轍 > よんほめ


閑静な住宅街というほど品が良くはないものの、日暮町にも比較的落ち着いたエリアはある。
事前に一報を入れておいた相手の根城は、そこのマンションの一室だ。

ゴミだまりはない。植栽はまばらだが、それでも人の手は忘れていない。
照明は暗めであるけれど、切れた球はない。柄の悪い貼り紙も凹んだドアもなければ、取り立て屋の怒声もない。
マンションの最上階を目指しながら、いつだって最低限の管理がなされている様を見遣る。
日暮町以外なら全然普通なはずなのに、ここだとそれだけで良い物件に見えるから不思議だ。

今まで日暮町の中で居候してきた数々の物件の惨状を思い出しながら、大黒(おおぐろ)宅のインターホンを鳴らす。


「ダイコク」


名乗る代わりに、端的に部屋の持ち主をあだ名で呼んだ。
この男とは、気軽にあだ名で呼べる程度には長い付き合いだ。
今のように話す仲になったのは、この町で再会してからではあるけれど。

懐かしいなあ、なんて目を閉じる。
初対面の印象なんか全く覚えていない。
大勢の中のひとりという形で会っていた気がする。
そうして思い出している途中、大黒との出会いに行き当たる前に、玄関が開いた。

「久々だな」
「まあね」

一言やりとりすれば、部屋の主は早々と中に入った。
それを追って玄関に入って靴を脱いだ。後ろ手で鍵を閉める。

もう何度も訪れている分、オレに対する大黒の対応もそれなりに雑だ。
勝手知ったるとまではいかないまでも、オレも遠慮はしてない。
互いに気を使わないことで、楽な空間にはなっている。


「何か飲むか?」


リビングに入れば、カウンターキッチン側から声がかかった。
シンクの前に立った大黒が水を使っているらしい。わずかに陶器の音も混じる。食器洗いの途中だったんだろうか?

「冷たいの」

特に興味もないので、ソファセットの一つに向かう。
三人がけ側に遠慮なく横たわれば、沈み込む体が気持ちいい。

言いはしないけれど、このソファは気に入っていた。なんたって柔らかい。
大黒が持つものだから相当良い品なんだろうし。あーほんと居心地いいな、このソファ。


ただ、いただけないとすると。
ソファに近づいた鼻がほのかに嗅ぎ取る、大黒の家の匂い。
不潔さや香水の匂いではないから不快というほどではない。
けれど、なんとなく、それが夢心地を覚ます。馴染まない。


「ほら」


肩肘ついていた顔の前に、麦茶が差し出された。
だらけた体を起こして座り直し、それを受け取る。氷の涼やかな音が鳴った。

「来るのは、久々じゃないか?」

大黒はそのままオレが占領した三人がけを過ぎて、一人がけソファ側に腰掛ける。
ゆっくりと座面に沈んでいく大黒をから、もらった麦茶に視線を移す。
コップの端に口をつければ傾けた飲み口へ氷が踊り出る。ひんやりと唇が冷える。

「そーね、ちょっとね」
「なんだよ」
「まあ、いつものひと悶着」

そう答えた途端、大黒が吹き出すような声を出した。
いつもの呆れ声でない意味を掴みかねて目を向ければ、ニヤついた顔。


「金、ばらまいたんだって?」


からかうような声色に、ため息を吐いた。
そりゃあ、愉快そうにニヤつくわけだ。知ってて聞いてやがった。

「うざかったんだよ」
「だからって札を投げるか?」
「見返りくれって言われたから」

お前も相当だな、なんて笑ってくるから横目で睨みつける。
すると笑いを収めるどころから、ついに腹を抱えて笑い出した。ほんっと癪に障る。
大黒だって、金で解決させることもあるくせに。
他人事だから笑えるんだ、なんていっそ噛みつきたくなる。

それでも今、彼と言い合うつもりはない。あくまで悪態は心に留める。
なにしろ、敬也とのことはすでに終わった話だ。長く引きずりたい話じゃない。
そう自分を宥めて、それでも治まりきらなかった苛立ちは、舌打ちとして空気に放った。


「まあ、良いこともあったけどね」


数時間前のことを、ぼんやりと思い出す。
今日が敬也のことだけだったら、もっと気分は悪かったんだろう。

「良いこと?」
「すっごい美人と会った」

青を纏う凛とした佇まいは、簡単に瞼の裏に蘇る。そこにある涼し気な顔立ちも。
あれほど好みの顔は、初めて見た。
思わず、見た瞬間に止まったしなあ。

「面食いだよな、お前」
「見てくれが良いのは誰でも好きだろ。
 ダイコクだって金にもの言わせて、可愛い子寄せてんじゃん?」
「言わせてねえよ、失礼な」

どうだか、と笑った。選ぶ側にいるくせに。
彼のような与えたがりには、人が群がるものだから。


大黒は、与えたがる人間だった。
自分の在り方を容認してもらうために、先に与える。
幸か不幸か、彼の懐が痛むことなんてそうそうない。彼が生まれ落ちた家は、そういう意味で恵まれている。
だから、改善される機会もない。

"ダイコク"なんてあだ名は、名字をもじったのと、与えたがりへの嫌味でもあった。
こうしてこいつが何でもなく笑うところからして、多分、気付いてはいないんだろうけれど。

そもそも、大黒が意図的であるのかも、自覚があるのかも知らなかった。
ここまではオレから見た限りの憶測で、実際のところなんてわからない。


まあ、大黒のことはいい。今は、鞘のことだ。

「ダイコクにさ、ちょーっと会ってもらいたいんだよね」
「ん?」
「教えるの得意だろ?」

恩を返すか、忘れたことにするか。
どちらにするかは感覚で決めているが、鞘には、恩を返しておきたかった。
もう一回くらい、美人は見たいし。そんな言い訳じみた思考を自分の中に連ねる。

「珍しい」
「助けてもらったから、一応な」
「へえ。俺に借りを作ってまで?」

大黒が意地の悪い顔で笑った。
茶化す態度を隠しもしない様子に、自然を装って視線をそらした。麦茶を口に含む。

「会うだけで借り? ケチだなあ」
「時間割いて教えてほしいんだろ?」
「オレは機会を作るだけだよ。会った後の説明分は、本人へどーぞ」

後半は、大黒に向かってわざとらしく口の端を釣り上げた。
そうすれば、あからさまに不満げな息を吐き出して、押し黙る。

この男は初対面の相手に、見返りなんて求められない。よく言えば、面倒見がいい人間だ。
頼まれずともいろいろ動くことは十分に知っている。わざわざオレが手を貸す必要はない。

「美人に対してもあっさりだなあ」
「誰が関わってるかわかんないうちはね」

置かれた麦茶をもう一度、口に含んで飲み込む。
冷たい液体が染み渡って、全身の体温が下がるような錯覚を起こす。

何かあったとしても、オレだけで完結させる。たとえ間違っても。
コップを握る手に力が入った。量を減らした麦茶が、波を打つ。


「お前の、家へのそれは徹底してるな」


自分の片眉がはねる感覚があった。
気遣わしげにオレを見る大黒と、目が合う。

「そこまで避けなくても、」
「避けてない」

不快な言葉は遮った。
温度の下がった自分の声に、大黒がわずかに身を揺らす。

「知ったふうな口を利くなよ、大黒」

あえて名字で呼んで釘をさせば、不快な視線は逸れた。
追って、悪かった、と戸惑いがちな声が返る。
本当に、そういうところがおせっかいなんだ。


大黒を睨んでいた目を、一度閉じた。詰めていた息を吐き出す。
ここに喧嘩をしにきたわけじゃない。
首の後ろを擦っていた手ごと、天井を見上げる。

自分の知る限り、鞘の件は大黒が適任だ。
あくまでオレは頼る側であって、ここでは、意地を張らない方がいい。


「ここまでにしとくよ。会ってもらう分の借りでさ」


天井を見上げたままに声のトーンを戻せば、戸惑いがちな了承が返る。
オレは鞘の件で、大黒が避ける部分を頼りにするつもりだ。
そういう意味では、お互い様と言えなくもないだろ?
そうやって、ささくれ立った自分を宥める。

「貸しにならなくてよかったよ」
「え、別にどうしてもって言うなら、」
「言わねえよ」

大黒も、オレの調子にあわせて声色を戻す。
視線を下ろせば、さっきと同様とはいかないまでも、表情は和らいでいた。

ただ今更に、もう少しキツく言ってもよかったかもしれないと思った。
このおせっかい男は何回か繰り返している。結局、響く性質ではないんだろう。

「でも、なんで俺に?」
「相手、ケイルなんだよ。あんたの領分だろ?」
「ああ……」

ケイル。
復唱された名称に、案の定、不自然に声色が落ちた。

「そりゃ、オリジナル譲りでなければ大抵整ってるだろうな」

そらされた目は、逃げたい気持ちをまざまざ映している。
彼の背が少し丸まり、視線は握り込んだ拳に落ちた。

「きれいだよ、すっげー好み」

心持ち沈んだ表情に構わず、出会ったケイルの印象を返した。
ここは単なる話題の一つとして、深いところは無視するのが正解だろう。

鞘は、冷たい印象が大きかったかと振り返る。
切れ長のあの眼差しは、少し愛嬌とは遠い位置にある。
結局、彼のにっこり笑顔は見れないまま、別れてしまった。

たぶん。腕を組んで、何やら思案し始めた男を見る。
大黒の好みから、鞘の雰囲気は外れていると思う。
彼は庇護欲をそそる方が好みだという認識だった。
でも、彼の求める人物像と鞘が全く重ならないかと言われると、そうとも言い切れない。


「間違いあったら嫌だから言うけど、手出すなよ」


念のための言葉に、顔を上げた大黒は眉根を寄せた。

「出すか。そこまで困ってない」
「うっわ、贅沢!さいてー!」
「こいつ……」

オレのからかいに、苦虫を噛み潰したような顔が返る。
否定しきらずにそんな表情をするのは、最低野郎の自覚があると見た。愉快だね!

どうにも彼には真面目が根付いているらしい。割り切ればいいのに。
難儀な性格だなあ、なんて片隅で苦笑する。


「ダイコクは、綺麗めの細い子が好きだもんな」


オレが知る限りで、彼の選ぶ人物像はそんな感じだ。
鞘は綺麗めではあるが、細さについては微妙だ。
背丈も、大黒と同じぐらいだったように思う。

「お前の好みは、よくわからねえな」
「ダイコクの好みも良いとは思うよ?」
「あんまり見たことないぞ」

そうだっけ、と思い出す。
確かにかわいい子の元に居候した記憶は少ない。
そもそも声をかける対象から、そういう子を外しがちではある。

「勝率悪いんだよな。あとマグロ多くない?」
「なあ、恥じらいって知ってるか?」
「そういうのは求めてない」
「お前も大概最低だよ」

はは、と何でもなく軽く笑えば、ムスッとした大黒がこっちを睨んできた。
あいにくそれは自覚してるし、恥じていないから痛くも痒くもないね。

手持ち無沙汰に、麦茶の残るコップを片手で揺らす。
からからと多少小さくなった氷がぶつかりながら泳ぐ。
これ系の話は、煮え切らない大黒のほうが分が悪い。

そして大黒も馬鹿じゃない。
分が悪い話は続けずに、きっと、


「にしても、ここでケイルは珍しいな」


ほら、話題を逸らした。

「そーね」

特にこだわりもなく、その話題に乗っかる。

「目的もわかんないしさ」
「まあなあ」

ついでに一つ、仕掛けておく。
根がくそ真面目なダイコク様だ。触れておけば、わざわざ頼まずとも確認する。
鞘はオレから仕掛けても多分大丈夫だろうけれど、用心するに越したことはない。

「一応、墓場町を避けるようには言った。他は大丈夫だよな?」
「日暮町でなら、ケイルだからって大差ないとは思うが……」

自信のなさそうな答えだった。
日暮町であれば、無差別な暴力はありこそすれ、ケイルであることを理由に狙われはしない。
それに確信を持てないのは、大黒も同じか。本命ではなかったものの、少し期待が外れた。

もともと、この町でケイルは珍しい。
その珍しい存在に特化して降りかかる悪意は、どうしたってわかりづらい。
それを無いと言い切る材料を見つけることは、ことさら難しいんだろう。
けれど、オレとしては、なんとなく、憶測のままにするのは気が引けるんだよなあ。


「やっぱりあそこの町長サマに聞くしかない?」


そう、ケイルに対して最も否定的な存在を揶揄(やゆ)する。
町長と自ら名乗る男に、思わず敬いたくなるほどの性格の良さがあれば、墓場町はもっとマシだっただろうに。

墓場町は掃きだめだ。
日暮町もろくでもない町だとは思う。良い町とは到底言えない。
それでも墓場町よりは、マシだ。

墓場町は、恨みと憎しみを煮詰めた町だと誰かが言っていた。
そんな言葉で綺麗に表現できる町かよと感じるのも、事実だけれど。


「よく、あんなところと関われるな」


大黒が顔をしかめながら、嫌悪の滲む声を出した。
同時、彼の指先がそれとなくソファの肘掛けを等間隔に叩き始める。


ケイルに対して、大黒は肯定的だ。
それからすれば、墓場町の性質を理解できなくて当然とは思う。
元々、あんな陰気な場所を好意的に思う人もいない。

視界の右に入る自分の銀髪を指に絡めた。
一度、くるりと絡めれば中途半端な長さのそれはすぐに解ける。

「何回か殺されたよ。グロい話、いけるっけ?」
「いけない」
「モツ」
「やめろ」
「お、代わりにいきたいって?」
「いかねーわ!」

冗談じゃない、なんて右手が振られた。
口元が弧を描いたあたり、調子は戻ったらしい。

「まあ、不気味だよね」
「不気味で済む話か?」
「人なら基本、目立つか余計なことしなきゃ出てこないよ。見られるだけ」

姿のない視線も、不気味さの一因かと思い至る。
ホラースポットとしてうってつけの場所だろう。
なお、お遊びで終われるかどうかは運次第、ってところだけれど。

人間が一番怖い。
それを見事に体現した場所であることは確かだ。


「まさか、行くつもりか?」


怪訝そうに、大黒がオレの顔を覗き込む。
その視線から逃げるように、手元のコップを視界に入れる。

「ついで。今日のことがあるから日暮町をうろつきたくねえの。
 特に、やることも無いし」

妙に口が渇いて、冷えた麦茶を煽った。
手にした麦茶の氷は溶け切っていて、やや温度が高い。

……あんぐり口をあけるなよ、間抜け。


「なんというか、相当好みだったんだな」


誤魔化そうとしてるんだろうが、引きつった口端は全く笑いを隠せてない。
愉快そうなトーンも丸出しで、それがまた癇に障った。

「暇つぶしだって言ってんだろ」
「日程くれればそこを空けるよ。楽しみにしてる」
「しなくていい」

次第にからかいを隠すのもやめてきた。
あからさまに喜色を滲ませた声が、通信装置を立ち上げている。
操作の指先が楽しそうに弾んで、時折リズムを取るように滑る。

……何を言ったって、面白がられるのが目に浮かぶ。
思い切り後ろに倒れた。ぼす、とソファはオレを柔らかく受け止める。
まあ、面倒なことにならなければどうでもいいや。

「長く続くと良いなあ、双希!」
「すごくうざい」
「うざ……」

そうして、大黒は沈黙した。
遠慮なんかするもんか。変なお節介を発動されたら敵わない。


おもむろに大黒が立ち上がる。
だらけたままに視線で追えば、麦茶いるだろ、と空のコップが取られた。
キッチンに向かう肩を落とした様は、百八十センチ近くある背中を小さく見せる。

特定の人間と長く続けないのは、オレだけじゃないくせに。
冷蔵庫の開閉音を後ろに聞きながら、苛立ちの原因を思う。
大黒だって、そういう固定の相手は持っていない。


こいつは、惚れた相手の代わりを求めているに過ぎない。
食事などの提供と引き換えに、その誰かさんに受け入れられた自分を疑似体験している。
それも、友人なんて距離感じゃなく、もっと欲をむき出しにしたような関係の。

そんな時間を長く共有してしまうと、多くは恋愛的な勘違いを起こす。
代わりだからって無下にする性格でもないし、この与えたがりっぷりも拍車をかける要素だろう。

でも、代用品は彼の求める本物にはなれない。
だから、大黒は代用品を切る。


そのあたりの感覚は、わかる。
大黒は誰かの代用だが、オレの場合は衣食住だ。
目的のために、何かしらを対価として差し出しているに過ぎない。
相手のことなんか見てやしない。いつか受けた罵り言葉は、全くそのとおりだ。

不本意だけど、そういう意味ではオレと大黒は噛み合っているのだろう。不本意だけど。
ただ長時間になると鬱陶しいから、頻度は少ない。性格は多分合ってない。


ならば、藤堂 鞘は?
自分の中で、ぽつりと浮かぶ。

彼は、宿とする目的で声をかけたわけではない。
そもそも彼が定住地を持つかどうかも知らない。
大黒は十中八九、宿以外の意味で言ったんだろうが……。


「どんなのかにもよるだろ」


つい、思考が口から漏れた。

タイミング悪く、麦茶を入れ直した大黒が戻ってきていた。
恐る恐るその顔を見ると、目が、きらきらと輝いているように見える。
やめろ、図体でかいくせにそんな目で見るな。三十路だろ、落ち着け。

「まだわからないから、そこ次第」

上体をおこしながら、大黒が変な解釈を重ねる前に言葉を補った。

「ああ、まあ何考えてるかわかりにくいやつもいるよな」

わかるわかる、と機嫌良さそうに応えながら、麦茶が置かれた。
大黒はまた一人がけソファ側に戻り、にこにこ笑顔を浮かべる。
非常に憎たらしい。きっとオレの顔は正反対だろう。

「良くも悪くもはっきりしてそうだから、それはあんまりない」
「なら、過ごし方か?」
「そんなの個人の勝手だし、とやかく言うつもりもないよ」

ソファの肘掛けに右肘をつき、苦々しい気持ちで応える。
さっきの暴言で沈んだ調子は、すっかり吹き飛んでいる。今はオレの答えに頭を捻っているけれど。

なんで口に出したかなあ。
自分のうかつさに後悔ばかり浮かぶ。
柔らかいソファに、体が一層沈んだ気がした。


「逆に何をわかりたいんだ、お前は……」


どうやら結局、オレの思考は大黒に読み取れなかったらしい。
不可解そうに、顔を顰めた大黒がオレを見た。

「え、ダイコクに言う必要あるっけ?」
「辛辣だな!」

言葉を尽くすつもりは毛頭なかった。
別に理解しあいたいわけではない。


突然、綺麗な鈴の音がした。
彼の肩が跳ねて、忙しなく通信装置を操作し出す。

「悪い」

大黒はそのまま急ぎ足でベランダへ駆け出ていった。
この態度は、多分。すぐに見当はつく。
数度、この場面には立ち会ったことがある。

ベランダに立つ大黒の顔は、ここからは見えない。
代わりに、ただただ忙しなく手が動いている様が見えた。
表情はきっと緊張して、思考もまとまってないんだろう。
口調だって幾分か早くなっていることは、容易に想像できた。

不器用なやつ。
そんな感想を抱いて、手元に視線を戻した。
他と同様、大黒にも深入りをするつもりは全くない。


からん、とコップの中で氷が角度を変える。
その様に、先生の家で飲んだカフェオレが重なる。

先生は、否定しない。
だから、緊張しない。疲れない。
ベランダにある姿と対比のように浮かぶのは、優しい微笑み。
オレを見て、受け入れて、いろいろなことを教えてくれる人。

みんな、先生みたいな人間なら、オレにとってどんなに都合がいいんだろう。

なーんて、連鎖的に思い出した子どもじみた思考を懐かしんで、笑った。
そんなこと、ありえない。
だから先生にしがみつく。

麦茶を一口、口に含む。
何もごまかさない、透き通った味が舌を通った。
先生から出された宿題の正解は、いまだに見つからない。


そうしているうちに、窓の開く音がした。
通話の終わったらしい大黒が、深刻な面持ちで戻ってくる。
どうせまた上手くいかなかったんだろう。

彼はそのまま、ソファでダラけていたオレに近づく。
空いていた左側のスペースが男一人分の体重を受けて、ぎしりと音を立てる。

さっきまで馬鹿話をしていた顔はどこへやら、すっかり物悲しい顔になっている。
武骨な男の切なげな表情なんか見せられてもなあ。
あいにく、オレの心はあまり動かない。

それでも、今日の宿はここだ。その分、オレも返す。
オレの頬をなぞろうとする手に、ことさら優しく触れてやる。


「わるいひと」


薄ら笑えば、悲しげだった目はいとも簡単に熱をはらむ。
きっとこいつはマゾヒストだ。厳しい言葉を好む。

そして、今度は大黒に聞き取れないよう、小さく言葉を呟いた。
ちっぽけな、上っ面なだけの願いが叶う、文字通り魔法の言葉。
唱えれば体内を何かがぐるぐると湧き上がり、廻り出す。
この感覚は、生き返るときの感覚に少し似ている。

銀色が長さを増し、照明の光を受けてつるりと反射したのが視界に入った。
思った通りに胸元まで伸びた髪を見て、男が喉を鳴らす。
簡単だ、なんて、また思う。


「広樹(ひろき)」


努めて柔らかく、声を出した。
ぎりぎり十代で成長を止めた声帯は、まだ線の細い声を作れる。

この男の場合は、線の細さに終始すればいい。
そうすれば、ほら。目が潤んで、武骨な耳が赤くなる。

彼が、小さく誰かの名前を呼んだ。
音は拾えなかったものの、控えめに頷いて笑ってみせる。
表情はあくまですべて控えめに、物静かに。


触れていた彼の手を一度離す。
男が体重をかけやすいように、体の向きを変える。
ソファの座面に足をあげれば、深い息が近づいた。

男が、もう一度オレの頬に、今度はおそるおそる手を伸ばした。
その指先はいつも通り少し震えていて、苦笑する。

「いまだに緊張すんの?」
「……いいから、だまれ」
「はぁい」

唇が合わさって、唾液が混ざる。そうして震えは止まった。
なんだかんだ、覚悟を決めるのが遅いんだよなあ。
頬から身体へと辿り出す指先。
男の体温を感じる面積が、増えていく。


今から、この男はオレにオレ以外を見る。それを悪いなんて思わない。
恋は盲目。彼を見ていると、そんなことわざを思い出す。
盲目だから、本人でなくてもそこに入り込める。
それはなんて、都合がいいのだろう。

恋以外も、そんなものなら簡単で済むのに。
オレを押し倒した男の後ろ、ちかりと瞬いた照明がわずかに胸を焼いた。

望む形を示してくれたら、ちゃんと変わる。
男の望む人物像に沿ったように、オレはできる。
じくじくと、欲と違う熱が自分の中にくすぶっていた。


先生、オレはどうするのが正解なんだろう。
片隅で優しい欲を与えた手を思い返しながら、目を閉じた。




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