轍 > じゅっぽめ


思ったよりも近くにいた敬也が、バランスを崩したオレを正面から抱き込む。
途端、記憶よりも強烈な匂いが鼻についた。むせるほどの甘さと、汗の匂いと。判別がついたのは、そのくらいだ。
間近で嗅げばたくさんの匂いが強く主張して、不快感を煽る。

そのまま、敬也に倒れ込む形で地面に膝をついた。
すぐに離れるために、一度地面に手をついて体勢を立て直す。
しかしそのわずかに距離が詰まった隙に、敬也に飛びつかれた。中途半端な姿勢は受け身も取れず、強かに腰を打って、その間に体は拘束される。


「双希、双希。ああ、双希だぁ」


肩口に頭がこすりつけられて、思わず引き攣った声が漏れた。
彼が動くたびに甘だるい匂いが、鼻を突く。

まるで、幼子のような振る舞いだった。
こんな人、だっただろうか。あれから一ヶ月以上経つが、敬也のことはまだそれなりに覚えている。
もっと年相応の振る舞いをする人だったように思う。あるいは、そう見せていたはず。

「けいや、さん」

恐れと嫌悪感に塗れながらも、静止を求めて名前を呼べば、ぱ、と敬也が顔をあげた。
そして、間を置くことなく、焦点が合わないほどに彼の顔が近づいた。充血した目が、ぎょろりとオレを覗き込む。

「ようやく、あえたなあ」

どろりと淀んだ白目のなか、境界のぼやけた黒目が生暖かく微笑んだ。
吐き出される彼の息は、むせるほどの甘さを放つ。その中にわずかに焦げ臭さが混じることさえわかる距離だった。心底、わかりたくなかった。


敬也は感じ入った様子で、またオレに頭を預ける。
そして強く強く、オレを抱きしめる。力一杯巻きつけられた腕が、体に食い込むほどに。
押しつぶされそうほどの力で、体が敬也と密着する。

じっとりと感じる汗に、怖気が走る。
服越しに、自分と敬也の汗と体温が混ざり合って、それがとても、途方もなく嫌だった。


「敬也さん、離して」


絞り出した声は、震えていたかも知れなかった。
全身の筋肉が萎縮して、うまく働かない。

「そんなに怯えなくても、ちゃんと許すよ」

それに気づいてか、敬也が優しげな声を出した。
体を締め付けていた片手が外れ、今度はオレの髪を強引に撫で付ける。


「お前はそそのかされただけだった。わかってる」


続けられた内容に、思わず眉をひそめた。そそのかされた?

「なにいってんの」
「だって双希は、俺が好きなんだもんなあ」
「はあ?」

返ってきた答えに、思わず素の声が漏れた。
好き? オレが? 誰を? ……敬也を?
そんなこと、思ったこともない!

「寂しかったから、あんな男にひっかかったんだよな。気を引きたかっただけなんだろ? 一番だって選んで欲しかったんだろ?
 お前は努力してたのに、ちゃんと見てなくてごめんなあ

面食らったオレに気づいた様子もなく、敬也はオレに謝り続ける。オレは、謝られる原因に全く見当がつかないのに。

何を言われているのか、完全に理解できなかった。
彼は、大通りでのやりとりを覚えていないんだろうか。
どんな言葉をかけたか、一言一句を覚えてはないが、到底ポジティブに受け取れる言葉は使わなかったはずだ。
方法はどうであれ、手切れ金だって渡した。あの場で、完全に区切りをつけたはずなのに、なんだその思考は。


いや、と、冷静な思考がようやく回りだす。
多分、あそこでうまく切れていた。その証拠に、敬也からの通知は今日まで入らなかった。

一ヶ月以上、見事に見つからなかった可能性もありえなくはないだろうが、それにしたって通知がないのは変だ。
見つけられないなら、メッセージなり何なりで連絡を取ればいい。
あれだけマメな連絡をする男だ。その手段が浮かばなかったとは考えにくい。オレが自分に対して好意を抱いていると誤解しているなら、なおさら。


確かに、敬也については縁を切るのが遅かったと後悔した覚えはある。
けれど、感覚的に、それだけならもっと早く事が動いたように思う。

このタイミングが、やけに頭に引っかかる。何か、見えない違和感がつきまとって離れない。
いつものトラブルとはなにか、性質が違うような気がする。


ふと、思考に耽(ふけ)るオレを真正面から見るように、敬也がかがみ込んだ。
大きく爛爛と光る黒目が、オレを覗き込む。


「ずぅっと、一緒にいようなあ。双希」


次の瞬間、明らかに意図を持った彼の左手がオレの背中を回り、左肩を掴んで引き寄せた。
もう一方の右手は、オレの左手首を掴み、下に伸ばすように力をかける。

「離せ!」

意図に沿わないように力を込めるが、抱え込まれた体勢がまず不利だ。うまくいかない。
掴まれた左手はもちろん、敬也との間に挟まれてしまった右手も、振りかぶれない状態では押し負ける。
しゃがみこんだ足は、ろくな抵抗にならない。

敬也は、オレの肘の裏が外側へ向くように、掴んだ手をひねる。
強制的に外側へとひねられれば、一段と力がかけづらくなった。


「よく押さえとけ」


いつのまにか傍にしゃがんでいた男が、左腕にかかった袖をまくる。
その右手に構えられたものに、目を奪われた。

「なに、それ」

注射器だった。
鋭く長い針が、光を細く反射する。

「暴れるなよ。妙なところに刺さったら保証できない」
「大丈夫。敬一は上手だから、痛くないさ」

続け様に二人が喋るが、頭に入ってこない。
そして、敬也が固定した左腕へと針が近づく。筒を充たす透明の液体を、オレに打ち込むために。

「やめ……ッ、離せ! やだ!」

必死に、出せる力全てで、もがいた。
どう動かせば、なんて考えている場合じゃない。とにかく全力を出す。
偶然打開できる可能性にかけた。そうしなければ。


でも、そんな都合の良い偶然は起こらない。
敬也は暴れるオレをとうとう押さえ切って、男はオレの左腕に針を当てた。
ぷつりと刺さる痛みがして、銀色の針が肌に沈む。透明の液体が注射器の筒から押し出される。
腕から体へと、得体の知れない冷たさが流れ込んだ。

動きを止めたオレに、敬也は拘束を解いて、えらいなあ、なんて頭を撫でる。
乱雑な力でかき混ぜられた銀髪が視界を遮るが、それどころじゃなかった。
刺された位置を、おそるおそる右手でなぞる。ぷつりと小さく玉を結んでいた血が、歪にかすれた。

「何を、打った」
「万が一があっちゃ困るんでね」

手際良く後始末をつける男は、明確な答えを出さない。
指先から、血の気が引いていく。冷たい。体が、震える。恐怖が、意識を蝕んでいく。
ショックで明滅する視界に、よだれを垂らし低く唸る獣の輪郭が浮かびあがってくる。

「ドラッグ……?」
「さーてねえ、」
「睡眠薬だよ」

男にかぶせるように、敬也が液体の正体を明かした。
それを聞いた男が、面白くなさそうに顔をしかめる。

「おい。あんまり言うな、バカ」

不機嫌を隠さない声で、男は敬也を叱った。敬也は男に対して不服そうな声を漏らす。


そのまま言い合いを始めた二人を横目にしながら、とりあえず違法薬物でなかったことに胸を撫で下ろした。
現金なもので、正体がわかれば体の震えも止まった。浅くなりかけていた息が戻る。

落ち着きを取り戻した頭で、二人を盗み見る。
言い合う内容からしても、この二人はグルだったと考えるのが妥当だろう。

二対一。広場は開けていてすぐに隠れられる場所はない。
そうなるとビル群にもう一度紛れて、今度は二人を相手に撒かなければいけない。
それに睡眠薬を打ったと言った。今はまだ自覚する症状はないものの、多分時間はあまり残ってない。


言い合いのなか、注意が緩んでいた敬也をすかさず突き飛ばした。彼はあの日のように、尻もちをついて倒れる。
隣に立っていた男が掴みかかろうとするが、その前に地面を蹴り出す。

「双希ッ!」

上手く二人を抜けた。
次は、どこに逃げるか。一直線に、最短距離で広場を抜けるよう全力疾走しながら考える。
とりあえず広場を抜けたら、ビルに入らないとだめだ。
正直、足の速さが人並みである自覚は持っている。誤魔化しつつじゃないと逃げ切れないことは十分理解している。


なんとか広場を抜けて、比較的大きなビルに駆け込む。そこは思ったより雑然としていた。
デスク、棚、割れた照明など、廃棄品をまとめて積んだ山がところどころにあった。入り口からの死角は多い。

どこに隠れる? 一階でやり過ごせれば楽だが、まず探されるのも一階だ。じゃあ、二階?
迷っている間にも、後ろから、二つの声と足音が迫ってくる。

一階で隠れ場所を探る時間はないと判断した。中央にあった階段から二階へ駆け上がる。
二階に上がれば、仕切りのない空間と、一階と同じく乱雑に積まれた廃棄品の山があった。ただ、一階よりも量は少ない。
ここで、出し抜けるのか?


「隠れたって無駄だ!出てこい!」


下から、物が蹴り倒されるような音が大きく響く。
だめだ、ここじゃだめだ。眠ってしまうことを考えれば、死角よりも部屋がいい。でも、ない。どうすればいい!

四方を見渡すが、焦りもあってか目ぼしいものは何も見つからない。
中央から伸びる階段を見る。上の階へ行くか。でも上階に行けば行くほど、逃げ道は限られる。


とりあえず、階段のそばは危険だ。鉢合わせる可能性が高い。
何かないかとひとまず奥へと走れば、非常口と書かれた扉があった。
ノブを回すが、とても重たい。しばらく使われていないから錆びついているらしい。押す度に、ざりざりと金属がこすれる音がする。


「大人しくすれば、乱暴にしないからさあ!」


睡眠薬を無理矢理打ったやつが何を言う。一階から聞こえる笑い声に、舌打ちをした。

錆びついた重さをなんとか押し込み、なんとか一人は通れるほどの隙間が開いた。
そこに身体を滑り込ませ、外から元通りになるよう扉を押し込む。これで、多少は時間が稼げるだろうか。


非常口の先は、簡易な外階段だった。
階段は上下に伸びる。なら、ここで下に降りて、別のビルへと――――。

「……っ」

視界が大きくブレた。とっさに、錆びた手すりを掴む。鉄板に、膝を強かに打った。
急激に身体の力が抜けて、立っていられなかった。
確かに恐怖に駆り立てられているのに、それに反して体の力は抜け、心臓が安らいでいこうとする。

どうやら、時間切れが近いらしい。
でも、まだだ。まだ、だめだ。ここじゃ、見つかる。
ぐらぐらと揺れる感覚を耐えて立ち上がろうとするが、上手くいかない。


こうなったら、残った力でできることに思考を切り替える。
手すりに背を預け、階段に座り込む。左の耳につけた通信装置に触れれば、目の前に電子画面が開いた。
逃げ切るのはもう無理に近い。それなら、その後、早く逃れるために。

ごちゃついた画面から通信機能を開いて、今の状況を簡単に書く。
これで早めに事態が動けば。そこまで考えて、指が止まった。

誰が、助けてくれる?


がん、と扉から音がなった。

「やばい」

結局、送信先は埋められなかった。
目の前の扉から、打ち叩く音は止まない。扉が、音の度に小さく開いていく。
そうき、いねえの。扉越しに、くぐもった声が音の合間から聞こえてくる。

もはやこうなればヤケだった。
かすみ出した視界じゃ、表示されたボタンも入力された文字もろくに見えない。
だから、手癖で適当に送信欄を埋め、そのまま、誰とも知らない相手に送りつけた。今は、それにかけることしかできなかった。


「かくれんぼは終わりか?」


階下から、クリアな声がした。
重くなっていく頭を何とか持ち上げれば、睡眠薬を打った男が非常階段に足をかけている。
どうやら、相手は一階時点で非常階段を見つけていたらしい。相手の優秀さに涙が出そうだよ。

「慣れてんのか? 随分効きづれえな」
「おあいにく、さま、で」
「まあその調子じゃ、ここまでだな」

襲いかかる睡魔に抗って声を絞り出すが、それがせいぜいだった。
視野が狭まる。最後まであらがった手も、力をなくして足元に落ちた。



「せいぜい良い金になってくれよ、雨宮(あまみや) 双希くん」



ここで呼ばれることのない家の名が、意識を夜へと連れて行く。





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