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最終章 大切な思い出に。


01 - 02


最後の仕事を、奥へと座る上司に渡した。

「今日だったか」
「はい」

年度末に、と一月末に伝えていたことを、改めて上司がなぞる。
何故かそれを鼻で笑われてから、書類の最終確認を始められた。
何かを言うのかと身構えたが、特に言わないらしい。言葉は無い。


上司が目を通す間、無機質な部屋を見る。
今日までに此処へ置いていた私物は、すべて移動か、処分した。
あまり俺も彼も、私物を運び込んだつもりは無かったが、無いとやはり違う。

二人分の私物のない事務所。
上司は此処に残るが、この人の私物は、数えるほどしか無い。
生活感の抜けた機械的な冷たさが、肌に刺さるように感じた。



先に仕事を済ませた柊は、この場にいない。
上司への挨拶を一言二言告げて、少し前に降りて行ってしまった。
下で待ってると言われたものの、チェックが通らなかったら先に行ってもらおうと思った。
この後の涼や拓巳と合流して飲みに行く約束を、自分一人で遅らせるのも悪い。

後のことに気を取られていると、ぱさり、と紙が落ちる音がした。
その後は何も言わない。大丈夫だったということなんだろう。
駄目であれば、そう思い返す。この人はその場で言ってくる。


「満四年、なあ」


しみじみと確認するような声で、上司の体が椅子へもたれる。
そうですね、と相づちを打てば、また目の前の人は、へえ、と声を漏らす。


00支部に配属されてから、来月の四月で五年目になるところだった。
初めて会った時に感じた、上司の滅茶苦茶だという印象は、未だ健在だ。
この人に対する印象は一切変わらなかった。三年があっても。

同じ面ばかりを見せられて、他の面を見ることは無かった。
ある意味、このことに関しては上司に徹底されていた。

三年間、この人は一時も変わりない。
いまいち掴めない存在というままで、ずっと居続けていた。
冗談を除外すれば、私情を出したのを見たことがない。性格も。

ふざけた性格が元来の性格であるなら、そうそう変わるものではないと思う。
しかし、違うというものもしっかり匂わせられていた。何かおかしい程度の匂い。


違和感を持った原因は、名前だった。
上司だけでは呼びづらい、なんと呼べばいいか尋ねても、はぐらかされた。
偶然かと思ってまた別の機会に、何気なく聞いた時も、何も言われなかった。

それが故意に隠されていたのはわかっている。名前以外もそう。番号すら。
番号管理である組織内でも、呼ばれるときは零支部長、と言われるだけ。
徹底してこの人に関係するものは、知ることが出来なかった。
恐らく、もう知ることはないんだろう。


抜けても止めないと言った真意も、正直まだわからないと思った。
単純に興味がないだけなのか、何か思うことがあってのことなのか。
わからないという不気味さが、この人にはあった。


「お世話になりました」


その上司の机の前で、深々と礼を告げる。
三年間、指導してもらった恩の分を込める。

戦い方は、配属前に上司以外から基礎として大部分を習った。
とはいえ、この支部に来てから訓練はつけてもらっている。
書類の片付け方も、処理の手順も、全てこの人に教わった。
自分が出来るようになったことは、この人の手助けが大きい。

上司の奥で渦巻くものに、触れたように思うときもあった。
それでも、置いてもらった恩はある。何も残すつもりは無い。


笑ったような息の震えを聞いて、体を起こす。
穏やかなように見える上司の目が、俺を見た。


「抜けても消えるわけじゃないがな」


仄暗いものが見えた気がした。俺の中にも、この人の中にも。


非合法の中で自分がした行いは、ずっと人の記憶に有り続ける。
初めてした処理の後に上司から言われた言葉は、頭に刻まれていた。

「知ってます」

十分、そのことは理解している。
こびりついたようについて離れないことは、今も夢で見る。


そうか、そりゃよかった。
俺の言葉を、おかしそうに上司は笑うだけだった。

そして椅子が軋んで、大きな窓へ上司は向いてしまう。
夜色を深め始めた空は、もうすぐ完全に黒とネオンだけになる。
言葉はもう無かった。

「失礼します」

もう一度、今度は軽くお辞儀をして前を離れる。

ドアを開けて、階段へと足を踏み出した。
手を離してしまえば、完全に隔たれる。


下へ降り、いつものように静かに扉から出る。
そこにスーツのままの柊が立っていた。

「おつかれ」
「ん、柊も」

久しぶりに彼の名を口にした気分だった。本当の名前という意味で。
それに彼は前のように悲哀を滲ませずに、ただ普段のように応じる。


年度末までは。そう区切りを言ったのは俺だった。
涼たちに会う前、連絡を取る際に彼へ告げた決意。
やめるまでは白藍でいる。自分なりのけじめ。

受け入れてくれた彼も、それにはつき合ってくれた。
名前を呼ばずに、白藍として接しようとしてくれた。
そのことには、本当に感謝をしきれない。


彼の優しさを噛み締める傍らで、ふわりと不安が首をもたげた。
明日からは誰になるんだろうか。そう不安が意識に問う。
横山 海としてはもう存在出来ない。
白藍も、今日の今限りで終わるだろう?

「……」

やめようと振り払った。
偽造した戸籍で、明日から存在する。
白藍の時と同じだと、無理矢理に疑問をしまい込んだ。
全て元通りになる。そう期待していたわけじゃない。


「海?」
「行こう」


その様子を怪しんだ彼の隣から、歩き出した。
戻りたいと思ったから、後ろはもう見ないと足を踏み出す。
それでもいいと決めたのは自分自身だ。

柊は何も言わないで、隣へ追いつく。
やはり避けてほしいとしたことには触れない。
今までも、昨晩、彼と話したときとも同じように。

答えが出せないことに、頷いて微笑んだ彼は何を思ったんだろうか。


「近くに来てるって」


柊はそう言いながらに、携帯を見て確認する。
相手の二人ともは昨日、一足早く門鍵をやめたらしい。
終わったら一緒に飲もうか。そう言って、合流する手はずになっている。

ただ今日については、終われば連絡すると伝えてあった。
終わってから場所と時間を決めようとしたはずだったけれどと隣を見る。
彼の口振りからすると、もう来ているらしい。気が早い。

「たぶん、歩いてたら会うと思うよ」

少し前に、出るってメールが来たから。
数度画面を操作して、柊が携帯を仕舞う。

「そのまま待ってて良かったのに」

思ったことが口から出て、聞いた彼はからかうように口を開いた。

四人そろって、コーヒーは嫌でしょう。
そこだったからかと納得する。てっきりファミレスかなにかだと思っていた。
軽食を口にしてから移動したいと思ったが、コーヒーだけは。
一人ならまだしも四人はちょっと、と苦笑った。


「この姿も見納めか」


柊が髪へと触れる。ウィッグをしていない白髪。
目立ちたくない時は黒髪をかぶるが、今日は持って来ていない。

白藍になったときに色を抜いた髪。
年齢的に見ればおかしな色も、人の多いところであれば埋もれる。

この辺りも、逆に閑散としていて、そう気を使うこともない。
夜になってしまえば、たまに程度が、滅多に、に変わる。

「染めるんでしょう」

ついでに切ることも内容に含めて、柊の言葉を肯定した。
そして、人の髪でくるくると遊びだした彼の指を払う。
脱色できしんだ髪が、時折ピンと張って痛い。

それでもおかしそうに彼は笑って、俺の髪に手を通す。
ほどほどにその相手をしながら、前へ視線を戻した。


「あ」


丁度、目の前で二人が曲がって来た。
何か話し込んでいる様子の二人は、まだこちらに気づいていない。

けれど、首をひねった。
彼の言う通り、少し前にメールが来ていたにしては早すぎるように感じる。
十数分で此処まで来れるだろうか。そんな近くにコーヒーショップがあった記憶は無い。

「30分前にはメール来てたから」

疑問を察してか、柊が笑う。
それならば会うだろうと納得出来る。その一方で、彼が食えない男だったことを思い出した。

30分前というと、恐らく彼が挨拶に行くよりも前だ。
俺はやっと書類の確認段階に入れたくらいの頃合い。


少し前って言ったくせに。
見越していたとは思うが、もし自分が遅れたらどうするつもりだったのか。

そう視線だけで不満を伝えた。
けれど、彼は何も知らないように歩き続ける。
それに気づいていて、あえてそうしていることは知っていた。


早めに連絡を伝えられていたことも知らずに、ようやく俺たちに気づいた二人は近づく。
涼に名前を呼ばれて、だんだんと距離は狭まっていく。

息を吐いて、眉間に寄せていた皺を指で伸ばした。
拓巳がそれに気づいて不思議そうにしたが、何でも無いと手を振った。

「遅かったね」

近づいた二人に、何食わぬ顔で柊が声をかける。
待たせた自分が言われるならまだしも、この人は。
思わず口を閉じた。


思い出せば、彼はこういう人だったように思う。
簡単に手のひらで人を転がしてみせる。そんな時がたまにあった。

俺に対して、あまりそういう面が出ることはなかったのは幸いに思う。
もしかしたら、俺が気づいていないだけかもしれないけれど。


知らないのが一番かもしれない。
彼の言葉にまだ拓巳は苦笑いで申し訳なさそうな態度だ。
全然そんな要素はないんだろうにと、逆にこちらが申し訳なく思った。

「タクシーでも使おうかと思ったんだが、」
「全然掴まらなかったんだよ」

しかたねーだろ、と拓巳の言葉を継いだ涼が続けようとする。
春の滲みだした風が殺意を乗せて、頬を撫でた。


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