01 - 02


がちゃり、と器用に片手で鍵が開けられた扉が閉まって、音を立てる。
フィリスは靴を適当に脱ぎ終えて、俺が脱ぐのを待つように背を向けたまま止まった。
彼の親切心は、今のこの状況でも使われるのかと、何だかおかしく思えて少量の息を吐き出す。

掴まれた腕が、何分ぶりかに離された。
じんわりその部分だけ妙に熱を持っているのを、一番先に体が感じる。
自分と彼はどちらも体温が低い方だから変な感じで、少しその場所を見つめ続ける。


そして、手が掴まれる。

今度は手と腕ではなく、手と手。
もう繋ぐ必要もないはずであるのにも関わらず。

「フィリス?」
「なに?」

機嫌が直ったのか、何となく久しぶりに彼の顔がこっちを見る。
そこには、大していつもと変わらない、きょとんとした顔。

「手」
「ここまで繋いで来たんだから、一緒だろう?」

そう言いながらも照れくさそうに、彼は笑った。
たまに彼の行動は、いまいちよくわからない。
言い分が強引なのはたまにあることだから、慣れているが。

ただどうして、そこで照れを感じたように笑うかがわからない。
今まで往来を腕を引っ張りながら歩いている時は、何でもなさそうであったのに。

改めて繋ぐという行為になのか。
それとも部屋の中で繋ぐということなのか。
どれも違うような気がした。


「よくわからない」


再び、手をつないでリビングに向かって歩き出す。
そのことにまた息を吐き出しながら、素直に感想を述べた。

彼は、そっか、と残念そうに呟いて、彼は歩きながら鼻に指を軽く当てる。
視線は何処かにずれて、それは何かを考えている時のフィリスの癖。


何を考えているのかわからない。

ただ、そう真剣な顔もしていなさそうだからきっと何でもないことだろう。
深刻だったり真面目なことならば、この人はその時だけ妙に顔に出して考えるから。


ある程度のポーカーフェイスは、必要だと知っている。
それは裏側に入った頃から言われて来たことで、恐らくこちらの常識だろう物事。

顔に出てしまえば自分が苦しむことになる。
なるだけ何も悟らせないように、何も気付かせないように。
そうして理由だけは教えられ、でも押し殺す方法は誰にも教えられなかった。


教えられるのが異常だったのだと、今は納得している。
理由さえ教えられただけでも、今からすれば感謝すべきものに思えた。

この世界は、自分一人で生きなくてはいけない。
方法を見つけることから、全てを自力でする必要がある世界。
状況が変われば敵になるかもしれない相手に、誰もそこまでの慈悲はかけないだろう。


そうして作られた、心情を隠す方法。
支部に来て完全に出来るようになった自分は、きっと遅い方だ。
彼はきっと初めから見せなかったと思い出そうとして、思考を止める。

もうすぐリビングに入ってくつろぐだろうに、こんな思考は嫌だった。
結局、外食がどうなったのかはわからないけれど、どっちにしてもくつろぐことを決意。

落ち着いた気持ちは、正直に言うとダレている。
無理矢理にでも彼が外食に誘うなら寝たフリでもしよう、とまで考える頭。


それにしても。


「いつまで繋ぐんだ」


リビングにつくと同時に、手は離れるものと思っていた。
なのに、扉を開いて、電気を付けて、ソファに座ってテレビをつける。
その間、ずっと彼の左手に右手は握られっぱなし、離れる様子はまたどこかへ行ってしまっている。

今、こうやって遠回しに離すように言ってみても、そうだね、と流すだけ。
諦めの境地にでも立っている気分だった、彼はどうする気もないらしい。


いつも通りのようで、違和感のあるフィリス。
曖昧な区別がつき辛い彼の感情は、扱いにくかった。
きっとそれは、年上であることからだけではないのだろう。

それでも、こんなにべたべたするような人間だったかと思う。
第一印象は置いておくとしても、彼に対しては少し、淡白なイメージを持っていた。
けれど今ではその印象も薄れ、こうして彼によって触れられることがしばしばある。


今日は、いつもより特別だと感じるけれど。


「そんなに祝いたいのか?」


口からするりと出た無機質な疑問、思考の一部のつもりの言葉。
それなのに彼の手はぴくりと震え、やけにしんとした空気を肌が感じる。

「!」

すぐに言ってしまった口を、自分の左手で塞いだ。


そんなに祝いたいのか。

自分の言った言葉が頭に一度繰り返す。
自分から避けた話題のもの、自分から封じ込んだ部分だったのに。
言うつもりなんて毛頭なかった言葉と思考、口から漏れた独り言。


音になった声はきっと彼にまで届いている。
もう過去の迂闊だった自分を呪うしか出来ない。

自分が口を滑らせて始めさせてしまったことだけれど、触れずに済ませて欲しい。
そんな自分に取って最も都合の良い考えが、願望が、心の中に浮かぶ。

けれど彼はそこまで甘くないと知っていた。
今回、逆の立場にいるから尚更、フィリスは。


「そうだよ」


願いは通らずに、部屋の冷たさに落下した。
暖房がつけられて、テレビからは暖かな談笑があるのに、冷たい部屋。
さっきまでは暑いくらいだった手でさえも冷たく冷たく、俺は冷えた。

「白藍が嫌なのは知ってる。でもオレは、」

中途半端に切られた言葉は、言わずにわかるからなのだろう。
優しく包むようだった彼の手の力は、今は力強く右手を握る。
テレビの雑音はぷつりと消える、彼の逆の手に持たれたリモコンによって。


作り出された静けさ。
いつかの日を思い出す。
彼が昔を懐かしんだ日。

嫌だ。
つぶやきは空気にしかならない。


目線は自然に下へ下へと落ちた。
太ももに置かれ、項垂れた俺の片方の手。
視線が下がる間際に見たのは、消えたテレビに反射した彼の顔。

ああ、と痛み出した心臓に、目を閉じる。
ずきずきずきり、針が無数に心臓へと突き刺さる痛み。
彼は覚悟なんて、とうにしていたのかもしれなかった。


「俺は、違う」


出来ていないのは俺だけに違いなかった。
受け入れない覚悟だけしか、するつもりもなかったのだけれど。

殺してしまえば解釈は自由になる、だからなくした。
初めから覚悟なんていらないように、これだけは仕組んだのだ。
どうでもいいと思っていたのは事実だった、けれどどうせ自分の気持ちだけならば。


「今日は何の日でもない」


突き放すように、強気な彼に負けないくらいに意志を込めた。
知らぬうちに、握られた手と閉じた目に意志と同じように力がこもる。
俺は関係のない位置なのだ、フィリスの言うことは俺に存在しない事柄。

体を廻り出した熱は、恐らく暖房の所為ではない。


卑怯だと自分でも思える。
それでいい、卑怯でも正直でも、一番保たなければいけないのは自分。
生きている限り、生かされている限りは、自分で身を守らなければいけない。

例え、それにフィリスが納得を示さなくとも。
彼と俺との間には溝がある、その一部分だと割り切る。

価値観など一人一人違う。
今の俺にしても、彼の主張する今日にしても、同じこと。


「俺には関係無い」


何か一つの物事を、喜ぶか悲しむか、望むか拒むか、それは自由だろう?
そんな弱々しい思考の問いかけが反映されて、言い切った否定の声も弱い。

不意にじわりと胸に染み込んだのは、また遠い遠い記憶。
先を何も知らなかった頃、傍に唯一の誰かがいた頃、幼い頃。
何かに気付いても何も言わない、祝われることが嬉しいこと、笑う。


それは俺じゃない。

間違うなと釘を刺しに出てきた、警戒心。
開いた目に入り込んだ手は、あの頃とは違う。
戻ることは許されない、裏切りは許されない。
失った昔を恋うことなんてもう俺には許されていない。

殺した時に、決まっただろう。

強制的ではあった終わりだけれど、了承したのは自分。
未練など残さないように殺した、とてもあっけなく。
元より未練などあったのか、わからなかったけれど。


「それでも、」


じとりと、上がった体温の所為で握った手はどちらともなくうっすら汗ばむ。
いつになっても離されない手は、ここまで否定した事実のようだった。

だからなのだろうか、本当に彼の声がたまらなく怖い。
握って固定された手は、少しでも力を緩めれば、震え出しそうな程に。

殺される恐怖だとか、何処から仕掛けられる恐怖だとかとは違っていた。
でも恐らく、薄暗い部屋への恐怖は、今のものによく似ている。

「オレは、」
「言うな!」

開いた目を再度閉じる、拒絶の形を取った。
続きなんて聞かずとも頭に浮かぶ、聞きたくない。
聞きたくない、聞きたくない、どうして聞かなくちゃいけない。

もうこれ以上は無駄なのだ、俺はそれとは全くの無関係なのだから。
さっきの言葉はただの勘違い、俺の暗示の弱まりに過ぎない、もう無関係な俺だ。


「オレは違わないって思うんだよ」


それでも止まらない声。
耳を塞ごうと手を動かす、両手を強引にでも耳に縫い付けたい。

でも動かない。
握られた右手も、握られていなかった左手も。
両方は隣から目の前に移った人の手の中にあった。


手で耳を塞げない。

それだけの事実に、俺の目は熱を持った。
どうして許してくれないのかと、疑問を投げる。
耳を塞いだところで、どうせ言ってしまうくせに。

「やめろ」

落ち着きをなくした目で、その中で彼の茶色の目を見つけて。
未だ弱りきったままの意志で、言葉に合う強制感も声は持たず。
既に負けを悟って項垂れた全身は、もう何も止めることは出来ない。

無力感が、俺の中を通り過ぎた。

「白藍、も、…あの子も」

一拍、迷うように置かれた意味は知っている。
前に項垂れた俺の頭を、彼の左手は優しく優しく、撫でる。
そっと言い聞かせるような声も、ただただ優しい声色である。

言おうとしていることは、それらとは全くの正反対だというのに。



「今日が誕生日」



ちがう。
決壊した意地、意志は完全に崩れ去った。
今、頭を降りて頬を撫でる体温が、そうさせた。


言葉自体を懐かしく思うほど、長く、嫌悪した日。
何も聞かないフリをして、何も見ないフリをして、忘れた日。

日付をまだ覚えているのは、それでも、忘れられない記憶が残っていたから。
良い記憶も悪い記憶も全てひっくるめて、頭に固くこびりついてしまっていた。
ずきずきと心臓を通してどちらもが、たまに叫びを上げる。


それさえなければ、きっと何も、そう思った。
まるで呼吸でもするように当たり前に、この日は消えただろう。

「白藍、」

僅かに穏やかさをなくした俺の呼吸を宥めるように、彼は俺の腕を撫でる。
下に座り込んだ彼にとってその位置は少し高くてきっと辛い体勢であるだろうに、それでも彼は優しく接する。


「自分が生まれたこと、悔やまないで」


ぐっと心臓を掴まれたような、痛み。

背けていた感情の名前を教えられた気がした。
的確に名付けられた名前、嫌悪よりも近い思い。


ずっと悔やんでいた。
何度も何度も、繰り返し言われていたのだから。
自分さえいなければ、叩き込むような罵り言葉。


此処に居る、それで既に仕方のないことであったのに。
死んだとしてもそれまでが戻るわけもなく、仮定の話なんか夢物語。
開き直って自分がいる理由なんか何もなくても、生まれたから此処に居る。
それで納得していた、つもり。

つもり、の名残がこの日の嫌悪だったんだろうか。
まるで壁の落書きのようで、ずっと見ていた思考はそれに侵されている。
知らないうちに、それが原因や理由になって、今まで気付かないほどに。


ちがうだろう。
ひていのこえ。

それは昔の話。
何度も繰り返す、昔の話昔の話。
今日だけで何度も思い聞かせた、昔の話。
彼の言うことは全て、昔の話に過ぎない。

割り切ってしまえば楽なのに。
出来るならきっとそうしていた。
いつもなら出来ている割り切り。


「オレは君が好き。ずっと」


フィリスは理解したフリをして、それを止める。
最近の彼は特に、それを隠そうともしなくなった。

にじり寄るずきずきとした切なさ。
針が刺さった心臓は、どうしたいのか。


「もう、俺は違う」


目元に集まり出す熱を、軽く頭を左右に振ることで払った。
そして下で俺を見上げる彼に向かって、擦れた声を空気に吐き出す。


伝えなければいけないことがあった。
彼との間にある誤解を、俺は埋めなければいけない。
彼の思い違いを、俺は正さなければいけない。

フィリスはやはり、理解していないのだと感じた。
俺と上司の理解とフィリスの理解、それはズレたもの。


危ういと思った。
判断を下すのは俺ではないのだ。
俺が彼の理解を知っていたとして、あの人は知らない。

多分、知ろうともしない。


「俺は白藍でしか、ないんだよ」


お前と今の俺とは、何もないんだ。
ましてや、従兄弟なんて血縁関係も。

ぐっと、一気にこみ上げた涙を堪えた。
顔の筋肉を強張らせて、潤みを押さえた。
目を開閉させなければ、間違って泣くこともないと思って目を閉じる。

まだ泣けない。


「白藍と藤川 柊との間には、何の関わりも存在しない」


別の人間なのだと、言いたかった。
彼の望んでいる人と俺は、違う者。
いい加減、認めてくれないか。

こみ上げる涙を伴った嗚咽を、何とかして飲み込んだ。
泣き声を上げる場面ではない、当たり前のことを言っているだけだ。
俺が何かを感じる必要などない、彼の思う人と俺は別人なのだから。


ずきずきずき。
潤み出した目は、思考とは全く逆だった。
心の奥底は、自分が二分するかのような痛みが走り抜ける。

認めて欲しい、諦めて欲しい、忘れて欲しい。
それを願うきっかけの態度は、誰かが十分望まれていた証のようだった。
それがたまらなく、俺には切なくて、寂しくて、苦笑を重ねるしかなく。

いっそ二分してしまえば、良いのに。
そうすれば、フィリスが此処まで俺に関わる理由も減る。


「そんな理由でオレは此処まで追いかけないよ」
「それは、」


彼への反論は途切れ途切れな部分しか音にならない。
碌な声にすらなってなかった、ほとんど空気だけ吐き出したような音。

それは、に続く言葉が言えない。
白藍であると知らなかったからだ、と、言えない。
続きを言い切る為の口は、嗚咽によって使えなかった。

しゃっくりをあげる口に、頬を滑った涙が混じる。
目を閉じれば縁にたまっていた塊が流れ出して、かといって開けていたとしてもだらしなく下へ落下する。
ぱたぱた膝に落ちていく涙を、いつの間にか離されていた両手で一生懸命に拭って拭って、落下を阻止する。

けれどいくら拭っても、目を擦っても、隙間隙間を通って涙は落ちていく。


「違うよ」


ちがわない。
嗚咽が完全に乗っ取った口は言えない。
彼の手が、さらりと軽く涙だらけの俺の目を撫でる。
目をこす続けていた手を、やんわりと反対側の手は退ける。

彼がふれる。
涙で手を濡らすのは悪いと思うのに、涙は止まらない。
それどころか、胸の痛みは増して増して、さっきよりも量を増やす。


不意にゆっくりとフィリスは俺に近寄って、体が抱きしめられた。
彼の黒い上着が涙まみれの視界を埋め尽くして、体温が寄り添って。
上着越しであまり感じないはずの体温を、何となく近くに感じた。



「馬鹿だなあ、白藍は」



呆れたような声色が響いて、泣きじゃくる頭を彼はぽんぽんと軽く叩いた。

(結局今年も、おめでとうは言えなかったなぁ)
2010/01/27


prev signal pagenext

PAGE TOP