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第一章第一話 行き続けた道のあやまち
「よーこちゃんっ」
「ぎゃっ!」
耳にいきなり入ってきた声と息に、肩が跳ねた。
うつぶせ用に組んだ腕を解き、すぐに左耳を覆う。
眠っていた頭が、はっきりと目を覚ます。
「小田…」
中腰になってまでして耳元で話しかけた相手を睨んだ。
眠りを邪魔されたこともそうだが、一番は耳だ。
けれどそれに返って来たのは、絶対に言葉だけだろう軽い謝罪のみ。
反省していないことは浮かんだ笑顔から、ありありと感じ取れる。
少しは反省を、と思う一方で、ため息が口から抜けていった。
別に本気で怒ってるわけでもない。
だから、別に良いけどと気持ちを区切る。
ぞわりとした感覚の抜けない耳をさする。
最近、小田からのいたずらが増えて来たように思う。
痺れが切れていた腕を伸ばして、大きく欠伸を口から出した。
寝起きの頭を、これで完全にすっきり覚まさせる。
そして落ちた視界に入る、さっきまでの腕の場所。
少しぐちゃっと折れた跡が残る、藁半紙のプリント二枚。
なんだっけこれ、と考えて、寝る前に何をしていたのかを振り返る。
さっ、と顔から血が降りる感覚がした。
わざわざ早起きした理由を思い出した。
宿題だ。
写すだけの宿題だったのに。
寝てしまった自分を今は恨みながら、再び机に向かう。
小田が来たということは、ホームルームの始まる時間が近い。
転がっていたシャーペンを取り、プリントを見やすい位置に置き直す。
まだ終わってなかったのかよ、なんてからから笑う小田はもう無視だ。
「そういやさ、転校生が来るって。二人!」
それでも思いついた様子で、小田が喋る。
一応、彼の言葉を聞きながら、目の前の英文を追った。
彼の言葉に反応するほどの余裕は、自分の中に全くない。
けれど、いくら追われてるからって無視するのも。
小さく浮かぶ罪悪感に、書き写す手が僅かに鈍った。
残りの空欄を見て、次に時計を見やる。
このペースで行けば、少しの余裕はあるはずだ。
そして、宿題に向けた意識を少しだけ小田に向ける。
「どこの学年?」
「すごくね、二人なんだって!」
書き写す合間から出した質問は無視された。
これは俺も無視してて良かったんじゃと、頭の中に冷めた声。
どうにも小田には、学年よりも人数の方が大事らしい。
確かに、ここで二人同時は珍しいかと過去を振り返った。
編入試験に合格しないと入れない。そう誰かから聞いた覚えがある。
「いや、それもうわかったから」
ただ、俺は人数に興味はないし、一度言えば十分わかる。
やけに近づいていた小田の顔を、元の位置へ押し返した。
小田が前のめりを直しながら、わかってねえよー、と唸る。
何がかと思いながら、面倒になって適当に返事を返す。
簡単にそれはバレて、適当反対、と批難する声がした。
元々宿題をしている手前、十分に相手をする気もない。
こうして悲しむフリをする小田も、わかって話をしている。
本当に余裕がないときは話をやめる辺り、さすが一年からの付き合いだと思う。
けれど出来れば、余裕があるときでも終わってから話を降ってほしい。
そんな勝手を割と本気で思いながら、急ぎで答えを書き写す。
急いだ所為で、妙なところで繋がっている英字が増える。
「それで、何処の学年?」
「ここ! 両方! すげえよな!」
ああ、とようやく納得した。
二人ともが二年の自分のクラスだからこんなに。
妙にこだわっていた理由が、すとんと頭に入る。
二人がここ、は大した理由でもないだろう。
単にこのクラスの人数が、他より少ない所為だと思った。
少ない所為で、合同体育の分け方に困られた記憶もある。
でもゴールデンウィーク近くに、珍しい。
どちらかというと気になるのは、そっちだった。
四月末に入るなら、新学期に合わせれば良かっただろうに。
ぽつぽつ、転校生の予想が浮かぶ。
持ったシャーペンが、顎に当たった。
あ、と思いつく。
転校生の二人が兄弟なら不思議はないか、と勝手に納得。
家庭の事情かなにかがあったなら、二人ともずれ込んでもおかしくない。
何を考えても、本当のところはその二人に聞くまでわからない。
ここまで噂になったなら、しばらく騒がれそうだなんて同情までした。
「いつ?」
「今日!」
今日かよと思わず口に出たけど、小田はただ笑ってる。
得意げに笑うのを崩すのも悪くて、曖昧に流した。
それよりも今は宿題が危なかった。
ホームルームまであと五分を切ってる。
やっぱり会話しながらは無謀だった。
喋り続ける小田は無視させてもらう。
そのうちに、長谷(ながたに)が隣へと戻ってきたらしい。
がたんと耳慣れた椅子の音を立てて、座る音を聞く。
「おはよ」
長谷の声に返す小田の挨拶が聞こえた。
その後を追って、プリントを写しながら俺も挨拶を返す。
そういえばプリントを借りるときにも挨拶したか、と思い出した。
かといって言わないのも変かとなって、結局どうでもよくなる。
やっと写す量が残り三分の一、これなら何とかいける!
大丈夫だと信じて、手を動かした。
「てかよ、今日転校生くっ、ふが!!」
小田が長谷へと、また転校生のことを話そうとした声。
すぐにそれがくぐもったのが不思議で、顔をあげる。
そこで目に入ったのは、長谷の見事なヘッドロック。
「うんうん聞いた聞いた。既に耳タコ情報」
「いだいだいだい、たすけ、いいいたいっす!」
「気の所為じゃね、気の所為!」
長谷は小田の訴えを軽々と交わす。
かなり痛いんだろうなあと、小田の引きつり具合から見て取れる。
やめてくれと腕を叩かれている長谷は、一向に止まる様子もないから怖い。
……二人を見ている場合じゃなかった。
本気でやらないと絶対に終わらない紙に戻る。
プリントからプリントへ。
さっきよりも更に、字が汚いけれど気にしない。
とりあえず出さないと、の一心だった。手が痛い。
正確に写そうとする中で、途中で文字ミス。
消す為に消しゴムを探しても、机のどこにも見当たらない。
仕方なく間違った文字は、上から塗りつぶした。
黒く塗ったものの次から、正しい続きを書く。
「よこ、ま、たすけ、も、あああしめないで! しぬ!」
「頑張れ小田ー」
「すっげ棒読み! ちょ、本気でギブ!」
小田の悲鳴を適当に流して、痛い右手を軽く振り動かす。
紙を滑る面は、シャーペンの粉で黒くなっている。
そこを左手でこすった後、すぐに写しへ戻った。
今回の宿題が間に合わないと、呼び出し。
三回以上、宿題が未提出の者に教師から言い渡される言葉だった。
昨日、すっかり存在を忘れていたことを後悔する。
呼び出しは避けたかった。特に今は。
昨日の夜遅くまで続いたメールのやりとりを思い出す。
ホームルーム終わりの回収には間に合わせないと、後の予定に響いてしまう。
「「あ、」」
二人の騒ぎ声が不自然に止まった。
どうしたのかと思って、二人を見る。
「おっはよ、かーい」
顔を上げると同時。
耳元で涼の声と、息が吹きかけられ、た。
「ぎっ、わあああ!」
驚いて、思わず机から離れた。
途中、がたんと足を机の足にぶつける。
結構痛かったけれど、今はそれよりも、耳!
右耳を押さえれば、変にそこが熱を持っている。
心臓の音が体全体に響いて、やけに早い、熱い。
「んなに逃げんなよー」
「お、お前が悪い! てか、何すんだよばか!」
耳だけでなく、顔まで熱くなっていくのを感じる。
小田よりもずっと近くで喋られたことが、予想以上に大きかった。
耳元は本当に止めて欲しいと思った。
やった本人を睨んでみるが、笑って流される。
いつの間にかこっちを見ていた周りまで笑っている。
他人事だと思って。そう悔しさを心の中で噛み締める。
実際そうなんだろうけど、何かに怒ってないと恥が勝ちそうだ。
やられっぱなしでいるのも癪だ。
せめて、と反論のための口を開く。
「おらおら、チャイム鳴ってるぞー」
担任が入ったと同時に鳴りだしたチャイム。
何を言おうか一瞬迷った所為で、結局何も言い返せなかった。
仕方なく口を閉じて自分の席に座る。
ぶつけた足の、じんじんとした痛みを意識した。
前で担任の岡崎が、今日の日程について話し始める。
けれど、耳にそれは全く入って来ない。
今日はやけにちょっかいをかけられる。
今まで耳へ何かされたことはなかったのにと、振り返る。
いつか、小田と涼には仕返ししてやると密かに決意した。
「岡崎ー、転校生はー?」
唐突に聞こえた涼の声が、担任の声を遮る。
紙を見ながら喋っていた岡崎は渋い顔で、顔を上げた。
その顔に、苦労顔が似合う、の褒め言葉を思い出す。
誰が言ったかも覚えていないが、妙にしっくりきたから覚えている。
思い出せば妙に面白くなって、けれども今笑うわけにもいかずに我慢する。
けれど次いで頭に蘇ったのは、そのときに岡崎がとった中途半端な怒り顔。
駄目だ、岡崎について考えると笑いが出る。
他のこと、と気を反らそうとしても、思いつかない。
「邪魔は勘弁しろ委員長」
「てんこーせーはー?」
涼を筆頭に数人が声を合わせて教室を包む。
前の席の小田も、ちゃっかりその声に入っている。
頑張れ担任。
ため息をついた担任を笑いを堪えながら応援した。
「横山、」
名前を呼ばれて横を向く。
ん、と長谷が机の上を指差した。
あったものは中断していた宿題。
すっかり忘れていたことに、さっと笑いが引っ込む。
「終わりそ?」
「なんとかっ」
長谷が覗き込んだ時に、やっと最後の一文に入った。
案外、見てみると長い長文に、やる気が多少削げる。
岡崎で笑ってる場合じゃなかった。
それでも、たかが一文だ。
ミミズが這ったような字にはなったが、最後のピリオドを書き終わる。
大きく息を吐き出した。
終わってよかった。
安堵が体に広がる。
「ありがとう、終わった!」
「いえいえ」
写させてもらったプリントは、折り跡に沿って四つ折りにした。
プリントを返すと、長谷は安心したように息をつく。
書き疲れて痛む手を上下左右に振った。
宿題なんてなければいいのにと、机の上に突っ伏す。
「ほら、耳タコな転校生来たよ」
それを叱るように、長谷に頭を叩かれた。
黒板の前に、二人が立っているのが見えた。
俺まだ耳タコじゃない、そうひとり言を零した。
するとすぐに、こっちにとってはもう耳タコ、と呆れた長谷の声。
あくまでひとり言のつもりで、小さな声だったのに。
長谷は地獄耳なのではと一瞬、疑ってしまう。
今まで長谷に関係あることなら、ほとんど聞き取られた記憶がある。
本当にそうなら嫌だなと思うだけで、そこで考えることはやめた。
宿題が終わればもう特にやることもない。
かといって、寝ようとすれば隣から叩かれる。
仕方なしに、二人の転校生に目を向けた。
黒板の前に二人が並び立つが、そのうち色素が薄い長髪に自然と目が惹かれた。
日本人の黒にしては随分と明るい。
けれど染めたとは違うような色。
どことなく、女性的だと感じた。
それが長い髪と柔らかい表情、どちらから来るのかはわからない。
ただ意図的な女々しさではない。
女性と思うには違和感も大きい。
そこまで考えて、すぐに考えを飛ばす。
髪が長めだとか、優しそうだからというだけで失礼な思考だった。
もう一方は、隣とは対称的に真っ黒な髪が目についた。
緊張しているのがわかる低い声と、強ばった表情がある。
こちらは背が高く、体格がいいのが印象に残る。
どことなく正反対な二人だと思った。
外見にも明るい髪と黒髪、次いでに長髪と短髪。
話し方にしたって長髪はすらすらと流暢だが、短髪はどこかぎこちない。
黒板に視線をズラすと、そこには手書きの名前。
二つとも丁寧にかかれているが、おそらく筆跡は異なる。
岡崎の筆跡とも異なるので、おそらく自分たちで書いたのだろう。
ただ、そこに書かれていたのは、同じ藤川姓。
兄弟の予想は、間違いでもなかったらしい。
でも、
「兄弟?」
案外似てないなんて思いながら、つい口から出た言葉。
聞き取った長谷が苛ついた表情をしたのが、横目でわかった。
「写しながらでも話聞けよ」
すぐさま吐かれる毒に、反射的にごめんなさいと謝る。
それでもまだ不満げにこっちを見たのでもう一度謝った。
今度は心を込めて伝える。
そしてやっと長谷の視線が、前に戻った。
毒吐きのときだけ現われる長谷の怖い顔が見えなくなって、ほっとする。
その顔の怖さと、吐き出される毒の酷さは比例していると感じる。
冗談の範疇でしている範囲だが、不意にくるから心臓に悪い。
「兄弟じゃないって。偶然の一致ってやつ?」
「へぇ」
小田が振り向きざまに教えてくれる。
確かに、兄弟というには似てなさ過ぎる気がする。
似てない、兄弟。
何かが頭にひっかかる。
一瞬、何かがぼやけた気がした。
昨日の寝不足が祟ったのかもしれないと、軽く頭を振る。
"藤川"という名字は特別珍しいものでもない。
珍しいこともあるんだなあと片付けた。
「なんていうか、転校生っていいよな」
「うっわ、なんか変態くさいんですけど」
小田がつぶやいた言葉に、長谷が引いた表情を浮かべる。
途端に小田は焦ったように、違う、と小声で連呼する。俺に向かって。
「ちがうからな、横山!」
「なんで俺」
必死に弁明を重ねようと焦る姿は、いっそ面白い。
長谷の声色を真似て、非難の声を出してみる。
そうすれば、小田はより一層必死に手を左右に振った。
「長谷に言えよ。怖いのはそっちだ」
「いやっ、たしかにそうだけど、そうじゃなくて!」
思わず力が入ったのか、小田の声が少し大きくなる。
「こら、そこ騒ぐな!」
担任がこっちを指差して、叫ぶ。
「はーい……」
小田はどこか落ち込んだ返事で、前へ向き直る。
その返事を合図に、担任が連絡の残りを伝え始める。
一時間目って何だったかと、机の中を手だけで探る。
「で、誰が怖いって?」
小声で横から入った声は、悪魔の声だった。
思わず肩が跳ねて、じっとりと嫌な空気を感じる。
次は俺が焦る番になった。
小田に伝える言葉を間違ったと今さらに思う。
どうして言ってしまったんだろうと凄く後悔する。
なんと誤摩化して、いや誤魔化せるか?
頭を振り絞るが、いい文句は全く出てこない。
「ぎりぎりまで宿題を貸してあげた心やっさしーい恩人の間違いだよねえ、海くん?」
「はい、そうです。すいません。ごめんなさい。その通りです」
じっとりした視線で囁く長谷に、早口で謝った。
本心が口から出る癖は、今年中に直さなければならない。