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ずっと昔なのだと、切り出された話が僕を通り抜けた。
知った事実が思考を止めて、何も考えられない、何も言えない。
膝の上に持ったかき氷は、既に色づいた砂糖水に変わっている。

神隠しにあった、と彼は言った。
僕と同じように神社で目を覚まし、見知らぬ此処へ招かれたと。
ただし僕が来るよりもずっと前、数えることをやめるほどの昔。

「此処に来る前は、ずっと、病院にいたんだ」

青白くさえ見える顔で自嘲気味に、大和が笑った。
白い病室に、優しい色のカーテンがたなびく部屋。
四階の窓から、町を眺めるのが好きだったのだと話す。

窓から見えるものの、何もかもが羨ましかった。
きらきらと、見るたびに違う姿で輝いていた外。

部屋の内側は、綺麗なものしか置かれなかった。
優しい家族、可憐な花、美味しいご飯、穏やかな時間。
担当の看護士も医師も、とても頼もしく心強く見えて。


「多分、それは幸せだった」


夕日に照らされる大和の顔は、酷く大人びていた。
突き放されたような感じがして、思わず彼の服を掴む。

何か言わなければ、置いていかれる。
根拠のない焦りが、頭にあった。
そんな僕に、彼は優しく微笑む。

「でも、ぼくは満足出来なかったんだよ」

暇なときに眺めていた本たちは、部屋を否定した。
窓の外は、それだけじゃないのだと伝えてくる。

はしゃぎ声、怒鳴り声、笑い声、泣き声。
忙しなくて、余裕が無くて、一生懸命で、だるそうで。
外は感情と関係が複雑に絡んで、目一杯に溢れている。

そんな普通の世界を、本はぼくに見せてくれた。
大和はとても柔らかい表情のまま、言葉を乗せる。
それが幸か不幸かはわからないけれど、と笑って。

「何が嫌だったわけじゃないんだ。幼い頃から病院生活で、窮屈だなんて思わなかった。
 管の繋がる体も慣れてて、欲しい物も貰えて。大事にされてた、十分愛されてた。でも、」

叫びを止めた彼の顔は、苦しく歪む。

「突然、ひどく空しくなった」

彼の顔が、両の手で覆われて隠される。
それをじっと見るのも躊躇われて、前へと目を逸らした。

「いつまで続くのか、いつまで羨めばいいのか。一度浮かべば消えなくて。
 いずれぼくは死ぬ。憧れてる世界には永遠に出られないまま。どうやったって」

似たような思考の記憶が、心を刺した。
此処に来る前の僕の思考が、彼にリンクする。

いつまで耐えれば良い、どうすればいい、どう頑張れば。
痛む胸を握りしめて、ずきずき痛む心臓を押さえ込む。
考えたって何も出なくて、変わらなくて、僕は。


「だから逃げたいと思った」


世界から逃げたいと願ったんだ。
君と同じように。

最後の一言に、驚いて振り返る。
その目を、大和は見つめ返した。
そこに移る感情は、見えない。

僕のそれは、全く話していないことなのに。
弱い僕の思考は、彼に話さなかったはず。
かき氷の器を持つ手に、知らず力が入る。

「ぼくは病院から、君は学校から。でもそれ以上に、すべてから逃げたかったでしょう」

尋ねる形ではなく、断定で彼は話す。
カチ、と奥歯が震えて音を鳴らした。


「いっそ出来るなら、人などいないところへ」


心臓が止まったような衝撃だった。
逃げようとした弱い心そのままだった。

大和の言う通り、確かに僕は願っていた。
誰もいないところへいきたい、一人になりたい。
そうすれば、僕が傷つけられることはないから。

必死に、逃げたいと願っていた。


「それが、此処へ招かれるための条件」


カラン、と鈴の音が小さく辺りへ響いた。
まるで彼への相づちのように、一度だけ。

「一人を叶える此処の、主となる条件」

今までで一番苦しそうな顔が、涙をこぼした。
彼の青白い頬を、一筋だけの涙が滑っていく。

呆然と、僕はその様子を見るしか出来なかった。
涙に提灯の赤が跳ね返って、綺麗だなんてさえ思っている。

頭の中は止まっていた。
見ほれた振りをして、止めている。


ひとり、ここ、ぬし、じょうけん。
ただ、聞き取れた単語を反芻する。
僕には彼の言葉が、理解出来ない。

馬鹿になった僕に、彼は優しく笑う。
頬へ当てられた手は、とても冷たい。
ああまた、彼の涙がこぼれ落ちた。

「ぼくが、きみを招いたんだ。ぼくの身代わりとして」

太鼓も祭り囃子も、いつの間にか消えていた。
目の前にあった屋台も消えて、ただ静かになる。

カラン。
その中で鈴が鳴る。さっきよりも強く。

するりと僕の頬を、彼の手が滑り落ちた。
そうして次は、優しく僕の頭をさする。
ゆっくり、ゆっくり。

「一人でいいと思っていたのに」

馬鹿だったなあ、なんて溢れた涙。
何度も繰り返した。そう後悔が続く。
こみ上げる嗚咽を堪えながら、彼は俯いた。

「さびしい」

再び、彼の声は擦れた。
僕の頭を撫でた手は震えて、ずり落ちる。
初めて聞いた、彼の弱々しい言葉だった。


その手を、僕は救い上げる。
冷や汗で冷えた自分の手よりも、彼の手はずっと冷たい。
その手が少しでも暖まるように、両手でやんわりと包む。

「僕がいるよ、ここにいる」

自然と口から言葉が出ていた。
自分で、彼の感じる寂しさを紛らわせられるかはわからない。
それでも力になれる可能性があるなら。それが一縷の望みでも。

僕の言葉に彼は一瞬、期待を顔に浮かべた。
けれど、何故かまた、すぐに沈み込んだ。

その目に何が渦巻いているかは、読み取れない。
それでも、彼の手を必死に握りしめる。


何となく、傍の神社を見上げた。
沈黙したままの自然の中で、厳かに佇む社。
最初に大和の案内で見たときと変わらない。

神隠し。
その神は、きっとここにいるんだろう。
神社に倒れていたなら、ここが入口だった。

彼と出会った日が、頭に流れる。
その日の彼の言葉の通りだった。
此処は、何も怖くない。

「このままでいいよ」

不安げな彼へ微笑みながら、言い切った。
間違いなくそれが、僕の願望だった。
彼といる此処は、居心地が良いから。

帰れなくともいいと、決心したのはすぐだった。
僕はこのまま神隠しにあったままで、構わない。
彼と入れるなら、それでいい。


しかし彼の表情は、尚も晴れることは無かった。
むしろ、余計に顔を悲痛に歪めてしまっている。

「ここはひとりだ」

震えた吐息だけを耳が拾う。
彼の不安が目一杯込められた息。

何故、そんな声を出すのか僕は考えない。
ただ伝えれば笑ってくれるはずと信じた。
安心してほしいと僕は再び、口を開く。

「大和が居るなら、ぼくは、」
「一人だ!」

初めて聞いた強い声だった。
喉が動かせずに、僕の声は止まる。


「此処は、何でも叶えられる。何もかも思い通りにできる」


君と行ったゲームの家は、ぼくの前の人が叶えた場所。
駄菓子屋やスーパーは、その前の人が作り出した場所。
服屋も、古い電気屋も、公園も、全部。

最後に立ち寄った本屋はぼくが望んだ。そう、彼は自嘲気味に笑う。
ぼくが読んだ物や、招いた子が読んだものを詰めて、作った場所。

道案内で見た場所やものを、一つ一つ大和が解していく。
今まで使ったもの、食べたものも全ては彼が叶えたもの。
さっきまでの祭りも、きっと同じように出来たもの。


知っている範囲でならば、何でも出来る。
そう話す彼は、いつの間にか丸い金魚鉢を手に持つ。
砂利が敷かれて水草が漂う水中に、金魚の影は無い。

「でも、命は一つしか存在出来ない。一人でなくてはならない」

だって、此処は一人になるための場所だから。

呟いた後、鉢は彼の手から消えた。
主役である赤い金魚のいないままで。

「小鳥も声だけ、姿はない。此処にある木も庭の花も成長しない偽物だ」

いつまでも花は枯れず、蕾は咲かない。
代わり映えなく綺麗だった庭を思い出す。
枯れ葉一枚とない、落ち着いた庭の風景。

一つを惜しむ目が僕を見た。
わかるだろうと言外に訴えてくる。

「で、でも、今は二人でいられてる!」

けど僕の頭は、わかりたくないと叫んだ。
必死に否定のために、馬鹿な頭を回した。
二人で居られる理由だけを、探していた。

「見極め期間だったんだ」

簡単に否定は帰ってくるのに。
淡々とした声は、続いていく。

「一週間で、交代か帰すかを決める仕組みなんだ。
 そして今日は、君が来てからちょうど一週間の日」

わけのわからない言語を彼が喋る。
今ここで、残る一人を選ばなくちゃいけない。
切なく続ける彼に、僕の決心は揺れてしまう。

どうしようと目はさまよった。
彼がいないなら、僕はどうする。


此処で一人?
心に浮かぶ。
何でも叶えることが出来る土地。
けれど、大和も誰もいない土地に居続ける?

ぎゅ、と閉じた瞼。
出そうになった恐怖を飲み込む。
確かに一人を望んだけれど、でも。

それとも、帰るか。
記憶を持った頭が迷う僕に言った。
戻るのは、あの学校とあの生活。
出来ない自分を突きつけられる現実。

あの空間と此処なら、どっちがいい?

自ずと答えは出ていて、彼を見た。
しかも、それで大和の役に立つのなら。


「それなら、」


大和はずっと長い間耐えてきた。
切羽詰まった泣き顔を思い出す。

大和が居てくれて、僕は幸せだった。
だから力になりたいと思う、本当に。
まだ怖くはあるが、僕に出来るのなんてこれくらい。

どうせ一人なんだ。自嘲気味に笑う。
それなら、苦痛に思わない方を選んでしまいたかった。
しかも優しい人を此処から離してあげられるなら、絶対にいい。


決めた心に、呼吸を一つ。
未だ潤んだままの彼の目を、まっすぐに見る。
彼の手を掴んでいた手は、震えが伝わる前に離した。

「僕が残る」

僕は一人になりたいから、此処に来たんだ。
此処は、僕が望んだ通りの場所だったから。
言い聞かすように、口を動かせる。

「戻れなくなっても?」

未来をさす言葉に、体は震えた。
でも僕はきっと。目を伏せる。

黒く落書きされた教科書。
ひそひそとした、笑い声。

遠巻きにされる休憩時間。
グループでいつも残る自分。
八つ当たりのような痛みさえあった。

思い出すのは、悪いことばかり。
あんなところに帰っても、僕は。

「これからも僕は迷惑にしかならないし、戻っても一人は同じだから」

どこにいてもどう行動しても、駄目なんだ。
家なら何も言われず、部屋なら安心だった。
でもそれなら、此処に居るのと変わらない。

「大和が初めて優しくしてくれた人だったから。役に立てるならもういい、望まない」

何故か、傷ついたように大和が目を閉じた。
対称的に僕は、吹っ切れた心に微笑んだ。


「僕は死んだっていい」


大和が幸せになれるなら、僕はどうなったっていい。
君といた思い出と居られるなら、いいかなとも思う。
優しいばかりの此処に居られるなら、これで。


握っていた両手を、今度は大和から包まれた。
相変わらず、僕よりも彼の体温は低いままだ。

「ありがとう」

でも、彼の声は暖かかった。
大和が、しばらくぶりに笑う。
そこに、傷ついた表情はない。

「君と見る月は、綺麗だったかもしれないね」

いきなりの月の話に、頭をかしげた。
確かに夜、彼と月を見たことはなかった。
けれど今、それを言う意味がよくわからず、彼を見返す。

けれど、順序が違うか、と大和は茶化すだけだった。
今までより、ずっとすっきりした様子で笑っている。


そして、すう、と彼は表情を直す。
陰りのない優しい顔が、そこにあった。

そのまま、彼は僕の隣から立ち上がる。
ゆっくり歩いていくのは、神社の鈴の元。
追うように立ち上がれば、彼が振り返る。


「君を帰すよ」


鈴の緒に手をかけて、優しく君が笑った。

「なん、で」

僕は初めて、大和の優しさが理解出来なかった。
まるで、死刑宣告を受けたような気分にさえなる。
ここにいるのが、僕の望みだって言った。なのに。

「大和は、此処が嫌なんじゃ、寂しいって…ッ! 大和のために!」

大和を此処から解放してあげたい。
寂しいと行った彼の願いを叶えたい。
そのために僕が一人、此処に居ればいいはずだ!

そうすれば僕は傷つかないのに。
人の役に立ったって思えるのに。


僕の考えは、上手くまとまらなくて、こんがらがる。
ただ言いたい気持ちで叫んでも、彼は頭を振る。

「祐樹。逃げて、犠牲になってばっかりじゃ駄目だ」

ぼくより良い人なんて、たくさんいる。
君をずっと思ってくれている人も、勿論。

話される内容に、胸がずきずき悲鳴を上げる。
頭を振って拒否を示しても、大和は言い続ける。
全てが僕を見放すためにしか聞こえてこなくなる。


溢れてきた涙で、彼の姿が歪んだ。
僕は嫌われたんだろうか、だから彼は見放すんだろうか。
やっぱり弱い僕じゃだめなんだ。彼さえ僕を嫌ったんだ。

「もっとわがままに生きてから、それから、覚えていたら此処に来て」

環境を変えて、何もかもやりつしくて。
それから来たって、なにも遅くはない。

何を言っているかわからなかった。
確かに彼の声は、耳に届いている。
でも理解したくないと、頭に入れない。


どうしてどうして。
疑問ばかりが頭を占める。

逃げさせて欲しい。
僕はもう駄目なんだ。
もう頑張れないから。

「突き放してごめん。ぼくは裕樹の時間を奪いたくない。
 今、君に此処を譲ったら、きっと、ぼくは悔やむから」

涙を拭えば、彼も泣いていた。
ぽろぽろと、涙をまたこぼす。
それにようやく、頭が覚めた。


「また会おう」


カラカラ、カラン。鈴が鳴らされる。
深く、それでも涼やかな音が僕を通る。


***


いつもの朝に、顔を洗ってから食卓へとつく。
学校を変えて随分早くなった起床時刻も、一年経てばもう慣れた。
同時に、早起きになってくれた母親はいつも品数を揃えてくれる。

「いただきます」

一汁三菜揃った朝食に、手を合わせた。
きのこの入ったお味噌汁があることに、少し気分は上がる。
友人にはかなり渋いと笑われるけれど、美味しいから仕方ない。


一年前を、たまに思い出す。
優しい場所で、大和と居た一週間。

起きて真っ先に見た親の顔は、今も覚えている。
泣きながら怒りながらの声で、母が泣いていた。
心配したとストレートな父の言葉には、僕が泣いた。

転校して、友達が出来て、遊んで、喧嘩して。
あのまま残れば、体験出来なかったことを経験している。
彼が憧れていた窓の外を、僕は戻ってから楽しんでいる。

まだ、大和はあの神社いるんだろうか。
寂しいと苦しそうな顔が、脳裏に蘇る。
僕が此処に居るのは、彼が残ったからだ。


「何ぼーっとしてるの、早く食べなさい」
「あ、はい」


そうして箸を、まず焼き鮭へと伸ばした。
母親が前に座って、僕より幾分か少ないご飯を食べ始める。
ただニュースへと目は移っていて、僕に負けず進んではいない。

「このニュース、ずっとやってる」

え、と視線を上げる。
画面をさした母親の指に従う。
音量が上げられて、アナウンサーの声が耳に入る。

「今朝の四時頃、行方不明となっていた白河 大和さんが、」

瞬間、心臓が跳ね上がった。
行方不明になっていた、白河、やまと?
聞き間違いだっただろうか。いやでも。まさか。

ニュースは慌ただしい画面へと切り替わる。
病院だろう建物の前に、報道陣が溢れている。
大和は病院にいたと言っていた、ならば戻り先も。

どきどきした心臓を押さえながら、耳を済ます。
けれど、混雑した画面は騒々しく聞き取れない。
早く確かめたい、もう一度名前を。

「なお、白河さんは二十年前と変わらぬ姿で発見されており、」

映し出された行方不明時の写真で、確信する。
あのやんわりした面持ちは、間違いなく彼だった。



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