轍 > じゅういっぽめ


閉じたまぶたごしに、光を感じた。
うすぼんやりと開いた目を、柔らかな光が撫でる。
四畳半ほどの部屋の壁際、自分がうつぶせに寝転ぶベッドに向かって、ベランダの掃き出し窓にかかるカーテンの隙間から光が射し込んでいた。

光を避けるように、顔をシーツに埋める。
シーツは使い古されているのか、表面の繊維が固くごわごわと尖り、肌触りは良くない。
シーツだけじゃない。腹部に中途半端にかけられたうす平べったい布団もそうだ。表面の小さな毛玉が、ざらざらとむき出しの肌を撫でた感触を覚えている。
そんな布団でも、ないよりはマシだ。布団がかかっていない部分は、少し寒い。


白さを持った柔らかい光と素肌に触れる肌寒さから、いまはおそらく朝なのだろう。
何度目の朝かは、わからなかった。

監禁状態で過ごすこの部屋に、時計やテレビなどは置かれていない。
時計代わりとする左耳の通信装置も、ここで目覚めた時点で飾りのピアスごとなくなっていた。右耳はそのままだったので、まあ、諦めはついている。
終日締められっぱなしのカーテンから漏れる光が唯一時間を推測できる材料だが、朦朧とする意識と気絶を繰り返せば、一日の区切りはすぐにわからなくなった。


ここに来てから、妙な薬は数度、打たれていた。
おかげで、いまは指一本動かしたくないほど猛烈に体がだるい。今のうつ伏せ状態から、寝返りをうつことすら難しい。

ひどい酩酊感が、ずっと続いていた。地面が揺れているような幻覚が、いまもなお続いている。
最初は地震だと思っていた。マンションなどの高層階であれば、ゆうらりとしなるように揺れるから、その類なのだと。
けれど、ベッド間近にあるサイドチェストも、隅に雑多に積まれた物も、何一つとして揺れも倒れもしていなくて、嫌でもオレの感覚がおかしいのだと理解した。


すん、と鼻をすする。冷えた空気が、一瞬、鼻先を冷やした。
吸い込んだ空気に溶け込む臭いは、まだ甘いと違和を感じられる。

換気を最低限に絞ったこの部屋には、クスリの臭いが濃く染み付いている。目覚めてすぐは、吐き気すら感じたほどに。
それがいまや、こうして平然と息ができる。確かにあった嫌悪感も、最初ほどは感じなくなっている。
拒絶感が薄れるほどに甘だるい匂いが自分の体へと染み付いていくようで、一層、心が重くなった。

少しみじろぎすれば、太ももあたりにぬちゃりとした粘つきがあった。
体についた敬也の体液までもが、オレの体に馴染むような温度をしていて、より気持ち悪い。
せめて表面についたものだけでも拭い去りたいが、そう思ったところで横たわった体はダメだ。瞬き分の力くらいしか生み出せない。


「早いお目覚めだな、雨宮のお坊ちゃん」


そんな中、耳に届いたのは、敬一と呼ばれていた男の声だった。
相変わらずの呼び方に、勝手に眉がひそまる。

うつ伏せたまま視線だけを向ければ、部屋の扉にもたれるように立っていた男はいけ好かない笑みを深くする。
どうせオレの不機嫌が愉快でたまらないんだろう。敬一は、オレが家の名前を嫌がると知って、わざと呼んでいる。

「安物ベッドの寝心地はいかが?」
「さいあく」

光のない暗い部屋のなか、歩み寄ってくる敬一に放った声はみっともなくかすれていた。
連日酷使させられ、寝起きの口渇感も合わさった結果だ。けほ、と一度咳き込んでも、違和感は十分に取り除けない。
加えて、相手は悪びれる様子もなく笑うだけだ。
その笑い声が、耳の奥をざらざらと撫でつけて通り抜けるものだから、さらに口が歪む。


なけなしの力を振り絞り、右肘をついて寝そべっていた身体を起こす。
ベッド際にたどり着いた敬也から離れるように、壁にもたれかかるようにあぐらをかいた。

久々にベッドから持ち上げた頭は、ずんと重かった。
目の前が、白に黒にと塗り潰されていく。そして、自分内側へ引きずり込むような感覚。

遠のきかけた意識を留めるために、重い頭を下げた。
そして数度、大きく肺をふくらませる。そうしていれば、奥底に引き込む力は消えていく。
同時に、幻覚の浮遊感も治まりだした。左右に揺れていた感覚が、徐々に幅を狭める。


幻覚と立ちくらみが落ち着いてクリアになった視界に映ったのは、ベットシーツの生々しい痕跡だった。まだらなシミがところどころにかすれ、血が混じる部分もある。
まだわずかに赤みを帯びている血は、まごうことなく自分のものだ。
心当たりのある左肩を押さえれば、もう血は出ていなかったものの、薄黄色の液体が手についてげんなりした。

「ほんと、いったいんだけど。血、出てるし」

噛み付いた相手はここにはいないので、代わりにオレを見下ろす兄の方に不満をぶつけた。

「うわ、あんまり汚すなよ」
「あんたの弟様に言ってくれる? 食いちぎられるかとおもった」

自分がかぶっていた薄い布団を片手で手繰り寄せ、傷口にあてる。
ざらりとした手触りが傷口に食い込んで、少し息が詰まった。

「ヨガってたくせに」
「クスリの所為だろ。ほんとだるい」

話半分に聞きながら、傷口にあてた布団の余った端を羽織るように身体へ巻きつける。
ひんやりと冷えた空気にさらされていた生地が体温をわずかに奪っていくが、こればかりは自分の体温が布団を温めるまで、我慢するしかない。
下げていた頭を再度持ち上げて壁に預け、できる限り最小限の動きで座り心地を整える。

「それにいまさらだろ」

既に十分汚れてる。
そう言外に含ませた意味は、正確に汲み取られたらしい。敬一が腰に手を当てて、ダルそうにため息をついたのが見えた。
そこにオレを非難する色があることは明らかだが、オレにだってどうしようもない。
ざまあみろと舌を出せば、目の前に立つ男からは舌打ちが返ってくる。


「思ったより平気そうだな」


不服を全面に出した顔が吐き捨てた内容に、思わず自分の片眉が跳ねる。

「何が?」

この部屋に来てからできた傷は、噛み跡やうっ血痕に留まらない。
加えて、クスリによる幻覚、吐き気、倦怠感まで抱えたこの満身創痍っぷりを見て、何が平気だと?

「もっと、いいとこのお坊ちゃんらしく怯えるかと思ったのに」

見上げた先で、敬一は子どものように口を尖らせた。
オレからすれば大概ひどい目にあっている状態だが、この男の気はまだ晴れないらしい。

「ご期待に沿えなくてどうもすみませんね。こちとら街暮らしが長いもんで」
「長いっつったって、一年や二年で本質が変わるか」

それとなく心情を誤魔化した先、敬一の返答に違和感があった。
オレの事情に関して、敬一が知ったように話すことは想定内だ。名字を呼ばれた時点で、何かしら調べられているのは確定している。

しかし今のは、事実が違う。
布団越しに傷口を押さえていた右手を下ろし、羽織っている布団を巻き込むようにして腕を組んだ。

「ふうん。そんなことまで調べたの?」

指摘せずに敬一に問えば、彼は得意げに胸を張った。

「宵明町(よいあけちょう)の世間知らずを心配するジジイがいてな。有効利用したのさ」

彼はエンターテナーを模したかのように、手のひらを天に向けて大げさに片腕を広げる。その顔は、うっすらといやしく笑う。
どうやら人の善意を悪意にすげ替えることに優越を感じるタイプらしい。上手をいったとでも思ってるんだろう。
あまり見ていて気持ちいい様でもなくて、視線を下げた。

「ジジイ、ねぇ」

もともと、オレの出身を知る人間は限られている。
敬一のように勝手に調べられたなら別だが、そもそもオレを知ったように話す人間自体、そういない。
候補は自ずと絞られる。けれど、なぜ。


「なんで宵明からこんな町にくるかねぇ」


敬一は考え込んだオレを気にすることもなく、長いため息をついた。

「生まれた街でずっと暮らせなんて法律はないじゃん」
「文化が違うだろ」
「国も言語も同じですけど」

おなじ。敬一が復唱した。
高揚した表情は消え、口が真一文字に結ばれる。
ベッドの上に座るオレを見下ろす瞳に、威圧がこもっていた。ぴり、と肌が粟立つ。

「だけど、金に困ったことはない。品行方正に生きていける」

反射的に応答しようとした口を、閉じた。
少しの間、暗い部屋の中で目を合わせたまま、両者ともが押し黙る。


随分と、極端な価値観だと思った。
宵明町は、一般的に裕福な家庭が多いとは言われている。町の外に出た自分には、それが事実であることもわかる。

しかし皆が皆、金策に苦労していないわけではない。そこにいる人間が、勝手に品行方正に育つわけでも。
水面下の努力が見えないだけで、同じ人間だ。宵明町にいるから、何の不自由もないなんてことはない。
努力がなければ、馴染めないことを知っている。

「偏見だろ」

だから、あくまで感想として、できるだけ感情を込めずに声を出した。
敬一は、顔色を変えなかった。一拍おいて、威圧は、ふ、と姿を消す。

「まあなんでもいいさ」

そうしてあっけなく、話は捨てられた。

「えぇ……。なんだったの、この会話」
「暇潰し」

なんだそれ。全身から緊張がほどける。組んだ腕の中で、知らず握りしめていた手を開いた。
てっきり宵明にかこつけて、世の中の不平不満をぶつけられるかと思ったのに。


「お前のおかげで、俺はあれの相手をしなくていいからな」


敬一が半歩分、部屋の対角線上にある扉側へと体を向け、おそらく敬也のいる方向を顎で指す。
同時に、指された先からは叫び声がした。
なんと叫んでいるのかは聞き取れない。単なる奇声とも取れる。
少なくとも、オレや敬一に対して投げかけられたものではなさそうだった。


この部屋に来てから、敬也には四六時中、まとわりつかれていた。
その中で、彼が幾度となく叫び、笑い、時に泣いている様を見た。どれもが突発的な衝動に任せたもので、常軌を逸する有様であることも見ていた。

彼にはもう、ろくに言葉が通じない。
オレが何を言おうが、敬也は自分の頭にあるストーリーにはめ込んで解釈をしていく。
大体は、異様な思い込みに塗れた思い出を押し付けられるか、過剰に悲観した故の暴力性にさらされるかで終わっていく。


「もうまともじゃない」


蔑むような目で、ただただ冷ややかに敬也が叫んでいる方向を見ていた。そこに親愛の温度はない。
これまで見てきた通り、敬一が彼を止めに動く様子はなかった。

組んでいた腕を外し、あぐらの間に両手をだらりと落とす。
羽織った布団から少しだけ暖かい空気が逃げた。

「あんたは弟を止めないの」

彼は、異常行動を遠巻きにしており、敬也がクスリを打つ行為も止めない。
今まで見た態度や言動から、それらを好ましく感じていないのは明らかだ。
好ましくないと感じているなら、伝えればいいのにと純粋に思った。いまの敬也に期待はできないかもしれないが、もし、それ以前であったなら……。

敬一は黙ったまま、視線だけでオレを一瞥した。
敬也へ向けられていた冷ややかな眼差しが今度はオレを射抜き、思わず固い唾を呑む。

しかしそれは数秒のことで、彼はおもむろに掃き出し窓の方へ移動する。
ベッドのサイドチェストに散らばった書類が壁際に寄せられ、軽く腰掛けられるほどのスペースが作られる。


「お前にも兄貴がいるんだっけ?」


サイドチェストにもたれかかった敬一は、オレの発言などなかったかのように、気軽な口調で話題を逸らした。

しかし持ち出された話の対象に、自分の眉間に皺が寄ったのがわかった。
その反応をどう受けとったのか、敬一が突然笑いだす。

「なんだ、お前も疎まれてるのか。お似合いじゃないか」

余計な言葉を吐く敬一を睨めつけたが、そんなことで怯む相手でもない。
人の不快感に悦を見出す彼を喜ばせただけだった。

「一緒にしないでもらえます?」
「同族嫌悪か?」

見ているだけで神経を逆撫でられるような顔から、目をそらす。
ゆるやかに速度を上げようとする鼓動を、静かにいさめた。
ここで怒ったところで、好転はしない。じわりとした熱がこもりだした拳は、左手で覆った。

「オレはクスリに手を出さないし、あんなに凶暴じゃない」
「あいつはお前以上にそうだったさ。元は根性なしだ。冒険しやしねェ」

感情を抑え込んだ言葉に対して、敬一は茶化したトーンを消した。

根性なし。
敬也の性格をそう称することに、あまり意外性はない。オレの第一印象としても、敬也に粗野な印象はなかった。
おどおどした気弱さはないものの、場の空気に流されそうな日和見人間タイプ。それが、オレが持つ敬也の印象だ。
だから、そうそう不味いことにはならないと踏んで、声をかけた。ここに関しては、まあ、読み間違ったのだけれど。

リスクの高いものに対して、積極的に手を出す方ではない。
なのに、敬也はあの頃からクスリは使っていた。

ちらりと、はす向いに立つ敬一を盗み見れば、腕を組んで伏し目がちに何かを考えている姿があった。
この男から独特な匂いを嗅ぎ取ったことはないが、オレにクスリを打つ動作は手慣れていたように思う。
……近しい人からの言葉が、敷居を低くした?

「へえ。身内にそそのかされるとは、怖い世の中だなあ」
「あいつを化け物にしたのはお前だよ」

責任転嫁もはなはだしいと、ただの言いがかりだと、ばっさり切り捨てようと思っていた。
しかし予想に反して、敬一は眉根を寄せてオレを見た。そこに冗談めいたものは感じない。
反論のために開いたはずの口を、思わず閉じた。

「敬也が、あそこまでのめり込んだのは初めてだ」
「嘘つくなよ。のめり込ませる言葉をふきこんだのはあんたじゃ、」
「ああ、たしかに好意を騙(かた)りはしたさ! でも……」

頭にあった仮説をぶつければ、動揺まじりの声が肯定する。けれど、妙に歯切れが悪い。

彼の目は、いまは床をなぞっていた。
何を考えているのか、左右にせわしなく動いている。

「でもそれだって、執着があったから使っただけだ。それだけで、あそこまでなるかよ」

敬一の右手が、そろそろと口を覆う。小刻みに震える様が見えた。
いつのまにか大きくふんぞり返るほどの威勢は失せ、背はゆるく丸まっている。
今まで見てきた高圧さからは、大きくかけ離れた姿がそこにあった。


「お前、何をしたんだ?」


ひたりと、切れ長の目が、オレに焦点を合わせた。
まるで異質なものを見るかのように。

答えは持っていなかった。
オレは何もしていない。衣食住の代わりに、敬也にとって都合よく振る舞っただけだ。

しばらく、敬一は怪訝そうにオレを眺めていた。
彼の口が数度、小さく開閉を繰り返すのを彼の指の隙間から見る。視界の隅で、彼の腹部に残った片手が服を握りしめるのも。
ギ、と、敬一に体重を預けられたサイドチェストがきしむ音が部屋に響いた。


不意に、ばさり、とサイドチェストに積み重ねられていた書類が落ちた。
それは隣り合っていたカーテンを揺らし、鬱屈した部屋にはらはらと光を入れて目がくらんだ。

「まあ、いい。金ができればそれでいいんだ」

誰かに言い聞かせるようにそう呟き、敬一はかぶりを振った。
サイドチェストから離れ、落ちた書類を乱暴に足で隅に固めていく。


その一方で、また金だと、頭に引っかかる。
敬一の発言には、金銭にまつわるものが多々出てくる。
宵明町に関する思い込みから考えても、おそらくコンプレックスがあるんだろう。

けれど、こうも金を欲しがる理由は何故だろうか。
過去のことは知りようがないが、いまの感じからそこまで金が必要な事情が見えない。

クスリに溺れれば、金は際限なく必要だとは聞く。
敬也はまごうことなく依存状態で、当てはまるかもしれない。
でもそれなら、金の工面よりもクスリの使用を止める方に尽力することが自然に思う。

どこか、まだ見えていないものがある。

「そんなに金に困ってんの?」
「そうじゃなきゃこんな綱渡り、俺だってしねぇよ」

あらかた隅にまとめ終わったんだろう。敬一は元の位置に戻り、今度は乱暴にサイドチェストに腰掛ける。
まだ上に残っていた書類の潰れる音がしたが、それに構う様子もなく、床についた彼の片ひざが細かく揺れだす。
どこともなく向けられた強い眼差しからしても、よっぽど深刻な状況らしい。

「こんな予定じゃなかった。いきなりどこも切りやがるし、取り立ても急に……あそこに行ってから……」
「あそこ?」

ぶつぶつと萎んでいく愚痴の中に、気になる言葉を見つけて問い返す。


「廃人の集落だよ。墓場町だっけ?」


敬一はおぼろげに、非公式な町の名前を落とした。
穴場だって聞いたのに、ろくに売れやしない。そう、ぼやく声が続いた。


ああそうか。頭の中で点と点がつながる。
町長の言っていたクスリの売人とは、こいつのことだ。
これで、接点も見えた。

張り詰めていた気が抜けて、壁にもたれていた体がずり下がる。
首の角度がややつらい状態になったが、再度体を持ち上げる力も出ず、そのままにする。
改めて敬一を見やれば、まだぶつくさと呟いているようだった。

「五体満足なだけ、マシなんじゃない?」

延々とぼやかれ続けるのも嫌で、口を挟む。
するとすぐさま横目で睨まれ、これみよがしに大きなため息を吐かれた。

「金がなきゃ、どうにもならんだろ」

そうは思わない。オレは、町長の殺気立った表情を見ている。
あの怒り具合からして、いまの程度で済んでいるならきっと良い方だろう。
まあ、本当に制裁が終わってれば、の話だけど。

「お前は金になってりゃいいんだ。それで終わる」

オレの発言をまともに捉えることなく、敬一は切り捨てる。
それで万事うまくいくと、思い込みたいかのような口ぶりだった。


だから、今度はオレが、大げさにため息をついた。
気力を奮い立たせて、ベッドに手をついて壁から背を離す。
ぐらつきそうな体を支えるように、左手を腰の横について上体を支える。右手は羽織った布団の合わせ目を掴み、それを隠した。
ここからは、弱り切った印象はなるべく与えない方がいい。


「それ、本気で言ってる?」


あえて口端を吊り上げ、小馬鹿にした表情で、煽り立てるための言葉を舌に乗せた。
すると狙い通り、男の片眉がぴくりと跳ねた。


違法薬物によって鈍っていた思考が、今日は比較的まともに動く。
それが幸か不幸かはわからないが、この状況を抜け出すために頭を働かせられることには変わりない。

オレがこの状況を抜け出すための方法は、いま思いつくだけで二つ。
敬也を丸め込んでオレを逃げさせるか、オレを殺させて遺体を捨てさせるかだ。
これまでの感じからして、前者は諦めた。敬也はコントロールしきれないし、敬一もやや警戒している様子がある。
見込みがあるのは、後者。
敬一が調べた内容に、オレの蘇生事情まで含まれているとは思えない。
ここまでの話から、かなり切羽詰まっている状況であることもわかった。
なら、オレに事態を打開するほどの利用価値がないと知らせ、うまく転ばせられれば。


「残念だけどさあ、この誘拐は成り立たないよ」


子どもをからかうような、軽い口調を作る。口角が下がらないように、頬に力を入れた。
敬一の神経を逆撫でることに集中して、表情と声色を作り出す。

「なんだと」
「だっていまは死なないじゃん。死んでも蘇生できる。たとえ誘拐されて殺されようが、個人は成り立つ」

ただし、これは死体があれば、の話だ。でも、そんな都合の悪い部分は話さない。
些細なことに気づかせないように、頭に血を上らせなければならない。

「あんたが調べたとおり、宵明はたしかに金目的の誘拐が多い。大概、子どものね。
 だって家柄のある血筋は跡継ぎを求める。そのためには子どもをつくれる身体でなきゃいけない。
 だから取引に応じるんだ」

相手も言わんとする先に行き当たったらしい。
前のめりな姿勢に変わり、人一人殺して見せそうなほどな凄みを利かせてくる。

けれど、まだ足りない。
既に彼が理解した失態をえぐるように、再び口を開く。

「オレはもう死んだ身体だ。子どもはできない。
 家は取引に応じないよ。調べが足んないんじゃない?」

オレが声を発するたびに、敬一の顔が赤くなり、鼻の穴が膨らむ。

「ましてや長男でもないのに。馬鹿じゃねえの」

敬一はついに、肩を怒らせてオレの前に立った。
仁王立ちする男に怯みそうな心を隠し、最後の締めとして、短く鼻で笑ってみせる。


「あんたらはリスクだけを背負ったんだ。ざまあみろ」


言い終わるか否か、左の頬を殴られた。
勢いは止まらずに、壁に右の後頭部を強かに打って、ベッドにそのまま倒れ込む。
ぶつけた箇所がガンガンとうずき、強く脈動するのを感じる。口の中には鉄臭い味が広がった。

どうやら上手く血は上ったらしい。
痛みに合わせて焦点がブレる視界でも、肩で息をする敬一の姿がわかった。オレを殴った右手はまだぶるぶると震えている。

ここで更に追撃を落とせればよかったが、ここまで虚勢を張った体に力はもう残っていなかった。
煽る言葉も浮かばないし、かろうじて口を開けても舌を動かせない。

「敬也! こいつ黙らせとけ!!」

乱暴に歩き去る足音と、怒声が耳に残った。
残念ながら、そう上手くはいかないらしい。

それでも、敬一に対して多少の鬱憤晴らしはできたから、今はそれでいい。後のことは、また後で考えよう。




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