轍 > さんぽめ



「鞘ちゃんは最近きたの?」


なんとなく、彼に恩返しをしようと思い立って口を開く。

「一週間ほど前から」
「思った以上に最近だね。このまま長くいる予定?」

もしも彼が長くいるつもりであれば、当てがある。
そんな意図だった質問に対して、彼がオレを見下ろした。

先ほどと同様に、そこからすぐに返答があるかと思ったが、口は開かれない。
歩きながら、変な沈黙の中で見つめ合ってしまう。
……何か、踏み込みすぎただろうか?

黒一色の瞳の奥で、どんな思考回路が巡っているのかは到底読み取れない。
読み取りやすかった表情は、今はどこにもない。
眉は歪まず、目を細くされるわけでもない。

唯一、何かを言いたげな視線であることだけがわかる。
けれど、その要素を推測するには材料が少ない。首をかしげた。


「どうだろうな」


結果として、彼から返ったのは起伏の乗らない声だった。
マイナスもプラスも、声から察することもできない。
どうやら流されたようだった。珍しく善意から言ったことだったのに。

「えー」

とりあえず、不服を声に出して伝えておくが、鞘に受け取られないまま消えた。
彼は何かを考える様子で、下唇に人差し指を横に当てている。

彼が何を考えているのか、今度はもう予想しなかった。
背景を何も知らないから、どうせ当てずっぽうにしかならない。
ここまでの感じからすると、おそらく答え合わせもないだろうし。


そのうち、心なしか、彼の歩く速度がオレとズレだす。
動き出すタイミングは同じだが、どうにも歩幅が違うらしい。
うっかりすると、半歩分の距離がたやすく開こうとする。
……身長が違うと足の長さも違いますもんね! 仕方ないね!

隣から外れないように歩くが、彼に合わせると少し早い。
のんびりが染み付いた体には彼のテンポは早くて、やや斜め後ろに位置が下がる。


そうして隣から外れて目についたのは、彼を見る周囲の目だ。
雑踏のうち、何人かが惚けた表情で歩みを緩める。何人かが、値踏みの目を向ける。
視線の先である鞘へ視線を戻すが、考え込んだ彼がそれらに何かをする様子はない。

彼が視線に気づいていないとは思わなかった。
視線には、気持ち悪い熱を孕むものもある。あんなの、相当鈍くない限りは気づく。
おそらく、彼の場合は関心がないんだろう。
残念ながら、それが通用する程度の姿じゃないのにね。

これらをこのまま放置した場合、待っているのは面倒ごとだけだ。
余計なお世話かもしれないが、代わりにオレがそれらを睨めつける。特に品定めする視線には、不満を込めて。
そうすれば、彼らはお手つきだと誤解して散っていく。彼らだって面倒事は嫌う性分であることを知っている。


「鞘ちゃん」


一通りの視線がなくなったことを確認してから、彼の名前を呼ぶ。
そうすると、彼の意識がこちらに戻った。彼が、やや後ろを歩くオレを振り返った。

「鞘ちゃんも、気をつけてね」

振り返った彼には、警告を落としておいた。
彼の隣の位置に戻れば、彼の歩調がオレに合わせてまた緩む。優しい配慮をもらってるなあ。

オレには彼の役割はわからないし、ここに来た目的も知らない。
それでも、こんな町に彼のような存在をよこすのは、あまりにも無用心だと思う。
だって彼らは、ここで危険にさらされやすい存在だ。
彼らに備わる危機感が一般的に十分なものだとしても、日暮町においてそれでは薄すぎる。

現に、鞘はオレの警告の意図を汲み取れていないんだろう。
周囲とオレの様子から探ろうとする様子は見えるが、まだ答えには行き着いていない。

「きれいな顔なら何でも良いってのもいるからさ。声、かけられなかった?」

言ってみれば、彼は苦い顔をして目をそらした。
顕著に表情を変えたあたり、既に何かあったらしい。思わず、苦笑いが漏れた。

「だよなあ。オレも好きだもん」
「……?」

苦笑したオレに、彼が一層不可解な顔をした。

「鞘ちゃんの顔。綺麗ですごく好み」

正直、この人に目を奪われる気持ちは、十分にわかる。オレだってうっかり見とれた。
彼の涼しさを感じさせる顔立ちは、暇さえあれば見ていたいと思う。
可愛い顔も良いとは思うけれど、ずっと見るならば彼の顔のほうがいい。

そして彼の場合、その体だって均整がとれている。
バランスの良いパーツがしなやかに並び、立ち姿はすっと伸びている。
綺麗。鞘の存在を言い表すならば、その一言でいいと感じる。


「……」


どうやら彼は、直接自分に飛んでくる言葉に対しては反応するらしい。
呆れたような、わずかに途方に暮れるような目がオレを見下ろした。
褒め言葉のつもりだったが、どうやらそうとは受け取られなかったらしい。

「褒めてるのに」
「……、そうだろうな」

彼はため息をひとつついた。疲れたような呟きは、ずいぶんと心許ない。

この様子からして、なかなかの面倒ごとに巻き込まれたのかもしれない。
さっきの我関せずな態度は、純粋に周囲への対応策を知らないからか?
それなら、何に注意すべきかを教える人間と繋げた方が良さそうだ。
幸い、うってつけの人間がいる。

どうせこの後、その人間のところへ転がり込むつもりだった。
あの馴染みであれば素性もしっかりしてる。鞘にとって有用な情報も知っているはずだ。

左耳につけた通信装置に触れて、電子音とともに宙に表示された画面から時間を読み取る。
夕方に差し掛かるのは、避けた方がいいだろう。
あまり遅い時間の訪問は、不興を買いかねない。

そう思えば、そろそろ動いたほうが良いか。
立ち止まって、鞘の袖元を引いた。気づいた彼は、足を止めてオレに向き合う。


「お礼だけどさ」


突然の言葉を噛み砕くように、鞘が口だけで復唱したのを見た。
彼は続きを促すように、少しだけ首がかしげる。その際に、右側で一房、長く伸ばされた髪を束ねる金具がわずかに重く揺れる。

それを見ながら、不自然に取られないような笑顔をつくる。


「ここで頼れそうな人を紹介するよ。それが今回助けてもらったお礼」


だから連絡先、教えてね。
言いながら、目線を立ち上げていた通信装置に移す。
いつもの手順で、連絡先交換申請を鞘宛に送信する。

そうすると、彼の視線がすぐに、すい、と右下に逸れた。
追って見やれば、彼の手元に通信装置の光が灯る。
彼の細長い指先が数度、滑らかに宙をなぞった。

「承認した」

声と同時に、ピン、と申請受理の音が鳴る。
自分の通信画面を改めて見れば、彼の連絡先が収録されていた。
デフォルトテンプレートに必須事項のみの簡素さが、なんとも彼らしい。

感謝を述べながら、それを簡単に呼び出せる位置に登録する。
ついついこの作業を後回しにして、大概行方不明にしてきた。さすがに学習する。


「じゃ、これは日がわかったら連絡するとして、あとは……」


つぶやきながら、日暮町の全体を思い出す。
紹介までの期間、取り急ぎ伝えておくことは何があったかなあ。
正直、ここでの過ごし方は体に馴染んでいる。危険も注意すべきことも、無意識に避けてしまう。
こうして意識することを洗い出すことは、少し難しい。あまり他人とこんな話もしないこともあるかもしれない。

頭の中で、日暮町をかいつまんで歩く。
寝床だとか隠れ場所とか、そんなのじゃなくて。思いつく限りで、彼にとっての危険を考える。

おそらく、いま伝えるべきは墓場町(はかばちょう)くらいだろうか。
他は、そう大きなことには繋がらない気がした。
そもそも、一週間はこうして過ごせているなら、ある程度は大丈夫だろうから。


「あっちは、ダメ」


だから、墓場町のある北東を指差した。
彼の目が、オレの指先を追ってそちらに向く。

「目印がなくてわかりにくいから、近寄らない方が安全」
「何故?」
「あそこは人間の掃き溜めだから」

即答したオレに、彼は腑に落ちない表情を向けた。
多分危険性が伝わっていないのはわかる。ただ、どうにも他の表現が思い浮かばない。

あそこは掃き溜めでしかない。人間をやめたような人しかいない。
墓場町、なんて名付けた人は、自分たちのことがよくわかってると思うよ。

ただ、それらを鞘に言ったところで、通じるとも思えない。
どうにも苦手だ。オレに説明役は向いてない!


「もし、地獄が見たいんなら止めない。
 鞘ちゃんがぐちゃぐちゃになるの、オレはあんまり見たくないけどね」


結局、絞り出したのは結末だった。
詳細がわからずとも、どうなるかがわかれば少なくとも足は運ばないだろう。

話しながら、うっかりもがれた痛みを思い出した。
筋肉か内臓かの線維が切れる音は、今でも耳に残っている。
視界に入る銀髪に、くるりと指を絡ませた。間違われる回数も、最近は減ってきた。

「なんとなくは、理解した」
「うん」

曖昧な言い方ではあるけれど、声色が真剣なので危険性は伝わったんだろう。
他は大丈夫だから、と気休めにしかならない言葉を伝えて笑う。

どんな過ごし方かはわからないが、一週間、彼は無事でいた。
彼の無関心も、接触があればすげなく断るだろうから、まあ、多分いける。


おせっかいは、ここまででいいか。
通信画面上の時間は、日没の時間に近づいている。
そろそろ一報を入れなければ、追い返される可能性がある。
あいつが自宅を誰かの宿として貸す頻度は、それなりに高い。


「それじゃ、またね。鞘ちゃん」


後ろ髪を引かれる心を隠して、手を振った。





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