轍 > ごほめ


「よっこいせ、と」

細い路地の先、立ち塞がっていた大きな瓦礫に乗り越える。
フードが脱げないように垣間見れば、退廃したコンクリートジャングルが広がる。
傾いたビル、倒壊した壁、倒れた電柱に灯らない信号機。ところどころに繁茂する緑色が、わずかばかり彩りを足す。

「また一段と壊れてるなあ」

前に来たときよりも瓦礫が増えた気がする。
相変わらずどこからか漂ってくる腐臭は、自分の衣服をかいで和らげた。

この墓場町は、元は被災した町だった。十年以上前の話になる。
被害の大きさから復旧の手が入らず、住人が他へ移り、開いた土地に浮浪者が住み着いて、今やろくでもない町に成り果てた。


どこか重苦しい廃墟のうち、特に暗がりを中心に目を凝らす。
墓場町に住みつく人間は、なぜか暗がりに潜む。日の元で見かけるのは珍しい。

警戒心が強いから、なんて憶測を聞いたことがあったけど、単に後ろ暗いからだと思うんだよなあ。
こんなところを選んで住み着く時点で、十中八九、訳ありだろう。


それにしても、今日は全然見つからない。
どこからか視線は感じるから、いるにはいる。ただ様子を伺われている。
探してない時は湧いてくるくせに、と八つ当たりで足元の瓦礫を近くの壁へ蹴り付けた。

蹴り込んだ石がぶつかった後、風が吹き抜ける音に衣ずれの音が混じった。
右側のビル。振り向けば引きちぎれた布切れの端きれを捉えた。
乱暴な音を立てないよう、ビルに向かって歩く。
衣ずれの音は一瞬だった。相手はまだ様子を伺っているのか、おそらく逃げていない。


扉が外れて金具がぶら下がるだけの出入り口。
そこからビルの内部へ踏み入れた途端、今までとは種類の違う臭いが鼻をついた。


「やだなあ」


甘い匂いに思わず顔をしかめてしまった。どうにも縁があるらしい。
敬也の臭いに似ている。体臭だと思っていたけれど、ここまで一緒なら香水か?
ここが密閉空間ではない以上、どこかに元があるんだろう。一定、風は感じる。
けれど、今の場所から屋内を見渡しても原因らしきものは見当たらない。

不快な匂いを少しでも避けようと、鼻を手で覆いながら、見えたはずの布切れを探す。
ちょうど外から見かけた場所には大きな柱が立ちはだかって、こちらからは見えない。
足音に気をつけながら、柱へと近寄る。

臭いは、一歩進むたびに強くなった。
原因は、どうにもそこにあるらしい。確かに、風はそちらから流れてきている。


柱の裏側には、ボロ切れを纏った男が座り込んでいた。
さっき目で捉えた布切れと同じ布地が、だらしなく頭から肩に向けてかかる。
男の首はかくりかくりと上下しており、手足は地べたに投げ出されていた。

臭いの元は、この場所のようだった。もはや嫌悪を感じるほどに強い。
砂糖を焦げるほど煮詰め切ったような臭いが、まとわりつく。鼻が馬鹿になる。


「ねえ」


早く立ち去りたい一心で、男に声をかける。
男は、深いシワを刻んだ顔をオレに向けた。

それがあまりにもぼんやりとした表情で、正直少し驚いた。
ここで会う人間は、大概が警戒か怯えのどちらかを滲ませるのに。この男は、どちらでもない。

意思の薄いその目は、どこか胡乱げに見える。
焦点すら定められていないような黒目が、ただただじっとオレを見た。
すぐに目の色を悟らせないように、パーカーのフードをさらに目深にかぶる。

「……」

なにか、変だった。
何がとは言い表せないものの、体が自然と強張る。息が浅くなる。
今まで対峙した墓場町の住人のどれとも、この男は違っている。
彼らの恨み辛みの苛烈さも異様だが、この男は、それとは何か違う。こんなに敵意がないのに、怖い。

近づかない方がいいと感じたのは、本能だ。
男から二、三歩離れた位置で足を止める。この程度の距離があれば、何とかできるはずだ。


「町長は、どこにいる?」


この男には、町長の場所さえ聞ければそれでいい。
男はまだぼんやりした表情のままだった。口がやわく開閉を繰り返す。

「ちょう、ちょう」

男がまるで幼子のような舌ったらずさで呟いて、立ち上がった。
思わず、身構えたものの、男はふらふらと左右に揺れるだけだった。
ちょうちょう、とだけ、男は繰り返し続ける。
オレを見て、オレの言葉を真似ている。何度も、何度も。


切り上げどきだ。
この人に聞いてもわからない。

踵を返して、来た道を戻るために足を踏み出す。
また一から探さなきゃなあ、なんて、いつもの癖でフードの中の髪ごと、うなじをかいた。


「あ」


男の声が、調子を変えた。

「あ?」

肩越しに振り返れば、丸く見開かれた目があった。
ぱら、と自分の髪が視界の端で揺れたのが見える。銀色の。

どうりで、さっきよりも視界が明るい。
髪と目を隠すためのフードは、さっきの動作で後ろへずり下がったらしい。


「ケイルだ」


舌ったらずさが残りながらも、はっきりした声だった。
目の前に立つ男の視線は、途端に鋭いものに変わる。茫然とした雰囲気も消えた。
嗚咽か罵詈雑言か、どちらでもない何かを噛み締めるように、男が大きく息をする。

憎悪と殺意が、皮膚に刺さった。
ここの住人がオレの姿を見れば、大概はこうなる。ケイルに間違われる可能性の高い銀色のままここに来るオレも、多少は悪いんだろうけれど。

ここの人間に外面なんてない。守るべき体裁もプライドもない。
ただの身一つとなった人が、何の遠慮もなく憎しみの対象に向ける力は、常識から外れている。
オレもか弱いわけではないけれど、到底敵わないのは過去の経験で知っている。
年齢的にはいい歳した人ばかりだ。それなのに、このぎりぎり十代の身体で全く歯が立たない。火事場の馬鹿力って恐ろしい。


どう逃げるか。固い唾を飲み込む。
恐怖をなだめるように、鳥肌の立った腕を右手でさすった。
けして怯んだ様子は見せないように、足に力を込める。浅くなった呼吸を、無理やり深く吐き出す。

「ケイルじゃないよ」
「うそだ」
「ほんとだって」
「うそだ!!」

宥める様に声をかけても、憎らしいと、深い皺がより深く、歪んでいく。
あんなに意思が薄かった瞳は、いまや血走っていた。

「うそだ、そのいろ。ケイルめ。こんなのがいるから、……」

ぶつぶつと何やら呟いているが、それ以降の言葉はオレの耳では拾えなかった。
猫背気味だった体が、一層前のめりにかがんでいく。

男の歯軋りが聞こえた。
目を逸らすことなく、オレをケイルとして睨みつけたまま、男はぎりぎりと歯を鳴らす。
地面にぼたりと、汚らしくよだれが落ちた。

「なんで、こんな……なんで……れは、もっと……!」

呪詛めいた感情が連なっていく。
がりがりと男は頭を掻きむしる。
それでも、視線はズレない。オレから、離れない。

「あああ、」

男の口から漏れるのは、もはや言語でない。
低くかがみ、よだれを垂らしながら、目が爛々と光り出す。
荒く吐き出された息には、むせるほどの甘だるさが混ざる。


相手の隙を伺い、飛びかかろうとする姿は、まあ、非常に野生的だ。到底、正気は感じられない。
首筋に、ひりつく感覚がある。正直、男の姿に足がすくんでいた。

この男はずば抜けて奇妙だ。これまで出会ったここの人間から、群を抜いておかしい。
確かにここの住人は人を捨てている。それでも、少なくとも獣じゃなかった。


じり、と男がわずかに差を詰めようと砂利を踏みしめた。
怯んでいる場合じゃなかった。このままだと十中八九殺される。

どうすれば、逃げられるだろうか。
相手の構え方。出入り口までの距離。その先のルート。
頭をフル回転させて、逃げ出すタイミングをはかる。

男は上体を低くした。おそらく、オレに飛びかかるために。
その後ろには、腰丈の窓。望みをかけるなら、ここだ。

「うあああ!」

大ぶりな動きを、左に交わす。
骨と皮だけのような手が、頬の少し先をかする。あ、あぶなかった……。

勢いを殺せなかった男は、柱にぶつかったらしい。
固い音を後ろに聞きながら、窓まで走る。振り返る余裕はない。
助走をつける。窓枠に手をかけ、両足で飛び越える!


「ケイルぅ!!!!」


吠える様に、相手はこれ以上なく最適な言葉を叫ぶ。
この野郎。つい、唇を噛んだ。

男の声が響けば、途端に憎悪で結束した町が本性を現す。
既に目前には人影が揺れた。三人、隠れん坊が上手なのがいたらしい。
ケイル、と口々に、それぞれの感情を乗せて呟く。大概は殺意なんだから、もうたまんないね!

ばたばたと後ろの男は迫ってきているようだし、他から駆け寄る足音もある。
相手が一人でも怪しいのに、複数じゃ到底かなわない。

「どけよ! オレはケイルじゃない!」

できる限りの大声で叫んで、立ちはだかろうとする人間を睨んだ。
彼らの戦意を削ぐならば、オレを人間だとわからせればいい。
彼らはケイルにだけ、暴力性を出す。人間には寄らない。人間は、彼らを害することができるから。

後ろの男には多分もう通じない。あれはもう聞く耳を持たない。
けれど、少なくとも今来たばかりの住人には、通じる可能性がある。
現に、各自の表情は変わって、徐々にオレから距離を取ろうと動いた。


「けい、る、ぁ」


あとは、背後の男だけをどうにかすればいい。
振り返れば、不恰好に窓枠を乗り越えた男がそこに居た。
ぎらついた目がオレを見て、歯を剥き出しにしながら威嚇する。

ひ、と引き攣った声を聞いた。
オレを遠巻きにした住人が、オレの背後を青ざめた顔で見つめている。
やっぱりこいつ、ここでも相当異常なんじゃないか?

「あああッ」

再び突進してきた男を避ければ、そのまま青ざめた住人を巻き込んで倒れた。
今のうちに。そう走らせた視線の先で、探していた姿を見つける。

どこか険しい表情でこちらに走り寄る男たちの後ろだった。
フードで顔は見えずとも、場違いな穏やかさで歩いてくる男。
珍しい。滅多に表になんて出てこないのに。


「そっちをおさえろ!」


走り寄った男が、もう一人に鋭い指示を飛ばす。
二人の視界にオレはおらず、見ているのは未だ倒れ込んだ男の方だ。

踏み出そうとした足は降ろした。おそらく、これで幕引きだ。

「が、あ、あああ! ケイル!! ケイル!! ああ、うああああ!」
「暴れるんじゃない!」

男と遜色ないボロ布をまとった二人が、壮年の男性を物陰へと引きずっていく。
男は何かを叫んでいるが、もはや言葉にはなっていない。獣の咆哮だった。





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