轍 > はっぽめ


エレベーターから一階まで降りて、エントランスを抜ければ香の匂いは消える。
肺いっぱいに空気を吸って、思い切り吐き出せば、もう一片の残りもなくなる。
慣れ親しんだ空気が、やけに心地よく感じた。

このまま、立ち去ってしまっても良かったかもしれない。
あくまで今日は、鞘と大黒を引き合わせる役だ。その意味では、もう用は済んでいる。

ただ、あの場で咄嗟にだとしても、下にいると言ってしまったことが気になっていた。
自分から待つと言ったこと、そして鞘との最後の挨拶があれだけになること。その両方が、後ろ髪を引く。


とりあえず、マンションの入り口を彩る植栽の縁に腰掛けた。
タイルの冷たさが、ズボン越しに皮膚へと伝う。

どう暇を潰そうか考えていると、視界の端で何かが動いた。
見れば三毛猫が一匹、建物の谷間に座っている。
片手に収まるかどうかといった大きさの子猫が、丸い目でオレを見る。

「珍しい」

植栽の縁から降りて、地面にしゃがむ。
おいで、と子猫に向かって声をかければ、子猫は応えるように鳴いた。
少しおぼつかない足取りながら、一歩一歩、こちらに近づいてくる。

その歩みを待ちながら、肩肘をつく。
日暮町で子猫を見たのは、随分と久々だった。
あまり、自分が主として動き回る場所では犬猫を見る機会は少ない。その子どもとなれば余計に。
残飯やらネズミやらで餌には事欠かないとしても、二十四時間人が絶えないあの環境は落ち着けないんだろう。

あそこと比べれば、ここは穏やかだ。
いい立地だよなあなんて、改めて大黒が所有するマンションを見上げる。
静かな環境といえど、遊び場が遠いわけではない。整備状態の是非はあるだろうが、公園も存在している。
落ち着いて腰を据えるつもりなら、きっとこんな場所に居付くのだろう。


そんなことをつらつら思っているうちに、子猫がようやくオレの傍まで辿り着く。
さも疲れたとでもいうようにオレの前に転がり、まだ青い目でオレを見上げてみせた。

「警戒心ないなー」

人差し指で、その小さな額を撫でれば、子猫は目を閉じる。
触れた毛並みは想像よりもずっと柔らかかった。
ふわふわとした綿毛のような感触は、撫でつけてもすぐに立ち上がる。
こうして触れていれば、片手でも余るほどの大きさだとわかる。あまりにも小さい。

このくらいの大きさならば、近くに親がいても良さそうだ。
少し、周りの暗がりを含めて見渡し、それらしい影を探す。


「お?」


隙間の奥。子猫が出てきたところなら、もう一体、姿が現れる。
親かと思ったが、どうやら今撫でている子猫と大きさの違わない同じ三毛猫の子猫だった。
この分だと、兄弟だろうか?

その猫は隙間から出るなり、こちらを見た。
撫でられる子猫を見て、撫でつけている手を見て、オレを見る。どうやら様子を伺っているらしい。

今、じゃれている子猫同様に声をかけてみるが、その子猫は少し距離を詰めただけだった。
オレの手が届かない位置で腰を下ろし、こっちの子猫に目を向けている。あっちは警戒心が強そうだ。


しばらく手元の子猫を撫でる。
害がないとわかれば、距離を置いた子猫も寄ってくるかとも思っていたが、どうにもその様子はない。
時折、退屈そうにあくびはしても、姿勢を崩すこともなくそこに座って、こちらを見つめている。

この場所から立ち去らないのは、この兄弟らしき子猫を待っているのだとなんとなくわかった。
オレの指を甘噛みする子猫は多分それに気づいていない。ただただ、自分の思うままに遊んでいる。


そんな子猫の関係性と対比して思い出す事実に、胸が重くなる。
喉に小さなしこりがあるような感覚で、つい眉間に力が入る。
烏丸といい、今といい、今日は厄日かもしれない。

追い立てるような不安が肌を撫でて、子猫が食いつく手が強張った。
僅かな動きに気づいた猫が、不思議そうにオレを見上げる。ただただ、無邪気に。
それを認識した瞬間に、空洞を打ったような、大きな岩を沈めたような、形容できない衝動が襲う。


無性に、先生に会いたくなった。先生の少しかすれた声で、名前を呼んでほしかった。
先生と話をしたい。先生は、このぐちゃぐちゃした気持ちを解いてくれる。
烏丸の言葉も、子猫たちとの違いも、受け流す術を教えてくれるはずだ。
そうしてきっと最後には、今日を何でもないと思えるだろうから、先生に、会いたい。

鞘と別れの挨拶を済ましたら、先生の家に行こう。
まだ昼を少し回った時間だ。もう少し待ったとしても、夜にはかからない。
事前に連絡して先生が許してくれたら、そうしたら、あの町にいこう。


そうして段取りを考えていると、みゃう、と不満げな声がした。
考えている間に、子猫の届かない位置に手をやってしまっていたらしい。

「お前も、ちゃんとしないと見放されちゃうよ」

おもちゃとなっていた手は、子猫に返さなかった。
逆に、兄弟猫の方へ帰るように、その小さな体を手のひらで優しく押しやる。
けれど、子猫は子猫で、それすら遊びの一つと受け取ったかのように旋回する。するりと、オレの手に戻ってくる。

「こら」

払うような手に対して、子猫はまたころんと腹を見せた。
構わないことがわかるように手を引っ込めれば、か細く鳴いた後、今度は足に擦り寄った。

少し先にいる猫は、終始座ったままその様子を見ている。まるで、見守るように。
それが貴重なことだと気づかないのは、少しだけ羨ましい。
そんな思いで子猫の額を指で軽く弾けば、驚いたように固まった。

それでもそれはたかが一拍のことだった。
みゃう、と子猫が話しかけるのはあくまでオレらしい。

「おまえには、ちゃんといるじゃんか」

それほど、猫にとってあの兄弟が傍にいるのは、当たり前のことなんだろう。
単なる八つ当たりだとは自覚しているので、弾いた額を指の横っ腹で柔く撫でた。

こんな一時的なものにすがるのは、最後で良いんだよ。馬鹿だなあ。
再び指で遊びだす猫に対して、ため息をついた。


「双希」


指に噛み付きだした子猫をゆっくり左右に振って遊んでいると、後ろから名前が呼ばれた。
振り返れば、鞘がこちらに歩いてくる姿が見える。それとなく後ろを見たが、他の人間が一緒にいる様子はない。

「終わった?」

猫に指をかじられながら、傍にきた鞘を見上げた。
自分の問いに対して、随分と高い位置にある頭が一度頷く。

「ありがとう」
「どういたしまして」

背の高い彼を見上げ続けるのは首が痛くて、猫の方に視線を戻した。
子猫は小さな口で一生懸命オレの指をくわえ、まだ小さな牙を食い込ませる。

「何かあったら大黒に頼るといいよ。面倒見いいから」
「そうか」

正直、言わずとももうわかってるだろうが、念押しで伝える。
大黒は劣等感を抱えているとはいえ、ケイルを無下にはしない。
この間、二人で話したときの感じからしても、鞘の面倒を見るつもりはありそうだった。
さっき、もう既にそれに近い話はしているかもしれないが。
ちら、と再度彼の表情を盗み見るが、彼の無表情っぷりはその辺を読み取らせなかった。


それにしても、子猫は随分とオレの指の歯ごたえが気に入ったらしい。
最初は甘噛レベルだったものが、今は割と本気でガシガシ噛まれている。尖った歯が割と痛い。
子猫から手を取り上げてかじられていた場所を確認すると、少し赤い点が並ぶ。この程度なら、まあ大丈夫か。

「烏丸とは話した?」

別れ際、烏丸が鞘に話しかけていたことを思い出して、彼に問いかけた。
その傍らで、子猫を再度、兄弟猫の方へ押しやる。

「挨拶程度に」

子猫は不服そうに鳴いた。じっとオレを見て小さな口で主張するが、あいにく、オレも痛いのは嫌だ。
子猫との遊びは、もう切り上げるべきなんだろう。本来、飼い猫にするつもりがないなら、構わないほうが良い。

未だに距離をとって待っている兄弟猫を見やる。
あの猫も、そろそろ待ちかねるかもしれない。
子猫はさっきと同じように、押しやる手を交わす。みい、と甘えるように鳴いた。

「あいつの話は、あんまり鵜呑みにしない方がいいよ」

あの男はきっと、他人の抱く印象を操ることに長けているから。
どうせ今回は、旧友だなんて言葉でも使ったんだろう。いま、ほとんど縁がなかったとしても、言葉の意味としては間違っていない。
そして大黒なら、その言葉で今も交流があると誤解する。あいつは肯定的に物事を受け取るきらいがあるから。


胸元の服をゆるく握る。あの男と会うと、居心地が悪くなる。
どこか恐ろしいと思う。そんな学生時代の第一印象は、未だに塗り変わらない。

烏丸に感じる恐怖は、町長に感じるものと近いのかもしれない。
どちらも底が知れない。いつの間にか手のひらで転がされているようなところが似ている。
思考の深さと持っている倫理観に差はあるんだろうが、恐ろしいことに変わりはなかった。


「子猫か?」


ずっと鳴き続ける子猫の声に反応してか、鞘が隣にしゃがんだ。
オレに訴えても無駄だと悟った子猫は、次は鞘の元へと歩み寄る。

「珍しいよね」

しゃがんだ鞘の膝に、子猫が頭をこすりつけた。
小さな体で、愛嬌たっぷりに振る舞って見せる。細いしっぽが、ふわふわと柔らかく揺れた。

そのとき、のそり、と視界の端で座っていた兄弟猫が立ち上がった。
さすがに子猫に呆れたかと思って様子を伺えば、オレの予想に反して、兄弟猫はゆっくりと鞘へと近づく。

「……」

みゃう、と少し大人しいトーンで、鞘の足元でその猫は鳴いた。
お前、オレには寄り付かなかったくせに。微妙な表情で兄弟猫を見てしまう。
どうやら美人は子猫すら懐柔できるらしい。

「どうしたらいい」

いきなり困惑した声に隣を見れば、無表情に子猫たちを見下ろす鞘がいた。

「え、困ってた?」

とりあえず撫でてみたらと提案すれば、ぎこちなく彼が動く。
彼の手のひらに包まれた子猫は気持ちよさそうに、目を閉じた。

撫でられていない方の子猫は、鞘の手へと額を押し付ける。
鞘の手が戸惑ったように止まると、すかさずに撫でられていた子猫を押し退けるように一匹が動く。
まるで二匹で、鞘の手を取り合っていた。

鞘の様子からして、両手で二匹を撫でることはしなさそうだ。
どうしても一匹は余るからと、もう一度、子猫へ手を伸ばすが、それはオレの手を一瞥して、奥へと下がっていった。
どうやらオレの手に撫でられるつもりはないらしい。……お前、さっきまでオレが撫でてた方だよな?

「鞘ちゃん、またたびでも持ってる?」
「持ってない」

じゃあ、子猫は本当に彼の気質で懐いたのか。
それはそれで悔しい。


鞘の手と引き換えに、人気をなくした手を自分の元へ引っ込めた。
三毛猫の兄弟は、最初こそ奪い合う勢いだったが、今はお互いに鞘の手を交えて嬉しそうにじゃれている。

「仲がいいよね。兄弟だからかなあ」
「どうだろうな」

なんでもない感想に返った声は、どこか暖かかった。
それは初めて聞いた声色で、思わず子猫から鞘に目を移す。


彼は、予想よりも柔らかく笑っていた。
控えめな笑顔は、どこか彼の硬い雰囲気を和らげている。
二匹の子猫と合わせれば、暖かい情景がそこに出来上がっていた。
今、ここだけを切り取ってしまえば、きっと誰も日暮町だとは気づかないだろう。

そんな表情もできるのかと、見惚れてしまった。
きっと彼は意図して表情は作っていないんだろう。
あくまで自然にこぼれたもので、やや口角が上がっているだけ。
それらは、わざとらしくないから、余計に様になる。

やっぱり好きだなあ、なんて思った。
本当に、この顔はずっと見ていられるかもしれない。
綺麗な造形が表現する感情は、きっとどれも美しいんだろう。


さて、用事は済んだ。
最後にいい表情も見られたことだし、もうそろそろ重い腰を上げなきゃいけない。

「じゃ、オレの役割は終わり」

そう言って、穏やかな空間から立ち上がった。

「双希」
「ん?」

呼ばれた先を見れば、迷うような顔があった。
何か言葉を探しているんだろう。伏せ気味の瞳が、左右に動く。

何か言い忘れていることでもあっただろうかと思い返すが、特に何も浮かばない。
オレは今日、鞘と大黒を引き合わせるだけの役割だ。
別に交わした約束もなかったと思う。心当たりがない。

それでも、鞘が何かを言いづらそうにしているのは事実だ。
オレが何かを忘れている以外で何かあるなら。彼が考えそうなことを頭に思い浮かべる。

ああ。その中で唯一思い当たった理由に、つい頬をかいた。
もし、貸し借りの概念を持っているなら、今日のことを借りと考えているのかな?


「全部助けてくれたお礼。気にしなくていいよ」


彼の懸念が晴れるように、笑ってみせた。
あと、存外、オレを呼ぶ声が心地良かったから。その事実は、心の中だけで付け足しておく。


鞘は、まだ困ったように眉根を寄せてオレを見た。
随分と義理堅いらしい。でもオレとしては、もう彼と会うことは考えていない。

適当にしてるオレと遭遇する状況は、あまり良い環境とは言えない。
オレが行動する場所もつるむ人間も、大なり小なり問題を持っている。
今回、彼に助けてもらった状況だって、別に初めてというわけでもない。

トラブルの多い過ごし方をしていることは、とうに自覚している。
トラブルにまみれた環境になんて、いないほうが良い。
だから今回は大黒に任せた。少しだけ惜しく思うのも事実ではあるけれど、どうしようもない。


目的は果たした。そろそろ先生のところに行きたい。
今をいつもどおりの別れの一場面に落とし込んで、思考を切り替える。


「それじゃあね」


ひら、と左手を振って彼に背を向けた。
鞘は物言いたげな顔のままだったが、これ以上は彼の中で消化してもらうしかない。
数日も経てば、彼の中では些細なことに分類されるだろう。

きっと、そんなもんだ。





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