SiGNaL > うせものさがし


01 - 02


散々な一週間だった。
怒涛のように押し寄せる業務の割に、思うように事務所へ帰れなかった日々にため息をつく。
思い返せば、今月が始まってから散々だったように思う。

きっかけは二週間前、浅瀬に警告した日からだった。
迂回した帰り道に、誰かが後ろをつける気配があった。
迂回の距離を伸ばし、意味もなく同じ道に合流した後も、それは消えないまま。

路上のガラスや反射鏡ごしでも姿はまるで掴めなかった。
相手がわからないとなれば、目的も予想しづらい。
念のため、事務所には寄り付かなかった。
メールで状況を報告した上司からも、それが適切と促された。


けれど。
思い出しながら、手元の荷物を抱え直す。
そこに入る汚れたジャケットはそれなりに重い。

次の日にはその行動を悟ったのか、気配が消えた。
念を入れてそこから二日置き、ようやく事務所に戻れたのが一週間前。

そこからは、忙殺されるだけの一週間だった。
事務所に帰れない間、パソコンで多少の業務は可能としても、効率は落ちる。
一時的に滞在したホテルでは十分な設備も整わない。
各位への報告連絡も防諜の面から電話が使えず、メールになった。

けれどそうした状況など業務には関係ない。
待ったなしで、あの人は割り振ってくる。
電話口ならばまだ言い返せても、メールなどでは素直に承知するしかない。

滞ったものを元に戻すための一週間だった。
来週の予定は通常通りの量に落ち着きはする。
しかし、予定がまだ十分に煮詰めきれていない。

凝り固まった肩を軽く回せば、小気味の良い音が鳴る。
一週間で遅れを取り戻せたことを、喜ぶべきだろうか。
予定を整えられていない分、来週も少しドタバタはするのだろう。


ため息をつけば、それは白く流れる。
新しい年となって二ヶ月。寒さは一層厳しい。
コートを着てはいるが、ジャケットがないためか風の冷たさがいつもより肌に刺さる。

早く事務所に戻って、風呂で温まって、来週に備えよう。
帰った後の段取りを組みながら、道を歩く。


歩きながら、ふと道の端に目が留まった。
マンション入口前に、何かを待つように立つ男がいた。
特に珍しくもない光景と思うものの、なぜか目を引く。
淡い柔らかな色合いは特に奇異でもなく、目立つわけではない。

違和感を噛み砕けないが、その正体を掴めない。
あえて、何か行動する必要があるだろうか。
自問するが、その間にも距離は詰まっていく。
立ち止まるには都合の良い理由が見つからない。

どこか、記憶にひっかかる?
そこでようやく、違和感は警鐘であると結びついた。


「久しぶり」


行動に移すよりも先に、男が動いた。
低く過ぎない声色は、聞き取りやすい穏やかさを持つ。
ゆったりとした動きで、行き道を塞ぐように彼が俺の前に立つ。

真夜中、電灯のみが彼の柔らかな髪色を照らす。
俯いていた顔が、俺と真正面から向き合うようにあげられる。
柔和な顔つきのなか、穏やかな双眸が俺を捉えて、微笑んだ。

「探したよ」

一段と大人びた風貌だが、その笑顔は遠い思い出を揺する。
違和感の正体は懐古だった。
そのことに、つい舌打ちが漏れた。


一歩、後ずさった。
目だけで退路を探す。
ただの一本道であり、入り組んだ道は近くにない。

その間に、一歩。
思案するうちに、俺に向かって男が足を踏み出した。

「まさか三年近くかかるとは思ってなかったなあ」

また一歩。
男は俺に話しかけながら、苦笑を零した。
その姿には敵意も殺気も害意も、感じない。
自然体で、男は友好的な印象を持って歩み寄る。

「話がしたいんだ。警戒してほしくない」

彼にとって、ひどく当然なのだろう。
黒色に偽った目で彼と視線を交わしても、彼に戸惑う様子はない。

逃げるか。この場をどうにか切り抜けるか。
対応を決めあぐねている間にも、徐々に間合いが詰まっていく。


逃げを選ぶには、周囲の状況が良くない。
相手の言葉をとぼけたところで、通用するとは思えない。
それで通用するならば、先ほど向き合った際に動揺したはずだ。
彼の性格からして、おそらく確信を持って動いている。

唯一読めない選択肢は力に任せた対応だが、成功イメージは見えていない。
既に知っていることとして、彼は特殊である。
彼の過去は中学以降、通常とはおおよそ異なる。
早々に磨き上げられた戦闘能力と元来のセンスが、そうそう退化するだろうか?

浮かぶ選択肢が少ない上に、どれもが悪手のように感じる。
それでももう行動に移さなければ、手詰まりだ。

一秒進むごとに、選択肢は減っていく。難しい選択肢しか残らない。
早く選ばないと。まだ可能性が高い方法はどれだ。
……道を戻れ!


「!」


とっさに、手に提げていた荷物を投げつけた。
男の顔めがけて、それは飛んでいく。
結果は見ず、なるだけ急いで踵を返す。

「海!」

大きく、男の声が響いた。
ここまで歩いてきた道を、今度は走って戻る。
人通りのない道は、特に困難なく走り抜けられる。

けれどそれは後ろも同様で、足音が少しずつ近づいている。
追いつかれるのは時間の問題だろう。
追跡を振り切るほどの猶予はない。


それならば、手段を切り替える。
最低限、実施すべきはひと目を避けること。
少しでも入り組んだ道を探し、何とか人の通らない路地へ抜け出る。

そして懐に忍ばせていたナイフを手に取った。
方向を転換し、右へ振り向く勢いを借りて振り下ろす。

「……ッ」

相手の反応は早かった。
既に彼の左腕は前へ出され、受け流す姿勢が取られている。
不意打ちで斬りかかっても五分だろうに、体勢が整っているなら無理だ。

振り下ろした腕はもうそらせない。けれど、その間にも僅かな可能性を探す。
相手の手元に武器は見えない。突破口を探す。
どこを狙う?
隙はどこにある?
ない。
そんなもの、どれだけ探したって見つからない。
思わず、顔が苦々しく歪んだ。


結局、勢いだけの刃は、彼の腕にあたって流れる。
そこに柔らかい肉の感触はなく、硬い金属音がくぐもって聞こえた。
相手から出向いてきて、無防備なはずがないか。

受け流されたことにより、体は彼の左側へと滑り落ちる。
そうして無防備に懐を晒したのは、自分のほうだ。

間髪入れずに彼の右膝が、腹部に入った。
相手が予備動作なしとはいえ、ろくに重心の安定しない体は飛ぶ。
歩道と車道を分けるガードレールに背中を打った。


地面に左膝をつく。
喉に溜まった液体を吐き出せば、そこには血が混じる。

「話そうよ。痛いのは嫌だろ?」

見上げれば、男がせつなそうに俺を見る。
その表情に、記憶が散らついた。
こんな記憶、もう無いと同じなのに。捨てなければならないのに!

痛みの中でも離さなかったナイフを、握りなおす。
その動作を追うように、男の目線が右手に降りたことは気づいた。
一挙手一投足を、男は見ている。

「なんで逃げるの」

男が俺の前にかがむ。
近くなった顔に距離を取ろうとしたが、背がガードレールにあたって離れられない。

どうすれば打開できるか。
絶対的に不利な状況において唱えるよう、上司から指示された言葉が浮かぶ。

握り込んだナイフは、もう男に対策を考えられているだろう。
思考を読むように、彼の手が俺の手ごとナイフに触れる。
完全に握り込まれる前に、逃れるように手を引いた。

「い……っ」

目の前の顔がゆがんで、手のひらごと後ろに下がった。
その隙にナイフを掴んだままの右手で地面を押し、体を持ち上げる。
すかさず腹部を押さえていた左手で相手の襟を掴み、かがんだままの男の首筋に刃先を沿わす。

「動くな」

中腰の姿勢で、見下ろすように男を睨んだ。
蹴り上げられた腹部が痛むが、それどころではない。

「良い判断だね」

しかし、男の顔から余裕は抜けない。
首筋にある刃先を、わかっているはずなのに。
凪いだ目は先程までと何ら変わりなく、俺を見る。


「でも、面白くない」


両腕の動きを、目が捉えた。
ナイフを動かせ!
瞬時に浮かぶ人殺しの判断に、過ぎったのは戸惑い。
白い照明。影で隠れた苦しげな表情。赤く染まった手のひら。

一瞬の硬直でも、男にとっては十分な時間だったらしい。
ナイフを持つ右手は、交差した彼の両手首によって下へと引きずられた。
中腰の体勢は、簡単にバランスを崩す。

そして再び地面に膝をついた。
ナイフを持つ右手は、今度こそ男に捕まる。
かがんだ彼は両手で丁寧に、俺の手からナイフを取り上げる。
優位性は逆転した。


右手を引き抜くように力をかければ、彼は何でもないように手を放す。
離された右手には、彼の赤い血がかすれていた。
薄い赤線が引かれた手に、再び一面の赤が重なった。

暑い夏の日がよみがえる。
昼間でもカーテンを閉めた部屋は、空気がよどんでいた。
照明は白々しく、何も照らさなかった。
血溜まりに倒れた二つの死体は、ゆっくりとその首をもたげて、――……。
その先は見なかった。俺の罪悪感に、彼らを巻き込みたくなかった。


かぶりを振って彼と向き合えば、男は何をするでもなく真正面に俺を見る。
息が乱れた自分とは対象的なほど、静かに。
何かを待つかのように、動く様子はない。

深く息を吸い込んだ。
息を落ち着け、思考を巡らせる。

近接武器は取られた。体術で有効な術はない。おそらく、この近距離で通るものがない。
背後には腰丈ほどのガードレールがあり、動きが取りづらい。
彼との力の差は、不意打ちでようやく埋められるかどうかだろう。

今の自分が持ちうる対抗手段を考えた。
どうすれば、それを活かしきれるか。


まず、立ち上がるためのスペースが必要だった。
左手で彼を押せば、二、三歩程度、彼は立ち上がりながら距離をとる。

同時に俺も、左手を地面につきながら腰を上げる。
立ち上がりながら、右手を腰のホルスターへ伸ばした。
ホルスターにかかった落下防止のロックを、解除する。

「海」

何度も呼ばれる名に、意識を塞ぐ。
右手の動きに、男の目から穏やかさがようやく消えた。


「人違いだ」


銃を、真っ直ぐに突きつける。

「その名前も、あんたのことも、俺は知らない」

そして、彼に見せつけるように、安全装置を解除する。

扱いに慣れない銃を選ぶのは危ういと考えていた。
住宅地から多少離れたとはいえ、サイレンサーをつけていない銃の発砲音は響く。
夜の帳が下りきった静かな路地で発砲するリスクは、重々承知している。

しかし、今はなりふりかまってはいられない。
幸い、この距離であればコントロール技術は考えなくていい。
ぶれないように、銃を構えた右手に左手を添える。


男は沈黙した。
感情の抜け落ちた顔が、俺を見る。
余裕はなおも抜けきらないが、先ほどとは明らかに空気が変わった。


「そんなこと、言うんだ?」


たったそれだけの言葉で、全身が総毛立った。
背筋に氷が伝ったかのような、鋭い悪寒が走る。
恐怖がはっきりと形を成し、全身が強張る。

彼が目を閉じて、ため息を零した。

「!」

次の瞬間、左へと銃身がそらされた。
銃と己の間に、彼の右手が差し込まれる。
銃がひねられ、動きについていけない手は離れた。

離れた右手は、すぐさま再び彼の左手に掴まれる。
そして、強制的に下へ引かれると、


「あ゛……ッ!」


肩に、激痛が走った。
思わずしゃがみこむ。

右肩が痛い。動かない。
だらりと垂れて、動かせない。
右肩を押さえた。
痛みとともに鼓動が激しく体を巡った。

一体、何をされたのだろうか。
脳が、全く動きを追えなかった。
一気に右手を引かれた。そこまでは、理解している。

ただ、その先はわからない。
気づけば、右の肩から先が動かない。
処理が追いつかない。


「利き手が使えないんじゃ、抵抗できないね」


彼に奪われた銃は安全装置を戻された後、地面へと放られた。
手を伸ばせば届く位置に落下するが、その手が伸ばせない。

激痛がすぐに引く気配はなく、額に脂汗がにじむ。
痛い。必死に奥歯で叫びを咬み殺す。

男は体を折って、しゃがみこんだ俺を覗き込む。

「他のなにかを持ってる様子もないし」

笑いも怒りも浮かべない無表情が、俺の状況を説明してみせる。
彼のいう通り、対抗できる手段はもはや全て実行していた。
彼の手は、痛みで動けない俺のポケットから、携帯を取り出す。

「加勢も呼べない」

そして地面に向かって、落とした。
追撃のように落とされた彼の足によって、画面は完全に砕かれる。


「他になにか手はある?」


彼は、俺の選択肢をすべて潰していた。
考えられる選択肢は、彼が列挙したもので全てだ。
他がないと知った上で、彼は問いかけている。

「ああ。足は無事だし、走って逃げてみる?
 ね、海」

まあ逃げたところで、行き先はすべてわかっているけど。
そう告げる彼が浮かべた笑顔は、さらに心を凍えさせる。
先日感じた気配は、どうやらこの男だったらしい。
そして彼の言うとおりならば、尾行対策は不十分だった。

ああむしろ。彼の行動理由に思い至る。
彼は、選択肢をすべて潰したからこそ、会いに来たのだ。


「べつじん、だ」


そう理解しても、彼の言い分には反論するしかなかった。
ふうん、なんて納得していない声が返ったとしても、変えられない。

男の見下ろす目に、怒りの色を見た。
周りの闇が重みを増したような幻覚を見る。
大きな鼓動とは対照的に、呼吸が無意識に浅くなる。


「ほんと、面白くない」


男は眉をひそめてつぶやいた。

彼の左手がおもむろに俺に伸び、そのまま頭を掴まれた。
そして、いくらか強引にウイッグを引っ張られ、数本切れる痛みが走る。
ネットにまとめていた白髪が垂れ落ちて、視界に入った。
どうやら束ねていたネットごと外されたらしい。

「いつの間にか髪も染めてるし」

乱れた白髪が視界に入るので頭を振って払えば、男が、片手に持つ黒髪のウィッグを不満げに睨んでいる姿が鮮明に見える。

「これも、」

次は、右手が俺の顔へ伸びた。

「偽物だろう?」

彼の右の親指が、左目のキワをなぞった。
故意に押し上げられた瞼に、コンタクトごしの視界が動いて歪む。

また無理やり外されるのだろうか。
想像しただけで自然と身がすくむ。
それに気づいてか、彼の手はそのまま頬へ降りた。

「普段は黒髪に黒目。仕事の時だけ白髪と青に戻す。
 そうだね、特徴的な点があればその他の印象は薄れる」

上司からもらった指示と理由を、男は見事に当ててみせた。
白藍(はくあい)という名も容姿も、全てはあの人の指示だった。


シグナルでの所属が決まったときを思い出す。
教育担当から事前に、ゼロ支部の支部長だとして教えられたのが、今の上司だ。
教育担当に対しても、上司の軽い口調と態度は健在で、反対に教育担当が異様に緊張していたのが目を引いたから、覚えている。

教育担当は俺をあの人に二十三番として紹介した。
シグナルにおいては、人は番号で識別される。
名前では、業務に応じて複数持つ場合がある。
綻びを最小限にするために番号とするのだと教わった。

けれど、あの破天荒な上司はそれを呼びづらいと一蹴したのだ。
教育担当が唖然としている間に、俺に“白藍”と名乗ることを指示した。
そして、ついでのようにさきほど彼の言った理由で髪色まで指定し、今に至っている。


もっとも、この男には容姿の変化など、通用しなかったようだが。
静かに怒気を携えた男の執念とも言える結果には、驚いている。

「俺は、あんたなんか知らない」
「まだ言うんだ」

頬から下へと、彼の手が伝いだす。
冬の寒さで冷えた手の軌跡が肌に残った。
彼の手は首をおり、鎖骨をたどり、服の上から左肩へ流れ、―― 彼の手がやわく押した位置に、体が跳ねた。


「ここに、傷はないと言い張るんだね?」


俺から視線を寸分もそらすことなく、鎖骨上に醜く残った火傷を服越しになぞった。

「ここでなくてもいいよ。腕にする? 背中? 脇腹?」

右手が、動けない俺の体をなぞっていく。
左肩から腕、脇腹、腹。
自分が知っている傷を男は的確に数えていく。

「オレが知ってる傷を全部調べてあげようか。
 ひとつひとつ言い訳するなら、それが尽きるまで付き合ってあげる」

楽しそうにも聞こえる声色で、彼は笑う。
一部の揺らぎもない眼差しを俺に向けたまま、笑ってみせる。

「知らないものは、知らない」

声が震えないように力を込めて、否定した。
空気に呑まれないように己を奮い立たせ、彼を睨む。

「強情だなあ」

呆れたように男がぼやいた。
傷跡をなぞる手は、今は着込んだ服の裾をいじる。
わずかな隙間から吹き込んだ冬の寒さは、暖かな空気を冷やしていく。


もはや平行線だった。
俺はもちろん、彼にも折れる気がないのは明らかだ。
解決の糸口は見えないまま、ただただ睨みあう。

彼は、否定が無駄であることを理解させたいのだろう。
そして、横山 海と俺が同一であると認めさせたい。
そのために材料を揃え、突きつけ、あらゆる手段で追い詰めている。

自分自身、彼に否定が通じないことは理解している。
しかし、かといって認める選択肢はない。
彼の探す人間は、既に鬼籍に入っている。
存在は既に過去のものだ。どこにも、ない。

「じゃあ、聞き方を変える」

しょうがない、といった態度を隠す様子もなく、彼は妥協の声を出す。


「海を殺したのはだれ?」


そのヘーゼルの目は、急速に温度を落とした。
自分を覆った彼の影が、喉を這う幻覚を見た。
急所に刃物をあてられたかのような危機感を抱く。
緩みかけていた重苦しさが、数倍となって再びこの場を支配した。

鼓動の音が耳にはっきりと届いた。それは次第に早まっていく。
彼の殺気が肌に突き刺さるように痛い。

頭の中に警鐘が鳴り響いて、止まない。
何もかもが、怯えに塗り替わっていく。
耐えるように噛み締めた奥歯が震えた。


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