轍 > じゅうにほめ


遠くで、輪郭をもたない音が鳴っている。
何の音かは判断できない。ただ一定の間隔で響いていることだけがわかる。

気づけば、やけに大きな空間に自分一人が立っていた。
周りは薄暗く、隅々までは見えない。しかし不思議と、とても大きな空洞であることが感覚的にわかった。まるで自分の大きさを米粒ほどに錯覚するほどに、ここは大きい。

この空洞はどうやら不定形のようで、ぐにゃりぐにゃりと絶え間なく動いていた。
壁らしき側面は言い表せない色が混ざり合い、濁り合って、渦を巻いていた。
時折、そこを細かい稲妻のような光が走る。光が走った後は淀んだ色が澄んだように輝くが、少し経てば周りの混沌に染められていく。


不思議と、うす気味悪いとは思わなかった。
だだっ広いこの奇妙な空間に、恐怖感はない。
じんわりと温かい感覚が体を包んでいる。疲れ切った体の重さも感じない。
カーテンを締め切り、外界から隔離されたあの部屋よりも、ここはずっと心地いい。

苛(さいな)まれた記憶を思い出せば、空洞の色がじわりと濃く変化する。
甘い匂いと自我をなくす恐怖が、膜一枚隔てた先のような、遠い感覚として蘇ってくる。
すると、連動するかのように濁りがまた深まった。稲妻は依然絶え間なく降り注いでいるが、混濁する速度は先程より明らかに早い。


狂ったのか。
自分の中にストンと落ちた思考があった。
常に流動的に動き続ける空間なんて、現実にはありえない。
何度も打たれたクスリによって、普通では聞こえない音を聞き、見えないものを見た。
とうとう、全部がだめになった?

自分の感情を、うまく見いだせなかった。
こうなる前、クスリによって自分で自分を制御できなくなることが怖かった。
でもいざそうなった今、ここにいる間は、何にもならなくていいと気づいた。この空洞では、何にもなりようがない。


ぽっかり広がった空間を見上げる。
依然として、そこには色が蠢き、光が流れる。心なしか、全体の濁りが和らいでいる気がする。
鮮やかな色が、あちこちで繊細に瞬きだす。まるで絵画で見た星雲のように、鮮やかに、壮大に、色が力を放っていく。

そして、自分に向かって一筋、ひときわ大きな光が落ちた。


「……ぅ、」


重い瞼を持ち上げれば、強い光が降り注いだ。
あまりに眩しくて、開きかけた目をすぐに閉じる。そうして首をすくめた折に体が軋み、思わず息が詰まった。

詰まった息を吐く過程で徐々に重くなる頭を、柔らかな枕が支えた。
珍しい。今まではあっても精々タオルを折り畳んで高さを出した程度だったのに。

息を吐ききって呼吸を戻した後は、数回、瞬きを繰り返して徐々に光に目を慣らしていく。
真正面の、ことさら白い光はおそらく照明だ。仰向けに寝転んでいることもあって、真っ直ぐに光が降り注ぐ。
次第に慣れてくれば、そこまで強い光ではない。暖色混じりな昼白色の光だと、ぼやけた視界で認識できた。


また、うまくピントが合わせられなくなっている。視点が一点に定められない。
視界は二重三重にブレて、さらに霞がかる。これでは、白の濃淡しかわからない。
いつも通りなら、時間が経てば多少見えるようになる。どうせしばらくはろくに動けないのだから、なんとかなるだろう。

ただ、おかしいのは視界だけではなかった。
全身も何かにへばりつかれているかのように重い。
地球の重力が何倍にも増したかのような錯覚さえ起こす。叶うなら、何もしたくない。

たぶん、クスリ切れなんだろう。
すぐに当たりをつけられる頭を、内心で嘲(あざけ)り笑う。
たった数日で、随分とオレの体はクスリに慣れた。それが切れてしまえば、こうして何もできなくなるほどに。反吐が出る。

まあ、禁断症状フルコースじゃないだけ、今日はまだマシだ。
そう割り切って、胸元に巣食う不快感を意識の外へ追いやる。

今日はまだ、耳鳴りがない。
夢の中、遠くで聞こえていた音は、覚醒とともに小さな電子音に変わって耳に届いていた。ピ、ピ、と触りのいい音がクリアに聞こえる。

意識も保てている方だろう。
どろどろに溶けて崩れてしまっているときは、記憶にさえ残っていないこともある。


はっきりとした明るさの部屋。
少し匂いを確かめても、鬱陶しいほどに満ちていた甘い匂いがしない。とても、息がしやすかった。
自分にかかっている布団も、随分と上等なものになっている。寝ている間か、胸元の布団を押さえるように置いていた左手からは、空気を十分に含んだ布団の厚みを感じる。

明らかに、ここ数日過ごした環境とは違っていた。
気絶している間に、別の場所へと移動させられたのだろうか。
これまでと全く違う環境からして、ホテルかなにかに移されたのか……?


考えていると、足元の方からことりと音がした。思わず、肩が跳ねる。
スライドするような音が続き、最後はかたりと噛み合う音で終わった。
やや左へと頭を傾けてそちらを伺えば、白い世界の中に黒っぽい塊が見えた。

「けぇ、や……?」

あてずっぽうに呼んだものの、きちんと言葉になったかはわからない。
思った以上に、口も舌も喉も、うまく動かなかった。

それでも、黒い人影はオレの方を向いたようだった。暗い配色のなか、肌色の面積が増える。
そしてそのまま、返事をすることもなく、無言でそれはオレへ近づいてくる。

しゅ、シュ。
相手の動きに合わせてだろうか、衣擦れの音が聞こえた。
少し張りのある布地同士が擦れるような音だ。ジャージとはまた違う。


音の正体に思考を巡らす間に、暗い影がオレの左に立った。
こちらを見下ろす顔はそれなりに距離があって、まだどちらとも判断しきれない。

布団に這わせた手が震えた。奥歯をゆるく噛み合わす。
いまだ焦点を合わせきれない状態でも、男の動向に目を光らせた。

すい、と。複雑な形の肌色が、低い位置からオレに向かって伸びる。
手だ。
そう気づいた瞬間、全身が強張った。
肩をすくめ、力いっぱいに手を握り、目をつむる。

ばくばくと、心音が体を震わせる。
固く閉じた目の奥で、平衡感覚が狂っていく。全身が怯えに支配される。
強制的に引き出されるような、過ぎた快楽は苦痛なのだと、散々思い知らされた結果だった。


取り繕う気力は、限界に近かった。
理性が残っている時間でさえ、みっともなく泣き叫びたくなっていた。
こうなってしまった今、自ら抜け出す手立てはもうない。

頼みの綱を、自分以外に預けることは一層、怖い。ああ、けれど、もしかしたら、もう。
喉が締め付けられるような感覚に襲われる。苦しくて、顔がゆがむ。


「双希」


握りしめた左手に、相手の手が触れた。
心臓が一拍、脈を飛ばす。

しかし予想に反して、その触れ方は優しかった。
荒々しい手付きなどなく、そっと、温かく、オレの手を包んだ。まるでなだめるように。
敬也とも、ましてや敬一とも、全く違う触れられ方だった。


固く閉じていた目を、そろそろと開く。
わずかに安定し始めた視界に、しなやかな指がオレの手をやんわり覆う様が映った。
指先には形のいい爪が並んでいる。不潔に伸びっぱなしてもいなければ、噛みちぎられてガタガタと歪んでもいない。

「双希」

再び、深く落ち着いた低音が、オレの名前を呼んだ。
感情にまみれず、強弱を抑えられたその声に、恐る恐る視線を持ち上げる。


「……さや、ちゃん?」


あっけにとられながら彼の名を呼んだ声は、不格好にかすれてしまう。
少しかがんだ姿勢で、オレの手を握っていたのは、鞘だった。

「な、んで、……」

なんで鞘がいるのか。ここはどこなのか。
あの二人はどこにいるのか。オレはいま、どうなっているのか。
状況がわからず、疑問同士がせめぎ合う。
目の前の男に一つずつ確認しようと口を開くけど、何からどう問えばいいのかまとまらず、結局閉じる、という動作を繰り返してしまう。

鞘は何も言わずに、指の背でオレの右の目尻を撫でた。
彼の指に沿って涙痕(るいこん)が剥がれ、まなじりの薄い皮膚をこする。滑らせる程度の軽い力で、痛くはなかった。


「救助を要請して、保護されたのが三日前になる。
 それからずっと眠ったままだった」


鞘は乗りだしていた姿勢を戻し、椅子か何かに腰掛けたようだった。
横たわった状態からでも見やすい高さに、顔がある。

一度、鞘から視線を外し、再び天井を眺める。
彼が端的に説明した言葉を、ゆっくりと反芻する。

救助と保護。
鞘が使った言葉からして、ここにあの二人はいない。
その事実を噛み締めて、深く息をついた。頭の下に敷かれていた柔らかな枕と布団に、素直に体を沈み込ませる。


今の状況からして、二人に追い回されながら打ったメールは鞘に届いていたらしい。
たしか、大黒を紹介する際に、彼の連絡先を忘れないよう一番上に留め置いたままだった気がする。そこから、拾ったんだろう。

選ぶ余裕がなかったとはいえ、たった数回会った程度の相手に随分と迷惑をかけてしまった。
左斜めへと視線を動かせば、彼は静かにオレを見ている。
無表情に近いそれから心情は読み取れず、思わずオレのほうが眉間にシワが寄せて苦笑してしまう。
この人は何も関係ないのに、助けてくれた。そう思うと、胸のあたりがむず痒くなった。


改めて礼を伝えるためにも、体を起こそうと右腕を動かす。が、なにかを引っ張る感覚があった。
違和感のあった右側へと頭を傾ければ、上に透明な袋が吊り下がった棒とそこから伸びた半透明の管。
管を辿るように目線を降ろしていくと、右手首に繋がっているようだった。

手首周辺には、その管のほかにも色とりどりの線が伸びている。
手のひらを上に向けるようひっくり返せば、べたべたと白いもので管や線が貼り付けられていた。
冷たい何かが、腕を伝って、入ってきている?


「点滴で、体内の薬物排出を進めている」


怯えたオレに気づいたのだろう。
すかさず鞘が害はないと説明するのを、片耳で聞いた。

「そう」

それを気遣いとわかっていても、平坦な声しか出なかった。
管がつながる手首から視線が反らせない。
点滴が注ぎ込まれる感覚はないのに、そこに得体のしれない液体が注入される感触と冷たさが重なる。

あれは、まだオレの体に染み込んでいる。
仮に薬物が完全に抜けきったとしても、依存状態からの回復はまた別の話だ。


「やだなあ」


独り言は、ほとんど吐息だった。
鞘がこちらへと体を傾けたのが端に見えたが、きっと聞き取れてはいないだろう。それほどに、声は小さかったはずだ。

仕切り直して、体を起こすために胸元にあった左手を腰元まで下ろした。
しかし、ろくに力の入らない手では中途半端にシーツをかき乱すだけで、うまく体は持ち上がらない。
そこを。意図を汲んだ鞘がオレの背中に右手を差し込み、起き上がろうとした上半身を支えた。
鞘の体が近づいたとき、ほのかに爽やかな匂いが鼻をかすめる。
強く主張しない、透き通るような香りにやけに落ち着いてしまって、結局、ほとんど彼の力で引き上げてもらった。

そうしてやっと起き上がった体だったが、起き上がった途端、あちこちで痛みが弾けた。
油の切れた機械のように、腕、肩、背中、そこらかしこが軋みを上げ、時折引きつる。

「ッ……」

耐えるように、膝を曲げ、背中を丸めた。
目を閉じて、布団に顔を押し付ける。痛みをいなす中で、自然と肩に力が入る。

「痛いのか」

左にずらして見えたのは、眉根を下げた顔だった。丸まった背中に、手が添えられる。
心配させないよう、痛みを無視して無理矢理に口角を上げてみせるが、鞘は眉間のシワを刻んだだけだった。


「看護師を、」


そういって立ち上がろうとした鞘の着物を、咄嗟に掴んだ。
扉に向かっていた鞘の目が、オレに戻る。

「いい」

鞘は中腰になりながら不思議そうに見返すから、それに小さく首を振る。
医者を呼ぶ必要はない。もっといい方法を、知っている。

「すこしだけ、待ってくれれば、いい」

言いながら、着物を掴む手に力を込めた。張りのある布地にシワが寄る。
鞘は困ったように眉根を寄せながらオレと扉を交互に数度見つめた後、改めて椅子に座り直してくれた。


元の距離感に戻って、着物から手を離す。
振り絞っていた力が抜け、すとんと、左手は糸が切れたように布団に落ちた。
ついでのように頭の重さがぐっとのしかかって、思わず首が下がる。
手を伸ばしただけなのに息が少し上がり、呼吸が乱れた。荒くなった呼吸に合わせて、肩が上がる。

鞘の手が再び、やんわりとオレの背に触れる。
支えるように触れた手のひらの温度が、じんわりと伝ってくる。
少しだけ、そこに丸まった背を預けた。

「具合を見てもらったほうがいい」
「いらない」
「双希」

咎めるように名前を呼ばれるが、いらないものはいらない。
うつむいたまま、ただただ口で呼吸する。
加えて何かを言う気はなかった。


鞘に支えられながら、何度か肺を大きく膨らませ、吐き出す。
呼吸が落ち着いた頃合いで、彼の体を離すように押した。
さほど力は入っていなかっただろうが、察しのいい彼は離れて姿勢を正す。
その際に、枕を腰の後ろまで移動してくれた。直接支えられるほどではないにしても、おかげで体勢を保ちやすくなる。

「大丈夫だよ」
「そうは見えない」

間髪入れずに返ったのは、落ち着いたトーンながらもはっきりとした否定だ。それを、口だけで笑う。

現状は、そうだろう。異常があるのは事実だ。
完全に覚醒してから、おおよそ視界は安定したものの、全身を覆うダルさも軋む痛みもなくならない。
自らの内面を意識すれば、じりじりと頭の隅にくすぶっているものがある。ひどい口渇感がある。
足りなかった。欲しい。足りない。おかしい、おかしくなる。おかしい。

クスリがあれば、なんにもかんがえなくていいのに。
頭の中に落ちた囁きは、自分の声によく似ていた。


「ナイフ、ある?」


隣に座る鞘に向かって、顔を上げた。
突飛な言葉に、黒い目が見開かれる。

「ここには、」
「ハサミは?」
「ハサミなら……」

畳み掛けるような問いに応えてくれるものの、歯切れは悪い。
訝しんだ目がオレに向いている。思惑を知ろうと、探っている。

「取って」
「どう、」
「だいじょうぶ。取って」

目を逸らさずに、畳み掛けた。
そうすると彼の視線はオレから外れて、左右を行き来する。
明らかに戸惑った様子だが、引くつもりはない。……もう、引けなかった。

そうして一方的に見つめていれば、観念したように息が吐き出された。
口を真一文字に引き結びながら立ち上がった彼は、床頭台(しょうとうだい)へ向き直る。動きに合わせて、質のいい布地が擦れ合う音がした。


鞘は床頭台の一番上の引き出しから、黒い持ち手のハサミを取り出す。
真新げなハサミを見下ろした鞘の面持ちは晴れない。


「さやちゃん」


未だ躊躇している鞘に向かって、催促するように左の手のひらを上に向ける。
本当は、はさみを持つ彼の近くまで持ち上げられたら良かったが、残りの体力を考えると温存せざるを得なかった。

鞘は椅子に座り直してから、刃先を持ち、黒い取っ手側をオレの左手に置いた。
受け取ったハサミを持ち上げ、点滴の刺さった右手に持ち替える。
空いた左手を次は掛け布団に伸ばし、持ち上げる。
その一方で、右手は手にしたハサミの刃を大きく開いた。
鋭く、欠けのない表面が冷たく照明を反射する。

そうして片刃のナイフと化したそれを、首にあてた。


鞘が目を見開き、すぐさま右手を伸ばしたのが見えた。
けれどその手が届くよりも先に、オレの左手が首元を布団で覆いきる。


「これが早いんだ」


歯を食いしばり、全身に残ったすべての力を振り絞って右手を押し引いた。

金属の冷たさが走る。痛烈な痛みが瞬く。
手を滑り落ちたハサミは、音を立てて遠のいていく。
喉の奥が引きつった。全身の毛穴から汗が吹き出る。キィー、と耳鳴りが走りだす。
冷たかったはずの傷口が、一気に熱を孕んだ。燃えるように、熱い。


「双希ッ!」


冷静な彼に似合わないほどの、動揺に塗れた大声だった。
閉じかけていた目を開けば、スローモーションで部屋が右に傾いでいる。
押し引いた勢いで、バランスが崩れたんだ。

強引に首元が引かれた。
中途半端に開いていた口が引かれる勢いで閉じ、勢い余って噛み合った歯が硬い音を立てる。
首元を押さえていた左手は、その方向転換についていけずに離れる。赤い血の染み込んだ布団が見えた。


視界が目まぐるしく動いて、いつの間にか紺色が一面にあった。
片腕で抱き込まれた体勢で、おそらく彼の左手が後頭部を支えていた。

かききった首筋が熱い。
心臓がそこに移ったかのように、大きく振動している。
同時に、強い力が傷口を圧迫していた。痛いくらいに、押し付けられている。
誰と言わずとも、鞘しかいない。彼には応急処置の知識があるんだろう。第一処置としては適切だ。

ああ、悪いことしたなあ。
今更に、思い至った。

「だいじょ、ぶ」
「何が!」

ようよう声を出すものの、上ずりかけた声で鞘が叫ぶ。
必死に止血する彼の手に、さらに力がこもったのがわかる。
彼は、助けようとしていた。こんなオレでも。

でも、いま、それは困る。
違法薬物に侵された体なんか、まっぴらごめんだ。こんな状態で、うまくいくわけがない。

「さや、ちゃ、……」

左手で、必死に首筋を圧迫する腕にふれる。彼の体が強張り、押し付ける力が止まる。
そのまま着物越しに、爪を立てた。しかし血の足りない手は痺れている。もはや、ただ押し込むだけになっているかもしれない。


「オレは、死ねない、から」


ついに力尽きて、再び手は布団の上に転がった。
すぅ、と血が下がる。意識が遠のく。
依然、かききった首の痛みと熱は感じているが、その後ろ側で何もかもが溶けていく。

これでいい。
体の奥底に、意識が落ち込んでいく。
次に目が覚めたときには、何になるんだろうか。




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