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叫び声がした。
痛いと叫ぶ声が聞こえる。ずきり。
自分の上に伸しかかっていた黒い体が退いた。
切られた部分の腕を抱えて、踞(うずくま)る。

解放された喉から、空気が急速に入り込む。
咳き込むなかで、全身の痺れが取れていく。
ただ油断しないよう、苦しさを噛み殺して、父さんを視界に捉える。

相手の腕からは赤い血が落ちていた。ぽたりぽたり。
俺の右手にあるカッターからも滴ったのを見る。


それから目をそらすように、すぐに立ち上がった。
まだ足は本調子ではなくて、壁に寄り添って体勢を整える。
ずきずき痛んでいたはずの足も手もお腹も、今は全て意識外にある。

右手だけで持っていたカッターを、両手に持ち直す。
腕を痛そうに抱えたまま、誰かは踞った状態から座る形に変えた。
それでも俺は誰かを見下ろす形でカッターを突きつける。
少しでも怯えたら負けなんだと思った。


「かい…ッ!」


睨み上げられる。
ぎりぎりと全身が軋むような感覚がある。
赤い赤い腕を抱えて睨み上げる、だれか。

殴られるのかな。殺されるのかな。
不安が全身を廻る。
カッターを持つ手も震えた(かち合っている目の色は、認識しないまま)。

傷つけた。きっと殴られるだけでは済まない。
今までずっと、そこに居るだけで殴られたんだから。

だって父さんは俺が嫌い。
廻るのは昔の記憶だった。
暗い部屋。荒らされた部屋。黒い影。痛み。
ずっとずっと幼い記憶(遠いはずなのに、鮮明な記憶)。


でも俺は、もう父さんの理由なんかで。
もう一度、変にぬめるカッターを振り上げた。
左腕に向かって、もう俺を押さえつけられないために。

痛みがわかれば、きっともうしないはずだと思った。
だから、力一杯振り下ろす。

なのに違う方向へと、力は逸れた。



「え?」



ぷしゃり、熱い何かが顔にかかる。
ぐぅ、と何かを堪えるようなうめき声。

なにこれ。
変な視界だった、おかしな視界。
赤い、赤い赤い赤いあかいあかい、あか、い?


一瞬焦点がズレて、すぐに戻る。
最初に見えたのは、まっかな自分の右手だった。
振り下ろそうとした位置に比べて、随分と上に逸れた手。

溢れ出る赤い血。
どんどんどんどん、血に塗れていく自分の手と、大きな手。
たくさんの血に染まっている手の先は、首の側面へ食い込んだ、刃。


「?」


どうして、どうしてどうしてどうして。
口がぽかんと開いて、そこに少し錆び付いた味がつく。
何だかそれは自分の血を舐めた時と、違う味のような気がした。


どうして。
まるで息みたいな音がでた。
首なんて切りつけるつもりじゃなかった。
口の中に飛び込んだ少量の血の味に、口を閉じる。

俺はただ、痛いのを仕返すつもりだっただけ。
こんなに血を見るつもりじゃなかった。見たくなかった。
吹き出した赤い血は、床も近くの壁まで赤く染めていく。


俺の手をそこへ導いたのは、誰かの左手だった。
誰かの左手が、俺の手を掴んで、首へと力強く押し当てた。
今も、別の体温は右手に触れたままだ。

これは?
俺の目が相手の顔を見る。
あたたかい、やさしい、たのしい、だいすき。
父さんに抱いたことのない感情が、混ざる。


ごめんな


音は何も聞こえなかった。
空気だけが、口から吐き出された。
俯き気味に、やんわりと笑う(あの人は笑わない)。

優しい体温が、熱い液体に埋もれる。
さっきまで吹き出していた血は、もう量を減らしている。
流れ出る血は定期的に、増えて、減って、鼓動に合わせている。


誰かは赤く赤く色を変える。
下には赤い赤い染みが広がる。
まるでまるでまるで、それは。

おれはこれをみたことがある。


唐突に震え出す手。それでもカッターは落ちない。
刃を持った誰かの手が、まだ首に固定している。
止まることなく流れ出す血に思い出すのは、大好きな人が死んだこと。

これは誰だろうと思った。
あの人は笑わない、こんなことはしない。
正常に戻った頭と心が、やっと俺の暗示を解いた。


「にいさん?」


声と同時にカッターを掴んでいた義兄さんの手は、落ちた。
手と同じように義兄さんの体も、横へ横へ横へ、倒れる。

だん、と重い音が床に響いた。
横たわった体は、動かない。

真っ赤に変わった義兄さん。
真っ赤な俺たちの周り。
白の靴下には血が滲み込んで、俺の服まで全部赤い。
それは、ぬとりぬとりとまとわりついた。

俺の右手には、どっぷりと赤くなったカッター。


ぐるりと記憶が巻き戻った。
こうなった経緯を、思い返す。
義兄さんを父さんだと思い込んだところから始まる。
混乱した俺が、自分で刃を出して、義兄さんの腕めがけて、俺が。
首筋にぷつりと刃が入って、強く刃が抉り込んで、血が飛び散った。

痛いはずの義兄さんは、笑った。
今は、赤くなって動かない(昔のいつかと同じ)。

義兄さんの隣に座って揺する。
にいさんを呼んでも呼んでも、何も動かない。
いつもより冷たい体、青白く変わっていく頰。目は開かない。


「あ、ああああああああああッ!」


俺が、殺した。

理解した瞬間に、目から涙が溢れ出す。
ぼたりぼたりと、義兄さんを濡らす。


大好きだったのに!
あんなに違うって繰り返した!
義兄さんは、優しかったのに!
父さんとは違う、暴力も何もふるわなかった!

後悔が俺を埋め尽くす。
こんな自分が嫌だった。
間違うはずがない人を、間違えた。

義兄さんは何も悪くない。
じゃあ誰が悪いの?
そう、奥底で何かが蠢いた。


カッターは、まだ右手に握ったままだった。
赤くなった刃は、まだ鋭い。

俺は義兄さんまで不幸にした。
俺がいなければ、義兄さんは今も生きていた?
こんな俺など、あの人が言う通り、--

こうなったのは誰の所為?

思考を止めるように、問いが浮かぶ。

こうなったのはだれのせい。
口で、浮かんだ問いをなぞる。
(これは誰と、あの時尋ねた声と同じことにも、気付かずに)


「どうかしたの恭助、かいく、ん?」


がちゃりと扉の開く音。
ぼんやりその方向を向けば、義母さんが立っていた。

「きょうすけ?」

呆然と立った義母さんは、義兄さんを見て、俺を見る。
数度とそれを繰り返し、目が見開いた。

こうなったのは、だれのせいだっけ?


「恭助ッ! しっかりしてよ! きょうすけ!」


俺のことなんて突き飛ばして、義母さんは義兄さんの体を抱えた。
何度も何度も、義兄さんの名前を呼び、体を揺すっている。

意識がやけにぼんやりしていた。
さっきまでの涙が嘘のように止まった。
どこも滲まない視界で、義母さんと義兄さんを見る。
義母さんの姿が、眉尻を吊り上げた目が、頭に残る。


「あんたが、殺したの?」


義母さんが振り返った。
突き飛ばされたまま、床に座りこむ俺を見る。
涙まみれになりながら、怒りを携えて俺を見下ろす。

「あんたがっ…、恭助を殺したのかって聞いてるの!」

一気に近くなった距離からは、逃げなかった。
唾も散ってきそうなほど近くで、口が喋る。
鼓膜が破れそうなほどに、大きな声がある。
(恐怖は何処かに置き忘れられている)


「やっぱり、引き取らなきゃ良かったのよ!」


憎々しい。
そう言いたげな視線は、父さんで慣れている。
震えながらも強く伸びてきた義母さんの両手が、俺の首を掴んだ。

こうなったのはだれのせい?
その答えは出ていた。

「あんたさえ引き取らなければ、恭助は死ななかった! 恭助は…っ」

否定の声。ぎりぎり締まる首と心臓。
俺のことなんてきっと、この人は関係無い。
何かを言ったって、きっと届かないんだ。

ひどく、痛かった。
頭が首が胸が全身が、痛い。


「この、人殺し!」


ごめんなさい。
ごめんなさい。

俺さえいなければ、しあわせなままだった。
みんなみんな、幸せだったとおもいます。
ごめんなさい。

こうなったのは全部、父さんがいたからなんだ。


ぎりぎりぎり。

締まり続ける首。
僅かな空気も喉を通らない。

頭がびりびりと痺れる。
指先が、引きつったように痺れる。
このままでは、きっと俺はこの人に殺される。


「あんたがいなければ、」


聞きたくない。

続きを言われる前に、動かした右手。
冷たい赤の刃を義母さんの首に、寄り添わす。


ごめんなさい。
最後まで心の中でしか言えなかった謝罪が、届いたかはわからない。

引きつった顔を静かな気持ちで見た。
再び飛び散った赤い血に、頭が痛い。
義母さんも義兄さん同様に横に倒れた。

義母さんの手が離れて、首は自由になった。
一気に空気を吸い込んだせいで、何度か咳をする。
むせるような嫌な匂いが、体の中に入ってくる。

義母さんの細い体は、苦しそうにもがいていた。
そして義兄さんと同じように、次第に動かなくなる。


こうしたのは、自分。
右手に持ったまま刃物で、俺が殺した。
義兄さんも、義母さんも、俺が殺した。

ぜんぶおれが、ころした。


辛い。
痛い。
遠くにそんな感覚がある。

「とうさんのせいだ」

そう呟いた俺を、傷だらけの子どもが見上げた気がした。



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