轍 > ななほめ


「鞘ちゃん、こっち」

見慣れたマンションのエレベーターを降りて、男の前へと踊り出る。
最上階の部屋数は、他の階よりもずっと少ない。
さすがにワンフロア一室とはしなかったようだが、かといってここで大黒の招いた人間以外が出入りする様を見たことはない。

鞘は、特に何も言わずにオレの後ろを歩いてきていた。
ここに来るまでに彼に伝えたのは、待ち合わせのための時間と場所くらいだ。
会わせる人間について事前に何かしら伝えることも考えたものの、正直上手い言葉が浮かばなかった。
会えば、たぶん、あの男は自分から話す。だから、特に触れないままでいいか、なんて諦めた。

いつも通り、インターホンのボタンを押し込む。
ジー、と無機質な通信音が僅かに鳴る。

「はい」
「着いたよ」
「はいはい。すぐ出る」

簡単な応答のみで、通話は切れた。

「おおぐろ……」

通信の音が途切れた後、聞こえた小さな呟きに振り返る。彼の視線は、点灯した表札に注がれていた。
防犯対策として人感センサーと連動した表札は、オレが玄関前に立ったことによって住人の名字を表示させている。

読み上げた彼の声色に、はっきりとした感情は乗っていなかった。
ただ、彼の場合、何の思考もなく呟いたわけではないだろう。


意図をはかろうと、口を開く。
ただそれと同時に、玄関の扉が勢いよく開いた。

「連れてきたか!」
「うるさい」

扉を開いた勢いそのままに喜色満面の大黒が顔を出して、思わず一歩のけぞった。
大げさな態度に端的に不快を訴えても、大黒は構わず前のめりにオレの後ろを見る。そこまで気になるか。


「えっ、おとこ?」


すぐに飛び出た素っ頓狂な声に、ため息をついた。
大黒は目を丸くしたまま、ぎこちなくオレに視線を寄越す。

「なんだよ」
「お前、さやちゃんって呼んでたからてっきり」
「本人の了承は得てる」

言いながら、鞘の苦い表情が脳裏には蘇った。まあ、快諾ではなかったのは確かだ。
けれど、結果として好きにしていいと言ったのだから、あれは承諾だろう。

納得できないとでも言いたげに、大黒の目が、オレと後ろの鞘とを行き来する。
そこに少し非難する色が見えたから、鞘を振り返った。まだ彼が嫌なら、この呼び方はやめるつもりだ。
けれど、振り返った先にあのときの表情はなく、ただただ平然とした静かな表情だけだった。目が合った際に、少し目を伏せられはしたけれど。

「まあ、双希が女性と、ってのも想像できなかったが」

大黒は、いつもどおりのトーンに声を戻す。
意外だと思ったんだよなあ、なんてしみじみと言いながら、彼は頭の裏をかく。

「寝たことはあるよ」

確かに男相手が多いものの、別に意識的に分けているわけじゃない。
そうした意味で伝えたが、そうじゃない、と大黒が手を振った。
日暮町で過ごす相手の話じゃなかったらしい。


何だか前にも似たような話をしたな、なんて、片隅によぎる。
ちょうど鞘のことをお願いしたときだ。あの時は、確か好みの話だった。

「あれ、恋愛対象ってどうだった?」

完全に興味本位だろう質問に、勝手に眉根が寄る。
大黒は、本当にこの手の話を好む。関心が高いから、必然的に話題がそれにそれやすくなる。

「どうだろ。知らない」

今日はこんな話をしにきたわけじゃないんだよなあ。
冒頭はつい勢いで無下に扱ったものの、鞘がいる手前、いつものような態度は避けようとは考えていた。
どう話を進めれば、穏便に本題に入るか。話の流れをいくつか頭の中で探る。

「は!? ちょっと待て、双希、」
「だからうるさい」

こっちが気を使ってるにも関わらず、大声で食いつく大黒に悟った。無理だこれ。


なおも騒ぐ大黒を無視して、後ろに立った鞘を前へと促した。
手のジェスチャーだけで察した彼は、オレの横へと歩み寄る。

さすがの大黒も、ここまですれば、よそ用の態度に渋々切り替える。
若干不服そうにオレを睨んではきたが、特に気にしない。今日の目的は鞘の紹介で、大黒のご機嫌取りじゃない。

「藤堂 鞘。前に話した通り、説明をお願いしたいケイルさん」

紹介するなり、鞘は大黒に向かって恭しく頭を下げる。


「広樹さん。お会いできて光栄です」


そして姿勢を直したあと、彼は大黒の名を呼んだ。
そのことにまずは驚いたが、同時に、大黒の名字を呟いた意味に気づく。おそらく鞘は、表札を見た時点でその可能性に思い当たっていたんだろう。

大黒の様子を伺えば、彼もまた驚いた様子で再び目を丸くしていた。
しかし、何かに思い至ったように瞬いた後は、本来の垂れ目へと柔く戻る。


「知ってるのか」


そこに落ちた声は、気安さが抜け、やけに穏やかだった。
大黒個人の内面に近い、低く落ち着いた声色。変に茶化した雰囲気は消えた。

「関連する部門で補助を。それでなくとも、ご子息であることは一般知識として」
「……そうか」

大黒が、安堵したように息をついた。眉尻を下げて、僅かに微笑む。

彼が噛み締めるように目を伏せる様からは、目を逸らした。
この会話には入れない。大黒個人に近い話題に、入りたくもない。

懐かしむ調子で始まった会話をすり抜けて、先に玄関をくぐった。
鞘がオレを見やったのは気づいたが、構うことなく足を進める。どうせ勝手知ったる大黒の家だ。遠慮はしない。
彼はケイル開発者の息子の話を無下にはできないだろうから、話はきっと長くなる。


先日と同じように、廊下を進んでリビングへの扉を開いた。
その瞬間、違和感が鼻をくすぐった。

それはおそらくお香だった。日暮町ではまるで縁のない香り。
けして強くはない。しかし僅かな中でも、複雑で、それでいて調和のある厳かさ。
一般に流通しているものとは明らかに違う一級品の香りだった。そうそう触れる機会はない。


見やれば、いつものソファには人がいた。
おそらく、この人がいるから、部屋の香りが変わったんだろう。
後ろ姿からわかるのは、大黒ほど大きくはない背だ。襟足まで程よく伸ばされた赤みのない髪は、緩く外側に跳ねている。

硬い唾が喉を通った。
オレは、これらの特徴に合う人間を一人、知っている。


相手も部屋に入ったオレに気づいたようで、ゆっくりとこちらを振り返る。さらりと線の細い髪が、振り返りざまに流れる。
丸く金色に縁取られたレンズの奥、細く釣り上がった目がこちらを見た。


「ああ、久しぶり」


ほら、やっぱりそうだ。
愛想笑いを浮かべた顔は予想通りの人物で、思わず口を引き結んだ。

男はおもむろにソファから立ち上がった。
その所作に、大袈裟な音はない。違和感なく着こなされた着物が、彼の動きに沿って柔らかに動く。
焚き染められたんだろう伽羅(きゃら)の匂いが一筋、品良く漂った。

扉のもとで立ち止まったオレのもとまで、男は歩み寄る。
真前までに立たれれば、少し高い目線に見下ろされた。そこに滲む好奇心に、思わず顎を引く。

「お久しぶり、です」

かろうじて挨拶を口に乗せ、左に逸らした視線で逃げ口を探す。
胃を締め付けられるような感覚が込み上がった。

「そんな他人行儀な」
「いや、つい……」

迷いなく顔を覗き込んだ彼に対して、体はとっさに後ろへと重心を移した。
それに相手は笑みを深くする。


「あの町の人間とは関わりたくないって?」


揶揄するような声で問いかけながら、彼はオレの目を深く覗き込んだ。
まるで小さな悪事を暴いた子どものような表情は、今まで自分に向けられたことはなかったのに。
未だに掴んだままの扉の取っ手を引いて、すぐさま彼とオレの間を隔ててしまいたい衝動に駆られた。そんな失礼な真似、出来るはずないけれど。

そこまで思って、一度、無理矢理に視界を切った。動揺して意識をうまく切り替えられていない自分を、閉じる。
深く息を吸い込んで、吐き出す。背筋を伸ばし、まっすぐに顔をあげる。


「まさか。びっくりしただけだよ、烏丸(からすま)」


そして、さっきまでの動揺なんて取り繕って、笑って見せた。


瞬間的に、彼の目に落胆が映ったのが見えた。
空々しく笑った口元が、僅かにつまらなさそうに下がる。

その反応に、胸を撫で下ろした。
オレが知ってるのはこの感じだった。彼は、オレ個人に興味はない。

烏丸とは、会合、挨拶、そんな地域のつながりで、大勢の中の一人として会う程度だった。
直接言葉を交わしたことなんて、知り合ってからとしてもそう多くない。
彼との会話は、当たり障りのない会話に留まる。互いに、関わろうと思うような相手じゃないから、踏み込んだ話をすることもない。

調子を取り戻せば、今のように彼の興味はきっと逸れる。ここからは、表面上だけのやりとりになる。
この男に対するいつもの調子を、頭の中でたぐり寄せる。ただの世間話を、不快なく行えるように。

「なんでここに?」
「大黒に聞いてね」

予想通り、烏丸は表面的な笑顔をオレに向けた。
内心、何を考えているかはわからないままでも、この状態で関わることは慣れている。
オレの知る限り、興味がない人間に対して、烏丸は愛想よく対応するだけだ。


安堵の息をつく一方で、烏丸の回答に出た一人の名前は別で頭に控えた。
あの軽口野郎、とんだ面倒ごとをもってきやがったな。覚えてろよ。

「知り合いだったんだ」

先に言っといてくれればいいのに、なんて心のなかで舌を打つ。
大黒が烏丸と話をする仲だとは、思いもよらなかった。

「元は会社のつながりだよ」
「へえ」

烏丸の回答は、頭に入れておく。
念のため、後で大黒にも確認した方が良いんだろう。

この男の言うことは、正直、どこまで信用できるかわからない。
余計な嘘を言うタイプではないだろうけど、言い回しが上手いことを知っている。
大黒と烏丸の関わり度合いによっては、少し気を張る必要がありそうだ。


「そういえば花の香(はなのか)、受賞おめでとう」


大黒とのつながりを掘り下げないにしても、沈黙するわけにもいかない。
彼の家が経営する和菓子屋の看板商品を話題に上げる。確か、なにかの賞を受賞したはずだ。

「おかげさまで。しばらく対応に追われたよ」
「もう落ち着いた?」
「随分と。商品はまだ予約待ち状態だけど」
「ほんとの花だもんね」
「そう。独自に改良した品種もあるしねえ」

花の香は、季節に応じた花を砂糖漬けにした花菓子だ。
砂糖の衣はあくまで薄く、花本来の色と形を邪魔しない。
おすそ分けとして何度か貰ったけれど、くどくない甘さとほのかな香りがあったのは覚えている。
最近食べたものだと、みかんとあじさいだったかな。数ヶ月前の記憶はおぼつかない。

「受賞のこと、よく知ってたね」
「花の香のファンがおりまして」
「ご愛顧にあずかり、ありがとうございます。雨宮の口には合ったかな?」
「みかんの花、さっぱりしてて美味しかったよ」
「それは良かった」

花の香の好評さから、近頃は似たような花菓子も出てきているらしい。
けれど、オレに花の香を勧めた人間いわく、他のは砂糖が多すぎるとか花らしさがないとか、とにかく酷評されていた。花の香大好き人間が言うことだから、だいぶ贔屓めで偏った意見なんだろうとは思うけど。


花の香について烏丸と愛想笑いを続けながら、傍らで後ろへ耳を澄ませる。
烏丸との世間話をするにしても、正直限界はある。共通の話題も、ほとんど持っていないのに。
ここに招いている以上、大黒と烏丸が何らか気安い仲なのはわかる。だとすれば、烏丸との会話を早く押し付けたい。

澄ませた耳には、大黒の低音が届く。内容はわからないまでも、どうやらまだ話し込んでるらしい。
長くなるだろうとは思ってたけど、客人を招いてるなら早く戻ってこいよ。表情に出ない範囲で大黒への恨みを募らせた。


「君も元気そうだね」


花の香の話が一段落するなり、彼はオレに話題を据えてきた。
髪と目も意外な感じ、なんて、また細い目がオレを観察するから、伸びた髪に目をやるふりで視線をそらした。
胸の奥に広がる苦いものを顔に出さないように頬を意識して、なんとなく、なんて適当な理由を返す。

髪に触れた後の手は、それとなく、体の前で腕を組む形へと落ち着かせる。
込み上げる後ろめたさを誤魔化すように、腕の中に隠した手で服を掴む。


「次男坊なんだから、あっちでも自由にすればいいのに」


相手の言葉を理解した途端、耳鳴りがした。
咄嗟には何も言えなくて、曖昧に笑うことだけで精一杯だった。
がちり、と震えで歯が触れて、それを止めるよう、歯を食いしばる。

それが成り立つなら。そう叫んでしまいたかった。
それまで満ちていた冷たさが急速に煮えたぎって、体を巡っていた。
罪悪感をやり過ごしていた力は、今度は激情を抑え込む方に変わる。服ごしに皮膚へ強く爪を立てて、暴れ出しそうな感情を殺す。


視線を足元に落とす。
烏丸に怒ったって仕方ない。何を知ってるわけでもない。そう、自分に言い聞かせる。

逃げる思考が思い出させたのは、先生の手だった。頭を優しく撫でてくれる、皺のある手。オレは、あの手が一等好きだ。
オレには先生がいる。心の中で、そう唱えれば怒りが凪ぐ。
先生は、オレを見てくれる。だから、大丈夫。暗示のように繰り返せば、体から力が抜けていく。


ふ、と息をついた。
やっと強張っていた力が抜けて、肩が落ちる。

「オレは、生きるのが下手くそだからね」

それだけを烏丸に返せば、値踏みするような鋭い眼差しは閉じられた。


同じタイミングで、玄関から聞こえる音が大きくなった。
ようやく、あちらでも話がひと段落したらしい。

「お? 中に入らなかったのか?」

振り返った先、鞘を連れた大黒が、さっきまでの調子でオレに声をかける。
オレと烏丸が顔を合わせたことは当然わかるだろうが、その表情に悪びれた様子は見えない。
問いに答えず睨みつけても、案の定、理由が分からないんだろう。不思議そうに見返された。

どんな経緯で烏丸にオレのことを話したかは知らないが、この様子だといつものごとく、悪意はなかったんだろう。
もはや、ため息をつくことしかできなかった。

「ああ、大黒。積もる話は終わった?」

リビングと廊下との境目に立ち塞がったオレの合間から、烏丸が大黒に声をかける。
それに対して、烏丸さん、なんて丁寧な呼称が大黒の口から出た。
その他には特に変わりはなく、リラックスした雰囲気のまま。やはりある程度、気心が知れた仲らしい。


それとなく、大黒と鞘が部屋に入れるよう足を進めた。
烏丸の近くへ大黒が進むように意図してスペースを開ければ、大黒は素直にそこに収まる。

大黒の後ろに続いていた鞘は、扉に一番近い位置で止まった。
廊下への出入りを妨げず、ここにいる人間から離れすぎず近すぎない下座。その上手い位置取りに、素直に感心した。

「中でゆっくり話されててよかったのに」
「ついね。立ち話になった」

ねー、なんて茶化すように同意を求めた烏丸には、適当に笑っておいた。
それを見た大黒が、少し口元を歪に曲げる。そして少々顔を青くしたのが見えた。
どうやら、ようやく、余計なことをしたと気づいたらしい。

追撃として、よそ行きの顔で大黒へもにっこり笑ってやれば、大黒からは引き攣った笑いが返ってくる。
何度目だと思ってる、この野郎。


「君が例の?」


そんな空中戦のなか、烏丸が鞘へと歩み寄った。
羽織が、彼の動きに合わせて揺れる。さらりとした生地の、繊細な糸がきらめく。
彼が近づいた先の鞘も、初めて会ったとき同様に着物を身につけている。

和装で相対する烏丸と鞘は、服装も相まって、こことは違う空気感を纏っていた。
それに窮屈な空間を思い出して、二人から自然と視線がそれる。無意識が拒絶する。
上質な香の匂いが、やけに鼻についた。ここにいる自分には到底馴染まない香りが、強く不快感を起こす。


静かに、玄関に向かって足を踏み出した。
香の匂いから逃げたい。鼻から下を、手で覆う。罪悪感から逃げたかった。

特に、当然のように和装を着こなし、堂々と立つ烏丸を見ていると、苦しい。
彼の存在は、何にもなれない事実をまざまざと突きつけてきて、居心地が悪い。奥歯を噛む。

「双希?」

鞘が、そんなオレを呼んだ。黒い瞳と目が合う。
彼はまっすぐにオレを見る。オレだったからといって、すぐに逸らされることはない。
そのことに胸の奥で暖かいものが広がって、けれどそれ以上に心が痛くなった。


「ごめん、オレ、下にいる」


渦巻き出した感情が溢れ出す前に、逃げ出したかった。




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