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第一章第三話 失った事実のおおきさ


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暗い地面を雨粒が強く叩く。
その音は長い音の連なりになって辺りに満ちた。

久しぶりの激しい雨だった、確か予報では曇りの予定だったのに。
こんなに大雨になると知っていたのならさっさと帰れば良かったと後悔する。
こんな天気の時にばかり委員会の集まりがあるのだから、日程を決める誰かを恨みたい。


「あ、雷」


隣から聞こえた柊の声。
呼ばれた呼称を追うように轟音が遠くで小さく轟く。
響いた方向を見れば、隣の柊も同じく傘の向こう側を向いていた。
表情は見えなかった、どんな気持ちで呟いたのかはわからない。

「急ぐか?」

何となく尋ねた。
声はいつも通りだけれど、実は雷が苦手かもしれないと推測を飛ばす。
それがなくともこの大雨だ、もし急ぎたいのなら此処で言ってもらいたかった。

「いいよ、別に怖いわけじゃないから」

外へと向いていた視線が俺へと向く、苦笑いを浮かべながらの返事。
苦手ではないとは言われたものの、雨脚は段々と激しくなって来ている。
どっちにしろ急いだ方がいいだろうと、少しだけ歩く速度を強めた。

「海、早いよ」
「うわっ」

傘が変に止まって頭部分に引っ掛けられる。
ぼたぼた、と顔やカッターシャツに雨粒が落ちて広がる。
振り返れば立ち止まって、僅かに不満げな顔がようやく見えた。

「え、あ、ごめん」

謝れば柊はすぐに隣へと着く、歩き始めた歩調はゆっくりとしている。
いつもならばもう少し早いくらいだったと思っていたけれど、どうなのだろう。
どれくらいで歩けば良いのかを迷う、柊の歩く速度はまだいまいち掴めていない。

「あ、何か用事あった?」
「いや別に、無い、けど」

我ながら歯切れの悪い言葉、確信が持てないわけではない。
此処であると言ってしまえば恐らく柊は歩みを速めるだろう。
それだとあまり柊も濡れずに帰れるだろうけれど、負担にもなってしまいそうだった。

どっちで答えればいいのかわからずに、選びきれなかった言葉。
よくわかっていないような顔で柊は俺を見ていた、何だか悪いような気分が起こった。

「急いだ方がそんなに濡れない、から」
「あ、ごめん」

傘が俺の方へと傾けられる、柊の服に染みが広がった。

「あ、いや、柊がっ」

慌てて傘の骨組みを無理矢理寄せる。
俺の方にぼたぼたと雨が落ちたけれど、入れてもらっている身としては我慢すべきだろう。
持ち主を濡らしてしまうことだけは気が引ける、それに持ってこなかった俺が悪いのに優先されることも嫌だった。


「気にしなくていいのに」


傘を持っていない手で頭を一回軽く撫でられた。
その動作がなんとなく恥ずかしくて下を向く。
笑うような声はいつものことだと無視をした。

柊は善意でしてくれていることだろうかし、無下にも出来ない。
恥ずかしくならない程度に慣れてしまうのが早いだろうか、と頭の中に考えを廻らせる。


何となく、慣れないから恥ずかしいのだろうかと考える。
頭を撫でられることは、あまりしてもらった記憶がない。
何処かでは確かにしていてもらったのに、その頃は酷く朧げだった。
思い出したくないと逃げる頭に従って、いつだってぼんやりとする。

その思い出を無しとすれば、次の記憶は奥底に沈んでいた。
たまに過(よぎ)るのはもういない人で、その度に墓参り次いでの掃除を思い出す。
またしばらく間を空けてしまっているからそろそろいかなければ、と土日の予定を考えた。


雨の音が少し強まって来たように思う。
意識すればばちばちと傘を叩く音はどことなく力強く聞こえ出す。
目の前の幾多の縦線も、少しずつ痛いほどに地面を叩き始めていた。

その跳ね返りと凹凸に溜まった水たまりの所為で、靴とズボンの裾が若干重い。
歩く度にぐしょり、と水分が外へと排出される音が聞こえるような感覚。
それと濡れた感触とはとても気持ちが悪い、今から濡れて帰っても同じじゃないだろうかと思えた。

告げて帰ろうかと迷いながら、柊の方へ視線を動かす。
向こう側にある柊の肩が濡れているのが見えて、自分の肩がそれほど濡れていないのに今更気付いた。

「傘、もっとそっちに寄せろよ」

傘の軸を掴んで柊の方へと傘を傾け直す。
驚いたように柊は俺を見て、苦笑いする。
別にいいのに、と言われたけれど、持ち主を濡れさせたら何の為の傘なのかわからない。

「ありがとう」

どういたしましてと仰々しく返す気にもなれず、頷きだけで沈黙した。
連続する沈黙、何か喋らなくてはというプレッシャーもない雰囲気。
特別、何か話さなくてもいいように感じた、穏やかな沈黙が保たれる。

雨と、時折横を通る車だけが音を立てる。
下へ下へと流れていく水の流れを歩く足音はそれらにかき消されて聞こえない。
代わりに、ばしゃりと何処かの溝で水同士がぶつかり合う音が聞こえた。


その中で、後ろにいたいきなりの存在。
振り返っていると悟られない程度に、横目で後ろを振り返る。
さっきまでは確かに誰もいなかったはずなのに、誰かがいた。

恐らく普通の通行人では無いのだろう、柊の雰囲気が明らかに変わっている。
一変した空気は変に息苦しいほどに重い、敵だと思うのが自然だろう。
後ろの二人にしたってこっちが気付いていることくらい知れていそうだ。

ただ、いつも使う刀が今は無い。
毎日持ち歩けるほど手軽でもなければ、必要となる機会はそう多くない。
護身用の小刀か少し柄の長いものを、鞄の中に入れていたはずだが、どうだっただろう。

「レン」

緊張をほぐすような柔らかな声が仕事名を呼ぶ。
振り向くことはせずにただ前を見据える、変に堅くなるのは避けるべきだろうか。

堅くならない、と心の中で唱える。
緊張して動作が遅れてしまうのは命取りになってしまう。
気持ちを落ち着けようと大きく息を吸い込んだ、頭が回り始める。

「今更だけど、何でレン?」

変に略されていた名前を思い出して、口に出す。
今まで当たり前のように呼ばれていたような気がすることを思い出して、柊を見上げる。
けれど柊はただ、にこりと当たり障りの無い笑顔で、また今度言うよ、と人差し指を立てた。


「今はさ、どうするかの方が大切だろ?」


これからどうするかの判断を尋ねられたのだと一瞬間遅れて悟った。
武器はない、見える位置に二人、人通りはなくはない、それならば一つしかないだろうに。
尋ねるまでもないような気がしたけれど、柊にはまた別の選択肢でもあるのだろうかと思ったが、今聞くことでもない。
また今度にでも聞こうと適当に頭へ刻んで、先に傘を走り出た。

「逃げる!」

叫びつつ振り返ろうとして、思うよりもすぐ後ろに柊の存在。
驚いて思わず飛び退いてしまいそうになったが、何とかそれをせずに済ませられた。
早いなと思いつつ出来るだけ足を前へ進める、深くは考えないように自分へ言い聞かす。

前へと進む度に打ち付ける雨が痛い、顔に当たるのを避ける為に腕を顔の前へと出した。
確かこの辺に廃墟か廃工場かがあったはずだといつかの記憶を呼び起こす。
この方面だったということしか思い出せない頭、詳細がいまいち浮かばない。

とりあえず人気が無い所であればいいだろうかと、柊に意見を求めるために振り返った。
さっきと全く変わらない位置、どことなく軽い走りだと何となくわかってしまう。
何だかそれが酷くもやもやした、自分は遅いんだろうなと頭を振った。


「レン、あそこで良いね?」


突然かかった声に驚いて意識が視界へと帰る。
目の前に見えた建物が朧げなイメージと合致する、すぐに頷いた。
廃工場、外側だけでもかなり崩れているように見えるそこ。
元より人の少ない道だ、その奥の此処ならば人は寄り付かなそうだ。

また前が見えなくなっていたことを後悔する、この癖は早く治さないと。
人にぶつかりそうになったことは普通だとしても、この状況でこうなるのは避けなければ。
どうやれば治るのだろうと頭の中で考えてみるけれど、今はこれといって良い案は浮かばなかった。


煩雑に置かれた鉄筋や瓦礫を避けながら、廃工場の中へと入る。
屋根は所々小さく抜け落ちているようで、ぽたぽたと水たまりが数個あった。
けれど案外、外観から予想したほど崩れておらず、ぽっかりと開いた空間が何となく寂しい程度。

奥へと進もうとした際に、サビの匂いと僅かに混じる不快な匂い。
目をそちらへと向けてみれば、脇に苔の生えたコミックとコンビニ弁当の食べカス。
どうやら誰かは来ていたらしい、見た感じでは結構昔だったのだろうと思う。


「目的を言え、サクラ」


柊の命令が工場に広がった、日本国花の名前も辺りに反響する。
どうしてこの場で花の名前など呼ぶのだろうと、彼の様子を伺う。
いつも浮かべられていた笑顔は無くなっていた、眉尻を上げて入り口を睨む目。

自分の声を出してはいけないような錯覚を覚える緊張感。
破らなければいけないような本能が何処かから疑問を投げる。
どうすればいいのだろうと考えた、今でなく後で俺は聞けるのだろうか、…聞けなさそうだ。

「さくら?」

それでも必要以上に言葉を発することを俺は拒んだ。

何となく怖かった、知らない柊が怖いと頭の隅は思っている。
返答で変わってしまったことを直に感じてしまいたくなかった。
変わったのなら知らないままで、変化、それがただの恐怖と変わる様を見たくない見たくないみたく、ない。

柊の振り返る動作で無意識に後ずさろうとした足、それを耐える。
大丈夫、何が大丈夫かは自分でもわからない、けれど大丈夫だと言い聞かせる。
柊だって笑わないときだってある、真剣な表情をするのはなんらおかしいことじゃない、言い聞かせる。
違うんだと唱えた、何と違うかなんて頭に思い浮かべることはせずに、ただ違うことを心が頭に命じた。


「昔の、仲間みたいなものだよ」


変化は声だけだった、笑っていた口と対照的に酷く低い声だけ。
嘘だった、表情だって違うと認識してしまった、一瞬で全てが変化する。

恐ろしい正反対を映して騙されて。


いつの間にか閉じていた目を無理矢理開く、目に入る灰。
嫌なそれが黒の中に浮かぶ前に俺は開かなければならなかった、今の景色を必死で頭に入れる。
別のことを考えている場合じゃない、今は柊たちのことに集中してしまおうと必死に抵抗した。
目の前へと今度こそ意識を戻した、柊と話していたことを考えていれば良いんだと確認する。

何を話していたのか思い出す。
そういえば俺が持ちかけた話題だ、どこからズレたのかは忘れた。
けれどもちゃんと柊の、昔の仲間だと言う返答だけは覚えている。

「影の?」

尋ねると、一つの頷き。
昔、といえば、俺にはそれしかわからない。

そもそも俺は柊のことをあまり知らなかった。
影だったということ、たったそれだけしかない情報。
それ以前に彼は何をしていたのか、今の名前が本名なのか、どうして此処にいるのかを、一切知らない。
柊が故意にそれを隠しているのかどうかすら、俺にはわからない。


「サクラ」


再度、でも今度は苛ついたように荒げた声で柊は呼んだ。
誰かが出てくる様子はまだない、そして何かが動く様子もなかった。
追いかけてきてはいるはずだ、途中で撒けるような相手ではないと思う。

「確かにオレはあんた達の仲間を殺した」

変わらずに前へと語りかける、それを聞いていた。
仲違いのようなものでもしたんだろうかと勘ぐる。
憶測の域は出ないけれど、これ以上何でもかんでも聞くのはよくないように思った。


「オレの言ったことを守らなかったから」


酷く寒気の走る、湿気の鬱陶しさも吹き飛ばすような恐怖が俺を通過する。
それの発信源は紛れもなく隣から、恐怖は体の硬直を促して上手く動けない。
動いてはいけないような気さえした、一瞬で切り裂かれてしまいそうな恐怖。

俺が対峙した時のあの雰囲気など、足下にすら及ばないような恐怖。
それに、感じたのもほんの少しだ、ほとんど出されていないと言ってもいいくらい。
あの時に手加減されていたのは感じていた、今はそれがどれほどなのかを理解出来た。
手加減の理由が、友情からなのか、単に俺が弱いからだけなのかはわからない。

どんどんとマイナスの可能性ばかりに走る頭に嫌気が差す。
やめようと振り払った、考えたってどうにもならない。
今日は変に気分が沈んでいると思った、いつもならすぐにこんな考え捨てられるはず。


「フィリス」


工場内に響く声、どこか記憶を擦った声に顔を上げて入り口を見た。
出てきた一人の影、僅かに一歩下がった、無意識内の行動。
声がどこかにひっかかる、どうしてだろうと頭の隅で思う。

今度は花の名前でなかった呼びかけ。
やはり誰かの名前なんだろうかと想像を働かす。

考えていると柊が俺を一度だけ、少し振り返った。
何かと口を開く前に、柊は前へと向き直る。

「それで呼ばないでくれる?」

呼ぶなということは、どうやらさっきのものは柊の名前らしい。
けれど確か涼が教えてくれた限りでは、柊はキトーだったはずだ。
どっちが正しいのだろう。

疑問に思いながら彼を見ると、その手にはいつの間にか刀が一本。
近くに放られているのは、ぱっくりと口を開いた通学用鞄。
きっとその中から取り出したんだろうとはわかるものの、いつも持ち歩いてるんだろうか。

「戻らないか?」

暗くて完全に姿は見えず、ただ声だけが明瞭に聞こえる。
けれどその声は懇願を思わせない、何故だかどうやって考えても思えない。
感情が抑えられた声色というわけでもないだろう、冷たい声というわけでもなかった。

何を今更、とぶっきらぼうな返事を柊が返す。
とりあえず柊の横へと並ぶ、すると柊も一歩俺の方へ近づいて距離が縮まる。
体温さえ感じられるほどの距離はじめったい空気の中で生温く、あまり心地のいいものでもない。
少しでも風が通ればちょっとはマシになるだろうと思って、少し遠ざかるように横へと動いた。

「逃げない」

声がかかって今まで空いていた背中に体温、前にかかる腕。
斜め後ろを恐る恐る振り返ると変に近い顔、出来る限りの早さで前に向き直る。
笑うような空気の震えを感じたけれど、あの場合こんな反応をするしかないだろと熱の集まる顔を押さえた。


「あんた達にも言ったはずだけどね」


締め付けを強めた腕、息苦しくはない程度。
雨の湿気から出ていた汗が、背中を伝うのを感じた。
どうしたのかと柊の表情を伺いたかったけれど、この状態では相手方の飄々とした表情しか見ることは出来ない。

「なに、その子が入れば君も、」
「戻らない」

男が言いかけた言葉を強い口調で、柊は遮る。
相手はにやにやと笑い続ける、妙な既視感、きっと気のせいだと頭は理解した。
いつの間にか男の隣に立っていた、少し年上くらいの男はつまらなさそうな顔で何処かを見ている。
いつから居たのか全くわからない、初めにはいなかったと思ったが、関係者なのだろうか。


「そんなにその従兄弟が大切か」


皮肉だと主張するような声色で男が言葉を投げた。
従兄弟、柊の血縁者がどうかしたのだろうかと考える。
もしかすると、人質か何かを男立ちは取っているのだろうかと候補を出す。

でもその従兄弟、と男は言った。
そのとはどの従兄弟だ、男の隣に居る人が従兄弟だろうか。
いやでも、と考えを打ち消す、いまいち繋がらない。
男の言い様であれば従兄弟は男側にいないはず、ならば違う。

「大切だよ、…何よりも」

最後の一瞬だけ言いよどんだ声が酷く寂し気に聞こえたが、今の俺には従兄弟の存在が気になって仕方が無い。
手っ取り早くどの従兄弟だと、本人か男に聞いてしまえば早そうだが、それが出来る雰囲気でもない。

修羅場というものはこんな空気なのだろうかと空想する。
縁のない物だと思っていただけに貴重な体験だと場違いなことを思う。
こんなものならばあまり経験したくないという思いを頭に刻む、厄介事は避けよう。


「だから、手を出すあんた達が許せない」


上の髪、ワックスでべったりと固めた髪の上から柊の手がなぞる。
柊も大変なんだなと感慨に耽る、俺を助けるだけじゃなく従兄弟さんまで。
その従兄弟が表か裏かによって負担も変わるだろうけれど、それでも一人を気遣う大変さは変わらないだろう。

苦労してるのかとぼんやり見上げる、負担になっている弱さが辛い。
もっと強くならなくちゃいけない、今ので満足したら駄目なんだ。
きっとこんな力じゃ、目標を思い浮かべながら手を強く握りしめた。


わかってる、と少しだけ髪を後ろに引っ張られながら尋ねられる。
いきなりのことで驚いて反応出来ない、それに何故か柊まで驚いている。
すぐにぽかんとした顔は呆れたような顔に変わった、どうしたのかはわからない。

「海のことだからね?」

不満げな響きで、はっきりと俺に向けられた言葉。
さっきの柊の表情を今は自分がしているという自覚がある。
そのことにだろう、柊がため息をついて眉尻を少しだけ下げた。

「は、え、あ、ちょ、少しタイム!」

もう何を口にしたら良いのかわからない、頭が回らない。
ぐるぐる頭に情報が混乱、いきなり過ぎてついていけない。
ゆっくりゆっくり頭を落ち着かせるように呼吸をした。

とりあえず整頓しようと頭に命令する。
何が俺のことなのか、を理解出来ることを目標に振り返る。


今まで話していたのは柊の従兄弟のこと。
柊には従兄弟がいる、その従兄弟はサクラに何だか絡まれていた。
柊は従兄弟に気を使わなければいけないのに俺まで気を使わせている、それは関係無いからいい。
改めて考えると、どうして混乱していたのか疑問に思うくらいの情報量、案外少なかったことにひとまず安心。

次いで言っていたことと自分を照らし合わせてみる。
従兄弟は絡まれていたらしい、俺はこの二人に絡まれたことがあるだろうか。
目の前に立つ姿は全く見覚えがない、けれど男の声だけには聞き覚えがあった。


どこだろうと記憶を探す、確かにどこかで聞いたはずだ。
低い声、雑踏の中で聞いたものならこんなに覚えていない。
ならば話しかけられたのだろう、でも一体何処で。

死相の声だと思い出す、思い当たった事柄。
鉄骨の時に俺の手を掴んだ人、影だと勘違いした人物だ。
確かに俺はこの人に会っていて、殺されそうになっていた。
殺されたと聞いていたけれど生きていたのかと、ぼんやり関係無いことを思う。


そうなると柊の従兄弟イコール俺、が成り立つ。
でも判断するのにこの一点だけというのは、少な過ぎるような気もしてしまう。
それに従兄弟なんて、よっぽど遠くなければ俺が知っていても不思議ではない。

居ただろうかと遠い昔の思い出を掘り起こす。
けれど一緒に嫌な記憶まで甦ることを無意識が危惧した、思うように記憶は鮮明な返事を返さない。
霞がかったような、本当に朧げで、いまいち頼りにならない思い出だけが、頭の中に浮かび続ける。


「オレの母親は、海のお母さんの妹だよ」


助け舟を出すように柊は軽く笑う。
母さんの妹の子供、復唱してみる。
本当にそうであれば確かに従兄弟だ。

少しだけ霞が晴れた、誰かと俺は母さんの実家で、そこでつっかえる記憶。
実家に行ったこと自体がかなり前のことだ、仕方ないと俺は霞に疑問を覚えない。
実家、祖父と祖母は確か生きていた頃に俺は母さんと一緒に、悲しそうな顔、誰かと一緒に部屋を出て。

それを何と呼んだか。


「しゅう兄?」


一瞬で晴れる記憶、母さんに良く似た人、畳の匂い、仏壇。
しゅう兄、母さんの泣き顔、傷、祖父の手、祖母のおまじない。
荒らされた部屋、祖父母の家、たまに遊びにくる野良猫、父親の。

次々と溢れそうになる記憶を押さえつける。
いらない、思い出したくない思い出まで出ようとした。

呼吸が苦しい、思い出さなくていい記憶の回想。
無意識が危惧した故の霞だったのかと、意識は理解した。
下に落ちそうな体は柊の腕によって支えられて、まだ何とか立っている。

「海」

向き合う体勢に変えられて、目の前は真っ暗で、声は近い。
ゆっくり息をして、そんな酷く優し気な声、頭を撫でられた。
此処が何処かがわからない、今は何をしていたのか、俺は。
再度の混乱が頭の中で起こっていた、パニック状態に陥る。

嫌だ。
頭を抱えて自分に言い聞かす、これ以上思い出したくない。
嫌だ、口に出して耳に響かせる、頭は勝手な回想を止めた。


ゆっくりと息を吸い込んで、吐き出す。
それを二、三回繰り返せば、やっと今の状況を思い出した、短時間で吹き出た汗が気持ち悪い。
みっともなく取り乱したことを後悔する、敵の前でこんな状況になるなんてと舌打ちを漏らす。

「思い出した?」

ごめんね、申し訳無さそうな声と撫でられる感覚。
これ以上心配をかけるわけにはいかないと、すぐに大丈夫だと返した。
心配させてごめんとも伝えた方が良いかと思ったが、安堵した表情の柊に改めて告げるのは何だか気恥ずかしい。

「しゅう兄、ですか」

一応の確認も含めて、昔の呼び名で柊を呼んでみる。
改めて考えると、酷く子供っぽいような呼び名が何処か変な感じがして、つい最後が丁寧になる。
この呼び方で呼んでいた自分に軽く羞恥を覚える、普通に呼べばいいのにと昔の自分を呪った。

「そうだよ」

なのに、返事をした柊はとても嬉しそうに笑っていて、羞恥が飛ぶ。
喜んでいるのだとはっきりとわかる笑顔、後悔なんてするべきではないと思わせた。

この人はずっと待っていたんだろうかと、心の何処かでぼんやりと感じた。
記憶が甦ったときよりもしっかりと巻き付いた腕が痛い、今は振りほどく気はない。
忘れられていたのはどんな気分なのだろう、知らないことに頭を回す。


一方で浮かび上がる疑問、昔の呼び名だと柊には兄がついていた。
同い年ならばつける必要はないように思う、現に同い年の涼に兄はつけていない。
それに記憶通りならば、何月生まれだとかではなく年単位の年上だったと覚えている。
お兄ちゃんと遊んでおいで、なんて、同い年であれば言われないはずだ。

「柊、何歳?」

あからさまに視線が泳いで、何処か別の地点を見る。
視線を追う時に思い出した男二人の存在、片方は面白そうに笑っているから今はいいだろう。
ただ同い年くらいの方はつまらなさそうに隣に何かを呟いているように見える、それにまた男が笑う。
あまり関わりたくないくらい、豪快な笑い声。

「十六」

珍しく弱々しい小さな柊の声。
高校生でしたかと納得する、どうりで勉強が得意だったはずだ。
授業中も話を聞かずにずっと教えてくれていたこともあって、塾にでも通っているかと思っていた。

「結構大変だったんだよ」

そんなこと言われても知りませんよ、何故か敬語になる返事。
当たり前に、何で敬語なの、とツッコミが入れられたけれど、気分だと流した。

それよりも、どうして年齢詐称してまで中学側に入ろうと思ったんだろう。
中学と高校は離れてはいるけれど、近い距離にはあるのだから或る程度交流くらいなら出来る。
こっちよりは高校側の売店の方が充実していて多少は利用するし、高校側も部活の指導で中学に来る便もある。
そっちの方が楽だったんじゃないだろうか。

「高校の方に入れば良かったんじゃ?」
「滅多に会えないから駄目」

確かにあまり高校には行かない、高校の売店行かないでもスーパー行く方が楽だ。
一年の頃ぐらいはまだ高校の売店が便利さで、結構な頻度で利用していたなと思い出す。
けれど涼の知り合いが何人も何人も声をかけてくるわ、全く知らない人が睨んでくるわ、パシリにされそうになるわ、散々だった。
確か最後は、売店の人と生徒の喧嘩の現場を目撃した日だったかと回想を終える。


「横峰のも上手くさせないといけなかったし、さ」


付け足された言葉につい苦笑いを零す。
どういった経緯でああなったのか、今もまだよくわからない。
柊は退いたようなことも言っていたし、もうどうでもいいかなと思えて来た。


涼に怪しまれないようにするのは難しかった。
昔を懐かしむような声で、今度は柊が苦笑を浮かべた。
きっと言葉は求めてないのだろうと察する、独り言のような響きだった。

実際、どうだったのだろうと思い返す。
涼が柊について何か言うことは確かなかったはず、別段怪しんでもなかったのではないかと思う。
ただたまにわかっていても全く言わないこともあり、絶対にバレていないとは言えないけれど。

よくわからないと頭を振って、思考を飛ばした。
これ以上考えたってどうせ本人に聞く以外、答えは出ない。


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