轍 > きゅうほめ


ビルの突き当たり、窓枠に片足をかけて乗り越えた。
着地地点にあった石ころがパチ、と跳ねる。風によって集められていた小枝を踏み潰して乾いた音を立てる。枯葉が形を崩した。
出来るだけ複雑で、険しい道を選びながら走った。後ろに耳を澄ませながら。

いつもの騒がしい道から外れた西側、人気の失せた廃ビル通りは、思いの外、音が響く。
雑踏の中では紛れて聞こえない足音も、枯葉溜まりが点在するここでは聞き取りやすい。
今日の自分について回る気配が偶然かどうか、確かめるには良い場所だった。

また、幸いにもこの入り組んだビル群であれば不慣れな人間は迷いやすい。
オレでさえ特徴的な銅像が立つ広場を目印にして、なんとか道を覚えている程度だ。
ここで鬼ごっこを続ければ、もし後ろをつけられていたのだとしても追うことは難しいはずだ。
そんな魂胆で、もう十分以上は走り続けている。


鞘と別れてから一ヶ月ほど経っただろうか。いつもの日常はすぐに帰ってきた。
気の合う居候先を探して、噛み合わなくなれば次を探す。
日中はこうして好きに出歩いてることもあれば、居候先といることもある。

数日前に引っ掛けた今の居候先は、ある程度、自由にさせてくれた。
欠点とすれば、傷を残すのが趣味らしい。強く噛みつかれた首筋や足が、走る振動で度々痛む。
まあ、傷と言っても血が出るほどじゃないし、束縛もしない人なので、好きにさせている。


居候先に問題はない。
いま走っているのは、嫌な視線が自分にまとわり付いたからだ。

今日、食後の運動がてら大通りに出た後から、誰かがオレを見ている気がした。じっとりと、嫌な温度で。
散歩中に視線を感じたことは初めてじゃない。好奇心から嫌悪まで、いろいろと受けてきた。
それでも、今日の感じはしばらくぶりだと思う。

鞘のように人目を引く顔でないことは自覚しているので、どうせ、どこかで下手を打ったんだろう。
こんな視線は、おおよそ色恋がこじれた結果だ。その辺、すっぱり切ってきたつもりなんだけどなあ。

道中、それとなく振り返ってはみたけれど、大通りの人混みで見つけられるはずもなく。
だからといってそのままにも出来ず、こうして確認のために廃ビル通りを走っていた。尾行を振り切ることも兼ねて。


ぜえ、と切れ出した息を飲み込む。夏が終わり、ずいぶんと心地よくなったはずの気温も、今は暑い。
目的から考えれば、キツい道ほど有効なんだけど、体育会系じゃ、ない、から、キツい!
しゃがんで、飛び降りて、駆け上がって。きっと明日は筋肉痛だ。動ける気がしない。

とりあえず、この障害物競走を終えて、もう広場まで突っ切っていいだろう。
走り始めた頃に聞こえていた音は、今はもうない。現に、枯葉を踏み潰す音も続かなかった。
自分以外に派手な動きをしているものも特に見かけない。回り込まれているわけでもないだろう。
ここまでに見かけたのは倒れ込んだ老人と、何やら話し込む二人組。どちらもオレに関心はなく、おそらく無関係だ。


掲げられていた看板も塗装も剥がれ落ち、骨組みだけと成り果てたアーチをくぐり抜ければ、肩ほどの高さに立った半身の像が真正面に出迎えた。
像の周りは円形に噴水だった石畳が広がる。元はキラキラと輝く水飛沫をあげていただろうそれも、今や苔むした水たまりに過ぎない。

足の速度を緩めてそこに近づく一方で、広場を一通り見渡す。
噴水を中心として、周辺の廃ビル群へと続く通りが、いま自分が通ってきた西側を含めて四つ、放射状に伸びる。
特に遊具などはなく、基本的には正方形のタイルが敷き詰められている。南側の一角だけ、手入れされずに荒れた花壇と朽ちて板が欠けたベンチが並ぶ。

死角の少ない広い空間のなか、どうやら人影は一つだけだった。
通話中らしき暗い服装の男が、噴水の縁を椅子代わりに大股で座っているだけ。
男はちら、とオレを見たものの、すぐに視線は外れる。落ち着いた様子であり、呼吸を乱した様子はない。
その様子に、少し胸のつかえが取れた。どうやら、先回りはされなかったらしい。


走り続けて限界に近づいた足で、先客である男とは距離を取るように噴水の右側へと回り込んだ。
歩きながら、全身から吹き出た汗をパーカーで拭った。五分丈の袖が汗で腕にまとわりつく。何もかもが熱い。

途中よろめきながらも、なんとか噴水の縁石にたどり着く。
いびつに欠けていない平らな縁を探して座り込めば、縁石の冷たさがズボン越しに伝う。


腰掛けた途端に、ドッと疲れが襲ってきた。
上半身を支える力もなくなって、肘を足につける。

全身で息をした。必死に酸素を吸って吐いてを繰り返せば、酸欠の痺れが和らいでいく。
激走した体から立ち登る熱気が不快だった。
噴き出た汗で首筋に髪がまとわりつくのもまた、鬱陶しい。

肩口まで伸びたままの後ろ髪をかきあげ、首筋に風を通す。
こんなときは、この鬱陶しい髪を以前のようにばっさり切ってしまいたくなる。
けれど、成長が止まった自分では、一度髪を切れば、次に生き返るまで伸びない。失敗するかもしれないなら、今の髪型でいいと、結局いつも思うだけで終わった。


「なあ」


斜め右の方向から不意にかかった声に、目だけで応えた。
垂れ下がった銀髪の隙間から見えたのは、数歩先に立ってこちらを見る若い男の姿だった。

先ほどまで、噴水に座り、通話していた男だ。
傷んだ明るい髪に、やや釣り目気味の目。愛想良く弧を描いた口。二十代後半くらいに見える。
左右にはそれぞれに片手ほどの数のピアスが並んで、髪色も相まって派手な印象を受けた。
特に見覚えはない。

「なに」

姿勢を変えることなく、目線だけで男に問い返した。
立ち上がる気力はもちろん、顔を持ち上げる力すら今は惜しい。
愛想良く返す力なんて当然残ってないから、ついぶっきらぼうな声になる。

「ちょっと聞きたいことがあってさ」

そんな態度など気にもしてない様子で、前に立つ男はなおもオレに話しかける。
どうやら肝が据わっているらしい。もしくは、相当鈍いのか。

正直、今はあまり構われたくなかった。
やっと息は整い出したものの、疲労感がひどい。できれば言葉一つ喋りたくない。
そんな意図もあって、きっと男を見るオレの目はキツくなっているだろう。

「猫を知らないか?」
「……ねこ?」

男の質問に、鞘がたどたどしく触れていた小さな三毛猫が浮かんだ。
疲れた頭は、呟きを心に留めることができず、そのまま口に出す。
そんなオレの反応に、男が目を細めた。

「黒猫なんだ」

男が一歩、こちらに近づいた。躊躇なく、随分と歩幅が大きい一歩に、総毛立つ。
さっきから、随分と男は自分勝手に距離を詰めてくる。自分のパーソナルスペースへ無遠慮に踏み込んできたことに、眉根が寄る。

「さあ。知らない」

もういいだろ。頭を両腕の中に埋めて、拒絶した。
取り合うつもりがないことを全身で示す。何も見ない、聞く気もない。


そうして目を瞑れば、倦怠感が体を覆っていく。
自分が地面に溶けていくような感覚がする。ぐらぐらと地面が回っていくような錯覚が起きた。
疲れていた意識は、簡単に奥へと沈んでいく。肌に感じる外界の感覚がぐんぐんと遠のいていく。

このまま、何もかも手放せば、眠ってしまうんだと思った。
誰かに尾けられていた状況から考えれば、早くここから離れるべきだ。そう思ってはいるけど、少しだけ、休憩したい。

呼吸は落ち着いてきた。心臓もいつものリズムを取り戻しつつある。
あとは、気力だけ復活すれば、また動ける。


「弟の飼っていた猫が逃げてね」


まどろんでいた中、右隣から衣ずれの音がして、強引に意識が引き戻された。
少し顔をあげてそちらを伺えば、接するほどの距離に男が腰掛けている。
その不躾さに、顔をしかめた。

あんな態度を取られて隣に座るか、普通。
あの拒絶に気づいてないのだとしたら、尋常じゃない鈍さだ。
疲れていることもあって、些細なことにも苛立ちが募ってしまう。意識的に、男を睨みつけた。

「どこでもいる野良猫だと思ったんだよ、最初は」

それを真っ直ぐに受け止めたはずの男は、なおも平然と話し続ける。
どうにも、鈍感故の振る舞いではなさそうだった。真意は見えないが、ここまでならわざとだろう。

「そしたら、どうにも血統書つきだったみたいで」

血統書付きかどうかなんて、見た目でわかるわけないだろうに。口に加えてるわけでもなし。
そんな嫌味は、結局、口には出さなかった。


疲れた足にもう一度、力を込めて立ち上がる。
べらべらと喋るこの男がどこかにいくのを待つよりも、こちらが立ち去る方が早い。
体力が十分に回復したわけではないが、このままここで居るよりも、移動したほうが有意義だ。
イライラするのも、疲れる。


「ただ、」


男は、思うよりも素早く、立ち上がったオレの右腕を掴んだ。

茶色がかった目が、オレを見上げる。
そこにこもった感情はわからなかった。けれど、どこか薄ら寒いものが背筋を通り抜ける。

「オレは黒猫なんか知らない」

引き留めるように力を込める男に、冷たく言い放つ。
そのまま掴んだ腕を振り払おうとしたものの、思ったより力が強い。ぎしりと手首の骨が軋んだ。

猫に反応したことで、誤解させたのだろうか。でも本当に黒猫なんて覚えてない。
猫なんてどこにでもいる。珍しい生き物でもない。この間見た三毛猫だって、エピソードがあるから覚えていただけだ。


腕を掴み続ける男を改めて見る。
身長が高く、健康的な体躯の男。顔立ちに目立った特徴はないが、表情の作り方から強かそうな性格に見える。
その目や表情に、異様な熱や恨み、焦りの類いは見て取れなかった。正気の人間だと思う。

けれど、どこか付き纏う不気味さがあった。
なにか違和感があるのに、その正体が掴めない。


「オレに構う前に、猫を探した方がいいんじゃない? 誰かに持ってかれるかもよ」


吐き捨てたところで、男は依然として力を緩めない。
むしろ、抵抗する分だけ力が強まった。その痛みに耐えるように歯を食いしばれば、男の顔が楽しそうに歪む。


「黒猫なんかどこにでもいるだろ! わかんねえよ!」


馬鹿にしたような態度が、癇に障った。
もう一度、掴まれていた右手で強引に振り払えば、今度はいとも簡単に手は離れた。勢いを殺せず、数歩、後ろへ足踏みする。

掴まれていた手首をさすりながら男を見るが、男は愉快そうな表情は崩れていなかった。
もはやどうでも良さそうに噴水の傍に立ち、さっきと違い、引き留める様子は見えない。

それがまた奇妙に思えたが、今はとりあえず大通りに戻るべきだ。なにか、嫌な感じがある。
男から目を離さないようにして、噴水を左に、東側の道へと向き直る。


そして東側を向いたとき、ちょうど風が止む。
一瞬停滞した空気に、気持ち悪い匂いが混じった。


「やっと見つけたよ、そうきぃ」


目の前には、オレの退路を断つかのように、見覚えのある男が立っていた。二ヶ月ほど前に嗅いだ、あの甘い匂いを纏って。
よりによって、こんなときに。タイミングの悪さに、奥歯を噛み締めた。

左の手の甲で鼻を押さえる。
クスリを飲むほど、あの甘ったるい匂いがつきまとう。
いま嗅ぎ取った匂いは、町長がそういったあの匂いだ。


「敬也さん」


数ヶ月ぶりに見た彼は、大きく上下に体を揺らしながら、そこにいた。
その様から、つい今し方まで走っていたんだろうことは簡単に予想がつく。
この分だと、今日、オレを追っていたのは彼だったんだろう。

苦しそうな息切れの声は、離れているオレまで届いた。ペースの早いそれは、相当に苦しそうに思う。
けれど、その顔に浮かんでいるのは、苦悶ではなく恍惚だった。
目は見開かれ、ぎらぎらと嫌に光る。せわしなく呼吸する口は、大きく口端を持ち上げている。

そんな満面の笑みを浮かべた彼に対して、自分の表情筋は強張っていた。唇がわななくのを、必死に手の甲で押さえつける。
怯えを見せてはいけないと思っていた。付け込まれてしまうから。
でも、こんなの、無理だろ。右手で腹部の服を必死に握りしめた。

到底、普通には見えなかった。
たった二ヶ月程度の間に、彼は随分と様変わりしてしまったらしい。
その異様さに、違法薬物で狂った男が重なって見えて、思わず後ずさる。


「ああ! もう一つ特徴があった」


場違いな明るい声に、背後にいる別の存在を思い出した。
緩慢に振り向いたオレを、すぐ後ろに立った男が見下ろす。

「その黒猫なんだけど、」

目が合うなり、男はにんまりと笑った。


その意味を理解する前に、本能が体を動かした。
右足を軸として、これからの進路を右に変える。

しかし、男の伸ばした腕が早い。
南へと駆け出そうとした足より一拍先に、オレの肩に回る。

そのまま男の腕は首に巻き付き、体を無理矢理に元の位置へ引き戻した。
目の前には、こちらへ近づいてくる敬也の姿。もう、あと数歩先の距離まで近づいてきている。

「なんのつもりだ! 猫なんかオレは知らない!! ッ離せ!」

はやく、早く逃げないと。
絡みつく腕を振りほどこうにも、怯んだ体が出せる力などたかが知れている。男の腕は、頑として剥がれない。



「どういうワケか、今は銀色の毛並みをしてるらしい」



男はそう囁いて、オレを敬也に向けて突き飛ばした。





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