生がオレに尋ねた。

まるでなぞなぞのような問いだった。
太陽のない港町。息も凍る南の果て。後悔しない方法?
先生から出された問題を頭の中で繰り返す。

太陽のない港町はきっと暗いと思った。夜ばかりの町だ。夜は怖い。
息も凍る南の果てはきっとつらいと思った。寒すぎるのは嫌だ。動きたくない。
怖い場所やつらい場所には行きたくないと思った。きっと厳しいことばかりだから。

「行きたくない……」
「いくとしたら、の話だよ」

眉間にシワを寄せて唸るオレに、考えてごらん、と、なおも先生は思考を促す。
ちらりとその表情を伺っても、そこにあるのはいつもの柔和さだった。意図は読み取れない。

もう一度、頭の中で先生からの問題を唱えた。
けれどその後に巡るのは、行かない理由ばかりだ。だって、楽しくない。面白くない。
行きたくない、で固まった考えは、どうやってもその先に進んでいかなかった。
でも、すぐに諦める様子を先生に見せるわけにもいかなくて、ズルいオレは考え込むふりをする。


先生は時折、学校で習うことの外側をオレに問う。
オレは、それらに正しい答えを見つけられたことがない。
それらしい答えを言ってみたことはあるけれど、先生は何も言わなかった。きっと正解じゃないから。


「やっぱりわかんない」


少し時間を稼いだ後、答えが出ないことを伝えた。間違いを言って呆れられるより、その方がまだ良いと思って。
けれど、先生は、予想よりもずっと寂しそうに微笑んだ。いつも以上に眉尻を下げ、ひどく悲しそうな目に変わる。

間違ったと、すぐに後悔した。先生を悲しませた。
オレは何かを言うべきだった。今からでも、何か、言わないと。
とりあえず口を開くけれど、取り繕える言葉は何も浮かばない。
結局、先生の期待に応えられるものは思いつかず、何も言えないまま、口を閉じるしかなかった。


視線を落としたオレの頭に、先生がそっと手を乗せる。
大きな手が、正解を見つけられないオレの頭を、優しく撫でる。


「答えが見つかれば、双希(そうき)はきっと楽になれる」


そう告げる低音は、ひどく穏やかに体に染み入る。
隣に寄り添ってくれる先生に頭を預ければ、ふわりと白檀が香った。





目を開けると、部屋に差し込んだ夕日があった。
淡い白のレースカーテンが、薄く開いた窓から吹き込む風で柔らかく揺れる。
少し遠くには、背の高いビル群が見えた。曇り空を映すビルの窓ガラスが、時折瞬く。

この空間に、雑多な騒がしさはなかった。
電子音がわずかに遠くから聞こえるだけで、程よい静けさが満ちる。

随分と懐かしい夢を見ていた。ベットに手をついて上体を持ち上げる。
体は覚醒直後のダルさがあるものの、問題なく動く。患者衣ごしに体を触っても、特に痛みはない。
故意に開けていたピアスを除き、傷跡があらかた綺麗に治癒されていることは昨日、確認している。
体にある違和感とすれば、腰の左上あたりがじんわり温かいくらいか。


不思議と、心は凪いでいた。記憶には、凄惨な自分の死があると言うのに。
限界を超えた痛みを感じたはずの体は、すっかりいつもどおりだ。記憶にだけ、まるで他人事のように死が横たわっている。
少し眠ったから、落ち着いただけかもしれないけれど。地面が浮つくような感覚も、今は鳴りを潜めている。

今、自分が休んでいるここも、病院じゃない。
病院特有の消毒液の匂いもしなければ、医療機器もない。
物の少ない簡素な部屋は病室に見えなくもないが、穏やかな色の壁紙や絵画が親しみを持たせている。
ここは、生き返る人間のための施設だった。

生まれた頃からの常識として、人の死は選択制だった。
正確には、死んだ後、生き返らせるかどうかを選ぶことができる。それ以降の成長と引き換えに。
その方法は、科学とは到底かけ離れたもので、ひどくオカルト的らしい。正直、よくは知らない。
過去に蘇生させる側だった母親から、思い出話を聞かされたことはある。その中で登場する虹色の石は、確かに現実離れをしていた。

ただ今回、オレはそんな人間のあり方からも外れたらしいけれど。
通常、蘇生は死亡者だけでは成り立たない。蘇生させる人間を必要とする。
それがなんとこの度、オレはたった一人で生き返る体になったんだとか!
めでたいのかめでたくないのかはよくわからないが、死の選択肢が取り払われたのは確からしい。

昨日、担当者から懇切丁寧な説明は受けていた。これは実用化前の技術であるのだとも。
それらに何かを思ったわけじゃない。勝手に生き返るとしても、大きく生活が変わるわけでもない。
心が引きずっているものは、別にあった。無意識に、手元のシーツを握りしめる。


オレの件に関しても当然、意思確認は行われていた。確認といっても、その時既にオレは死んでいたので、決定権は家族や親族だ。
昨日の話の中で、承諾した人の名前は聞いている。そして、その人が関係性を”家族”ではなく、”親族”と称したことも。

事実を思い出せば、胃が締め付けられるような感覚が蘇った。
きっと、距離を置くような言い方だったんだろう。冷たい声の調子は想像がつく。

何となく感じていた距離感が、明確な形を持って示されたような気がした。
良い感情を持たれていないことはわかっていた。何か、思うことがあるんだろうとも。
それでも、ここまでだなんて、思ってなかったんだ。


力を抜いて、背中から布団へとまた倒れ込む。
ふんだんに空気を含んだ枕が、オレの頭を優しく受け止めた。
自分の頭上にある電灯は消えている。夕日だけが、赤く部屋を照らす。

昨日を思い返すたびに、世界がぐらついているような感覚に襲われた。
今は落ち着いているが、それが一時的であることは想像に難くない。だって状況は何も変わっていない。


両腕で顔を覆う。夕日を遮って、自ら作った暗がりの中で目を閉じる。
奥へと沈み込むように強く目を瞑れば、灰色とも虹ともつかない空間が広がった。その中で、自分の意識は豆粒のように小さい。

なんてことない。わかってたことだ。これから、何をしていくかを考えるしかない。
今のオレに足りないものを身につければ、好転する。
楽観的な自分が呟いた。そう思うしかないよなあ、なんて意識の底で同時に思う。

目を開けば、意識が等身大に戻る。
本能的に、だめだと思った。小さな否定すら、今は耐えられる気がしない。
今は、嘘でもいいから、何もかもを肯定して欲しかった。


「先生に会いたい」


ベットから起き上がった。
もうここに用はない。昨日の時点で、落ち着いたら自由にしていいと言い渡されている。
昨日のうちに届いた荷物の一つに、新しい衣服が入っていたのを思い出して引っ掴んだ。


患者衣からシンプルな洋服に着替えて部屋を出れば、職員がオレへにこやかに声をかける。
適当に笑ってありきたりな感謝を述べれば、あたりさわりのない返答がある。そうして他人の関心は、簡単にオレ以外へと移っていく。
それを繰り返して、オレに向く視線を避けて、ただの大勢の一人になっていく。そうしたところで、後ろからにじり寄る焦燥感から逃げられるわけないのに。

施設を出て、見送りに出てくれた職員が見えなくなったらすぐに、駆け出した。
最寄りの駅に駆け込んで、公共交通を乗り継ぎ、待ち時間すら惜しんで、動いた。
先生の下へ一秒でも早く辿り着けるように、ひた走る。

運動不足な体は、早々に息が切れた。時折、足がもつれかけるときもあった。
それでも足を止めなかった。体の中で渦巻く不安に押しつぶされないように、優しい先生だけを思う。


「せんせい」


からからに乾いた喉から、擦れた声が出た。みっともない声だった。



先生の家へ続く道に着いた頃には、夕焼けはとうに夜に飲まれていた。
人気のない夜道のなか、街灯とは別に、穏やかな光がそれぞれの家から漏れ出ている。
そこから今にも賑わいの声が聞こえてきそうで、嫌だった。何も聞きたくなかった。

団欒の光から目を逸らしながら走り続けて、見慣れた佇まいがようやく視界に入る。
敷地を囲む門の奥には、優しい灯があった。先生が、そこにいる。

はやる気持ちのまま、閉じられた門に手をかける。
けれど、カチン、と音を立てて、門は開かない。さすがに夜は、先生も鍵を締める。


「先生、」


ここまで走り続けた体は、もう限界に近かった。
ぜ、と妙な呼吸になる胸を押さえながら、最後の力を振り絞って先生宅の門を叩いた。

「先生! 先生っ!」

切れた息をそのままに、先生を呼んだ。
今持てる精一杯の力で門を叩いて、ひたすらに呼びかける。
側から見ればきっと異様だろう。夜道にオレの声が響いているのもわかってる。
でももう、そんなことを気にする余裕も残ってないんだ。

早く、先生に会いたい。名前を呼んでほしい。触れてほしい。
足が震えた。立つことすら危うくなって、門にすがるような体勢で地面に膝をついた。
息が苦しい。心臓が痛い。運動を止めた体が熱い。
全身の汗が止まらなかった。肌を滑り落ちた汗が、地面に丸く黒いシミを作っていく。


「せんせい……」


膝をついたコンクリートから伝う冷たさが、体を冷やす。
熱を発散する体にとってそれは心地よいのに、心にとってはその冷たさが痛い。
すがりついた門は、未だに開かない。門にかけられた鍵が、オレを中に入れることを拒む。
全部が、まるで先生からの拒絶を暗示しているように感じて、胸が張り裂けそうだった。


かちゃん。奥から、鍵が回る音がした。
からから、と扉の開く音が続く。柔らかな光が、オレに届いた。
足元から玄関へと視線を持ち上げれば、怪訝そうにこちらを伺う先生がいた。オレを見るなり、その目は驚きに変わる。


「双希?」


先生、と、応えたつもりだった。
声は出なかった。胸の奥から、こみ上げてきたものが邪魔をした。
目元が熱くて、明かりの中にいる先生の輪郭がぼやける。嗚咽が、落ちる。

焦った足取りで、先生が門を開けてくれる。
地面に座りこんだオレと目線を合わせるように、先生がしゃがんだ。動作に合わせて、尾を引かない懐かしい匂いが香る。
先生が、オレを落ち着かせるように、柔らかな声でオレを呼ぶ。シワのある手が、オレの背を撫でる。

ああほら、先生はオレを否定しない。


「せんせ。オレは、どこに帰れるんだろう」


それでも、言葉にできたのはそれだけだった。
先生は何も応えずに、家の中へと招く。いつもは暖かな先生の家が、なぜだか今は少しだけ寒かった。

オレはまだ、あのときの答えを見つけられていない。





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