轍 > にほめ


走っていた足を緩めて、五分ほどは歩いただろうか。
あの場所から、そこそこに距離が取れたように思う。
走って乱れていた息は、もう随分と落ち着いた。

周辺を見渡しても、奇異の目は向いてこない。
いつも通り、誰もが己の関心ごとしか見ていない。
吐ききれていなかった息苦しさを、宙へと大きく吐き出した。

そして、ずっと引っ張るようにつないでいた手を離す。

「ごめんね」

言いながら振り返れば、そこには涼しい顔の美人がいる。
結局、男は特に何も言わないまま、ここまで付き合ってくれた。
無理やり一緒に逃げたものだから、正直途中で振り払われても仕方ないと思っていたのに。

「気にしてない」

歩調を緩めて、男の左隣に並ぶ。
男はオレに一瞥もくれず、ただただ前を見ている。
そこに気遣ったような気配はないから、お世辞でもなく本心なんだろう。

男は凛とした立ち姿で通りをまっすぐに歩く。
そのペースは特別速くもなく、かといってのんびりというほどでもない。
自分が歩く速度と噛み合う速さで、まばらな人混みを縫っていく。


彼は、どこか行く先でもあるんだろうか?
正直なところ、あの場から逃げ出すことに必死で、オレは適当に走ってきた。
ここが日暮町(ひぐれまち)のどのあたりかは見当がつけられるから、特に困りはしないけれど。

この男はどうなのだろうか。
右を伺い見たところで、彼の目は相変わらず前だけを向く。
まっすぐと前を見据える瞳は、深い漆黒だった。
深く澄んだ単色に少しだけ、憧憬の念が浮かぶ。


「知り合いだったのか」


不意打ちだった。
知らないうちに、自分の目元をたどっていた左手を下ろす。

「ん?」

仰ぎ見れば、男の目はオレを見ていた。
やっぱり綺麗だなあなんて、場違いなことを頭の隅で思った。

「さっきの男」
「敬也さん?」

彼の言葉に、先ほどの原因である男を思い出す。
呆然と座り込んでしまった彼は、もう立ち直っただろうか?
あれで素直に引く人間であればいい。自分に向いた執着を思い出して、切に願った。

男の名前を答えたにも関わらず、隣からは何も返ってこなかった。
疑問に思って再び彼を見上げると、眉根を寄せた顔があった。
ああ、この人は彼を知らなかった。

「そうだね、知り合いだったよ」

首に触れる。

「面倒になる前に、切ったんだ」

自然と、声のトーンが落ちた。
幸い、あの騒ぎ以降、通信装置は沈黙を保っている。


異様な執着心を持つ人間は、早めに関係を絶たなければ足元をすくわれる。
今までふらふらと出歩いた中で、肝を冷やしたのは大体そんな人間相手だ。
時間を共有したがる。周囲を把握し、遮断したがる。結果として、自分の管理下に置こうとする。
オレが知る限り、そんな行動が多かった。そしてそれらから距離を離すことは大概難しい。

そして敬也という男も、おそらくこれに該当する人間だった。
そうでなければ、あの異常な連絡も、今日のような街中での騒ぎ立てもしないだろう。
そう思うと、今回はやや判断が遅かったのかもしれない。


まあ、一時的に生活圏をズラせばなんとかなるだろう。
日暮町はそう小さくないし、人も少ないわけじゃない。むしろ多い。
紛れてしまえば、そうそう探し出せやしない。そう高を括ってたら、さっき見つかったけれど。

ただ、敬也のプライドは決して低くない。
無様な姿を更に貶めたオレよりも、新しい関係性を作る方がきっと心地よい。
憶測だけれど、彼がオレに対してそこまで何かを見出しているとも思えなかった。
だからこそ、特に気にとめる必要性もあまり感じてはいない。

何にせよ、面倒ごとはさっさと逃げて忘れてしまえばいい。
めんどくさいことは嫌いだった。オレに解決できることなんて何もない。


くだらない結論に到るまでの間、隣の男はオレの言葉を考えているようだった。
どうやら彼は、さほど面倒ごとに巻き込まれてこなかったらしい。
もしくは、そうしたことはあまり記憶しないようにしているのかもしれない。
まあ、あまりにも世俗的で、この綺麗な造形に似合わないと思わなくはない。

「家に置いてもらったんだけど、束縛強くてさ。
 貰った合鍵を捨てて縁切ったつもりだったんだけど、通じなかったみたい」

省略していた経緯を伝えれば、すんなりとイメージはついたらしい。
途端に、彼は形の整った眉を不快そうに寄せて、目を細めた。予想通り、肯定は示さない。

「助けてくれてありがとうね」

事情を知らずとはいえ、助けられたのは事実だ。
言えないままだったお礼を、今更に告げる。

「……知っていれば、助けなかった」

どうやら彼の倫理観において、相当受け入れ難かったらしい。
また前に向き直ってしまった彼が、低くつぶやく。
仕方がないと理解するものの、あまりにもあからさまな嫌悪の表現に思わず苦笑した。

「そんなこと言わずに」
「自業自得だった」
「結構言うね!?」

間髪入れずに返ってきた言葉は、まるで容赦がない。
シャープな顔立ちだとは思ったけれど、言葉もなかなかに鋭いようで。
美しい花には棘がある、なんてことわざをうっかり思い出した。
意味はよく覚えてはいないけれど、字面だけ見れば彼にピッタリだ。

男はなおも眉根を潜めたまま、ただただ隣を歩いている。
歩調はオレと合ったままであり、離れようとする気配は感じない。
何かを悩むような表情は取られているが、拒絶も特には見えない。


「でもほんと、助かった」


沈黙を避けるように伝えてみれば、彼の目だけがこちらに向く。
それににっこりと愛想を振りまいてみるが、特に何もなく前に視線は戻った。
この美人サマに、オレの愛想は通用しないらしい。悔しい。

「頻繁にあるのか?」
「そんなには下手打たないよ」

口から出してから、やってしまったと思った。これじゃ暗に慣れてると言ったようなものだ。
予想通り、彼は一層難しそうに顔をしかめてしまった。
どうやらこの話は、よっぽど彼にある思想と合わないらしい。


当然だと思った。

男同士の関係。根無し草のようなあり方。
多様性が認められたとて、すぐにその両方を受け入れられる人は少ない。
なんでも、まっすぐ真っ当に生きている人ほどオレのあり方は受け入れづらいらしい。

オレを否定しないのは、先生くらいだ。
先生は優しかった。小さい頃からお世話になっているけれど、否定された記憶はない。
だからこそ、今のあり方を続けられるんだろうとも思う。
先生がいてくれるから、誰から否定されたって何でもない。


目線は、自然と男の顔から足元へと落ちていた。
自分の足先が一定のテンポで歩いている。
否定を、聞き流す準備はできた。


「少し、気をつけろ」


予想に反した言葉だった。
それはまるで、別にやめなくてもいいというようで、純粋に驚いた。
つい隣を見上げれば、そこには何やら葛藤が渦巻く様がある。
よっぽど彼の思考と違う位置にある価値観なのだろうが、そんなに無理しなくても!

まあ、積極的に否定する行動を取らない可能性もあるか。
息を吐いて、知らないうちに肩に張っていた力も抜く。
完全に受け入れないわけではなく、かといって許容もしない。そんな考え方なのかもしれない。

彼は、彫刻のように整った顔で、思った以上に感情を表現してくる。
特に偏見も何も持っていたつもりはないが、もっと、温度がないと思っていた。
彼自身の空気感も、決して朗らかと言えない振る舞いも相まってそう誤解した。

こうして改めて見ていると、そりゃあ、人間と見分けがつかない人がいても仕方ないのだろう。


彼ら、ケイルは、ヒトを模した人工物だ。
その証拠に、彼の場合は風に煽られる髪に深い藍を孕む。
ヒトでは染色しなければ、あるいは染色しても表現しきれない色を持つ。
精密な容姿及び身体のバランスだって、人工的に作られている。
まあ、どちらにも例外はあるらしいが。

隣を歩きながら、なんとなく天を仰ぐ。いつもどおりの曇り空。
この人に、この町は似合わないなあ。

この街にいるのはほとんど人間だ。だってここは好きに生きるところだから。
ケイルは、誰かに乞われ、役割を持って存在する。なすべきことがある。
だから間違っても、好きに生きる、なんて選択肢は彼らにない。
だから、似合わない。

役割が定められている。人のために活動する。
それらを考えることは好きじゃない。だってそれは窮屈なんだろう。
息苦しそうな背中を、オレは知っている。オレには、ないことも。


「そういえば、まだ名乗ってなかったよね。
 オレ、双希っていうんだけど、おにいさんは?」


思考を紛らわすように彼の名を尋ねれば、数歩、一定だった彼の歩みがやや乱れた。
疑問に思って彼を横目で伺ったが、すでに口元は手で隠されている。
見える限りの目元は思案げに伏せられ、黒い目が更にその深さを増したように見えた。

思案する顔から戻らない彼を眺めながら、こうなった原因に憶測を飛ばす。
テンポが崩れたのは、オレの言葉のあとではあった。
考えられるのは、オレの発言か、周囲に何かあったかのどちらか。

周辺をそれとなく見るが、オレから見た限りではいつもどおりだ。何も特異なものはない。
彼が何かを探してるならオレは気づけないが、こうして隣に留まってるのなら、オレの言葉に何かがあったと考えるのが自然か。

……名前を聞いたのがまずかっただろうか?

「あー、言いづらいなら、」
「そうじゃない」

言葉を探しながらのオレの気遣いは、彼に遮られた。
しかしその声色は、歯切れの悪さを拭えていない。
そして真っ黒な目が、オレをまっすぐに見た。


「鞘(さや)」


なんだか可愛らしいふたつの音が、端的に発される。

「偽名?」

つい、浮かんだ疑問が口からこぼれてしまった。
自分の声が耳から聞こえた瞬間に、さっと血の気が引いた。
これは、無遠慮に踏み込んでしまったんじゃないだろうか。やってしまった。

しかし彼は、ようやく口元から手を離した。
さっきまでの様子はどこへやら、そこには元の涼しげな表情。

「いや。藤堂 鞘が氏名になる」
「おー、あー、まじか。ごめんなさい」
「気にしてない」

あくまで感覚としてだが、嘘ではないのだろう。
うろたえてしまったオレを気に留めた様子は、全く見えなかった。
リズムも整って、凛とした雰囲気がすっかり彼の周囲に戻っている。
彼の変調は名前が原因かと勘ぐったのだが、違っただろうか?

「”とうどう”は東のお堂?」
「藤だ」
「へえ、かっこいい」

漢字が特定されることを特に嫌がる様子もない。
褒めても何も乱れない。

この様子なら、名前が原因という推理は外れだろう。
少しくらい照れてくれたら面白かったのに、なんて冗談ながら考える。
長いまつげが影を作った目がどうまたたくのかは、興味があった。


藤堂。
思考の傍らで、彼から聞き出した名字を頭で反芻する。
記憶にある限り、聞き覚えはない。心当たりもなかった。
少なくとも、オレにつながる関係性は、彼との間にはないのだろう。

気をもむ要素がないことに安心した。
頭の片隅にあった嫌な緊張感を、息ごと吐き出した。


「んー、”鞘さん”は言いづらいな。噛みそう」


切り替えた思考で、次は彼の呼び方を考える。
藤堂さん、は仰々しすぎるように思って候補から外している。
名前に目星をつけたものの、さん付けはちょっと舌が回りづらい。

「なんて呼べばいい?」
「そのまま呼べばいいだろう」
「それはちょっとほら、失礼かなって。呼ばれるのは別にいいんだけどさ」

オレの言葉にあまり共感はできなかったらしい。
彼は首を一度かしげ、そのまま興味なさげにオレから視線を外した。

といっても、そうそう呼称にバラエティは持っていない。
“鞘くん”は雰囲気が違う。”鞘様”は、ビジネスじゃあるまいし。
“鞘どの”? 似合わなくはないだろうけど、呼ぶオレがちょっと恥ずかしい。

もはやいっそのこと、ちゃんづけ、とか?


「鞘ちゃん」


声に出してみると、思いのほかしっくりきた。

「……は?」

彼の返答は、一拍は空いていた。
ついでに、彼の足も止まる。

「うん、呼びやすい。鞘ちゃん」

立ち止まった彼に振り返って、もう一度呼びかけた。
鳩が豆鉄砲をくったような表情は、やや堅い彼の雰囲気を和らげる。

「それは……、呼び捨てより失礼な部類にいないのか?」
「んー、オレ的にはこっちの方が呼びやすいよ」
「……」

彼の目が、理解できないと訴えてきた。
それだけに留まらず、物理的な距離を取るようにやや上半身が後ろへ逃げている。

この人、マイナス感情の表現が豊富なんだよなあ。
笑顔やらは見てないのに、呆れやらはこの短時間で存分に表現されたように思う。
存外、妙なアンバランスさを持ち合わせている。

「……、」

思わず口元が緩んでいたらしい。
男がオレを見て、あからさまに表情を隠した。


「好きにすればいい」


非常に長いため息のあと、彼の心地よい低い声が許可を出した。
全く納得はしていないのは、すぐに気づいた。だって、さっき隠れた眉間のシワがもう復活している。


上背がある男性につける呼称でないことは、もちろんわかっている。
正直、彼が嫌がるものを無理やり使うつもりもない。
そこまで、厚かましくはないつもりだ。

けれど、せっかく許可されたものを、ひっくり返すような無粋さも持ち合わせてはいない。
自然と、再び口端が上がってしまう。


「ありがとう、鞘ちゃん!」


彼の雰囲気は、どちらかというと親しみとは対極の位置だ。
だから名前は、親しみやすいくらいの方がいいかもしれないよ。
決して口に出して言えないことを、自分の中だけで呟いた。


鞘ちゃんはおよそ腑におちない顔のまま、向き合ったオレを通り抜けた。
面白がり過ぎただろうか。一抹の不安に通り抜けた背中を追えば、先ほどと変わりなく背筋を伸ばした着物姿。
それは癖のない歩調であって、ゆるゆるとオレとの距離を伸ばしていく。

雑踏と一線を画した鞘ちゃんの雰囲気に、既視感を覚えていた。
着物を身にまとう人は、日暮町において多くはない。だから、余計に重なるのかもしれない。
再び過る記憶の面影に、目を細める。足が地面に貼りつく。


畳の匂いを思い出した。
縁側で聞いていた葉擦れの音を思い出した。
所在なくそこにいただけの記憶は、少し苦しい。
振り返らない背中を思い出して、拳を握り込む。


「双希?」


彼が、オレの名前を呼んだ。
目の前に意識を戻せば、彼がオレを見ている。

「……、なんでもないよ」

感傷はかき消えた。締め付けるような痛みも、穏やかに消える。

開いた距離を駆け足で埋めて、再び彼の隣に並んだ。
鞘ちゃんは駆け寄ったオレを不思議そうに見たが、特に何も返さない。
何も言う気がないのを察したのか、彼から探るような言葉は出なかった。

ただ、隣に追いついた際に、やや歩幅が変わったのに気づいた。
追いつく前までの歩幅が、オレの一歩と同じ歩幅に広がった。





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