轍 > ろっぽめ



「珍しいのがいるじゃないか」


男の咆哮に呆気にとられていたところに、穏やかな声がかかった。
場違いなほどにゆったりと歩いていた彼は、ようやくたどり着いたらしい。

「こんにちは、町長。つつがなくお過ごしで?」
「おかげさまで。
 君は人間なのに、相変わらずだなあ」
「それはどーも」
「ここに来るなら、紛らわしい格好をしないで欲しいね」

町長はオレと目を合わせた後に、わざとらしく眉をひそめた。合わせるように、肩をすくめる。
町長がオレの見た目について苦言を呈するのは、もう毎度のことだ。
その意図を知る分、あまり真剣には聞いていない。

「みんな繊細なんだ。トラウマを刺激されかねない」
「……繊細、ねえ」

周りで所在なさげに立つ住人に目を向ければ、皆一様にオレから目を逸らす。
さっきまでの勢いも殺気も、そこには残っていない。

小さく丸まった体と、合わない目。両肘を掴む様子も含め、怯えを全身で示す。
人間と知れば、彼らはこんなもんだった。ケイルにだけ牙を剥く。基本、人間に対してケイルは手をあげないから。

「特に新入りがね。裏で震えてるよ」
「ケイルに会えた喜びで?」
「仕事と家庭を壊された怒りで。かわいそうに」
「どっちにしろ、その新人の問題では……」

とんだ言いがかりに、思わず苦笑う。無茶苦茶だよなあほんと。
色違いを見分けられないのも、根本にあるケイルへの怒りも、オレに関係のないことだと思うけれど。

「君みたいな例外に、そうそう気付けるのはいないさ。知る機会がない」
「例外扱いされる人間がかわいそうだと思いませんかー」
「ケイルに似せてるのが悪いよ」

表面的な警告の間にも、町長は残っていた三人を奥へと促すように手を動かした。
三人は町長へ会釈した後、そのまま指示通り、促された暗闇へと踵を返す。
去り際、怯えた目たちはオレを見たが、その奇妙なものを見るような視線にはとっくに慣れて、何を思うこともない。

そして、三人は完全に視界から消えた。
人気(ひとけ)の失せた廃墟に戻り、喧騒は遠のく。


「ケイルに似たものを、ここで容認する気はないさ」


町長は声のトーンを戻し、独り言のように呟いた。
少し低くなった声はどこかぼやけて、きっと近い距離のオレにしか聞こえない。
きっと今、そばに住人がいないんだろう。だからああして、よく通る声を作る必要がなくなった。


おそらく、町長の苦言はパフォーマンスだった。
いつも、ケイルに見えるオレと会った際には、注意の形で、オレがケイルでないことを説明している。
もしかしたらそこに彼の本心が混じっているのかもしれないが、毎度同じ調子が続くあたり、おそらく建前の方が大きい。

ここに居ついた人間は、町長と色違いのオレが会話する様子に顕著に狼狽える。
ケイルへの憎しみで結託した墓場町において、その統括役がケイルらしき人物と話すなんてことは、どうにも受け入れられないらしい。

町長は一点の曇りも許さないとでも言うように、一切の懸念を払拭するよう立ち回る。
正直、オレにはそんなことで町長の立場が揺らぐとは思えないけれど。
この人は統率力もあれば、知識も豊富だし、頭も回る。ただの廃墟と浮浪者を、町として認識させられるほどに。
だからこそ、その立ち回りはいっそ神経質だとすら感じるが、もしかしたら、それほど突き詰めなければできないことでもあるのかもしれない。

だから、"そんなこと"と思いはするものの、あえてそれを乱す行動は取らない。
住人がいる前では、オレは町長に従う。あくまで町長が立場として上であり、それを脅かす存在とならないようにオレはオレで立ち回る。

厄介ごとを抱えるつもりはなかった。
町長がそこまで神経を使って作り上げたものを乱して、何にもしないとは思わない。
現状、町長の影響力が墓場町に収まるものであるのかも、オレにはわからないし。


そんな思考に浸っていれば、不意に自分へと影が落ちた。
いつの間にか、町長が目と鼻の先に立っていた。

「おわ、」
「目」

思わず後ろへのけぞったが、伸びてきた手は避けきれない。
目元に町長の指が触れた。そのがさがさとした皮膚の厚さは、柔らかな物言いと上品な所作とはかけ離れた感触に思えた。

「銀色」

ぐ、と目元を広げるように、まぶたに力が入れられる。
指が、そのまま目に押し込まれるんじゃないかと想像して、呼吸が止まる。
幸い、まぶたに異常な力は感じることなく、ただただ、興味深げに覗かれただけだった。


「これだけなら、ケイルなのに」


相手がオレの目を覗き込む距離では、オレも相手の目がよく見える。
オレの目を覗き込む町長の目は、フードの影が落ちて仄暗い。

光の射さない黒い右目と、そこにわずかに白が混じった左目。
白く濁った左目を覆うまぶたには、ただれた痕がある。左目から肩口に向けて走り、随分と大きく彼の左半身を覆っている火傷を、以前、見たことがある。


「元から、奇妙な黒だったのを覚えているよ」


町長の目がゆっくりと瞬いた。

「奇妙?」
「玉虫のように、変化して……。ああ、あのときは血の方がわかりやすかった」

思い出すように、彼の眼差しが遠くなる。
黒は光がなければ。血だけが。色の混ざり。変異。きっかけは。
はっきりしない声量で、言葉が落ちていく。

それを拾い集めることはせずに、目を撫でようとした町長の手を払った。乾いた音が、思った以上に辺りに響く。
その弾みで町長が二、三歩、後ろへよろめいて、距離が開けた。


「見間違いでしょう」


開かされ続けて乾いた目を潤すよう、目頭を押さえた。
ぐるり、と、瞼を閉じたままに目を一周、動かす。


「今の方が強く見えるのに?」


問いには答えないまま、涙が行き渡った目で瞬きを二回。
思った以上に乾燥していたらしい。少し、痛い。

「黒に戻さないのはそのせいかな」
「ご想像に、お任せしますよ」

喋るのを止めない町長に言い捨てれば、彼は口元に手を当てて笑った。
その仕草は、ボロ切れを身につけて浮浪者然とした姿に、到底似合わない。
一般よりもずっと洗練された所作を持って、この男はこんな地獄を束ねている。


そもそも、こんな話をしにきたわけじゃない。
傍にある傾いた電柱まで下がり、少し、体重を預けた。

町長に聞きたいのは、ケイルに対して敵意を持つ場所だ。
情報は同類のところに集まりやすい。そして、完璧主義に近い町長が、他地域であっても、同じような集団の情報を逃すとは思えない。

ただし、ここであからさまに尋ねれば、町長はケイルの存在に気づく。
鞘は墓場町を避けるだろうが、存在を知った町長がどう出るかはわからない。
今まで、ケイルに対する町長の動き方を見ていなかったのは、失敗だったなあ。


うまく情報を引き出すための話なんてものは、考えてない。というか、わからない。
大黒みたいなわかりやすい人間であれば、ある程度、どうにかできる。でも、この人は違う。
今は、なんとなくの世間話を続けて、それらしい話題から入ればいい。そう諦めている。


「町長が表にいるなんて珍しいっすね」


だから手始めに、話題を最初の違和感へと流した。

町長は、普段ならこんな場所に出てくる人じゃない。
基本的には奥まった場所にいて、他もそれを隠している。理由は知らないけれど、まあ、偉い人にそうそう会えないというのは、状況として理解できなくもない。

しかしここで厄介なのは、町長の居場所が定期的に変わるところだ。
基本的に探すところから始まり、今までならなかなか会えない日が続くことさえあった。
だから、正直、今日一日で会えるとは思っていなかったのに。


「そうだねえ」


口元に浮かべられた笑みとは裏腹に、彼の瞳から温度が消えた。
空気が少しばかり冷えて、なんとなく、自分の背筋が伸びる。

「どうにも、馬鹿が入りこんだみたいでね」
「えっ、馬鹿以外が今までにいらっしゃったと?」

ほぼ反射的に出た言葉だった。うっかり。
案の定、町長は不服そうに口を尖らせる。

「失礼な。みんな、最低限の分別は身につけてる者ばかりじゃないか」
「あっ、はい、すいません」

割と真面目なトーンだ。責めるような視線から逃げるように、顔を逸らす。
彼の言う”最低限”は、オレの常識とは少し違うのだけれど、ここは口をつぐむ。

「さっきのも、……」

そう、中途半端に言葉は切られた。そのまま、男が引き摺られていったた先を物憂げに見やった姿を横目で見る。
今、耳を済ませたところで、獣のような唸り声は聞こえなかった。
風の寂しい音だけが、遠くで響いている。

異常な行動をとった男に対して、もしくはその異常に対して、何かあるんだろう。
町長とともに現れた男たちは、一直線にあの男に向かった。状況を確認するでもなく、男を取り押さえにかかった。
この人が出てきたことと、傍にいた者の行動。その理由が同じであることは、何となくわかる。

一つ、区切りをつけるかのように町長が息を吐いて、オレへと向き直る。


「身内の恥を見せてしまって恥ずかしい限りだね」


彼の口から出た言葉は、ここを下げる言い方だ。
思わず、彼の顔をまじまじと見てしまった。
そのどこか悔いるような顔に、純粋に驚く。

「町長がここに”恥”って言い方するの、初めて聞いた」

伏し目がちだった目が、その瞬間、鋭くオレを射抜いた。
その勢いにたじろいで、電柱に頭を打つ。


「売人に惑わされるのは、恥だろう?」


町長は鋭い目つきを外さないまま、猫撫で声で問うた。

「売人……?」

ぼそりとオレが聞き返した単語を聞き取って、町長はオレに微笑みかける。

「違法薬物の」

町長は、大きく口を動かして、はっきりと滑舌よく、そういってみせた。

「いほうやくぶつ」

しっかりと音はオレに届いたのに、脳みそが受け付けない。
おうむ返しに呟いても、理解はできない。なんだって?

町長はそれを見かねたかのように、かいだだろう、と追撃を落とす。


「クスリを飲むほど、あの甘ったるい匂いがつきまとうらしい」


言葉を失った。
うまく表情が作れない。笑えない。
だって、オレはあの匂いを知っていた。


あの甘さは、昨日まで転がり込んでいた男の匂いと同じだった。
ほのかにではあれど、彼の体から香っていたことは確かに覚えている。苦手だった分、印象が強かった。
町長のいうことが本当ならば、あの匂いは、クスリを飲んだ人間が放つらしい。

じゃあ、敬也は。

全身から血の気が引くのを感じた。
真っ先に、口に手を当てた。地面へと落ちた視線。
そこに、数日過ごした記憶が再生される。オレは何をしていた、何を食べた。

異常は、その中に、なかったよな?


「顔色が悪いな」


はっとして、面をあげる。
町長は、無表情にオレを見ている。

深く息を吸った。
ゆっくりと内側から、ぎこちない体を動かす。

「ど、うぞ、お気遣いなく」

大丈夫だ。異様な感覚はない。大丈夫。
体に言い聞かせて、丸まった背中を伸ばす。電柱に触れて、崩れそうな体を支えた。

それに。左腰に手を当てる。
もし何かあっても、元に戻る手段はある。
そう思えば、少しだけ、体温が戻った気がした。


「とうとう墓場町も、立派な無法地帯ですか?」


とりあえず、不調を誤魔化すように皮肉を乗せた。
まだ口端が引きつっている気がして、手で覆い隠しておく。顔に触れた指先は、まだ冷たい。

「そうはさせないよ。暮らしづらい町になる」

男は、いかにも町長らしいことを舌に乗せる。きっと、本心から。
今で十分暮らしづらいと思うが、彼らにとってはそうじゃないらしい。
墓場町には墓場町なりの常識があり、秩序があるんだとか。たまに立ち寄るだけのオレにはわからない。

廃墟と浮浪者を、町として、住人として、成り立たせる。
これが単なるやっつけで成立したものだったなら、十年以上も続いていないんだろう。
彼の中に成立させるための方法論があり、それを実行する能力があった。だからこうして、墓場町は今も墓場町として成立している。

町長がこの町にかけるものはとても大きい。
恥、なんて表現が初めてだったように、町長はこの街を卑下しない。
男の中では、ここが理想なのかもしれなかった。


「私の町を乱す馬鹿には、相応の対応をするさ」


そんな場所に、クスリなんていう汚点を持ち込んだ人間を、おそらくこの人は許さない。
現に、町長の表情には怒りが見えた。初めて会った時、オレをケイルと間違ったときを思い出すほどの、苛烈な怒りが。

間近から放たれる殺気への恐怖は、自らの腕を掴んでやりすごす。肌にさすような錯覚を、隠れてなだめる。
やっぱりこの人は、綻びを許さない性格らしい。


そして、この話の流れならばとアンテナが立つ。
この話題の延長線で、おそらくケイルの警戒地域がわかる。

「町長は、この町を拡げる気はあるんです?」

先ほどの深刻さを払うように、軽いトーンで放り投げた。

「おや、どこかいくの?」

スイッチを切り替えたかのように、町長の怒りはすぐに隠れる。平然と、さっきまでの温厚な顔に戻った。
見開かれた目も、一文字に結ばれた口も消え失せる。

「予定はないですけど、行動範囲が被るのは嫌なんで」
「そう言われると考えたくなるなあ」

そう静かに笑って、町長は近くの瓦礫へ腰掛けた。
大小凸凹に積み重なった瓦礫は、肘置き付きの椅子に変わる。
俯き気味の座り姿勢から、彼の顔がフードの下に隠れた。


「ちなみに、墓場町以外でケイルが嫌われる地域って?」


本題を、自然なトーンを装って、投げかける。
瓦礫の上、町長の人差し指がリズムを取るように跳ねた。

「あれは、どこで恨まれていたとしても仕方ないよね」
「その考え方はひねくれてるよ」

当たり前といった口調で吐き出された価値観は、強い意志で突っぱねておいた。
町長はいつも通り、その否定をあっさりした態度で笑うだけだ。
この人はオレが同意しないのをわかって言っている。

「君はいつだって向こう側だ」
「そんなつもりはないですけど」

極端な言葉には同意しないだけで。
そう続けたオレを、町長は鼻で笑う。
随分と怖がりだ、なんて安い挑発は、聞こえないフリでやり過ごした。


「あんな人間もどきと関わっても、ろくなことにならないよ」


まるで子どもを諭すかのような声だった。
柔く弧を描いた唇が、布切れの隙間から覗く。

「なんで?」

町長は再び、指先で瓦礫を叩いた。三回。
そこに苛立つような力の強さは見えない。……何かを、数えている?
顔色から伺おうにも、依然として町長の相貌は隠れたままだ。

町長はおもむろに足を組んだ。
足の上で悠然と、両手が組まれる。背筋が伸ばされ、堂々とした姿勢がとられる。


「あれは指示に対して従順で、優秀だ。立場の弱い人間は成り代わられ、使う側の人間は叶わない夢を見せられて自滅する。どっちにも徳はない」


町長はまるで演説のように語り、そして、オレを見た。

「そう、思わない?」

ひた、と、フードごしにオレを捕らえる黒い目の奥は、何かが蠢く。何かが揺らめいて、推し量ろうとしている。
そこにある感情の正体はわからない。プラスとマイナス、そのどちら側であるかも掴めない。


だから、考えるフリをして、目を伏せた。
見続けていれば、オレの企みなんて簡単に読み取られてしまいそうで、怖かった。

「難しいことはわかんないですけど、彼らの顔はいいと思うよ」

いつも通り、真面目に取り合わないよう、言葉を選ぶ。
表面的なことだけ述べてしまえば、男はこれ以上続けない。
案の定、町長は首を横に降って、不満げなため息を吐き出した。

「ほら。あっちの肩を持つ」
「オレは面食いらしいので、そこはまあ」

伸びていた彼の背筋は脱力し、再びゆるやかに丸まった。

あくまで彼は、ケイルの使用とその影響に重きを置く。
見た目の良し悪しは、受け取り方のバラつきも少なくて、影響もたかが知れてる。
説得できる材料には向いていないから、あまり触れないのかもしれない。


「ケイルを疎むのは、ここくらいだろう」


つまらなさそうな声だった。思い通りにならないことを拗ねるような、そんな声。
町長は組んでいた両手を外し、腕を体の前で緩く組む姿勢へと動く。

「他からすれば、あれらは良い労働力だ。絶対服従の便利な道具を疎み、嫌悪する人間はそういない」
「そーですね」
「だから”彼ら”は弾かれて、鬱屈し、肯定一つで簡単に信用するのだけど」

最後、一転して軽やかな口調で紡がれた内容に、眉根が寄った。
あからさまにならないように、あくまでゆっくりと、両腕を体に巻きつける。
ぞわぞわとした、何かが体を這うような感覚を、服を握り込むことで押さえ込む。

何も言葉は出なかった。
彼のこうした思考は、たまらなく気持ち悪かった。


町長は、たまにこうしてオレに裏側の思考を見せる。
ここに居着く人間には絶対に見せない手の内も、何度か聞いた。
その度に、激しい不安に襲われる。何か、後ろにあるような、どこかへ誘導されているような、そんな感覚が抜けない。
彼の言動や行動に導かれた先を、極端な思想を当たり前に受け入れる自分を想像して、ぞっとする。生理的に、無理だ。

嫌悪を隠しきれないオレを、町長は嗜虐性の滲んだ目で笑う。
そしてあてつけのように、次は悪意のかけらも見せずに、優しく微笑んでみせた。


「君がケイルを見限りさえすれば、歓迎するのにね」


きっと、彼が信用を得るために使うのは、この顔だ。
刺のない温厚さをまとった表情は、心地のいい許容を演出する。その下にどんな思考が紛れていようが。
町長が言うように、否定と無理解によって傷ついた人間には、それはそれは優しく映るんだろう。
ここに居着く人間の様子を見るに、いっそ後光が射してすら見えたのかもしれない。オレは薄ら寒さしか感じないけど。

「その心は?」
「何事にも資金は必要だ」

間髪入れずに返った答えに、ほらみろ、と誰に言うでもなく思う。
その思考の片隅で、少しだけ気が紛れた。

冗談めかした彼の即答を含め、こうなればもはや恒例のやりとりだ。
廃墟を使うなら、場所代はかからない。けれど生活は、場所だけでは成り立たない。
どの程度を必要としているのかは計れないが、数年前から彼の関心は資金集めにある。

「そういうことはノータッチなんですよねえ。残念だなあ」
「活かす術を知らないからだろう。教えようか?」
「いやいや、難しい話はちょっと。ほら、まだ十代ですし」
「いつの話をしてるんだか」

のらりくらりと明言を避けながら、話を交わす。
実際、専門に任せて、詳細を知らないのは本当だ。嘘じゃない。
いま持っているものを維持できれば、それで良かった。
何かに役立てたいとか、価値を増やしたいとか、そうしたことに興味はない。


町長に聞きたかったことは、とりあえず聞けた。
もうここに用はない。瓦礫から腰を上げて、右手で軽く服についた砂利を払う。

日暮町で寝床を探すのは、昨日のことを考えれば少し気が引ける。
今日一日は、墓場町で雨風が凌げそうな場所を探そう。甘い臭いがしないところがいい。

何点か、以前回って見つけていた場所を、頭の中でピックアップする。
それじゃあ、なんて町長への挨拶のために顔を上げる。
彼は瓦礫から立ち上がり、静かにオレを眺めていた。



「近くにケイルがいるのかな?」



冷ややかな声だった。

「いいえ?」

とっさに否定したのが、せいぜいだった。
視線が揺れないように、町長の鼻元に視点を据える。
けれど、町長は頭を右に傾げた。目が合う。弧を描いた口が開く。

「じゃあ、なんで、ここ以外のことを聞くんだろう?」

暗い眼差しがオレに狙いを定めていた。
ゆっくりとした質問に、じわりと手のひらに汗が浮かぶ。心臓が、早鐘を打ち始める。

「行動範囲が被らないように」

さっきの会話で出した理由を言い切れば、にんまりと、瞳が細まった。
背筋を冷たい汗が伝う。この嫌な感じは、何だろうか。

町長は一転して、聖人君子さながらの笑みをたたえた。


「それは未来にしか通用しない理由だ」


そして、オレの答えは切り捨てられる。

「君は行動範囲を変える予定がないと言った。それならば知らない地域の情報なんていらないだろう。
 君には死を決定的に避ける理由もあるまい」

前段の会話を彼は覚えていた上で、否定する。
あくまでつなげるための話題に対して出した適当な回答が、仇となった。

「行動範囲の異なる他人を想定し、予防線を引こうとしていると考えるのが自然だ。
 そして、その対象は、君のようにケイルに似た容姿を持つ人間か、ケイルに絞られる」

町長が両手を、対象として示した人間とケイルとして掲げる。

「君はケイルに関して私と話をしない。煙に巻く。今日の大半がそうだったように。
 けれど一度だけ、私に理由を聞いたね?」

じわじわと真綿で首を締められているような、そんな気分だった。
呼吸が、浅くなる。


「”あんな人間もどきと関わると、ろくなことにならないよ”」


もう一度、オレの記憶にある通りの声がこの場に響いた。
そうだ。確かに、オレはこの言葉に聞き返した。
何を思って質問したかなんて覚えていない。迂闊の一言に尽きた。握り込んだ拳に、爪が食い込む。

「自分がケイルと関わっている、もしくは関わる可能性があるから、君は耳を傾けたんだ」

そして、人間を模した側の町長の手が下げられた。
残ったケイルを模した側の手が、オレに向かって、たおやかに差し伸べられる。


「さあ、訂正はあるかな?」


言い当てられた事実に、奥歯を噛み締めることしかできなかった。
今までの発言に、一切の迷いは見えない。当てずっぽうらしき部分もない。全て、覚えがある。

思い返せば、彼がこちらを探るような仕草はあった。
けれど、深く考え切らなかった。うまく、その意図に繋げられなかった。つい、舌打ちが漏れる。

「……オレだって、死ぬのは怖いですよ」

もはや、つまらない差異を返すので精一杯だった。
これが彼の中の確信を覆すものにはならないことなんて、十分にわかっている。

それでも、ケイルがいることを肯定すれば、追求を許すことになる。
これ以上、なんの情報も取らせるわけにはいかない。
その意図を示す意味でも、警戒心を示す。

「誤魔化しの下手な子だねえ」

町長は、爛々と輝く目を細めた。
まあいいけれど。口をつぐんだオレを子ども扱いするような声には、愉悦が滲む。



「ケイルに絶望する君を、楽しみにしているよ」





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