轍 > いっぽめ


真昼間のざわざわした人通りを前に、ぼんやり立ちすくむ。
行き先どうしようかなあ。見上げた空はいつも通り曇り空。
今まで居候していた部屋は、今朝、ポストへ鍵ごと捨ててきた。

そろそろ潮時だった。
ポーンと、もう何度目かもわからない通知音を聞き流す。
五日前に、それこそここで引っ掛けた男からなんだろう。


優しげな顔と態度で、良い人かなあと思ったのだけど。
簡単に転がり込めたところまでは良かったが、あそこまで尽くされるとは思わなかった。依存と束縛の濃くなった彼のメールは、見る気もしない。
甘さのある体臭も不快に感じてはいた。きっと元々合わなかったんだろう。

大概、人を見る目がねえの。長いこの生活でのハズレっぷりに、ため息をつく。
半ばヒモ生活しているオレがいうことじゃ、ないんだろうけどさ。


さて、とズボンの後ろポケットに手をやった。
今のオレの手持ちは、ここにある財布だけだ。それでも中身は特に心許なくもなかったはず。
娯楽施設で、今晩は過ごそうか。別の人が見つかれば、それでもいい。
いつものように、楽しく今を生きることだけを考えていく。
幸い、世間は休日だった。人は多い。


一歩、硬いコンクリートに踏み出す。
膜一枚を隔てていた喧騒の中に、すいと入り込んだ。
ビルに見下ろされた道を、周りの忙しない歩調に合うように足を動かす。

いざとなっても、頼る先は持っている。大黒(おおぐろ)なら大抵、予定は空いてるはずだ。
ここでない場所の縁を浮かべながら、人が流れるままに歩いていく。

そういえば最近、先生のところに顔を出していない。前行ったのはいつだったっけ。
穏やかな空間を思い出せば、勝手に歩調が緩んだ。ざわめきがまた遠くなって、耳に一枚膜が張る。

暖かい場所。気持ちのいい場所。
いつ触っても冷たいあの手を、自分の手を触りながら思い出す。
節のしっかりした指をいじるのは、地味に気に入ってる。


そうして歩く中で、何かが鼻についた。
すぐ傍ではなく、風に乗ってきた少量の香りを嗅ぎ取る。

それはあまい、

「双希!」
「おわッ!」

手首が流れに逆らうように引っ張られた。
突然すぎて肩が抜けるかとおもっ、た。

「なんで合鍵すてた」

振り返ってみたら、やあこれは昨夜ぶりの顔。
なんだか俯いた表情が、やけに危なく見える。

「あんなに、尽くしてやったのに」

周りは、鬱陶しげに立ち止まったオレたちを避ける。
あるいは好奇心の目が向いて、遠くで立ち止まる姿。
避ける人と遠巻きにいる人が、流れに淀みを作り出す。


一方で、オレの背中は悪寒を走らせていて、思わず笑ってしまう。
全身が、何かに警告音を鳴らす。悪い予感がしていた。
少しでも誤魔化したくて笑うのに、一向に消えない。

それどころか、笑ったことで男が不快そうな目を上げる。
その血走った目に、もはや笑いもできなくなった。これはまずい。

「帰りたくないっていうから、置いてやっただろ?
 部屋も自由に使わせたし、色々買ってもやっただろ?
 ちゃんとお前のしてほしいこと聞いて、叶えただろ?
 一体、何が不満だよ。何が嫌だっていうんだよ。なあ!」

まくしたてる相手の、昨日までの優しさはどこへやら。
今は顔を真っ赤にして、つり上がった眉は相当キツい。


ううん。
表に出せない大きなため息を、心の中でつく。

こういうのは、いつまで経っても慣れないなあ。
間近で怒鳴り続ける男に飽きて、喋るための空気を吸い込む。

「何か、」
「あんたさ、構い過ぎなんだよ。言われたことない?」

ぴた、とオレの言葉に男が止まる。
さっと引いた青ざめた顔。これは図星かな。

「いちいち何してるどこにいる誰といる」

数日間、受信ボックスを圧迫した内容だった。
返信が一分でも滞れば、すぐに第二便が届く。
マメだ、なんて言葉で済むような頻度じゃない。

「それさあ、あんたに言ってなんか意味あんの?」

関係ないだろうよ、なんて声の裏に隠した。
掴まれた手首が、一層強く掴まれて軋む。

それでも、歪みかけた表情を無理にでも戻す。
精一杯の強がりで、保つけど、痛いなおい!
増す痛みで、額に汗が滲む感覚がした。

「正直、うっとーしい」
「この!」

煽るように吐き捨てれば、相手が左手を振り上げる。
遠巻きにしている誰かの、息を飲むような声が聞こえた。

けして力が弱くはないだろう。
これは、しばらくあざになるかな。
覚悟を決めて、俯き加減に目を閉じる。


「やめろ」


肌同士が、当たった音はした。
けれど不思議と、痛みはどこにもなかった。
覚悟した頬どころか、掴まれていた手首にも。

恐々と目を開けば、そこには青色。
青い、細かな模様が走る布地。…着物?

「公衆の面前で。邪魔だ」

前に立ちふさがった、高い背を見上げる。
その位置と伸びた背筋に、拒絶がよぎった。
瞬きをすれば、すぐに消える。ただの記憶だ。

そこに居たのは、知らない存在だった。
皺のない長着に、光で深い青に透ける髪。
紺色、だろうか。艶のある短線が風にそよぐ。
ちょうど目の前の襟足だけが、少し長めに流れていた。

こちらから顔を見ることは叶わない。
完全に前を向いて、男と向き合っている。
少し傾いて覗き込もうとしたが、前の青い顔が目に入ってしまった。
威勢の良かった男は、随分とまあ縮こまってらっしゃる様子だった。


まあなあ、と理由はわからなくもなかった。

目の前の紺色は、随分と背格好がいい。
特別太く強くは見えないが、そう細く弱くも見えない。
対して、自分とそんなに体格の変わらない男だからなあ。

元々、荒れた性格には見えてないし、そう度胸もないだろう。
その彼が、両手掴まれ見下ろされ、ともなれば、こうなるか。
まあこの高身長じゃ、前に立たれただけでも十分怖いだろうけどな!


「な、なんだよ、通りすがりには関係ないだろ!」


振り払うように、紺色の手を退かせる様子が見えた。
けれど勢いがつきすぎたか、そのまま尻餅をつく姿も。
カ、と瞬時に赤くなる顔はなんとも間抜けそのものだ。

彼なりに精一杯の威勢を見せたかったんだろう。
けれどその声は震えていたし、散々な結果だったけど。
通りすがりの紺色に呑まれているのは、明らかだった。

それは男だけではない。周りもそうだ。
尻餅姿に嘲笑の一つも発さない野次馬。
騒々しさを連れた男のペースはどこにもない。
ピンと張る緊張感と静かな空気が場を占める。


そろそろ、終いをつけてやろうか。
ポケットに入れていた財布を手に取って、踏み出す。

往来で、これ以上恥をかかせるも可哀想だろう。
なんたって、オレに精一杯尽くしてくれた人らしいし?

「そうだね、あんたは散々尽くしたオレに用があるんだもんね」

歩み出るオレを、紺色が振り向く気配がした。
その顔が少し気になったものの、今は男を見る。
垂れかけた眉が、オレを見て再び怒りを取り戻す。

「まあ世話になってたくせに無言で、は、さすがに怒るよなあ」

ごめんごめん、と軽く口に出す。
どんどんと角度をきつくしていく眉に、笑う。

「尽くした分、返せって話だよな」

オレ自身は行為で返していたつもりだったのに。小さくごちる。
ただ言葉にしてなかったし、礼とは思われてなかったんだろう。

思い出しながら、わかりやすさが一番かと確かめた。
未だ座りこんだままの彼の前で、財布を開く。
札入れに入っている全てを、右手に掴んだ。


「とりあえず、これくらいで許してよ」


ぱ、とそれを相手の頭上で撒き散らした。
花吹雪ほど綺麗に舞わないお札が、男に降る。
見開かれた目に、札の影が過って落ちていく。

男はあっけにとられていた。目も合わない。
とりあえず男の顔に不満の色は見えないので、安心した。
これで今の手持ちは全てだ。不満がられたら、正直困る。


さて。一息ついて、振り返る。
あとは紺色さんにお礼を言って、終わりだ。
簡単に走る方向を浮かべながら、見上げれば。


「おに、い…」


呼びかけようとした声は、息と共に呑んでしまった。
後ろから見た通り、暗い髪は短く風へなびている。
けれどその下にある顔は、想像以上に整っていた。

まっすぐ伸びる眉に、少しキツく吊られた黒い目。
すっと通った鼻筋の先には、小さめの口が居座る。
それぞれが左右対称に、綺麗に、配置された顔。


こんなにも。
今度はオレがあっけにとられる番だった。
整いきったそれは、本当に無機質に見える。

それほど、人間味を切り離していた。
冷たい印象が、真っ先に入ってくる。
ただそれは、今の彼が無表情だからかもしれないけれども。
口角を上げたり、目を細めたりすれば、変わるんだろうか。


「おい」


低い声に、ハッと意識を戻した。
やや見すぎたのか、相手の額に皺が寄っている。
美人の凄みに思わず、喉の奥の方で悲鳴をあげる。
なんだかダメだ、変な汗を手のひらにかいてきた!

「あ、あー…、えと!」

妙な緊張で、頭が回らない。
あれ、オレは何をしてたんだっけ。
何で、こうして美人と向き合ってる?

よく働かない思考を、持て余す。
一から振り返って、一の時点はどこだろう。
とりあえず今日、寝て起きたところからなら。
今朝は寝相でなのか布団がなくて素っ裸大公開で、寒さと甘さにため息を吐いて。


そこであっけなく蘇ってきた事実。
修羅場を終えたところだったと手を叩く。
紺色が訝しげにオレを見るが、実は気にしてるどころじゃない。

後ろを恐る恐る確認すれば、項垂れた姿。
どうやら、まだ回復してはいないらしい。

しかし、周囲は別だった。
少しずつざわめきが聞こえている。
指がおもむろに自分たちを指し、ひそひそ声を出す。

その的からは、なるべく外れたかった。
閉鎖的な退屈感を思い出して不快だった。
ざり、と無意識に靴底が道路の凹凸を削る。


とりあえず此処から逃げよう。はい決まり!
思い出は放り投げ、今について頭を動かす。
ああでも、ちゃんと紺色にお礼言ってから。
けれどお礼を言い終われば、彼ともここで切れる?

どこかで変に戸惑った思考の中で、足をあげる。
焦ってるんだろう、もうろくに何もわからない。
どうとでもなれ、ととっさに彼の腕を袖ごしに掴む。


「ごめん、落ち着くまで付き合って!」


止める声は聞こえたが、かまわず引っ張った。





prev 轍 page next

PAGE TOP